悪役令嬢でも死に物狂いで生きてやる!! 4
一閃。
彼女が剣を振るうと、黄金の稲妻がほとばしる。
その、まるで竜のような雷光が、
コベルマンの泥波を容易く斬り裂いた。
真っ二つになった大波がぼろぼろと自壊していく。
男は、崩れた泥に呑まれて、すぐに見えなくなった。
剣を降ろしたフロンシアが、僕たちに向き直る。
大雨は、いつしか、止んでいた。
「お父様から魔剣をお借りするのに、時間がかかってしまいました。すみません」
ぼそぼそと小さな声でフロンシアが言った。
「それって」
「雷神剣エリアレン。まごうことなきチート武器です」
「チート……?」
「書籍版ならこのコベルマン襲来篇の際に、レイチェルが領主オルトロスから譲り受ける魔剣です。その剣でもって、カーレイとレイチェルはコベルマンを退けるのです。まぁそのときには私が死んでるんですけど」
自嘲気味にそう言いながら、彼女は剣を腰にしまった。
僕とお嬢様は、困惑しながらも傍に寄る。
襲来篇だの書籍版だの理解が追いつかない単語が多いが、たぶんそれこそが、彼女が未来を知っている理由に関係するものなのだろう。だが話を聞いている感じだと、どうもその未来とやらと現実は、ある程度、食い違っているような気がする。
「まぁなにはともあれ、助かったよ、フロ……いや、リグネッタ様?」
「フロンシアで構いません。今までどおりが一番楽です」
フロンシアは傷跡の残る左側にベールをゆるりと巻いている。
僕がそれを注視しているのに気付いたのか、彼女は目を細めて睨んだ。
「というか、カーレイは、なんでまだ王の力に目覚めてないんですか」
「え、ええ? 王の力ってなんだよ」
「今までどおりとは言いましたが、まさか覚醒イベントで覚醒してないとか……」
それもフロンシアの知る僕の情報なのか?
ほんとになんなんだ。心当たりがまったくない。
と思っていたら、呆れた顔でフロンシアが言う。
「君、ラドメイシュって名でピンとこなかったんですか。たぶん知らないと思いますけど、この国の王家の名前なんですよ。君は、現王の庶子です」
「カーレイにそんな秘密があったの!?」
本気で驚いたらしく、お嬢様が大声をあげる。
だが、そう言われても実感がない。そりゃ捨て子だったわけだから、誰が親でもおかしくはないんだけど、別にそれが王の子である必要はないというか。自分でも思い出せない血なんてものに、縛られる気もなかった。
「……まぁ、どうでもいいよ。たぶん目覚めないと思うし」
「カーレイってそういうキャラじゃないんですけど」
「というかさ、僕の知らない僕と比べられても困るんだよな」
そう言うと、ようやくフロンシアがくすりと笑った。
ベールの下の笑顔は初めて見るが、悪くないじゃないか。
そう思ったとき、僕は、後ろから思い切り引っ張られた。
「だから! 私を! 無視するんじゃないわよ!」
と、いつかのようにお嬢様が僕を押しのけたのだ。
脇から伸びた細腕が、フロンシアの袖をぐっと掴む。
傷は、魔法である程度治してしまったようだ。
「ちょっと! フロンシア! どうしてここに来たのよ!」
「……本気を出すことにしたんです。やっぱりどう考えても、あなたとカーレイを死なせる気にはなれませんでした。コベルマンはレイチェルの仇ですし、そもそも本当にムカつく敵キャラですからね。ここで確実に始末しておきます」
そう言いながらも、彼女の視線はリグネッタ様のほうを見てはいない。
だがお嬢様はそれを気にした様子もなく、いつものように声を張り上げた。
「コベルマンは想定の100倍強かったわよ!」
「そうみたいですね。傭兵を集めたくらいで勝てる相手じゃありませんでした」
「あなたの作戦は、ダメダメのダメだったわね!」
「レイチェル。私は……」
歯切れが悪い。その理由に、僕は察しがついている。あのとき僕に、お嬢様を見捨てろと言ったのは、フロンシアだ。彼女は確かに裏切った。だというのに助けにきたのは、罠とやらが失敗したからだろう。なら、バツが悪いに違いない。
お嬢様はフロンシアの頬を両手で挟み込むと、目が合うように向けなおした。
「フロンシア、分かってるわ!」
「……っ」
「私もあなたを一人にする気にはなれなかったわ!」
そう言い切るリグネッタ様は、硬い笑みでしかし微笑んだ。
フロンシアは歯を食いしばるようにして、唇を震わせる。
「あのっ、私は、あ、謝らないといけません」
「気が済むまですればいいけど! 私はそんなので許してあげないわ!」
「私は、自分のためにあなたを犠牲に、しようと、しました」
「お互い様だわ! 私もコベルマンへの復讐のためにあなたの立場を奪った!」
「いいえ、あなたは私のために入れ替わろうと、」
「何言ってるのよ。あなたも、私のために、助けに来てくれたんじゃない!」
言葉をぶつけ合いながら、二人はいつしか泣いていた。フロンシアもリグネッタ様も、別に悪人じゃない。だったら、ちょっとくらい間違えてしまってもやり直すことができる。生きてさえいれば。諦めさえしなければ、なんとかなるものだ。
そうなると、結果的に仲直りのチャンスを死守した僕が一番えらいはずだ。誰よりも褒めたたえられるべきなんじゃないか。とも思うのだけど、残念ながら、二人の間に入る余地はなさそうだった。と、そのときお嬢様が僕を呼んだ。
「カーレイ!」
「はい?」
「助けられたわ。本当にありがとう」
珍しい。
お嬢様は扇子でひらひらと顔を仰いでいる。
そのせいで表情が見えない。もしかして照れ隠しなのか。
傍を見れば、フロンシアも微笑んでいた。
「カーレイ。助けられました」
「まぁ三人とも生きてるわけだし、これが最善ルートってやつじゃないかな」
「そんなわけないでしょう。こんな後悔だらけの物語は初めてです」
笑みが一瞬で消えて、きっ、と睨まれる。
そうか。これでもフロンシアには最善じゃないのか。
きっと僕の知らない苦労が色々とあったのだろう。
「それでも! 私は今が結構好きだわ!」
「そんなわけないでしょう。あなたのご両親だって、」
「えぇ! でもリグネッタがそのことで悔やみ続けるのなら、私は今までのすべてを肯定するつもりだから! ……あ、いや、すべては許せないかもだけど」
ベールに覆われた左目を見てリグネッタ様が言いよどむ。
はぁ、とフロンシアがため息を吐いて、お嬢様を軽く睨んだ。
「やってられません。もう、この人、デリカシーがなさすぎる」
「あなたが酔っぱらって、あんなこと言うからじゃない!」
「というか、ヒロインは二人もいらないです」
「なによ! あなたが助けに来たんじゃない!」
「ほんとに失敗しました。なんで私助けに来ちゃったんでしょう」
頬を膨らませるフロンシア。僕に見せるのとはまた違う顔だ。
が、明らかにその表情は楽しそうだった。
まぁ本気で怒ってるわけじゃないなら、止める必要もないか。
「ちょっと大げさだったわ! コベルマン関係のことは許さないことにする!」
「当たり前です。私もあいつだけは許しません。確実に、仕留めましょう」
ん?
仕留めるもなにも、もう死んだんじゃないのか。
と思った瞬間、大量の魔力が土の下から立ちのぼった。
この感じには覚えがある。
「本当にしぶといやつですね」
ずるり、とフロンシアの背後でなにかが持ち上がった。
大量の泥と石が混ざった何か。わざわざ確認しなくても分かる。
コベルマン。
「この男はまだ生きているの!?」
お嬢様が眉間にしわを寄せながら、足を踏み鳴らす。この様子だと、相当、ご立腹だ。土が割れるように分かれていき、その中心からコベルマン伯爵がせり上がってくる。カッコつけた燕尾服もズタボロで、血まみれで傷だらけの身体がむき出しになってしまっていた。残念ながら、これじゃもうちょっとした変質者だな。
しかし間抜けな恰好に反して、溢れる魔力はおそろしいほど怒気を孕んでいる。 流石のお嬢様も立腹度合いじゃ、コベルマンには勝てなさそうだった。
「エリアレンの娘……私をここまで追い詰めたことは誉めてやろう。だが、不死身の私をどうやって殺す? 無尽蔵の魔力を持つ私をどうやって抑え込む? その剣がどれほど強かろうとも、私を殺すすべがあるとは思えない」
「そうなんですか?」
言いながら、フロンシアが剣を振る。
しゅぴっと飛んだ斬撃が、コベルマンを袈裟に斬る。
噴き出る血。が、ぴたりと止まって肉体に戻った。
「無駄だ。貴様の父親は、その剣でも私を殺せなかったのだぞ」
「なるほど。本当みたいですね」
向こう四回の斬撃を与えたあとにフロンシアが言った。
やはり想定以上の強敵。正直勝ち目が見えない。
これはもうあれか。僕が、王の血とやらに目覚めるしかないのか。
目覚めたとして、勝てる気はしないが……。
「フロンシア、もしアレだったら僕が覚醒するまでの時間を稼いでくれ」
「いえ大丈夫です。これはちゃんと倒せる相手ですから」
僕は勝手に焦っていたが、フロンシアは顔色ひとつ変えていなかった。
「コベルマン、あなたは絶対に私たちに勝てません」
「自信満々だな。根拠のない自信ほど滑稽なものはない」
「根拠ならありますよ」
ふふん、と聞こえてきそうな顔で彼女は、剣をコベルマンに向けた。
頼もしい。僕を背後に隠そうとするお嬢様と同じくらい頼もしい。
どんどんと、フロンシアの魔力が高まっていく。
そのすべてが剣に集まっていく。
「あなたは、原作でも書籍でも漫画でもボスキャラなんです」
「ボスだと……?」
「はい。そしてボスキャラというのは最後には倒されるんですよ」
口元に笑みを浮かべながら、どこか余裕がある表情でフロンシアは言う。
しかし相対するコベルマンも余裕たっぷりだ。
彼はフロンシアの言葉に破顔し、耳まで裂けるような顔で笑う。
その両腕には、今までで一番の魔力が注ぎ込まれており、
その指先からは、溢れんばかりの力動魔法が流れ出している。
糸のような魔力が、岩石と土砂をかたく結び付けて、再び大波がせり上がっていく。だがその大きさはさきほどまでの比ではない。壁というよりも山。まずいな。いくらなんでも、これを剣一本でどうにかできるとは思えない。
僕は暴れるお嬢様を抑えながら、彼女を背後に隠す。
いや、それよりも加勢した方がいいのか?
と思っていたら、フロンシアが一瞬だけこちらを振り向いた。その口がすばやく動く――(手を出すな)。わかった。彼女がそう言うなら、僕はそれを信じるしかない。フロンシアはふたたびコベルマンに向かい、自信ありげな笑みを作る。
その片腕に持たれた剣には、もうはち切れそうな魔力がたまっている。
こんなものを涼しい顔で制御する彼女は、間違いなく、エリアレンの後継者だ。
ようやく大人しくなったお嬢様と共に、僕はそれを見ていることしかできない。
「さぁいよいよ終わるときだ。生き埋めにしてやろう。それも殺しはしない。生きたまま土で固めてやろう。身じろぎひとつできぬまま、後悔のなかで死ね!!」
「あなたの敗因は、その嬲り癖ですね。すべての行動が、遅い」
「うははははは。そうは言っても、私を殺せないお前に何ができる!?」
フロンシアは、なにかを確かめるように目を瞑った。
その意識が右腕一本に集中していることが、僕には分かった。
「……雷神剣は使い手を選ぶ剣なんです。私は、絶対に選ばれないだろうと思っていました。原作ではそのはずでした。でも、この剣は今、私の手のなかにある。ありえないことなんです。この剣は、価値のない者を認めないはずだから」
コベルマンにはその言葉の意味は分からない。
僕にもすべては分からない。だけど、お嬢様を通して、すこしは分かる。
刹那。フロンシアの腕が、力みひとつなく、振りかぶられた。
「この剣は、勇者だけが扱える剣なんです」
「それがなんだ? そんな剣一本でこの私に勝てるとでも?」
「何言ってるんですか。剣じゃない。私が勝つんです」
そう言うが早いか、フロンシアは剣を軽く振った。
ほとばしる雷光が刃に収束し、輝きがさらに増していく。
飛刃が不規則にうねりながら、コベルマンへと飛んだ。
「『神雷空断』です。すこし恥ずかしいですが、これで死んでください」
「無駄だ。私が作る鉄壁の防御は決して破れない」
もちろんそのときには、魔法使いの前には鉄壁の障壁が作られている。
ただの土ではない。魔力と岩石が練りこまれた鋼鉄のような壁だ。
そして魔法使いの後ろには、同じく、山のような壁が。
しかし、フロンシアは言った。
「すみませんが、狙うのはあなたではありません」
ゆえに、放たれた飛刃は、コベルマンを素通りした。
地面を抉りながら、森の向こう、見えないところへ。
あっちには何がある? 残念ながら僕は知らない。
「うはははは。これが貴様の切り札なのか?」
コベルマンが高らかに笑う。
だが、それが間違いではなかったことはすぐに分かった。
森を飲み込むような地響きと轟音が響く。
かなり近い。いや、近づいてきている。
「はい」
フロンシアがそう言うと同時に、濁流の先端が見えた。
上流が決壊したのだろうか。
とてつもない量の水が溢れ流れてくる。
「先の大雨で氾濫を起こしかけていた川に、最後の一撃を与えました。本来なら崖下に落ちるだけの濁流は流れを変えて、もうすぐここを飲み込みます。いくらあなたでも、数十トンの土石流なんて代物は、受け止められないはずです」
「馬鹿が!! 自分ごと死ぬ気か!!」
「まぁ。あなたがここから逃げられない程度には、足止めしますよ」
そう言いながら、フロンシアはコベルマンの両手足を斬り続ける。
どれも一瞬で再生する程度の傷だが、それがゆえに、動けない。
土砂はいよいよ、目に見えるほどになっている。
おいおい。これは流石にちょっと、不味いんじゃないのか。
「なぁフロンシア! ここからの手はなんだ!」
「ありません! これで奴の力を削ぎます!」
「ありませんじゃないだろ!」
「そうよ! 相討ちなんて絶対に許さないわよ!」
お嬢様も加勢してくれるが、認識が甘い。
これは相討ちどころか、僕らも巻き添えになる奴だぞ。
などと思っている間に、最初の土石流がコベルマンの壁に衝突した。強いと言っても、所詮は土の壁だ。大木と岩混じりの水流がみるみるうちに壁を壊していく。圧倒的だ。人外レベルの魔法使いといっても、自然の前ではこの程度なのか。
コベルマンは必死に壁を集中させて、土砂を食い止めようとする。だが、流れてくるものの量が違う。違いすぎる。一瞬の均衡は次の瞬間には破れて、コベルマンのむなしい努力は無駄になる。ばりばりと壁に穴があいて、ついに壁が崩れた。
「カーレイ! これってもしかして私たちも危ないんじゃないかしら!」
「えぇ。今こそ僕がどうにかなるときなのかもしれません!」
悔しいが、コベルマンが維持していた壁が壊れた今、土砂と僕らをさえぎるものは何もない。恨むぞ、フロンシア。まさかこんな結末だったなんて。
「くそっ! 卑怯だぞ! エリアレンの小娘が!」
「原作カーレイが相討ちに持ち込むために使った手です」
「こんなものに負けてたまるか! 私が! たかが大雨ごときに!」
息も絶え絶えでコベルマンが叫ぶ。
身体の回復が追いつかなくなっているらしく、全身から血が流れている。
まったく。不死身なんだから土砂を無視すればよかったのに。
そうすれば僕らだけが勝手に死んでいただろうに。
「私はこの程度では死なん! 死なんぞぉ!」
「その可能性もあります。なので、オマケも考えておきました」
フロンシアが再び剣を掲げた。
なんだ。また何かする気なのか。
「なんとか間に合いました。原作じゃ、もっと簡単そうにやってたんですけどね。さぁそれでは、締めるとしましょう。私も、こんなところで相討ちとか嫌ですし」
彼女が土砂へと向けて剣を振った。
「降れ。『招竜万雷』」
無数の泡が弾けるような音とともに、光が迸る。
眩い。細かな電流がクモの巣のように広がっていった。
土砂のなかに放たれた無数の小電流が、土石流全体を黄金に輝かせていく。
それは、一匹の巨大な雷竜。
まるでその顕現のようだ。
竜は、まるで意識を持っているように方向を定めていく。
大量の土砂を孕んだまま、コベルマンへと一直線に流れていく。
「エリアレン家の令嬢リグネッタとして、裁きを下します。我が領地で悪事を企み続け、数多くの狼藉を働いたあなたは、帝都アシュリア商会に身勝手な苦しみを与えたあなたは、万死に値する。エニスキス=コベルマン伯爵! 死になさい!」
「黙れ黙れ! 俺が死ぬはずがない! この俺が! エリアレンなんぞに!」
絶叫は途中から、意味を含まない叫び声に変わっていた。
だが、その声は轟雷にかき消されて、すぐにただの一つも届かなくなった。
誰にも。命乞いをしていたのだとしても、もはや聞こえない。
お嬢様が僕の肩を強く握ったとき、魔法の竜が、ひときわ強く輝いた。
「飲み干せ」
フロンシアがそう言うと同時に、巨竜がコベルマンを飲み込む。
土砂が流れ落ちた後には、魔法使いの姿はどこにもなく、
ただ焼け焦げた何かの名残が、岩の表面に焼き付いていた。
悪い魔法使いは、跡形さえ残らず消えた。
公的には、行方不明という扱いになるそうだ。
オルトロス侯爵は、なんとか一命をとりとめた。
その証言からコベルマン領は取り潰しとなった。
伯爵領は飲み込まれて、エリアレン領の一部となる。
そして、お嬢様とフロンシアは。
〇
その日、ただならぬ叫び声が屋敷中に響いた。
二人に紅茶をいれていた僕は、おもわず手の上にこぼしてしまう。
熱い。もう一体、なんだっていうんだ。
「現実世界への帰還方法ですって?!」
お嬢様がそう言った。どうやら、フロンシアが突然口にしたその言葉に、お嬢様が素っ頓狂な声を出したらしい。もう目深な帽子は被っておらず、流れるままの茶髪が輝いている。その髪をがしがしと掴んで、お嬢様は口をぽかんと開けた。
エリアレンの令嬢であることをやめてから、彼女は顔つきが変わった。
今までよりも更に目が大きく、表情は自信満々になった。
なんというか、これまで以上に傍若無人な顔になっていた。
それが今は、餌を落とした猫にも勝る間抜け面だ。
「フロンシア! あなた本当に戻るつもりなの!」
「あー、そうなのか? なら戻ったらいいんじゃないか」
「カーレイ! あなたは本当に情のうすい奴ね!」
「そうは言っても、リグネッタ様の事情は一応聞いていますからね。こういうのは本人の意思が大事というか、戻りたい人を引きとめるのもよくないというか」
「信じられない! 仮に最後はそうなるとしても過程が大事でしょ!?」
なるほど。確かに大げさに引きとめるくらいの方がいいのかもしれない。
などと真剣に考えこんでいると、僕のまえに紅茶のカップが置かれた。
白く細い手。エリアレン次期当主のはからいだ。
「レイチェル、カーレイにそれを期待するのは無茶ですよ。この朴念仁にはそういう感情の機微がいまいちありません。私の知っている男とは色々と別物です」
「そうよね!? おかしいわよね!?」
「それと……私は一言も帰るなんて言っていませんよ!」
リグネッタ様が声を張り上げる。
ベールをつけていない彼女の顔は、やはり傷が残っているもので、その理由を彼女は、コベルマンとの戦いによるものだと説明した。それに伴ってレイチェルとリグネッタはふたたび入れ替わり、表舞台にはフロンシアが復帰することになった。
とは言っても、侯爵オルトロス様とルフィールを除いて、ほとんどの者には内緒の話だ。フロンシアはなるべく違和感のないように入れ替わりを果たさねばならず、その結果として、大声と帽子、それに香水という特徴が引き継がれたらしい。
個人的には、キャラが混ざっているフロンシアも、かなり面白い。
「じゃあフロンシアもといリグネッタ様は、なんでそんな話を?」
「レイチェルには話さないつもりだったのですが、この世界によく似た原作では、コベルマン編のあともまだまだストーリーが続いているのです。その中に、異世界から青年がやってくる話がありまして。その人を現実に返してあげたいな、と」
ほう。意味は分かるが、やはりよく分からない。
というか、原作があるのなら、あまり運命を変えるのもよくない気がする。
「なんでそいつを返したいんです?」
「えーと、それはですね……」
僕がそう問うと、フロンシアはなぜか眉根を寄せて、言いにくそうにお嬢様のほうをチラチラと見た。なるほどな。お嬢様は不思議そうに首を傾げているが、あの人は色恋沙汰には疎そうだから、たぶん察しもついていないだろう。
僕は、フロンシアを引き寄せて、耳元でささやく。
「分かったぞ。フロンシアはその男が好きなんだな」
しかしそう言うと、彼女は大きくため息を吐いた。
それから、僕の耳元でささやく。
「私じゃありませんよ。レイチェルの恋人です。彼は、君の恋敵になるんですよ。君の。それも最強クラスの容姿と性格です。たぶん君じゃ絶対に勝てませんよ?」
な、なんだそりゃ。
この人、僕とレイチェルを勝手にくっつけようとしてるのか。
というか、絶対に勝てないってなんだよ。腹立つな。
「僕だって、多少はモテる方なんだけど」
「多少で勝てるような相手じゃありませんよ」
「あれだ! 王の血が目覚めたらかなり……モテる」
「私が思うに、君はもう目覚めないような気がします」
「やめてくれよ。未来人みたいなやつが言うと説得力がある」
と、そのときくすくすと笑う声が聞こえた。
振り向けば、お嬢様がにんまりと笑っている。
「ねぇあなたたち……随分仲がいいのね」
思わず横を振り向けば、フロンシアと目が合う。
彼女は珍しく顔を赤らめていたので、僕も反応に困る。
こうしてみると、彼女とお嬢様はまったくの別人だ。
二人は似てると思っていたが、どちらかというと……。
「じろじろ見ないでください! セクハラですよ!」
フロンシアは、すかさず僕を突き飛ばして立ち上がった。
手に持っていた紅茶がおもいきり僕にかかる。
熱い。これで二回目だぞ。
「ところでフロンシア、その原作っていうのはどんな結末になるのよ」
「レイチェルが幸せに暮らします。カーレイとは別の男と」
「あ、やっぱりそうなのか?」
だよな。そんな気はしていた。
コベルマンとの戦いのときに僕が死ぬとか言ってたし。
本当ならあそこで僕は、死んでいたのだろう。
一応納得していると、フロンシアが思い出したように呟いた。
「でも書籍版ではカーレイとくっつきますね」
「嘘おっしゃい! 前は生徒会長だって言ってたわよ!」
「お嬢様とくっつくのはあんまり想像できないかもな……」
「なんで想像できないのよ! ちょっと傷つくわよ!」
「忘れていましたが、ゲーム版の設定もあったんですよね」
「うーん、それならもう結末なんてないのでは?」
フロンシアが首を捻りながら、色んなバージョンの未来を語ってくれる。そのどれもがある程度は似通っていながら、しかしある程度は異なる未来だった。特に携帯ゲーム版なんてストーリーがあってないようなものだという。なんとも難解だ。
「レイチェル。私は、あなたが幸せになるストーリーを作るつもりです」
「もう原作から随分と離れたんなら、そうするしかないですね」
「馬鹿ね! 私は最初からそうしてるわよ!」
お嬢様が言うとおりだ。
僕だってそのつもりだった。
この先の未来が、物語が誰にも分からないなんてのは当たりまえだ。
じゃあそのなかで最善の生き方を試みるのも当たり前の話だ。
「リグネッタ! あなたはあなたが幸せになる話を作りなさい!」
お嬢様はそう言いながら、にこりと微笑む。
フロンシアはすこし驚いたような顔で、それを受け止めた。
「はい」
「それでいいのよ! 私も、そう言ってくれるのが一番うれしいから!」
「侯爵令嬢に敬語を使わせるって、本当にお嬢様はお嬢様ですね」
「うるさいですよ、カーレイ」
フロンシアは楽しそうに笑う。
良かった。やっぱり、いい顔をしている。
どっちかというと。僕は、
と、そう思った矢先に、屋敷の外でがたがたと騒音が響いた。
「なんでしょう」
「嫌な予感がします。あれ、これなんだったっけ」
「カーレイ! 開けてきなさい!」
眉間に皺を寄せているフロンシアは何か心当たりがありそうだが、僕はそれを待たずに玄関へと向かった。すでにルフィールも待機している。いやそれどころじゃない。屋敷の兵士という兵士が、玄関ホールに集まってきていた。
何事なんだ。
そう思って窓から覗いてみると、屋敷の外にはたくさんの馬車が停まっている。
軍隊の馬車、それも帝都の紋章がついている。
おいおい。オルトロス様、なにかやらかしていたのか。
「ルフィール様、これは何事ですか?」
「わしにも分からんが、どうやら帝都からの使者のようだ」
帝都の人間が何なんだ。状況を見守ろうとおもったとき、扉がゆっくりと開けられた。外側からだ。普通に考えて、主人の招きを受けずに扉を開くなど、無礼にもほどがある……が、そこに立っていた男を見て、僕は口を閉じた。
がっしりとした体躯を、帝都の上級臣官だけが着用を許されている軍服が覆っている。いくつもの勲章が胸に輝いており、それだけで男が帝都将軍の一人だと分かった。男の腰にさがったサーベルは、見ているだけで気持ち悪くなるほどに、強大な魔力を垂れ流している。これは、どうも尋常の相手ではない。
ないが、まぁコベルマンに比べればまだ人間みに溢れてはいる。
僕は、ひと呼吸おいたのちに男に微笑みを返した。
「ようこそ、エリアレン家へ」
「吾輩は帝国将軍ネーベル=ライネリオス、エリアレンの令嬢はいらっしゃるか」
「将軍閣下が何の御用ですか。理由もなしに主人は呼べませんよ」
そう言うと、ネーベルはその立派な顎髭に手をやった。
じろじろと品定めをするような眼で、僕の全身を眺めやる。
まずい。紅茶をこぼしたままのシャツだ。
これはリグネッタの品格を下げてしまうかもしれない。
「シャツはさっき紅茶をこぼしまして」
「……」
無言。
あれ。違うのか。
「貴殿が、リグネッタ嬢の侍従カーレイだな」
「ええ。こんな格好で申し訳ないですが」
「胆力は十分。容姿は一流。剣は二流、作法は三流といったところか」
げ。やはり品定めされていたらしい。
この判定がエリアレン家の評価に響かないといいのだが。
「こんな男がコベルマンを退けたとはな」
そう言うと、男は急に優しげな眼になった。何気なく胸元に手を入れると、ごそごそと何かを探り始める。収納袋がついている魔法の背広だろう。僕はすかさず立ち位置を変えていく。だがしかし男が取り出したのは、一つの細長い匣だった。
「取りたまえ」
低く、冷たい声。
僕は気圧されてそれを手に取っていた。
「開けたまえ」
言われるがままに、僕はそれを開ける。
そこには、一枚の書状。
皇帝の獅子紋が入った正式なもの。
なぜかその下に、僕の名前が書かれている。
「ん? これはどういうことですか?」
僕がそう言った瞬間に、上階からどたどたと足音が響いた。
お嬢様か、と思う間もなく、僕の手から書状がひったくられている。
意外なことに、書状を取ったのは、フロンシアだった。
「やっぱり! 完全に忘れてた!」
「これはこれはリグネッタ嬢、お怪我の具合はいかがですかな」
「ネーベル=ライネリオス!! なんてこと……不味ったわ!」
白目を剥きながらおでこに手を当てるフロンシアなどそうそう見られるものでもない。が、宰相のまえでこれはヤバいぞ。実際、ネーベルという男は面食らったように眉根を寄せている。あちゃー。フロンシアなのに、一体どうしたんだよ。
「リグネッタ! 何があったのよ!」
遅れて階段を下りてきたレイチェルが叫ぶ。
そのリグネッタによく似た顔を見て、またしてもネーベルは眉間を寄せる。
まずい。まずいぞ。これはエリアレン家の大ピンチでは。
「あら、ネーベルじゃない! お父様に何か用なの?」
「いえ。本日はオルトロス様ではなく、ご令嬢に用があったのですが、その」
「あぁ!! 忘れていたわ! 私じゃなくて、そっちがリグネッタよ!」
「はぁ。その何と申し上げてよいのやら」
男の視線がレイチェルとフロンシアを行ったり来たりする。
ああこれはもうダメだ。隠し通せる感じじゃない。
なまじ入れ替わっていたばっかりに、ややこしいことになるぞ。
と思ったその時、フロンシアが、どういうわけかすすり泣きを始めた。
「ちょっと! 何で泣いてるのよ!」
「私、やらかしました」
「何のことなのよ! 全然分からないわ!」
「……カーレイが……カーレイが……」
「カーレイ!? あんた何したのよ!!」
ええ?! 僕?!
詰め寄られても何も分からないが、レイチェルが激怒している。
いや本当に泣かせてないから、何もしてないから!!
「濡れ衣ですって」
「何をしたのか白状しなさい!」
こうなったら話を聞かないのがお嬢様だ。
肩を掴まれて、がんがんと揺さぶられる。
いや、ほんとに、違うから。
「ん? これは……?」
そのとき、ルフィールが床に落ちた書状を拾いあげた。
内容にひととおり目を通した彼は、すっとぼけた声で問う。
「カーレイ=ラドメイシュを次代皇帝の候補とする……?」
「はい?」
「どういうことよ!?」
お嬢様の疑問に答えるように、フロンシアは立ち上がった。目もとはすこし濡れているが、完全復活だ。彼女はルフィールから奪い取った書状を、まずはぐしゃぐしゃにまるめて屋敷の居間へと放り投げると、雷撃を放って消滅させた。
「おい! それは皇帝陛下直々の!」
「ダメです。行かせません。ライネリオス家で、この件は握りつぶしてください」
「何を勝手なことを! このことは宰相閣下もご存じなのだ!」
「待て待て、僕に流れる王家の血の話か?」
フロンシアは涙を拭って、僕を睨みつけた。
「そうです。これは書籍版3巻から始まる皇帝選争篇です。王の力に目覚めていないカーレイには無縁の話だと思っていましたが、どうやら避けられていなかったようですね。ネーベル=ライネリオス! 皇帝陛下が崩御なされたのですね?」
「まだだ! だがもう……時間がない!」
ネーベルが必死にそう言うが、フロンシアはどこ吹く風だ。
むしろ、怒りが収まらないとばかりに、ため息を吐いている。
「自分が、かつて殺そうとした赤子を皇帝にするっていうんだから勝手だわ。レイチェル、しかもそんな候補者が12人もいるんです。この争いに巻き込まれたら、はっきり言って、ただではすみませんよ。たとえばルフィールは死にます!」
ルフィールが愕然とした顔で、僕の腕を掴む。
「わしが死ぬのか!」
「リグネッタ、それは困る」
「でしょう? だから皇帝選争からは降りないといけません」
「待って! カーレイの意見を聞いていないわ!」
ひどく真面目な顔でお嬢様が言った。
ああなるほど。僕の意見を汲んでくれると。
本当にこの人は最高だな。
「面倒くさいのは願い下げです」
「カーレイはそういう奴ですよ、レイチェル」
「聞いてみて損したわ! このうつけ者!」
「なんで僕が悪いみたいになってるんですか」
「少し、いいか?」
などと言い合っていると、将軍ネーベルが言いにくそうに、口を挟んだ。
なんとその手には、先ほどと同じ匣が握られている。
予備を用意しているとは、準備がいいことだ。
「皇帝選争の件だが、君はもう降りられない」
「なぜです。カーレイは辞退しますよ」
「いいや。ヘレズス=ラドメイシュ皇帝陛下は唯一、カーレイ=ラドメイシュを己自身のご意思で選ばれたのだ。彼が相応しいかはともかく、その点に皇帝陛下の最期のご意思を汲み取る者は多い。望まざるとも、戦いには巻き込まれるだろう。よしんば辞退したとしても、それほどに注目を浴びた人物を次の皇帝が見逃すと思うかね。下手をすれば、君もエリアレン家も取り潰されることになる。それを防ぐためには、君が、次の皇帝になるしかないのだよ。それしか! 方法はないのだ!」
男が熱っぽく語る。おおかたこいつがご意思を汲み取る者の筆頭だろう。
もっともな助言に聞こえるが、こっちにはもっといい助言者がいる。
「リグネッタ様、それってどこまで本当なんです?」
「まぁ書籍版では同じような展開になります。最終的には、協力者としてエレイン=ランガード卿が次期皇帝となりますが、今回は勢力図をかき回すコベルマンも早々に死にましたし、どうなるかは読めません。放置は危険かもしれませんね」
なるほど。
エレイン=ランガードと協力関係を結び、彼を皇帝にするのがゴールか。
これはまたなんとも、厄介な話になりそうだ。
目をしばたかせているネーベルを尻目に、お嬢様が僕の肩を叩く。
「だったら! やるしかないわね!」
「皇帝選争篇ですか。これは、気合を入れないといけませんね」
フロンシアも、余裕を取り戻してきたようだ。
笑みを浮かべながら、男の手から匣を取る。
まったく同じ書状がもう一通。
彼女は、後見人の欄に己の家名を書き込むと、ネーベルに押し付けた。
「エリアレン家はカーレイ=ラドメイシュを次期皇帝に推薦するわ」
「か、かたじけない。それでこそ、皇帝陛下の望みが叶えられる」
「皇帝になった後は、すぐに帝位を譲るかもしれないけど」
「それでも。それで誓いは果たされるのです」
男は何度も感謝の言葉を口にしながら、涙を浮かべながら書状を受け取った。うーん。そんな誓いとやらに振り回されているあの男も相当に苦労していそうだ。僕なんて、記憶にもない親の願いなんて、正直どうでもいいけどな。
むしろ、今ここにいる、お嬢様とフロンシアが、何を望むかが大事だ。彼女たちが、幸せな暮らしを求めるのなら、そのために必要なことがあるのなら、皇帝でもなんでもなってやろうじゃないか。これからのことは、それから考えよう。
「カーレイ! 何を笑っているのよ!」
お嬢様が頬をふくらませながら、僕の頭を叩く。
フロンシアが、真剣そのものの顔で、作戦を練っている。
「いや、また三人でお酒でも飲みたいなと」
「そうね! それもいいわね!」
「レイチェルはすぐに潰れるでしょう。私とカーレイだけで飲みますよ」
「リグネッタ! なかなか言うようになったじゃない!」
お嬢様が引きつった笑みを浮かべて、
それから、戸棚から蒸留酒を引っ張り出してくる。
規制から逃れた、オルトロス様秘蔵の一本だ。
「あなた、呑んでもいいんですか?」
「今日だけよ! 今日だけはセーフ!」
「為政者としてはどうかと思いますが……」
「しかも昼から飲むんですか……」
「じゃあ私一人で全部飲むわよ!!!」
それじゃ、嗜む程度なんてもんじゃないが。
まぁどうせ飲めないのは分かっている。
あんまり苛めると、お嬢様は拗ねてしまいそうだ。
冗談はそれくらいにして、とくとくと少しずつだけグラスに注ぐ。
二人の髪色を混ぜたような、琥珀色が美しく輝いた。
「はいはい、それじゃあ乾杯しましょうか」
リグネッタ様が言った。
どうやら、僕らの物語はまだまだ終わりそうにない。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
(綴)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます