悪役令嬢でも死に物狂いで生きてやる!! 3

 


 この眼前の女性が、フロンシアが、本物のお嬢様。

 冷酷で無慈悲で、他人を虫けらのように扱ったという女帝。

 恋敵や気に入らない者を苛め潰していたという邪悪。


「……じゃないな」


 僕はそう呟いていた。


 やはりそのイメージが似合う人物ではない。

 むしろ彼女には、深い憂うつという言葉が似合いそうに見える。

 愁いを帯びたまなざし、諦めたような声色。


 彼女はやはりフロンシアだった。

 リグネッタでは、なく。


「とてもじゃないが信じられないな」

「信じてください。エリアレン家は武に優れた家系です。私は生まれたときより魔法剣の手ほどきを受け、この剣技を身につけました。君もそのことは知っているはずです。君に命を救われたのも、私です。ほんとうに私が、リグネッタなんです」


 真剣なまなざしはどこか苦しげに揺らめいている。

 彼女が、本物の侯爵令嬢。

 それをいつまでも疑っても仕方がないが……。


 僕はすこしの沈黙のあと、口を開いた。


「じゃあ今までの、リグネッタ様は誰なんだ」

「あれは私の友人レイチェル=アシュリアです」


 ルフィールに聞いた名前だ。

 火事で死んでいなかったということだろう。

 その代わりに、替え玉として潜り込んだのだろうか。


「信じられない気持ちはあるでしょうが、信じてください」

「なぜ、僕にまでウソを吐いていた?」

「それは……」


 彼女は口ごもる。

 僕はまだ、フロンシアの言葉を受け止めきれていなかった。


 なぜレイチェルとリグネッタ様の容姿が瓜二つというほどに、似ているのか。

 なぜ二人はその立場を入れ替わることになったのか。

 なぜそこまでしたのに、コベルマンに勝てなかったのか。


 色々と気になることがありすぎる。

 だが今、一番聞きたいことは、

 一番、僕が聞かなければいけないことは、ひとつだけだ。


「どうして僕の腕を離してくれないんだ?」


 フロンシアの表情が凍り付く。

 腕を握る手に、よりいっそうの力が加わった。

 彼女は、歯を食いしばるような顔をしながら言った。


「カーレイ、君が私だけを守ればいいからです」

「違う。僕と君の役目は同じだ。彼女を守ることだ」

「何も違いません。君は私に仕えればいいのです!」


 少女の瞳にうっすらと涙が浮かぶ。

 火傷でひきつれになった頬が、目が、震えている。

 僕はその表情の意味を知っている。


「僕と君は、それでも彼女を守らなきゃいけないだろ」

「カーレイ……! 私は、私だって君を!」


 フロンシアは、そう言いながら僕の胸を叩いた。

 その瞳から涙がこぼれだす。

 どうして泣いているんだ。


 フロンシア、いや、リグネッタ、

 どうして君は泣いているんだ。


 だん、と彼女は地団太を踏んだ。

 冷静なフロンシアらしくもないむき出しの感情。

 より一層の力で、彼女は僕にしがみつく。


「このままじゃ、バッドエンドが確定するの。ここが分岐点になるの。運命は変えられなかったの! ここで私を選ばないと、君は死んでしまうの!!」


 そう叫びながら、少女は膝をつく。

 雪のなかにフロンシアの涙が落ちていき、凍る。

 僕はそれでも、彼女の言葉を理解できない。


「フロンシア……なにを言ってるんだ?」

「私は未来を知ってるの!」

「それで僕が死なないように助言してるってのか?」

「そうよ!」


 僕を死なせたくないと彼女は言う。

 そんなのは、まったく信じられなかった。

 未来予知というのが本当かどうかも分からなかった。


 だが、彼女の気持ちが本当だというのはよく分かった。


 そしてそれと同時に、彼女がどういう気持ちで、

 僕を信じているのかも、分かってしまった。

 だから僕は言う。それがどんなに無意味でも。


「……変だな」

「なにが!?」

「本当に僕を行かせたくないなら、どうして僕を眠らせなかった?」

「それは!」


 フロンシアは答えられない。

 いや、答えたくないのか。

 彼女ほどの人間が、自分の気持ちを理解していないはずがない。

 僕は、彼女の頭を軽く撫でた。


「君は、僕に選ばせたんだ。僕が後悔しないように」

「ちが……違います」

「違わないから、僕は迷わない」


 フロンシアの泣きじゃくる顔に、かすかな笑みが浮かんだ。

 その唇が、なにかを告白するように動く。

 だが、それを最後まで見ることなく、僕は立ち去った。

 最愛の主人を助けるために。





 こんな。

 


 こんな。



 こんな。


 悲しみとともに笑いが、腹の底からこぼれ出た。


 フロンシア=エリアレンは顔を覆い、その眼を涙で腫らしながら、いいようのない可笑しさに身を震わせていた。ああおかしい。なんておかしいんだろう。


「カーレイでさえも助けられない。私を選んでくれない」


 物語を変えられない。

 

「あはは。こんな出来損ないのダイジェストみたいなお話でも、変わらないのね。私がたった一人、救われることはできるのに、カーレイもレイチェルも救えない」


 足音がする。

 私は、涙をぬぐいながら振り返った。

 男がいる。雇っておいた傭兵だ。


「フロンシア様、いかがしましょう。包囲は成功しましたが」

「ならさっさと攻撃を始めなさい」

「……しかしカーレイ殿が」

「邪魔をするならまとめて始末しなさい」


 男が、なにかを言いたげにくちびるを歪めたが、

 私がひと睨みすると、何も言わずに去っていった。


「仕方ないのよ。すべては、今日の日のためにあったのよ」


 私は、そうつぶやく。


 リグネッタ……いや、レイチェル=アシュリアと出会ったのは、この世界に入りこんだ私が、はじめて目を開いた瞬間のことだった。大雨の晩、親友をなぶられた彼女が、「本物のリグネッタ=エリアレン」を闇討ちしようとした晩だ。


 私は、バットを振りかぶった彼女の顔を見て、思わず声をあげた。


 一目見て、私には彼女が何者なのかが分かった。

 私と瓜二つの容姿、同じ声、違うのは髪と瞳の色、そして胸の大きさだけ。

 優しい目つきがすこしだけ特徴的で、私よりすこしだけ柔らかい印象だ。


 間違いない、と思った。

 彼女こそ『ロマンスは淑女の嗜み』の主人公、レイチェルだ。

 書籍化されたとき、その挿絵で何度も目にした。


 イラストレーターをケチったせいか、リグネッタ=エリアレンとレイチェル=アシュリアの顔は、ほとんど同じ。ドラマCD化したときも一人の声優が声色を変えて演じていた。そのことを思い出すと同時に、私に天啓が舞い降りた。


 もしも、私と彼女の立場が入れ替わったら?

 そうしたら、私が主人公になれるんじゃないか?


 負けイベントも悪役ムーヴもすべてレイチェルに押し付けて、本物のリグネッタがカーレイに愛される状況を作り出せるのではないのか。何度も可能性を吟味して、どんどんと私は、その希望に縋りつくようになっていった。


 まずリグネッタの悪評を消す必要があると考えた私は、翌日から、かつて苛めた子たちに謝罪と見舞金で対処した。自分じゃない他人のやったことだ。良心の呵責はない。幸い、身分制度のあるこの世界では、誰も私には歯向かわなかった。


 歯向かってきたのは、後にも先にもレイチェルだけだった。彼女だけは、私が罪の清算を終えたあとも食ってかかってきて、どうしようもないことをぐちぐちと喚きたてた。彼女は、リグネッタ=エリアレンが心底から懺悔を行い、改心することを求めていた。とは言っても、ある意味ではそれはもう果たされていた。


 出会ってから数か月で私と、レイチェルは和解した。私には原作知識があり、学園イベントを事前に予期することができる。どちらかといえば落ちこぼれドジっ子キャラのレイチェルに手を貸してやることは簡単きわまりなかった。


 意外にも学園生活は、私にとって実り多いモノだった。


 現実世界、つまり前世では恋人どころか友達さえほとんどいなかった私だ。そんな根暗ぼっちな性格でも、容姿と家柄と才能さえあれば、人が寄ってくる。私は社会生活についての多くを、ここで学んだ。関係を築くうえで大事なことはただ一つ、他人からみて、誰かに自慢できるような人間であり続けることなのだ。


 おそらく、そういうことをまったく気にせずに私に接することができるのはレイチェルだけだったから、私も、いつしか彼女に気を許すようになっていた。忌々しいことに、私にとっての本当の、はじめての友だちは彼女だった。


 その頃には、リグネッタの学園での悪評も鳴りを潜めていて、むしろ、その生まれ持った美貌と品格によって、羨望のまなざしを受けるようになっていた。そういうとき、私はかすかな期待を抱いた。それは、私の、死の運命に関するものだ。


 ここまで、リグネッタ=エリアレンの評判を変えることができるのなら、運命のひとつやふたつ、変わらないわけがない。事実、本来なら起きているはずのレイチェルとの決闘イベントも、生徒会長との対立イベントも発生していなかった。


 であれば、この先、エリアレン領で悠々自適な暮らしさえ送れるかもしれない。別にレイチェルを替え玉にしなくても、暗殺など起こらず、忠実なカーレイという青年とともに、この先もずっと幸せを享受できるかもしれない。いや、絶対にできるはずだと私は確信していた。しかしその矢先に、あの事件が起きた。


 あの日、私たちは本当に些細なことで言い争った。

 それも私たち自身のことではなく、レイチェルの父親のことだ。

 

 私は、物語を知っている。だから彼女の父親が、違法な魔法薬や密造酒の取引に従事していることを知っていた。本来のストーリーでは、そのことが原因で、レイチェルと父親は対立し、初期キャラの一人である生徒会長くんがレイチェルを保護することになる。そして、父親はそのあいだに何者かに殺されてしまうのだ。


 私はその物語を変えることを望んだ。


 起きると分かっている対立は、先に解消してしまうのがいい。私は、レイチェルにそれとなく違法売買の情報を漏らし、彼女が父親を説得するように試みた。策は功を奏した。あとはアシュリア商会を通じて、ラスボスであるコベルマン伯爵の動向を探るだけだった。だが、レイチェルはその作戦に反対した。


 彼女は高潔で、そのうえ頑固だ。

 すぐにコベルマンから離れるように父親を説得しようとした。

 それがいけなかったのだろう。


 私が、今後の動き方を考えていたとき、魔法の文が窓から滑り込んできた。

 そこには、レイチェルの窮地が書かれていた。

 私は、アシュリア商会の襲撃イベントが起きたことを知った。


 本来ならこの手紙は、商会にほど近いところにある学園に届く。

 だから、生徒会長は間に合って、レイチェルを助けることができる。

 だが、私の屋敷は、ほんの少しばかり遠い。


 私は恨んだ。今日に限って、レイチェルを置いて帰ってしまった自分を呪った。しかし、どんなに憎んでも恨んでも、それで早く到着できるわけではない。私が商会に辿り着いたときには、赤々と火が燃えていて、おびただしい量の血痕が屋敷内に飛び散っていた。もちろん、レイチェルの父親はすでに殺されていた。


 間一髪、私はレイチェルを救った。

 だがこのとき、同時に気付いてしまった。

 運命は、そう簡単には変わらないということに。


 私は、すぐに自分が殺されるときのことを思い出した。コベルマンによって誘拐された高慢なリグネッタは、自らを助けにきたカーレイとともに、最後の戦いに挑む。そして、コベルマンの攻撃からカーレイを救うために犠牲となるのだ。カーレイはコベルマンを相討ちで下し、そして二人で眠るように死んでいく。


 それが、カーレイとリグネッタのバッドエンド。

 原作小説は、その場面で更新が途絶えてしまった。


 続いて発売された書籍版では、主人公レイチェルとカーレイがくっついており、そのルートでは、二人は生き残ることができる。もちろんその場合には、リグネッタ=エリアレンは死んでしまう。最悪のバッドエンドだが、現在ではこれが正史だった。ゲーム版は、好感度によって両方のエンドが訪れるようになっている。


 私が目指すのは、もちろん、私とカーレイが生き残り、あわよくばレイチェルも生き残ってくれる……という欲張りなルートだった。だが、強力な死の定めを変えるには、少々の善行を行う程度の変革ではダメなのだろう。もっと大きく社会を変えて、物語の流れを変えなければ、レイチェルの父親のようになってしまう。


 私はふたたび決意した。

 この物語を生き残るためには、すべてを、変えなければならない。


 そして私はレイチェルに呼びかける。

 彼女は、私の話を聞いた後、ゆっくりと頷く。

 彼女は、リグネッタ=エリアレンになる。



 ぽつり、ぽつりと雨が降り始めた。

 この雨は、すべてを押し流してしまう洪水になる。

 私は知っていた。





 大雨に足が滑る。

 泥のなかを駆け抜けながら、カーレイはかすかな匂いを頼りに走った。

 お嬢様の香水はとても匂いが強い。

 まるで、それだけを印象づけたいかのように。

 

「世話の焼ける奴らだな」


 うそぶく。

 フロンシアの打ち明け話は、衝撃的ではあった。

 だがそれで、自身のすることが変わるわけではない。

 

 フロンシアがどこから来たのか、なぜ女帝であったはずの彼女が性格を変えたのか、なぜリグネッタと入れ替わったのかは分からない。火事の夜になにかがあったのかもしれない。重要なのは、それでも二人は信頼しあっていたということだ。


 なら、フロンシアが仮に彼女を見捨てたとしても、

 それが彼女のすべきことだったとしても、

 それで、幸せが訪れるはずがない。誰にも。自分にも。

 だからカーレイは走っていた。


 叩き落とされた崖が見えて、すぐに木陰に身を隠す。

 雨の音に紛れて、コベルマンの笑い声がした。


「距離はもう近い。あの男、逃げも隠れもしないのかよ」


 周囲には激しい戦闘の痕。

 どうやら僕が落ちた後も、ここでは戦いがあったらしい。

 何人もの傭兵の死体が、野晒しになっていた。

 僕は、彼らの持つ武器をいくつか拾いながら先に進んでいく。


 崖から離れた位置、とはいっても先ほどから大して動いていない場所に、コベルマンらしき男はいた。その少し向こうには、ずぶぬれになったお嬢様が倒れている。ぴくりとも動かない。いや動けないのか。僕は静かに魔銃を構えた。


 頭部に銃口を合わせて、最大出力にセットし、

 放つ。


 ガァン!


 硬質な音とともに、コベルマンが横に吹き飛ばされる。

 狙いは上々。威力も申し分なし。

 鮮血が雨中に舞い、魔法使いはどさり、と倒れた。


 僕はすぐに駆け寄る。

 脈なし。なわけがない。

 倒れたコベルマンの頭部に向かって、連射する。

 二十発も撃ち込めば、大地と見分けがつかなくなるだろうか。

 

 トリガーを引けば、魔法の弾が溢れ出て、

 倒れ伏した男へと踊るように吸い込まれていった。


「やったか……?」


 流れ出る鮮血。

 おかしい。治る気配がない。

 回復魔法の使い手が、即死などするはずがない。


 訝しく思った瞬間に、僕は、己を捕らえようとする魔力を感じた。

 飛び退って逃げる。この感じこそ、間違いなくコベルマンだ。

 高らかに笑う。背後からあの声が響く。


「うはははは。動けるではないか、カーレイ=ラドメイシュよ」

「チッ。こいつは偽物か」

「私を罠にかけようとした奴らを皆殺しにしてやっていたのだ」

「罠だと?」

「なんだ知らんのかね」


 そう言いながら、コベルマンはお嬢様を一瞥する。

 すこし面白がるように。弄ぶような視線で。


「この小娘は、私が唯一壊しそこねた玩具なのだ」


 魔法使いの指が弾かれると、

 お嬢様の身体が、エビのように反っていく。

 その身体に抵抗する力はない。


「まったく本物のリグネッタには程遠い玩具だがね」

「黙れ」


 軋む音さえ雨音で聞こえないが、

 僕はその瞬間に銃弾をばらまいている。

 

「それは、つまらないな」


 男が言うと同時に、空中で銃弾が静止した。

 力動魔法。魔銃でも打ち抜けないか。

 などと考える前に、僕は短剣を抜き放ち、投げた。

 それもまたピタリと止まる。


 だがその瞬間、すでに僕はコベルマンの懐に飛び込んでいる。


 いくら強力な力動魔法といえども、自分自身のすぐそばでは使えないはずだ。ゼロ距離まで近づいた僕を止めることは、自分自身をも止めること。僕は魔銃を心臓に押し当てて、間髪入れずに引き金を、


 引けない。


「あなどってもらっては困るね」


 コベルマンの背後では、お嬢様が吊り上げられている。

 その首は妙な角度に曲がりつつあった。

 おそらく、あと少しの力で、折れる。


「賢明だ。では、再びさようなら」


 止まっていた銃弾が、ナイフが、雨が、泥が、動き出す。

 僕に向かって迫りくる凶器のまえで、しかし引き金は引けない。

 衝撃と痺れがまたしても全身を貫き、膝の力が抜ける。


 崩れ落ちる刹那、地面に落下するお嬢様と目が合った。

 うつろなその目には何も映っていないように見える。

 傷だらけのその顔は、やはりフロンシアに似ている。

 

 僕はそう思いながら、またしても、意識を手放した。

 




「お話は、ここで終わるのね……」


 倒れたカーレイを思いながら、彼女は呟く。


 両手両足を魔法で縛られ、もはや動くこともままならない。水たまりに突っ伏しながら少女は呻いた。しかしその呻き声さえ、大雨にかき消されてどこにも届かない。いやそれどころか、仮に届いたところで誰も、助けにはこないだろう。


 思えば、あの日もこんな風な大雨が降っていた。

 あれは、自らの友人リグネッタ=エリアレンが雷に打たれた日のことだ。

 

 雨に紛れて、帰り道でまちぶせをしていた私の前で、リグネッタは雷に撃たれた。普通なら絶対に勝てない相手への、まるで天罰のような稲光。チャンスだと思った。私は、振りかぶったバットで、思い切り彼女を打ちすえようとした。


 しかし彼女は、やけに驚いた顔をしながら、あっさりと私の攻撃を受け止めた。

 そして呟いたのだ。


「レイチェル……あなた、本物のレイチェルなの?」


 その言葉の意味は分からなかったが、私にはその瞬間、彼女のなにかが変わっていることが分かった。冷徹さのない強張った表情、人を見下すというよりも恐れるような、おどおどとした瞳。そして興奮に震えたような声が、私の動きを止めた。

 

 雷に撃たれたことで、頭がおかしくなったのだろうか?

 それとも、これが本当のリグネッタなのだろうか?

 理解はできなかったが、私は、なぜか、彼女のことを、嫌いではなくなった。


 逃げるようにして帰り、翌日、遠くから離れてみた彼女は、やはりこれまでのリグネッタではなかった。人を理不尽に苦しめるそぶりは消えてなくなり、反省したような顔で、人々に接するようになっていた。まるでこれが侯爵令嬢なのだと言わんばかりのその姿に、多くの生徒が徐々に魅了されていった。この私も含めて。


 私は、それでも距離感の分からないまま接していたが、リグネッタは随分と私に興味があるらしく、気がつけば私は、彼女と友達になっていた。なぜ、私だったのかはよく分からないが、本当は、私のほうから近づいていたのかもしれない。

 

 彼女のそばで過ごすようになって、私は、ますますこの生まれ変わった侯爵令嬢が好きになった。彼女は強く、物静かで、優しくて。それに時々ミステリアスで。がさつでお転婆な私にはないものを、本当に多く持ち合わせていた。


 そんな私たちの関係が大きく変化したのは、卒業間際の越年の日だった。


 リグネッタの忠告を聞かなかった私は、父さんが行っていた闇取引をなんとかしてやめさせようとした。その結果、あの男が家の扉を叩いた。初めに、母さんが動けなくなった。それから執事が。メイドが。そして、私の身体が固まった。


 動けない私たちの前で、父さんは嬲られた。

 

 男が力動魔法の使い手であるコベルマン伯爵だと知ったのは、それから随分あとのことだ。あの男は終始、高笑いをしていて、まるで玩具をみるように私たちを見ていた。父さんは傷だらけになりながらも、他の皆の安全を、奴に頼んでいた。


 コベルマンは、たまらないとばかりに指をちょい、と振った。

 見えない紐で操られるようにして父さんは家に火をつけた。


 私たちの目の前でマッチを擦らされた顔が、あの目が、かなしみが、今でも私の眼には焼き付いている。あの炎のなかで、皆が生きたまま焼かれ、父さんは燃えたままで母さんに抱きついた。あの、邪悪な演目のなかであの男だけが嗤っていた。


 家中が炎に巻かれ、使用人たちの喉が熱で焼けた頃、私の身体を微弱に覆う結界魔法もついに途切れようとしていた。母さんが、コベルマンを見た瞬間に、私にかけた最後の魔法だった。熱がじりじりと腕を焦がし、汗と煙のなかで意識が途絶えていく。呼吸ができなくなり、梁が崩れ落ち、その下敷きとなり、私は、


 そのとき、一本の小さな手が見えた。

 巨大な燃える梁を、彼女は片手で受け止めていた。

 てのひらから煙がじゅうじゅうと上がる。

 彼女は、リグネッタの髪に、炎が燃えうつる。


 火が、彼女のうつくしい顔を舐めた。


 そう見えた次の瞬間には、私の身体はしっかりと担ぎ上げられていて、死ぬと思えた地獄の時間は、あっという間に終わった。いまだ白い煙が立っている左目を固く閉じたまま、リグネッタは何度も謝りながら、私に抱擁した。


 私は生き残った。ただ二人で。

 涙さえ、焼け焦げていた。


 治療を受ければ、腕の火傷はすぐに癒えた。

 身体に残る傷もほとんどなかった。

 だが、胸のおくにくすぶる感情は、すこしも癒えなかった。

 リグネッタの顔を見るたびに、憎しみが沸き起こる。

 回復魔法は他人に使うことができない。傷は、治らない。

 その火傷に、父さんが、母さんが、みんなが重なる。


 くすぶる炎の奥に、あの男のいかれた笑みがみえる。

 目を閉じても、涙を流しても。


 そんなときリグネッタは言った。


「レイチェルが生きていると知られれば、また命を狙われます」

「生きていたいなら、身を隠さなければなりません」


 眼前の焼けた顔が目に入った。

 リグネッタ=エリアレンは侯爵令嬢だ。

 いずれ、コベルマンに目を付けられるだろう。


 そのとき、奴が毒牙を向けた時、リグネッタは無事に、暮らしてはいられない。私によく似た顔と、この火傷、きっと結びつく。結びついてしまう。それだけは防がなければならない。私の大事な人を、もう二度と傷つけさせやしない。


 私は言った。

 ほかでもない私が、言ったのだ。


「コベルマンを、殺さないといけないわ」

「レイチェル、無理ですよ」

「できる。奴は標的を嬲るとき、それに夢中になるわ」

「誰かを囮に使うつもりはありません」

「私が囮になる」

「無理です。あなた一人をわざわざ殺しに来るとは思えません」

「じゃあリグネッタ=エリアレンなら!?」


 彼女が息をのんだのが分かった。

 その瞳はやけに動揺していて、唇は震えている。

 だけど私は、構わずに言った。


「私がリグネッタとして、あなたの代わりに表舞台に立つ! それから、奴の眼につくように闇取引を潰して回る! 少々の刺客なら、あなたや傭兵が倒してくれるでしょう? きっと奴は痺れを切らして、侯爵令嬢でさえ殺しにくるわ!」

「エリアレン家にはお父様がいます」

「だからこそ、あの男が直々に出てこざるをえなくなるわ!」

「……だけどコベルマンには、たくさんの手下がいます」


 だがその言葉はどこか力ない。

 まるで自分でも信じていないかのように。

 私は、彼女の肩を掴んで揺さぶった。


「私は知っているわ! あなたの勘は異様に鋭い。未来でも読めるかのように、様々なことを言い当てる! なら、この試みが上手くいくかだって、リグネッタ、あなた、ある程度分かっているんでしょう! そうなんでしょう? 答えて。」

「……リグネッタ=エリアレンは、確かに、狙われるかも、しれません」


 たどたどしい言葉の奥に、焦燥がみえる。

 私はもう一押しだと思って、言葉を、畳み掛けた。


「だったら! 私を囮にして! そしてもし私が、コベルマンに捕まってしまったら、あなたは躊躇しないで、私ごとでもいい。あの男を絶対に殺してほしいの!」


 しばらくの後、彼女はゆっくりと頷いた。

 私はそれが肯定の意だと分かった。


 あのときから、私とリグネッタは入れ替わった。

 彼女は従者フロンシアとなり、私を守る剣士になった。

 すべては、コベルマンを殺すために。


 だが、念願の好機が訪れ、コベルマンが私を殺すために、その嗜虐の悦びに酔っていてもなお、フロンシアと私の雇った傭兵たちは、この強大にして邪悪な魔法使いを殺しきることはできなかった。誰も。カーレイでさえも。



 コベルマンがゆっくりと近寄ってくるのが分かる。

 その影が私のうえに覆いかぶさり、ぐいっ、と顎が持ちあげられた。


「うはははは。無様だな。アシュリアの娘よ!」

「……コベルマン」

「さぁ何か言いたまえ! 貴様らの出し物はこれでお仕舞いか?」


 お仕舞いだ。

 傭兵たちによる砲撃は失敗した。

 包囲は気付かれており、すべての魔砲は静止した。


 その時点で、フロンシアの立てた計画は失敗だった。

 どこで間違えたのだろう。


 予想外にオルトロス侯爵が手傷を負ってしまったところか、それともフロンシアを父親とともに屋敷に戻らせたことか、それとも、この越年の日を狙うコベルマンの計画を、フロンシアが教えてくれなかったことか。彼女を恨もうとは思わないけど、もっとうまいやり方があったはずだ、と思うことは止められなかった。


 フロンシアは、もしかすると、リグネッタ=エリアレンという存在を、この世から消してしまいたいのではないか。そう思うこともあった。夜に、彼女がうなされたときに、その寝言のなかで幾つかの単語を耳にしていたのだ。


 生まれ変わり。物語の世界。

 運命。殺される。死にたくない。


 きっと彼女は、私には分からないなにかを背負って、この世界で生きていたのだ。そのなかではたぶん、私よりも大事ななにかがあって、それがゆえに、彼女は私と立場を入れ替わることを受け入れたのかもしれない。死ぬ運命にあるリグネッタ=エリアレンという人物から逃れて、自由に生きていくために。


 だとすれば、私の役目はここで終わり。

 これ以上に望むことなど何もない。


 願わくば、フロンシアがうまく逃げられますように。


 コベルマンは沈黙を貫く私を挑発するように、指や関節を捻じ曲げる。

 折れるほどではないが、すさまじい激痛だ。

 だがもう私には、声をあげる力さえも、残されていない。


「うはは、命乞いでもしてみるがいい。君の父親は妻に手をかけるとき、震えて泣いておったが、それでも私に愛する者の命を願ったのだぞ。さぁ乞うがいい。そこにくたばった青年の命を救うために、この私に自由も不自由も捧げるがいい!」


 カーレイ。

 それだけが心残りだった。

 あの傷では、彼は早晩死んでしまうに違いない。


 リグネッタはずっと以前から、彼のことを話していた。学園でも、彼女の屋敷でも、夢物語を語るかのように、会うのが楽しみだと話していた。ようやく出会った彼は、確かに格好良くて、私がドキドキしてしまうほどに頼もしい青年だった。

 

 三人でお酒を飲んだ日、リグネッタは私にすこしだけ愚痴を言った。

 平気な顔をしていながら、彼女もほんの少しだけ、酔っぱらっていたのだ。


 リグネッタは、ぎゃあぎゃあと泣きながら私に言った。

 カーレイはきっと、私に気があると。

 自分はもうひどい傷のある顔だからきっと愛されないと。

 昔から、誰にも愛されてこなかったと。

 性格も顔もよくない自分は、ずっと一人だったんだと。

 死ぬまでこんな調子で、くだらない人間なんだと。


「そんなわけ、ないのに」

「なんだ? ようやく反応を見せてくれたな」

「そんなわけないって、言ったのよ」


 そうだ。

 そんなわけがない。


 ここでフロンシアが生きて、一人で生き残って、

 それであの子が幸せになれるなんて、

 私は、とてもじゃないけど、胸を張って言えない。

 こんなところで、彼女を置いていくなんて、できない。


 思惑はどうあれ、リグネッタに話を持ち掛けたのは私だ。

 その言い出しっぺが、先に諦めてしまうなんて、

 父さんと母さんに聞かれたら、きっと笑われるだろう。


 この男に復讐すると誓ったかぎりは、せめてそれくらいはやらないと、幸せな気持ちでは死ねそうにない。というか、こんな奴と一緒に死ぬなんて、死んでも願い下げだ。絶対に生きてやる。生きて、コベルマンを笑ってやるんだ。


「……カーレイ!」

「さぁさぁ、命を救えと言ってみろ!」

「侍従カーレイ、私の剣よ! 立ちなさい!」


 雨のなか、それでも私は確かに叫ぶ。

 コベルマンの力が強く、身体を絞めつける。


「私は、まだ負けてない! だからカーレイも!」


 ぱしん、と音が響いて、頬が痛む。

 コベルマンは小鼻をひくつかせながら私を打った。


「そんな台詞に意味はない。人形は大人しく踊っていればいい」

「くだらない。貴方の空虚さのほうがよほど人形だわ」

「思い上がるなよ、小娘が」

「伯爵風情が勘違いしないことね! このリグネッタ=エリアレンが、レイチェル=アシュリアが、あなたごときクズ伯爵の思い通りになるわけがないでしょう!」


 コベルマンの瞳孔が、今までにないほど開いた。

 私はおもわず笑みを浮かべてしまう。

 この男も、こんな単純な侮辱で顔が真っ赤になるのだ。

 どんなに強くても、狂っていても、人間なのだ。


「笑うな! この死にぞこないが!」

「うはははははは。あなたなんて男爵以下、平民以下、豚にも劣る愚物だわ!」

「黙れ」


 と、私の口が強制的に閉じられる。


 コベルマンの右手にとてつもなく強大な魔力が集まっていた。

 力動魔法の奥義とも呼べるほどの技を使うつもりだろう。

 こんな小娘一人に。本気になって。


「四肢を裂いて、腹を裂いて、目の前で解体してやる。己の臓腑がひとつひとつ中空で破裂していく様を、おののきながら見るがいい。まずは右腕からだ……」


 そう言って、魔力の塊が、私の右腕に向けられたその時、

 私の瞳は、コベルマンの背後に小さな、鋼鉄の閃きを見る。


 どすん、という衝撃は真正面から伝わってきた。

 コベルマンの身体が、私に思い切りぶつかったのだ。

 よろよろ、と崩れ落ちる男とともに、私の身が自由になる。


「貴様ぁ!」

「うるさい。みんなの仇よ!」


 蹴り上げた脚がコベルマンの鼻先を打ち上げた。

 ちろちろ、と魔法使いが鼻血を垂らす。


 その後ろで、短剣を握るカーレイが、大きく、息を吐いていた。





 わけがない。

 意識を手放す、わけがない。


 お嬢様の声が聞こえた瞬間、僕はふたたび剣を握っていた。

 狙うは、コベルマンが油断をするそのとき。


「黙れ」男が言った。


 お嬢様の安い挑発で、膨大な魔力が集まっていく。

 魔法使いを守る防御の魔法さえも、解けていく。


 その好機を逃すわけがない。

 僕は短剣を、奴の心臓に突き刺して思い切り捻った。

 いくら回復魔法の使い手でも、すぐには治らないだろう。


 お嬢様に蹴り上げられたコベルマンが地面に鼻血を垂らす。

 無様だ。とても無様で最高の気分だ。

 僕は、魔銃を取り出して間髪入れずに撃ち放った。

 魔法使いの全身から血が噴き出す。


「貴様ら、楽に死ねるとは思わぬことだな」

「お前こそ、ここで死なないつもりじゃないだろうな」

「私は死なん。なぜなら……」

 

 そう言うが早いか、コベルマンの足下から大量の土砂が舞い上がる。

 まるで城壁のようになった土は、僕らを飲み込むかのように広がっていく。


「カーレイ! あれはなに!?」

「力動魔法の応用でしょう。魔銃では流石に対処できません」

「もう! どれだけ魔力があるのよ、あの男!」


 無尽蔵といっても差し支えないレベルだな。

 土でできた津波が、いよいよ押し寄せてくる。

 その波の上で、ひどく息を切らしながらも、コベルマンは嗤う。


「うはははははは! 始めからすべてこうすればよかったのだ!!」


 とてもじゃないが、逃げ切れない。

 お嬢様が啖呵を切った手前、ここで死ぬつもりはないが、

 これを生きて乗り越えるには、魔砲でもぶっ放すしかない。

 一か八かの賭けになるが、やらないよりはマシか。


 僕は地面に転がっている魔砲を手に取り、トリガーを引く。


「ん?」

「どうしたのよカーレイ!」

「出ません」

「はぁ!?」

「これ、どうやら不発みたいですね」


 終わった。





「終わっていません」


 と澄んだ声が轟音を斬り裂いた。

 滑るように近づく魔力は、雷。

 継承されるという魔法剣の輝きが、夜を照らしていた。


「レイチェル、カーレイ。遅れてすみません」


 一振りの剣を手にした彼女は、伏し目がちに呟いた。



 

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