救世は砂戯に似たり。 3



「では、ドルマータにしましょうか」


 女神がそう言った。

 言い争って二時間後のことだった。


 世界を救いたくない僕と、救わせたい女神の争いは、もちろん僕の一方的な敗北に終わるのだけど、そこに一応の合意があったことは確かだった。女神が言うにはドルマータという世界では、なにかを頑張る意味がまったくないのだという。

 

 銀髪白衣でまるでアールヴのように美しい女神は、舌打ちをしてから言った。


「勇者ドラン。あなたの駄々にはもう付き合っていられません。すこし面白い世界がヒットしましたので、そちらに向かってもらいます」


 指パッチンのあとに開いたのは穴だった。

 その先には荒野のような風景。

 何もなさそうだが、それならそれで構わない。


「これが異世界か……魔王は出てこないんだよな」

「イエス。お約束もなければストーリーラインもありません」

「冗談はやめてくれ。僕は本気で異世界に行きたくない」


 そんなことを言う奴はなかなかいないとばかりに肩をすくめると、女神はぺらぺらと異世界の解説をはじめる。次元位やら世界像には興味が湧かなかったが、ドルマータの「設定倒れ」という異名は、なかなか面白いと思えなくもなかった。


「ご安心を。ただ時間が流れ続けるだけの設定倒れ異世界ドルマータ。あなたがこの世界でなにをなそうが、なにをなさなかろうが、停滞に変化はありません」

「変化がないなら僕を送る意味がないんじゃないか?」

「ノー。巨視的にみて、変化がないということです。非常に細かなレベル、人間の一生のレベルでは、波乱万丈な人生になるかもしれませんよ。でもそれって、現代日本と同じなのでは?というか往々にして、現実とはそういうものでしょう?」


 それは確かにそうかもしれない。


 僕が元々生きていた現実だってそんなに大した代物じゃなかった。救いもなければ終わりもない。ただずるずると続いていくだけの惰性。生も死も本質的には意味がなく、世界はもちろん、身近な他人すら変えられないのが現実だ。


「女神が人生を語るなんて変な感じだな」

「まぁ私は、経験豊富ですから」


 そう言って女神は首を傾げるそぶりをした。美しい銀髪がふわりと揺れ(もちろん僕の心はすこしも揺れない)、彼女が身にまとうものも付き従うように揺れる。髪飾り、首飾り、ドレープの入ったドレスのスカート、大きな胸も。もし僕が普通の人間であるなら、この美しさに呑まれてしまうだろう。


 そう思っていると女神が顔をしかめた。


「なんだよその顔」

「異常性を自認するムーヴとは、凡人なりに強い自意識をお持ちですね」


 自意識過剰。

 嫌な言葉だったから思わず僕は噛みついていた。


「なぜ僕が事故死したかを知らないのか?」

「イエス。てっきりトラック死の犠牲者かとばかり」

「てっきり全知かと思っていた」

「残念ながら」


 きわめて嘘くさい発言だ。この場を支配する女神が、僕がいざなわれた理由を知らないなどということがあるだろうか。僕が思うに、こいつは僕を煽りたいか、あるいは、単純に興味がないのだ。ん、そうなんだろ?


「さぁどうでしょうね。表層思考は読めても、記憶までは読めませんから」

「記録なら読めるんじゃないのか」


 女神はにこりと笑って僕の質問を黙殺した。

 どうやら、これは肯定と思ってよさそうだ。

 記録を読めることが分かったところで大した手札にはなりそうもないが。


「ところで、あなたにお話ししなければならないことがあります」

「チートはいらないって言ったと思うけど」

「ドルマータという世界についての大事なお話ですよ」


 この女神のことだ、なにか罠があるとは思っていた。

 だけどそのくらいのことは僕も予想している。


「それについては僕からも質問がある」

「なんです?」

「変化がない世界を僕が救わなきゃいけない理由はなんだ?」

「ご明察です。と思いましたが、もしやそれも自意識発言ですか?」


 女神が救いがたそうな目で僕を見る。

 その目は、正直やめてほしいな。


「オーケー。ですが、自意識過剰を誇るのはかなり痛いですよ」

「誇る気はない。普通に幸せな人間とはすこし違うのを知っているだけだ」

「それがちっぽけな誇りだというのは理解しました。ですが、勇者ドラン。それならば尚のこと、あなたは救いやすい世界に行くべきなのでは?たとえば、ラースターシュやアグラなどは目標が明快で、希望が持ちやすいですよ?」


 女神は僕に甘言を吐いた。だが、僕が自殺に至った理由は聞いてこなかった。欠片ほどの興味もないということだろう。耳を傾けろとは言わないが、すこし癪だ。お返しに、僕も女神の話を興味なさげに聞くことにした。よく考えれば、どうせ世界を救う気などないのだから、聞こうが聞くまいが変わりはない。


 のだが、女神は僕の無視を無視して、言葉を続けた。


「ふふふ。ところで世界を救う理由ですが、そもそも、あなたには世界を救う理由などありません。それどころか、救い方すら与えられません。これはあなたには難しい概念かもしれませんが、ドルマータは救えない世界なのです」

「僕には救えないということか」

「ノー。きっと誰にも、どんな勇者にも」


 女神の口が耳まで裂けるかのように開く。

 それは笑みだ。まるで猛獣の。


「怖がらせているつもりか?」

「いいえ?いいえ?あなたの望みに最適でしょうから喜んでいただけるとは思っていました。ただし、いきなり言われても納得できないかもしれないのでは……と」

「そうでもない」


 世界がなにもかも現実そのままに表れてくるなら、救いなんてあり得ないのは当然だ。勇者や神様が万人に幸福を与えるような世界は、ファンタジーのなかにしかなく、ひとつの救いはまた別の苦しみにつながっていることだってありうる。


 僕たちが出来ごとの全容をみることができない、

 というただその理由だけで、それらは永遠に確定されない事実になる。

 いわゆる、ゼノンの矢のパラドックスだ。


「驚きました。程度の低い理解とはいえ、話が早いですね」

「どうでもいい世界のことなんて、適当に理解できてればいいだろ。それはそうとして、救うことができる世界ってなんだ。そんなものが本当にあるのか?」

「便宜的には、完結目標が設定されている世界です」

「ノルマみたいなものがあるってことか?」

「ノー。終着点のようなものです」


 おかしな話だ。

 救いなど誰にも分からないというのに、救うことができる世界とは。


「勘違いしているようですが、世界の救済にはいくつかの次元があるのです。ひとつは『あなたの救済』、そして次に『物語の救済』、最後に『世界の救済』。不可知なのは世界の救済だけで、物語のレベルでの救済なら問題はありません」


 難しい話だ。

 よく分からない。


 たとえて言うなら、そうだな、うーん。

 分からないので、女神に考えさせることにした。


「たとえば?」

「ラースターシュもアグラも、魔王討伐を救済目標とする異世界です」

「分かった。くだらない。ドルマータでいい」


 一瞬で、意味が了解できた。


 救済目標とはつまり、クエストクリアの目標なのだ。だとすれば、まるでゲームかラノベみたいな異世界だ。そういうものは嗜まないし、興味もない。大事な世界はいつも現実で、異世界なんてすべて夢みたいなものだろうに。


 僕は呆れてしまったが、それでも念のために質問を重ねる。


「ちなみに、ドルマータが救えない理由はなんだ?」

「救済目標が未設定であり、また文明を滅ぼす仕組みが設定されているからです」

「それを解除することは?」

「不可。できあがった世界への有意味干渉は、私には行えません。それができるのは、勇者として異世界に送り込まれるあなたのみ。内側からしか変えられません。ですが、ことドルマータに関しては難易度があまりにも高すぎるのです」


 女神が言いたいのはつまりこういうことだ。

 世界は勇者にしか変えられない。

 そしてその勇者たる僕は、きわめて力不足だと。

 

 それは、そう言われても仕方がないことだが、気にかかることがないではない。


「それは僕がチートを拒否したからか?」

「多少は。そんな勇者の参戦は考えられていなかったのでしょうね」

「それでも僕はチートはいらない」


 その気持ちに変わりはない。

 どれだけ劣勢でも、女神からなにかをもらう気はなかった。

 それに、僕には女神からもらわなくてもチートがある。


 この頭のなかに。

 いわゆる、現代知識無双というやつだ。


「まぁあなたにどれだけまともな知識があるのかは謎ですが」


 女神が嘲笑した。癇に障る声だ。 

 僕は冗談交じりに言い返した。


「受験生を舐めるな」

「あらあら。それなら事故死は残念でした。受験ノイローゼも大変ですね」


 女神がおほほほほと笑う。

 マダムみたいな取って付けたような笑顔はいらない。

 何が受験ノイローゼだ。馬鹿にするな。


 僕は彼女になにかを投げつけてやろうと、ポケットをまさぐったが、何も出てきたりはしなかった。このポケットに入っているのは数枚の硬貨とコンビニのレシート、そして、もう二度と見たくはない紙切れだけで、だから僕は取り出さない。


 女神は、苛立つ僕を嬉しそうに見つめながら、


「頭がよくても、心が折れれば人間は死んでしまうものです。はい検索、ヒットしました。ええと、最高学府に合格した兄と比べられる人生。期待されるも受験には失敗。浪人を望むが、両親からの援助は受けられず、二流大学への進学を選択してしまう。その苦悩のなかであなたの心はすこしずつ病んでいったのですね……」


 ふざけた話だ。

 馬鹿馬鹿しくて、怒りが湧き上がってくる。


「間違いがある。そんなのは誰にでもある話だ。何も特別なところはない。こんな話で心を病む人間なんていない。だから僕は心を病んでなどいない」

「心を病んでいない人間は、異世界転生を喜ぶものですよ」


 それはお前の勝手な思い込みだ。

 普通の人間はそうじゃない。

 ましてや、この僕が、この僕が、


「天才の兄と比べられて自分も天才だと思い込むなんて、哀れなお話だこと」


 違う。

 僕は、俺は、俺は、思い込みじゃない。

 俺には力がある。自分を変える力が。

 世界を変える力が。


「高いプライドと平凡な知能。野心があるように見せかけて、実はちっぽけな幸せを求めている凡夫。あなたの心はもう読みました。本当は、『異世界では平凡な人生を送り、誰とも比べられることのないまま生涯を終えたい』んですね?」

「もういい。やめろ」

「哀れな勇者だこと。必ず滅びる世界に行くのはやめておきますか?」


 記録を読めるとは思った以上に厄介かもしれない。

 この女神は、僕を僕以上に知っている。

 僕を怒らせる攻め手をよく知っている。


 言葉は真実ではない、だけどそれでも僕を揺らすのには十分だ。


「もうお前と取引するつもりはない」


 僕は言い放った。

 この言い争いに意味などない。

 疲弊するだけだ。擦り切れてしまうだけだ。

 あの人生のように。


「ここからさっさと出たい気分だ」

「ではさっさと往生してどうぞ」


 女神が指を鳴らすと世界が開く。

 門のさきの異世界には、野心を持たなくても良い世界があるだろうか。

 誰かと比べられたり、望まれたりしない世界があるだろうか。

 僕が、僕のままでいられる世界が、あるだろうか。


 そう思ったとき、女神の薄ら笑いが僕に向いた。


「あぁそうです、あなたの心の中なのですが」

「なにか不満でもあるのか」

「あなたの本心がやっぱり読めません」

「誰だって、思い浮かべることを望むわけじゃない」

「ノー。望むことが思い浮かぶのが普通の人間なのですよ」


 だったらどうした。

 僕が狂っているとでもいうのか。


「ノー。あなたはただ意固地なだけ。反抗期が終わっていないだけです」

「とっとと失せろ」

「そうですか。では最後に、私からひとつ助言です。帰る方法については、私の口からは言えません。が、幸せに暮らせば良いことがあるかもしれません」


 幸せほど曖昧な言葉はない。助言にもならない。誰だって求めるものなら、その内実がなくては意味がない。幸せという言葉が指しているのは、結局のところ、「あなたの望むことをしろ」という程度のことだ。つまり、選び好むものを貪欲に追い求めろということにすぎない。そんなこと、言われるまでもない。


 僕は言った。


「元からそのつもりだ」

「いいえ。あなたは多くを望んでいます。その心の奥底では……もっとずっと」


 違う。

 僕は望んでなどいない。

 なにも。


 なにひとつとして。


 だから、幸せなどない。





 僕はサミュラにもたれかかりながら、

 あいつとの会話を思い出していた。


 今にして思えば、

 女神は僕がこの世界を滅ぼすことを分かっていたのだろう。


 この野心のない凡人が、ただの幸せを望んでいることも、その幸せの崩壊を恐れていることも、あるいはまた、僕が、僕自身の力を証明したがっていることも。


 人間には多面性がある。

 僕という人間にも、アリシアという人間にも、ユリシアという炎にも。

 一方を望みながら、それに反対する思いも育ててしまうのが人間だ。


 幸せを望みながら苦しみを願い、一人を望みながら他者を救い、世界を望みながら己だけに固執し、救済をこころざしながら支配を望んでしまう。そうした背反のなかで選択した行為は、自分にさえ正しく理解できない。


 僕は、なぜこの世界で死ななかったのか。

 なぜ、生きても良いと思ったのか。

 

 二人に救われ、イールティアに出会い、蟲を狩り、仲間を失い、

 そうした経験のすべてに、幸せを感じた。

 今までずっと忘れていた喜びを感じた。

 苦しみを感じた。悲しみを感じた。

 心が、あるのを感じた。


 僕が金属を溶かし、灼熱のなかで剣を生み出し、

 この世界で生きることを決意したとき、

 そしてアリシアを抱きしめたとき、

 この心が邪悪に燃え上がるのを感じたとき、

 同じように、慈しみと愛おしさが燃え上がるのも感じた。


 誰にも止められることのない、

 無制御で、無秩序な炎たちだ。

 僕を、ぼくのままで輝かせる炎のやすらぎだ。


 ひとつの方向に矯正されることのない、自由だ。


 ほめく。


 僕はアリシアの剣を手に取り、それを腰に収めた。

 彼女の剣と、僕の剣。

 不格好なそれらは、しかし僕らの在りようだった。


 醜くゆがみ、不揃いで、それでも誰かを傷つける力は持っている。

 そんなものしか作り出せなかった。

 そんなもので、この世界を抜け出そうとした。

 そんなもので、この世界を生き抜こうとした。


 僕は、僕らは、幸せでもなければ救われもしなかった。

 ただただ、燃えあがっただけだった。

 他の誰でもなく、己自身の火で。


 僕はうっすらと笑みが浮かぶのを自覚する。

 

 それで十分だ。 

 誰の力でもなく、僕らの力で輝くことができるのなら。

 




 サミュラが呼応するように走り始めた。

 その先にはイールティアがある。


 明かりが灯っていない都は、やけに静まり返っていて、死すら感じさせる。その異常に際しても、僕とサミュラは、アリシアのサミュラは、いささかも臆すことはない。疫病かあるいは毒素か。滅びはいつか来るのだから。必ず来るのだから。


 桟橋には誰も立っていなかった。

 暗がりのなかで僕は降り立ち、そして歌を聞く。


 はじめて聞くその声は人間のものではない。

 獣。蟲ではない。

 サミュラ。


 都市のなかには幾匹ものサミュラが上陸していて、思い思いに闊歩していた。それはまるで、この街の人間のすべてが彼らに置き換わったようで、僕は困惑しながらもユリシアの待つ家を目指す。その道中にもサミュラがうろついている。


 しばらくして、ようやく人間たちを見つける。


 人々は家の壁に寄り掛かったまま、眠るように目を閉じていて、僕がゆさぶっても起きる気配はない。苦しそうには見えない。ただ、心音がなく、身体が冷たく、息をしていないだけだ。痛みなく、彼らは息絶えたように見える。森の毒素ではない。それよりももっと静かで、そして安らかなもの。


 僕には心当たりがある。

 それは、


 ユリシアの家にたどり着いたとき、その家の前にいたサミュラを僕は短剣で刺し殺して、その血を拭わぬままに何度も刺し殺して、サミュラの呼吸がなくなるのを確認してから、僕はようやく玄関で靴を脱いで、家に帰った。


 枯れ藁で編んだソファのうえにユリシアが横たわっていて、

 僕はその傍に、ゆっくりと跪く。


 彼女は僕の頬に手を寄せて、疲れたような笑みを浮かべた。


「ユリシア、これが滅びか」

「くだらない滅びだわ。神託なんて、やっぱり当てにならない」

「君の精神核はまだ無事なのか」

「さぁ。もう何も見えないわ」

 

 暗闇のなかで、それよりももっと深い暗闇を湛えた瞳は、濡れている。

 僕は、彼女と最期の話をして、そして、彼女を看取った。


 この夜、イールティアのすべての人々が死んだ。

 サミュラが精神核を食べ尽くしたのだ。

 




 血と、砂のにおいを引きつれて朝の光がのぼった。


 夜明けにガドルグインが戻ったとき、村のなかはサミュラの死肉で溢れていた。僕は血濡れの全身を引きずりながらなんとか砂走船を出迎えた。当初、ガドルグインは、僕がこの惨状を引き起こしたのではないかと訝し気であったが、人々の遺体を検分していくなかで、ついに、僕の言葉を認めざるをえなくなった。


「勇者ドランよ、これは一体どういうことなのだ」

「状況は生き残りから聞いただろう。サミュラの攻撃だ」

「なぜあの生き物が我らを襲うのだ」


 困惑。

 その気持ちは分かるが、疑っても仕方がない。


「ユリシアが推測を立てた。おそらく、あのサミュラという生き物は、己の飢えを満たすために人間と共生関係にあったのだと思う。乗り手の精神力を食らい、また、蟲や草木の生命力を食らい、この砂海で生き永らえてきた」


 少女がサミュラに食われたときのことを思い出す。

 あれは乗り手に対する愛や敬意などではない。

 ただ単に、獲物にありつかんとする獣の所業だったのだ。


 サミュラという生き物は、そうやって精神力と精神核を食らって生きてきた。蟲や草木さえも彼らの餌であるとすれば、もしかすると、この世界を砂の海に変えたのもサミュラたちであるのかもしれない。己の住みやすいように世界を作り替え、そして餌である生き物を生かさず殺さずに、育てていたのかもしれない。


 おぞましいことに、餌は、僕たち人間だ。

 

「僕たちの文明がすこしだけ発展し、サミュラが不要になったことで、彼らは強烈な飢えに悩まされることになった。それと同時に、蟲が砂海から駆除されはじめたせいで、サミュラを間引きする存在もいなくなってしまった。その結果、サミュラという生き物は、際限なく増えてしまったのだと思う。これも自然の摂理だよ」


 今ならば、女神が言った言葉の意味も、アリシアが言った言葉の意味も正しく理解できる。確かにこの世界には滅びる仕組みが備わっていたのだ。文明が生まれ、蟲が殺されれば、サミュラという安定装置が動き出して人間を間引きする。


 そうして、文明はふたたび失われて、世界はゼロに戻る。

 滅びも救いもない世界。

 救済目標がない世界。


 そんなことを知らないガドルグインは、釈然としない顔で唸る。


「納得できるものか。この街の半数の人間が死んだのだぞ。勇者ドラン、我らは全軍団をもってサミュラを狩り尽くすべきだ。蟲も、獣も、砂漠も、この世界から消してしまえば我らにとっての黄金の時代が来る。その日が待ち望まれている」


 男の言葉は、夢と希望に溢れていて、それだけを見れば正しく見える。


 かつてこの世界で生き抜こうとした僕のように、ユリシアのように、世界を支配しすべてをコントロールするという夢想を抱くのは間違いではない。しかし、この世界はそういう風にはできていない。夢は叶えられず、正しさはどこにも通じていない。誰にも、物語のゴールさえ見出すことのできない世界なのだ。


 人間の時代、黄金の時代、それを実現するには、

 ただの、人間の力では足りない。

 この世界の理から離れた、強大な力が必要だ。 


 だがそれがあったとしても、

 無理やりに世界を作り変えたとしても、

 それでも、もしかしたら僕たちは救われないかもしれない。


 彼女らが与えられた神託は、僕に関する神託は、一面の真実であるのではないかという思いが僕のなかに渦巻いていた。僕が、僕らが生み出した王国が仮に世界を制したとしても、そこで起きる内紛や侵略によって、世界はふたたび破壊され、混沌に至ってしまう。すべては失われ、また砂の海が、ゼロが始まってしまう。


 滅びと再生と滅びの繰り返し。ドルマータにそれしか与えられないというのなら、神託を知る僕は、ガドルグインの夢をただ信じるわけにはいかないのだ。


 女神がかつて言った三つの救済。

 その最後のものが僕には思い起こされていた。

 

 『世界の救済』


 それはなんだ?

 他の二つとはなにが違う?


 僕の救済はきっともう済んだ。

 物語の救済とはおそらく、サミュラを倒して滅びの運命を制することだ。

 僕という転生者の物語に、ケリをつけることだ。


 では、世界の救済とは。

 滅びの運命を制してもまだ救済できないものとは。

 女神はそれを不可知と呼んだ。 


 つまり、知り得ないということ。

 救済を、知り得ないということ。

 それは、僕が世界から失われたあとのドルマータのことだ。

 出来事の全容を見ることができないということだ。

 この世界がどこまでも続いていくということだ。


 そんなものにまで、責任を持てるわけがない。


 だが、


 それでも僕は、

 いずれ来るであろう終焉に、

 この世界を明け渡したくはないのだ。

 

 どうしようもなく。




 僕は、噛み含めるように彼に告げた。


「ガドルグイン。サミュラも蟲も、砂漠もなくなったこの世界で、次にどんな災厄が僕たちを襲うか、君には分かるのか。この僕にさえ分からないというのに」

「では、どうすればいいというのだ」


 腰から抜いた剣を、固く、床に突き刺す。

 もう二度と抜けないように。

 ここに、すべてを封じこめるのだ。


「この世界を放棄する」


 エクソダス。

 

 僕はようやく、アリシアと同じ夢を見る。







 預言者たる僕の言葉はすぐに長老たちを動かした。


 幾隻もの砂走船が用意され、イールティアの人々はすぐに乗り込んだ。

 他村は放置され、そのなかのいくつかは、サミュラによって滅んだ。


 世界、すなわち空原からの脱出を企てるにあたって、もっとも重要なことは、その逃亡ルートだった。砂の流れはもちろん地図によって把握できている。問題は、そちらではなく、出口だ。この世界から出るための穴のことだ。


 言うまでもなくそれは、毒素の森のどこかにある。

 

 その場所は僕にもいまだ分かっていなかったが、アリシアの足跡を辿ればある程度の絞り込みはできた。少なくともイールティアの近くではない。むしろもっとも遠い北の森、アリシアと最期に会った岩を越えたさらにその先である。


 僕とガドルグインが率いる船列は蟲とサミュラを撃退しながら、アリシアの岩を越えた。その向こうは僕も戦士たちも未踏の地だ。いくつかの村があると聞いたことはあったが、誰も見たことはない。恐れを抱きながら僕らは船を進めて、そして、誰とも会うことのないまま、ついに砂漠の北部辺縁にたどり着いた。


 砂はここから途切れていて、サミュラも蟲も出てはこない。見渡すかぎりに溢れんばかりの草木と、涸れることなく流れる川が何本も存在していたが、そこにも動物は一匹も生きていなかった。僕らはすぐに毒素の存在を疑ったが、そういうわけでもなく、ここはすぐに、至って安全な野営地と判断された。


 野営地のすぐ向こう、徒歩で五千歩ほどの場所に毒素の森があり、その周囲にはやはり毒々しい黄色の瘴気が立ち込めている。試しに放ってみたバジュラ(毒トカゲのことだ)は、森の百歩ほど近くに近づくやいなや、その動きを止めた。遠目にもその精神核は破裂してしまっていて、括り付けた紐を引くまでもなかった。


 森を越える方法が分からないでいるうちに、噂を聞きつけた他村の船が幾隻も野営地にやってきた。当初は、ガドルグインたちが強く反発していたが、豊富な食料と開拓手が必要だという理由で、女たちが彼らを受け入れた。野営地はかつてのイールティアほどに大きくなり、一年と経たない内に、大きな村となった。


 村ではすぐに金属精錬と農作が始まり、人々はわずか二年で、安定した暮らしを営むことができるようになっていった。砂漠に出かけた男たちがサミュラを生け捕りにしてからは、それらを村のなかで飼育することも行われた。


 かつての恐るべき獣は、三年と経たないうちに食肉用の家畜となり、精神核を食らう性質も、その脳天にある小さなヒレを壊すことで失われてしまった。このヒレを失った獣は、もはや砂漠を泳ぐことはできないが、そんなことは、誰にも関係のないことだった。もはや、どこにもサミュラ乗りなどいなかったのだから。


 僕は、祀り上げられた王として、四年目にこの村の支配者となった。ガドルグインはうやうやしく、目に涙さえ浮かべながら、砂漠の王の誕生を喜んだ。その腰には、黄金色にかがやく長い剣が、なめらかで歪みひとつない剣がある。僕の左腰にも、頭にも、首にも、鋼がかけられていて、それらすべてが眩い。


 五年目にドラン王国は五十隻の船をもって、砂漠の開拓に乗り出した。僕らはもはや蟲もサミュラも歯牙にかけず、そして多くの村を再び征服した。今度はたくさんの死者が出た。というのも、昔とは違って、いまやどこの村々も船と剣を持っていたからだ。技術が海も陸も越えて、広がっていったのだ。


 砂漠をついに征服したのは十年がすこし過ぎたころだったろうか。この世界の人々は、日本人よりもかなり寿命が短く、老いるのが早い。ガドルグインはすでに老境に差し掛かっており、すでに立ち上がることさえできなくなっていたが、いまだ若々しい僕の手を掲げて、ドラン王国の発展と永遠を民に誓った。


 僕は、輝く鎧を身にまとって、世界の征服を、

 その支配を、その、調和と安定をもたらした王として、

 僕は、


「ガドルグイン、僕は何を願った?」

「王よ、あなたは永遠を」

「仮初の永遠など、望んだことはない」


 なぜ僕はこの見捨てたはずの世界でまた王となった?

 なぜだ?わからない。


「これは、僕の望みではない」

「本当にそうでしょうか?」


 老人が言った。

 その若々しい声はどこかユリシアに似ている。


「ガドルグイン、ではないな」

「ずいぶんとつまらない物語を作りあげましたね」


 僕は、はっとした。

 二度聞けば流石にもう分かる。


 女神だ。

 あいつは、ガドルグインの口を借りて、

 今、ここに降りている。





 僕は剣を抜いて、ガドルグインに圧し当てる。

 民衆がざわついているのが感じられたが、今は関係ない。

 こいつがいるということは、世界に何かが起こるということだ。


 それだけは、避けねばならない。


「女神か、おまえ、僕らに何をした」

「何も。あなたが望んでいたものを与えられたのを観にきただけです」

「僕はこんなものを望んだことはない」

「ノー。栄華と尊敬、敬愛、波乱万丈、名声、あなたの心が望んでいたものじゃないですか。いや、それはアンフェアでしょうか。きっと、誰だってそれを望んでしまうのですから。あなたのような人もその例外ではなかったということです」


 女神の言葉が僕に浸みこんでいく。

 反論する気も起きないのは、それが一片の真実だからだ。

 だが人間には多面性がある。

 たとえ、こうなるとしても、僕はやはり望んでいなかった。


「どうして栄華を望まなかったんです?」

「兄は天才肌だった。なんでもできて、なんでもこなした。クソみたいな才能の権化だった。やる前からなんでもできる人間が憎い。殺したい。だから僕はお前からもチートを受け取らなかった。お膳立てされた力なんかなくても、僕は、」

「何もかも手に入れられる」


 そうだ。

 この成功が、この物語の結末が、

 この女神に手渡されたものであっていいはずがない。


 僕は、僕自身の物語を欲したのだ。

 アリシアのように、ユリシアのように。

 僕だけの火で、輝きを。


「あなたは何もかも手に入れました。チートなしで」

「違う!僕はこんな、こんなものが欲しかったんじゃない……」

「分かりません。こんな幸せが、あなたが望んだものでは?」

「だったら、僕は、自殺なんかしていない」


 ガドルグインの瞳が嬉しそうに細まる。

 この女神は、やはり知っていた。


「僕の記録を、ちゃんと読んだんだろ」

「イエス。ななめ読みですが」

「なら、僕があいつと同じ大学に合格できたのも知ってただろ」

「イエス。仮面浪人ご苦労様です」

「なら! 僕がどうして死んだかだって分かるだろう!」


 僕が叫ぶ。


「ノー。分かりません」


 女神はくそつまらなそうに鼻を鳴らした。


「あなたは自分が親の道具だと思ったから死んだんでしょうが、道具になり下がったのはあなたでしょう。いつだってあなたは自分を選べました。あの世界でも、この世界でも。あなたは、自分が何をしたいかを自分で選んだのです」

「だまれ」

「弱い意志で世界を変えて、王になることも恐れて、二人の少女を好き勝手な慰みの道具にして、あはは、さぞ幸せな人生を送っているようではないですか」

 

 幸せな人生。僕の口角が身勝手に緩んでいく。緩むのが止められない。がちがちと歯が鳴って、僕はそれでも剣を圧し当てている。なぜだ。なぜだ。なぜか、その理由は分かっている。僕の心が、とてもとても喜んでいるからだ。


「あなたがガドルグインに、仮初の永遠を嫌うそぶりを見せるのはもう何度目なのでしょうね。彼はその度にわたしに祈るのです。この狂った王をどうか支えさせたまえと。この国を守るために、この王の心を癒したまえと。まぁお断りですが」

「幸せだけでいいなら、僕は、死んだりしなかった」

「そうでしょうか?苦しみでも自由であることを望むなら、あなたはなぜ毒素の森へと向かわなかったのですか?なぜ恐ろしいものに飛び込まなかったのですか?」


 それは、毒素の森に入れば死んでしまうから。

 ちゃんとした方法を見つけなければいけないから。

 だってそうしないと、無駄死にしてしまうだけだから。


「ノー。ユリシアから聞いたはずですよ。あなたは精神核を犯す毒の影響を受けない。転生者であるあなたは、たった一人で毒素の森を抜けることができたのではないですか?誰にも追われないで、新世界を目にすることができたのでは?」


 違う。僕は一人ではいけなかった。

 みなを連れて行くことがユリシアの望みだったから。

 

「ノー。アリシアはたった一人でもこの世界を抜け出そうとしました。あなたは彼女のそうした自由さに感銘を受けたはずでは?そうなるであろうと思って、彼女たちに神託を与えた私の立場はもうめちゃくちゃ。悲しいかぎりですよ?」


 神託。そうだ。

 なぜそんなものを与えたんだ。


「勇者ドラン、あなたに、このドルマータを抜け出していただくために」

「……外には、何がある?」


 女神はくすりと笑った。

 その微笑みがどういう意味かは知っている。

 彼女は、何も教えてはくれないのだ。


「さて勇者ドラン、期待できないあなたには、褒美を与えましょう」


 そう言って、ガドルグインは左指先を重ね合わせた。

 何をする気かは分からない。

 だが、何か恐ろしいことが起きるのは感じられる。


「やめろ、やめろ、何もするな」

「幸せに過ごした報酬です。帰らせてあげます、元の世界に」

「いやだ。ここがいい、帰りたくない、いやだ」

「そう言われましても、もうあなたはここにはいられない」


 女神がそう言ったとき、僕の剣が横に滑った。

 ガドルグインの喉が裂かれ、鮮血が飛び跳ねる。

 剣はそのまま押し込まれ、骨に至り、

 泡が溢れて、僕は、逃げ出して、


 町の外で、二匹のサミュラに出会った。




 

 サミュラは僕を乗せてどこまでも走った。

 それがドラニエルであることはすぐに分かった。

 彼を先導している、もう一匹もすぐに分かった。

 アリシアのサミュラだと。


 僕らはすぐに一本の細い砂流に辿り着いた。

 驚くべきことに、その砂川は、森のなかへと続いている。

 毒素の森の外から、流れる川だ。


 僕とドラニエルとアリシアは、うねり返った森のなかを何度も彷徨った。出口などないのではないか。そう思えるほどの時間が経過した。それでも風は少しずつ強まっていて、僕に、外の世界を予感させた。毒素はやはり僕には効かなかった。


 数日かあるいは数週間ののち、僕らはようやく毒素の森を抜けた。

 そこには案の定、無限の荒野が広がっていた。

 誰もいない砂漠。赤茶けた土。


 どうすればこれを緑に変えられる?

 どうすればここで世界を変えられる?

 どうすれば、

 どうすれば。


 僕の知識では太刀打ちできないとすぐに分かった。


 神託を信じたアリシアが虚しい。

 僕らは、ただ、あの女神に踊らされていただけなのだ。


 水ひとつない大地で、ドラニエルは眠るように息絶えた。

 アリシアは、僕を乗せてどこまでも走った。


「アリシア、僕はただの愚か者だったのだろうか」

「世界の外が乾いていたから?」

「いいや。望んでもいない世界の外を知ってしまったからだ」

「ドランは、愚か者じゃなくてバカ。救いたいとも思ってないのに救いたいフリをしたり、かっこをつけるだけのバカ。挙句の果てには逃げ出すし、すごい知識だって何の役にも立たないし、臆病で、嫌われるのをとても怖がってる」


 砂漠の彼方から声がする。

 アリシアの声は、しかしとてもすぐ近くから聞こえる気もする。

 サミュラが彼女であるような気もするし、

 あるいはそうでないような気もする。


 僕は、そのことにこだわろうとはしていない。


「ドランが救わないといけないのは、自分自身。折角、王になったのに、ユリシアみたいに支配者にもならない。こんなんじゃない、もっと別の路が、って叫んでるバカ。もう、十分に、ドランは、この世界を変えたのに、たくさん救ったのに」

「僕は」

「責任なんていらない。ドランはもう十分やった」


 アリシアは、そんなことを言わない。アリシアは、僕を許さない。アリシアは、あんなに僕を責めたじゃないか。あのとき、僕がどんなに無責任に世界を変えたか言ったじゃないか。それで、そのとおりにみんな、死んだじゃないか。


「ドラン、でもあなたにしかできないことをした」

「そんなの、誰も救われないなら、意味なんて、ないんだよ」

「救われないのはあなただけ。救われないのはいつかの世界だけ。それは変わらないとしても、あなたが救った人たちだっている。あなたが救ったものだってあるはず。ユリシアや、イールティア、それに、私も」


 全部救わなきゃ、意味なんてない。完璧じゃなきゃ救いじゃない。こんな物語は、正解じゃないんだ。そう思わないと、僕は、やっぱりこんな世界になんて来たくなかったと思ってしまう。救える世界が良かったと思ってしまうんだ。


「それもドランらしい。あなたはやっぱり、救いたがりのバカ」

「え?」

「上手くいかなくてダメでも、ダメが分かって諦めそうでも、ドランはやり遂げる。私の見てきたあなたは、世界なんて救いたくないのに、それでも救わないと、いても立っても居られない人。自分一人で逃げ出すなんてできない人」

「アリシア、ちがうよ僕はただ臆病なだけで」


 呟いた言葉にアリシアが答える。

 その耳元から聞こえる声は、鋼のように冷たく、

 だけれども、熱を帯びていて、そして優しい。


 なぜそんなに君は僕を肯定する。こんな、僕を。


「心と行動は違う。ドラン、あなたはあなたのままで、勇者だった」

「勇者じゃない。偽物だ。逃げ出して、」

「逃げた人は世界の果てには来ない」

「来るんだ。来たんだ。僕は君たちに連れてこられたんだ」

「降りることはできた。あなたが望んだ。だから来た」


 アリシア、なぜ、どうして君は。

 僕は信じられない。

 君が女神の化身なんじゃないかと思う。

 だけど、どうしようもなく信じている。

 君を信じている。


 だからアリシア、僕に教えて欲しい。

 僕は何を望んでいる。

 僕は、本当は、何をしたがっている。

 僕の意思とは、望みとはなんだ。


 なぁ。

 僕を救う方法って、なんなんだよ。


「          」


 アリシアが言った。


「嘘だ」


 僕は答えた。




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