転生パターン04 堂島翔一の場合。
救世は砂戯に似たり。 1
アリシアはとても聡明な女の子だった。
彼女は出会ったときから僕の存在に疑いをもっていたようだった。
あの、ありえないものを見るかのような訝しげな眼。
今でも思う。
もしもあのとき、彼女と僕だけが出会っていたら、
きっと物語は、大きく変わっていたのだろうと。
〇
一番初めの記憶は、ゲートをくぐり抜けて半日後のものだ。
僕は早速、白い部屋でのやり取りを後悔していた。
世界を救えと迫る女神は、僕にチートを与えようとした。
だけど僕は、その申し出を断ったのだ。
どうしてそんなことをしたか。
簡単なことだ。僕は現実世界に戻りたかったのだ。
日本神話に、死んだイザナミをイザナギが迎えに行く話があるだろう?あのなかでヨモツヘグイという概念が出てくる。いわゆる冥界のザクロ。あの世で差し出された物を口にすれば、もう二度とこの世には帰ってこられないという。
だから僕はチートもなにも受け取らないことにした。
そしてその代わりに、前の世界に帰還する方法を聞いた。
「ノー。帰る方法はありません」
「あの、僕は大学にやっと合格したところなんだけど」
「そう言われても……私は事故死した貴方の魂を拾っただけですから」
「だったら、世界なんか救わないですぐに死ぬけど」
女神はなぜか、口が裂けるような笑みを浮かべて首を傾げた。
「困りましたね。では私からひとつ助言です。帰る方法については、私の口からは言えません。が、幸せに暮らしていれば良いことがあるかもしれません」
幸せに暮らす。
それが唯一の道だというなら。
僕はそれを願うしかない。
だが、飛ばされた異世界――女神いわくドルマータ――は厳しい世界だった。
まずゲートのむこうがひどかった。
放り出された場所は草木ひとつない荒野。
どこまでも赤茶けた砂が広がっていて、水ひとつありはしない。
雲のない青空から照りつける陽ざしも、意識が遠くなるほど強い。
これはそう長くはもたないぞ。
僕はとりあえず日陰を探すことにした。
だが歩きはじめて二時間経っても、ない。
どこにも日陰がない。
体力も気力も尽きた、いやそれどころか、意識すらもう曖昧になっていた。幸せに暮らすどころか、たった一日で、第二の人生は終わりを告げるのだ。僕は怒りとも諦めともつかない感情を抱きながら、荒野のまんなかでついに立ち止まった。
このままここで死のう。
こうしていれば、きっと眠るように死ねるだろう。
だがそのとき、ちょろちょろと地面をはい回るトカゲのような生き物を見つけて、僕の身体はすかさず飛び掛かっていた。手のなかでじたばたともがく小さな命。躊躇なくむさぼりつけば、その中からは蜜のように血があふれ出た。
うまい。
なんてうまいんだろう。
生きた生き物を食らうことがこんな幸せだったなんて。
「貴方……なにしてるの?」
口元の血をぬぐって、一息吐こうとしたとき、
背後から刃のように鋭い声がした。
「あ」
振り返ったその目の前には、褐色の肌をした少女が立っていた。
ぽたぽたと僕の口から血が垂れる。
少女の頬は、見てはいけないものを見たように引きつっている。
「ち、違うんです、これは、食べ物も水もなくて」
「ありえない。頭おかしい」
ドン引き。
まごうことなきドン引きだ。
そりゃそうだ。僕だって、トカゲを貪っている血まみれの男に出くわしたら絶対に引く。というか下手をしたら、そんな奴は警察に捕まえてもらう。この世界の治安維持機構がどんなものだかはしらないが、これはピンチかもしれない。
「あの、旅人なんです。道に迷ってたらたまたまトカゲがいたんでちょっと食べちゃおうかなって、ほんの出来心で、決してトカゲの踊り食いが趣味なわけじゃないっていいますか、トカゲよりはカエルの方がどっちかいうと好きですし」
「は?何言ってるのか分からない」
「危ない奴じゃないってことです。ほら、武器もなにも持ってない」
僕は立ち上がって彼女に丸腰をアピールする。
しかしそれが裏目に出たようで、少女は恐ろしい顔で剣を抜いた。
そう、剣だ。どうやらこの世界は剣と魔法のファンタジー……
ってそんな場合じゃないな。
まさかこの子が刑罰の執行者だったとは。
「怪しすぎる。この枯死の空原で武器も持たず、食料も水もなしで生き抜けるわけない。それにあのトカゲ。貴方はどう考えても普通の旅人じゃない」
「いや、その、そんなに長いこといたわけじゃなくて」
「ここは空原の中央。どこの漠領から歩いても三日はかかる場所」
なるほど。それは確かに異常だ。
納得してる場合じゃないけど、そうするよりほかにない。
だって、女神に召喚されたとかもっと怪しいだろう。
それこそ狂人だと思われかねない。
「貴方は、ここで殺す」
「あの……せめて捕虜くらいにしません?」
「ダメ。手練れの乗り手だったら連れ歩けない」
あああ、ダメだ。
乗り手がなにか分からないけどたぶん彼女の敵なのだろう。
だとしたらきっと彼女は哨戒中かなにかで、
任務だとすれば、僕がなにを言ってもきっと無駄になる。
「僕がただの旅人だと証明する方法とか……ない、ですよね?」
「殺してサミュラが出なければ人間」
やっぱり無駄だった。
褐色の少女は剣を振り上げて、
そして無慈悲に僕の……
「や、やめてくれ!!」
僕はとっさにうずくまる。
そのとき、視界の端にひとつの影が映った。
「アリシア!その方に何をするつもりですか!?」
まるで絹のように柔らかな声。
しかしその奥からは、ほんの少しの厳しさが覗いている。
頭をあげると、その麗しい姿が見えた。
隣の少女と同じく、褐色の肌に灰色の衣をまとっている。
いくつもの装飾品をつけていて、どことなく高貴な雰囲気だ。
年齢は……俺と同じくらいか。
どうやら僕はこの人に命を救われたらしい。
「ユリシア。こいつは怪しい」
「ひどい……この方はただの旅人です!」
「ただ反応を試しただけ。でも戦士ではないみたい」
「やり方というものがあるでしょう!!」
ユリシアと呼ばれた女性は駆け寄ってくると、僕の頬に手を当てた。
ぬるりとした血が彼女の手袋を汚す。
どうやらあの少女の剣で、すこし切れてしまっていたらしい。
「血が出ていますわ。ごめんなさい、アリシアったら融通が利かない子なの」
「いや、大丈夫です。僕がこんなところにいたのが悪いんです」
「そんなことありませんわ、流砂で一気に運ばれたのかもしれません」
「ありえない。流砂が起きればこのあたりだって地形が変わる」
「何事にも例外はあるもの。さぁさ、早くこの方をお連れ致しましょう」
ユリシアはそう言って、口笛を吹いた。
すると、砂がざわりとうごめいて、地中から生き物が現れた。
まるで手足を失くしたカバにシーラカンスのヒレをつけたような奴だ。
「サミュラ。珍しくもないでしょう?」
女性は微笑んだ。
〇
魚のように泳ぐサミュラは、素晴らしく速かった。
村には、半日ほどで着いた。
彼女たちの村、イールティアは砂漠の南側に位置している小規模な農村だった。砂漠……枯死の空原からはそう離れてはいない。遠くない将来、砂漠に飲まれそうな不安定な土地だ。嵐が来たときには、踝まで砂に埋まることもあるという。
そんな場所で彼女たちは自給自足の生活を続けていた。この場所にはまだ、水もあるし、緑も残っている。土だって良質とは言えないが、芋や赤色の麦みたいなものならば育ってくれるようだ。ちなみに味は、食えなくもないくらいにマズい。
ここ数日のあいだも、村は飢えに喘いでいたらしく、ユリシアとアリシア(ちなみに二人は姉妹で、ユリシアのほうが4歳ほど年上らしい)は、サミュラを駆って空原に獲物を探しにきていた。あの何もなさそうにみえた砂漠だが、実は、生きた人間が通りかかると、砂のなかから「蟲」という存在が湧いてくるのだ。
「蟲」は個体によって様々な姿かたちを持っているけれど、たいていは4~5mくらいの大きさをしている8本足の生き物だ。村に帰る途中にも僕らは遭遇して、そして、彼女ら二人が見事に討伐してしまった。
僕のその日の晩飯が「蟲」の肝汁だったことは言うまでもない。
それから数日を村で過ごした。
砂漠の中心から離れれば、暑さもずいぶんとおさまる。僕は、放り出されないことを祈りながら、この生活にすでに馴染みはじめていた。村人のなかには親切な者もいるし、はじめてみる文化は面白いと思えなくもなかった。
それになにより、ユリシアが可愛くて優しいのが救いだった。
アリシアも物言いはキツいが、悪い子じゃないのはすぐに分かった。
「ドラン、今日も討伐にいく。来るなら用意して」
「アリシア、僕はまだここに居ていいのか?」
「そう思うなら狩りを手伝って。私たちだけじゃ大型は無理」
彼女、とその姉であるユリシアは、この村で数少ないサミュラ乗りだ。あのカバのような生き物は乗り手を選ぶらしく、気に入らない人間が乗ると機嫌を悪くする。姉妹が一緒ならまだ我慢するが、他人がひとりで乗ろうものなら暴れ狂う。
幸いなことに、僕はこのカバに嫌われておらず、むしろ好かれていた。
つまり、村人が許すなら、僕はこの村の新たなサミュラ乗りになる。
「ドラン様、今日も来て下さるのですか?」
ユリシアが現れて言った。
その背には槍。彼女はこの麗しい姿で無双の槍を振るう。
僕はその姿にすこしだけ憧れを抱いていた。
「みなが許してくれるなら、僕も行きたいと思う」
「あら、そんなもの決まっているじゃありませんか」
「普通に考えて許す。ドランが食料を持ち帰れば文句は言えない」
アリシアは鋭い目つきで僕を、いや、僕を嫌う村人たちを睨んだ。
実際のところ、砂漠で拾われた旅人の立場は弱い。
サミュラ乗りである姉妹の口添えと、
僕自身の素質がなければ追い出されていただろう。
「へへへ。兄ちゃんに戦えんのかよ」
「ロック、体格を考えればドランはお前より役に立つ」
「なんだよアリシア!こいつ、前なんて蟲のまえで腰抜かしたんだぞ!」
「お前は、最初の戦いで小便を漏らして泣き叫んだ」
「あははははは。そんなこともあったわね」
ロックは、この村の三人目のサミュラ乗りである少年だ。まだ十歳で剣も槍も使えない。だから背中には弓を背負っている。一度彼の狩りをみたが、子どもにしてはそれなりに上手く戦っているように見えた。姉妹に比べれば、数段劣る。
だが……。
「大丈夫だ。ロックは僕よりは強い」
「んなこと分かってるっつの、バーカ!!」
少年は僕に蹴りを入れて、村の砂境へと走っていく。
僕と姉妹は、そのあとを追いかけて、そしてサミュラに乗る。
この生き物に乗るのはとても大変だ。体幹もさることながら、精神力のようなものを吸い取られるらしく、アリシアもユリシアも一日乗るとへとへとになっている。僕は、かなり優れた素質があるらしく、何時間乗っても疲れない。あの女神が勝手にチートを与えたのでなければ、きっと異世界人の資質というものだろう。
まぁそのおかげで、僕は彼女らに一目置かれることとなった。
なので、仮にチートだとしてもあまり怒る気にはなれない。
この日の狩りは簡単だった。
蟲は全部で六匹。30日分の食料にはなる。このうちの一匹は、僕がこの手で突き殺した。ありがたいことに、今回のやつらはどれも柔らかめの肉で、それなりに美味かった。自分で狩った生き物の肉に至っては、なんというか格別だった。
僕は思った。
楽しい。
この生活、案外悪くない。
だが僕は、このときまだ分かっていなかった。
この異世界で生活するということがどういうことかを。
〇
だから四度目の狩りでロックが死んだとき、僕は気が狂いそうになった。
そのとき現れた蟲は中型で三つの角が生えていた。僕たちは今までに何度かそいつを殺したことがあったから、どこか、油断していたのかもしれない。姉妹が牽制して、僕が横から槍を差し込む。鈍重な蟲で、あるはずだった。
戦いの終盤、僕の槍が蟲の柔らかな腹を裂いたとき、そこから一匹の小さな蟲が飛び出してきた。針のような、飛び魚のような姿をした細長い羽蟲だ。ロックはすかさずそいつに狙いを定めた。矢は見事に命中して、蟲は死んだ。
そしてそれからすべてが狂った。
抑え込んでいたはずの個体がぶるりと震えて、その背からは無数の羽蟲が飛び出た。僕と姉妹は武具をめちゃめちゃに振り回してそいつらを打ち払った。全身が傷だらけになりながらようやく最後の蟲を叩き潰したとき、ロックの眼球にはダーツのように蟲が刺さっていて、それは脳みそにまで達しているようだった。
びくびくと跳ねるだけのロックの口からは、涎と言葉にならないうめき声が漏れている。なんてことだ。僕にはもう彼が生きているのか死んでいるのかさえ分からない。少年は身を震わせながら、ゆっくりと立ち上がって、血涙を流したままに僕らのほうへと歩み寄ってきた。顔面から突き出した蟲は、まだうねっている。
「よくない。寄生蟲だ」
アリシアがそう言うと同時に、槍を振るった。
破裂する。少年の幼い頭部が弾けた。
「アリシア!なぜだ!まだロックは生きていた!」
「落ち着いて。寄生されたらすぐに死ぬ。当たり前」
「当たり前、じゃない!なんだよお前!頭おかしいのかよ!」
僕はおもわず、アリシアにつかみかかっていた。
彼女はうっとうしそうに顔をしかめると、僕を前蹴りで吹き飛ばす。
「あなたが知らないだけ。寄生蟲は脳から精神核に融合する。そうなればロックの身体を自在に操って私たちに襲い掛かってくる。あんな子どもでも蟲が操れば恐ろしい力を発揮する。そうなれば、私たちのだれかがまた犠牲になる」
「でも……」
尻もちをついた僕に目もくれず、少女は周囲を警戒しはじめる。索敵だ。確かに、確かに彼女は、今いる全員が生き残ることを最優先に考えている。その思考は、僕にだって理解できた。だけど、納得はできなかった。
死を悼まないでいられようか。
苦しまないでいられようか。
アリシアの純粋な瞳には、わずかな曇りさえなく。
汚れのないままで彼女は、少年を殺したのだ。
「こうやって話すのも無駄。そのあいだに新しい蟲が来たらドランは、」
「アリシア。そこまでにしましょう。あなたは正しいけれどあまりに冷たすぎる。ロックは村に埋葬します。ドランさんは、あとで少しよろしいですか?」
ユリシアは額の汗を拭いながらそう言った。
砂を払って立ち上がると、アリシアはすでにサミュラを呼んでいた。砂中から巨体がのそりと浮かび上がり、少女がすばやくまたがる。彼女は、その状態になってようやく僕のほうを振り返った。そして見下すような眼をしながら言った。
「バカな動きで死ぬのは嫌。私も、あなたも」
「僕は……」
「ユリシア。そいつ連れて戻って。私はロックを運ぶから」
「サミュラが認めるかしら?」
「蟲の死骸が山ほどある。バレないように掠めとる」
僕が覚えているのはこの会話までだ。
それから、ユリシアが何かをいろいろと話してくれたけど、残念ながら僕の耳には入らなかった。村に帰ったあと、彼女が僕をずっと抱きしめてくれて、そうしている内に眠りについた。夢のなかでも頭のない死体が出てきたけれど、気付けばそれは人間の、ユリシアのぬくもりへと変わっていった。
「ドラン。妹の言葉は気にしないで」
「でも、僕はたしかに二人を危険にさらした」
「いいえ。正しいのは貴方なの。あの子は少し、おかしいのよ」
そう言ったユリシアの瞳の奥には僕が映っていて、ただそれだけで僕は彼女のことを信頼するようになった。言い訳じみた言葉も、恐れも、甘えも、彼女はすべてを受け入れてくれて、僕は、ゆっくりと精神の安定を取り戻していった。
それから数日のうちに僕とユリシアは結ばれ、婚約を果たした。
アリシアは氷のような眼で、僕らを祝福した。
〇
「幸せをこの村にもたらそう」
僕がそう決めたのは、結婚してから一年が過ぎたある日のことだった。
その年は作物の育ちが悪く、また長い嵐の影響で空原には行けなかった。飢えを解消するためには、砂煙に呑まれながら蟲を殺すか、あるいは近くの別の村を襲うか、村人の誰かを口減らしで砂漠に捨てるしかない。どれも嫌な選択肢だ。
ユリシアは蟲を殺しにいくことを提案し、村の老人たちは口減らしを望んだ。屈強な男(サミュラには乗れなくとも男というものはやはり強い力を持っていた)どもは他村を襲うことを内心では支持しているようだった。
意外にも、アリシアはこのどれも支持しなかった。彼女は空原とは反対側の土地、毒素の森を開拓することを提案した。毒素の森は、近づくだけで肺をやられてしまうから誰も近づこうとはしない。だけど、アリシアによれば、毒素にひどく敏感なサミュラを先導させれば、森を抜けられるかもしれないのだという。
もちろんその提案はユリシアが却下した。村の貴重なサミュラを失う可能性も、サミュラ乗りを失う可能性も選べるはずはなかった。長老である前代のサミュラ乗りたちは、結局、ユリシアの案を受け入れることにした。その頃には、新しくサミュラに見初められた者もいて、狩りは多少、楽にはなっていたからだ。
だがアリシアは頑なに反対し、ついには会合に出てこなくなった。姉妹は元々、別の家に住んでいたから、顔を合わせることはめっきり減った。アリシアはたいていの場合、空原で小さな蟲を狩っていたようだった。
砂嵐のなかでの狩りが五回目になろうという頃、ついにというべきか、やはりというべきか、一人のサミュラ乗りが死んだ。ユリシアではない。新しく見初められた少女だった。寄生蟲などではなく、視界不良のなかでサミュラから転落したのだ。そしてそのまま、激しい砂渦のなかへと呑まれてしまったのだ。
僕らは、少女を助け出そうと試みたが、その前に、彼女のサミュラが躍り出た。カバのような魚はすばやく少女を咥えると、そのまま砂のなかへと消えていった。あの生き物は、精神核を食らうのだという。恐るべきサミュラは相棒の死を感じ取り、その精神核が損なわれてしまう前に、食らいつくしたのだった。
村へと戻った僕は、その段になってようやく決意した。
先述のように、「幸せ」をもたらすことを。
はじめに着手したのは、安定した食料の供給だった。
これに関しては薄っぺらいながらも知識があった。
肥料を作って土壌を改良するのだ。
この村の農業技術はお世辞にも高いとは言えない。人糞やサミュラの糞、蟲の殻を燃やしたあとに残る灰でさえ、ただ砂漠に捨てられるがままだった。僕はそれらを集めて、いくつかの畑に混ぜてみた。効果はすぐに出た。
次に武器の改良を行った。
この村の武器は、伝統的というのもおこがましいような素朴なものしかない。矢に使われている矢じりはもちろん、ユリシアが使っている槍でさえ、蟲から切り取った角や牙を加工したものにすぎない。もちろんそれなりの強度は持っているが、現代日本の鋼鉄を知っている僕からすれば、なまくらもいいところだった。
まず必要なのは鉱石だった。いきなり鉄は無理だろうから、僕はまず、銅に近しい鉱物を探した。幸いなことに空原砂漠の周辺には砕かれた岩石のたまり場(これは吹上げという空原独特の現象で砂中から湧き出てきたものだ)がいくつもあり、そこには明らかに金属を含んでいそうな鉱石がごろごろと転がっていた。僕はその中から錫石と自然銅に似たものを手当たり次第に拾い集めた。
鉱石が集まれば、次は精錬作業だ。だがこの辺りの材料は乾いた砂ばかり。これで炉を作るのは難しい。僕は挫折しそうになったが、そんなとき、意外にもアリシアが良いアイデアをくれた。彼女いわく、毒素の森にある湿地帯には、粘土質の土があるのだという。僕は彼女からそれを貰って、小さな竪型炉を作った。浅く掘った穴のうえに砂を混ぜた粘土のドームを作り、大量の火で乾燥させる。幾度かの失敗ののち、ようやく僕は強度と耐火性を持った炉を完成させた。
鉱石をここで溶かすには、安定した酸素の供給と木炭が必要になる。僕らは、集めてきた蟲の皮を使って、大きなふいごのカラクリを作った。動力は流水だ。砂漠辺縁を流れるいくつかの小川をつかって、僕たちは風を生み出すことを思いついた。二人して木製の機械を設置する姿を、サミュラが不思議そうに見ていた。
このころには、アリシアとの仲もずいぶんと改善されていた。
彼女はいまだに、ユリシアの蟲狩りを許していないようだったが、それは当初僕が思っていたように嫉妬心からくるものではなく、純粋な懐疑からくるものだった。アリシアは、本気で、蟲狩りよりも毒素の森に可能性を見出していたのだ。
〇
ある日、いよいよ精錬も大詰めというとき、彼女は言った。
「ドランに話がある」
「気を抜くな。この火炉はとても原始的で、いつ破裂してもおかしくない」
「私は毒素の森に行けば、みなが幸せになると思っている」
僕は、そんな話を彼女が蒸し返すとは思っていなかった。強すぎる風が炎をごうごうと立ちのぼらせ、僕が答えなくてもいいように取り計らってくれる。額から流れる汗を拭いながら、しかし僕は、彼女のほうを向いていた。
「あそこに何があるんだ」
「一度だけ森を抜けたことがある。子どものころ。夢だと笑われたけど、私はそこで山脈と平原を見た。きっとこの空原のある世界の外側には、もっと大きな世界が広がっている。どの漠村も、本当はもっと広い世界で生きられる」
アリシアの言葉は、希望にあふれていた。
子どもの世迷言と一蹴することはできる。
だがそうはしたくないと思った。
この空原という世界の、ドルマータという世界の外側に、枯れ木とわずかな水、わずかな緑だけではない、もっと広大な世界がいくつもいくつもあることを、僕はこの身で知っていたから。僕は、あまりにもたくさんの世界を知っていた。
「私たちは自由。どこへだって行けるはず」
アリシアは炉に木炭を放り込みながら言う。
「でも誰もそうしない。サミュラが泳ぐ砂の世界しか知ろうとしない。何百とある村は、もう何百年もこんな暮らしを続けてる。砂から生まれた私たちは砂のなかで生きて砂のなかで眠る。くだらない。私は、空原で死ぬつもりはない」
僕は、ロックの死を思い出さずにはいられなかった。
あのとき躊躇なくロックを殺した彼女は、死を軽んじていたわけではない。むしろ誰よりも恐れていて、だから誰よりも生き残ろうとした。それだけだ。
「だから」
少女の顔は熱でほてり、たとえようのない力をもって、僕に迫っていた。あのとき、僕を殺そうとした訝しげな顔、冷徹な瞳、鋭い刃のような態度に、この、僕さえ揺らすような情熱が隠されていたなんて、思いもしなかった。
沸き立つ炎は、分離する鉱石のなかから不純物を浮かび上がらせる。
だがこの少女は、アリシアは、仮に煮えたぎる銅のなかに落ちたとしても何一つとして汚らわしいものを産み落とさないだろう。そんなものはこの美しい刃のなかにはないだろう。僕はそのことを、とても羨ましく思った。
アリシアのなかにうつる僕がゆらゆらと揺れる。
僕は、そして、それを直視できない。
少女が言った。
「だから私はドランを手伝ってる。ドランが今していることは、私たちに今までなかった力を与えてくれる。この砂漠から抜け出すための方法を与えてくれる。そうでしょ?ドランは、この炉で作るもので、私たちを先へと進める」
そう言って、久しぶりに笑顔を見せた。
言葉は頭に入ってはこなかった。
だが、辛うじて僕は少女に、求める言葉を与えた。
「アリシア。僕は、この砂の海をもっと幸せな場所に変える」
「うん。その先を、ドランと一緒にみたい」
彼女の瞳のなかの僕が、
憎悪と情欲にまみれた悪魔のような僕が燃え上がり、
僕たちは長く、くちびるを重ねた。
その晩、僕たちは砂で造った鋳型を使って、この世界ではじめての、青銅器を造り出した。それは槍ではなく短剣だった。敵を貫くための武具ではなく、道を切り開くための祭器。スナビラキ。僕はそれを、うやうやしく少女に差し出した。
アリシアは、心底嬉しそうな顔で剣を眺めていたが、
僕は、心のなかでなにかが損なわれていくのを感じた。
ついに僕は、過ぎたる力をもたらした。
この世界を変えられるほどの力だ。
だがそれは、アリシアが待ち望むような未来をもたらすのだろうか?
僕は、本当にこの場所を幸せな場所に変えられるのだろうか?
「アリシア、もしも僕が行先を見失ったら君が止めてくれ」
「ドランは大丈夫。ユリシアとは違うから」
彼女はそんなことを言って、また僕に触れた。
土まみれの髪と肌は、まだ熱を帯びていた。
そして彼女を抱けば抱くほど、その純真な愉悦と恥じらいを見れば見るほど、僕は、この少女が僕とはまったく違う存在だということを嫌というほど感じてしまうのだった。砂に刺さった剣のように、僕の心は少しずつ冷え固まっていった。
〇
翌朝ようやく村に戻ると、ユリシアが涙を流していた。
僕は彼女に寄り添って、なにがあったのかを尋ねる。
ユリシアは言った。この村に、新たなサミュラの乗り手が何人もやってきたのだと。それは、今まで不思議と出会うことのなかった他村の乗り手であり、彼らは蟲で造った甲冑を身にまとい、村の少女を一人、攫って行ったのだという。
その結果として、村は割れていた。長老たちは空原の嵐が収まって、他村の飢饉が終わるまで動くべきではないと主張していて、地上の戦士たち、すなわち男どもは、今すぐに砂漠の外縁を伝って、報復をすべきだと主張した。
ユリシアはサミュラ乗りたちの装備と技量を見て、無謀な戦をやめるべきだと主張したが、村の男どものなかで最も剣に秀でたガドルグインが真っ向からそれに反対した。彼は、ほかの男たちよりも頭ひとつ分大きく、サミュラ無しで蟲を狩ったことのある唯一の戦士だった(そもそも戦士が何なのかは分からないが)。
ガドルグインはユリシアを殴り、その槍をへし折った。
彼は言った。「蟲さえも恐ろしくはない、臆病よりは」と。
ガドルグインは僕を嘲笑うように見た。
「何を見ている。旅人。お前の伴侶をそんなに信じていたか」
僕には、もはや自分がなすべきことが分かっていた。
腰から自分用にあつらえた短剣を抜くと、僕はそれを振りかぶった。
ガドルグインは咄嗟に左腕で、僕の剣を受け止めた。
いや、彼は弾いたつもりだったに違いない。
彼の腕には大型蟲の角の、
その一番硬い部分でできたバングルがはめられていた。
だがもちろん、青銅製の短剣は、ガドルグインの腕を深々と切り裂いた。
「剣だ。この世の何よりも硬い」
僕は言った。そのみすぼらしい短剣はまだ磨き上げられてもいないが、ほんのりと朝の光を浴びて、黄金色に染まっている。その輝きが人々を照らした。
「ガドルグイン、僕は、僕らは戦うぞ」
「ダメ。相手はただの盗人じゃなくて戦士なのよ!」
「ユリシア、僕を信じろ。蟲の鎧なんて紙屑だ。僕たちは絶対に勝てる」
粗末な短剣から血が滴る。
ガドルグインの瞳から燃えるような怒りは消え、
いまや好奇心とおそれが浮かび上がっていた。
「旅人、お前は一体なんだ、なぜそんなものを造り出せる」
村人の眼が僕に突き刺さるのを感じた。
高揚よりも恐怖が勝る。
それでも僕は、一度始めたことを止めるわけにはいかない。
最初から分かっていた。
この世界で本気になること、力を使うこと。
それは、この世界を僕の力で変えることだ。
チートがなくとも、現代知識は十分に世界を変容させられる。
僕は言った。
「勇者だ。僕は神託によって、この世界を救いにきたんだ」
この時から僕は、勇者になった。
その手を、ユリシアがそっと握りしめた。
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