狐日和の世界の中で

ねこたば

終わりのその先

 世界は今日も美しい。

 空は青く澄み渡り、眩しい陽射しが初夏の緑を照らす。

 燕が騒がしく鳴いて低空を飛び回り、道端の植木には小さな蝶々が可愛らしい舞を披露する。駅前を行く人波は笑顔が眩しくて、その幸福な絵面を祝福するかのように蝉が音楽を奏でている。


 世界は今日も美しい。

 その美しい世界の中で、僕は人波に流される。何処へ向かうとも無く、ただ流れに流されるだけ。


 世界は今日も素晴らしい。

 素晴らしいはずなのに、僕は何かとてつもない違和感を抱えて足を止めた。


「チッ!」


 僕が急に立ち止まったせいで、すぐ後ろを歩いていた人が耳元で舌打ちをして彼を追い越していく。

 けれども僕はそんな事には気もとめず、僕を追い越していく彼の背中に手を伸ばす。


「だめだ……」


 届かない。

 伸ばした手の先で小さくなっていく背中。僕はそれを諦めて手を下ろす。


「また、置いてけぼり……」


 呟いて、目を閉じた。


 また置いてけぼりだ。

 みんながどこかへ行く中で僕だけが置いていかれる。

 僕だけが……逝く事ができなかった。


「……拓海たくみくん?」


 鈴のような声が聞こえた。

 ハッとして振り返るとひとりの少女。


「ふうか、さん……」


 名前を呼ぶと少女は小首を傾げた。

 陽射しに照らされ揺れる黒髪ボブがキラリと輝く。


「こんな所で、何を見ているの?」


「何をって……」


 --駅前を歩いているんだよ。


 そう言おうとして僕は口ごもる。


「あれ……?」


 周りを見ればさっきまでそこにいた人も燕も蝶々も見当たらない。目の前には瓦礫の世界が、照りつける太陽の下にどこまでも広がっているだけ。


「拓海くん?」


「あ、あぁ……ちょっと待って……」


 混乱する頭をフルフルと降る。

 何が起きているのか、すぐには理解が出来なかった。


「あ……そっか」


 そうだった。

 少しずつ記憶が戻ってくると同時に、思わず声が零れた。

 

「みんな死んだんだった」


 また忘れていた。全部、二週間前になくなってしまったんだった。

 人も花も鳥も蝉も木々も街も、なにもかも。


「みんな、もうないんだった」


 瓦礫の世界の中心で僕はそう呟いた。


 **


「また、『夢』を見ていたの?」


 通い慣れた教室に入るなり、ふうかが問いかけてきた。『夢』とは、かつての町の景色の幻影のこと。僕は時々、『夢』を見る。


「そろそろ慣れてきたけど、それでもやっぱり突然立ち止まるとびっくりしちゃうよ」


「驚かせてごめん」


「いいんだよ、仕方ないよね。二週間前までは世界が崩壊するなんて未来、想像できなかったもん」


「一瞬で世界は変わったからな」


「うん。慣れるはずがないよ……こんな世界……」


 一面の瓦礫を見渡しながら、彼女はそう言って顔を曇らせた。


 そう。

 世界は滅んだ。

 少し前に突然世界中を巻き込む戦争が起きて、たった十日のうちに人間の文明は跡形も無く消えてしまった。その戦争には勝者も無く、ただ文明だけが全て壊されて終末がやってきた。

 あまりにも呆気ない最後の審判の日の到来は、生き残った僕たちから現実感を奪い去り、代わりに美しい過去の幻想である『夢』を与えた。


「……『夢』でなにを見ていたの?」


 不意にふうかがそんなことを聞いてきた。


「なにも面白くない、いつもの朝の駅前の光景だったよ」


「いいなぁ。私も見たい」


「ロクなものじゃないさ」


 そう言うとふうかは少し不貞腐れた表情を見せた。


 ふうかは『夢』を見ないらしい。

 どんなに目を凝らしても、彼女の目の前に広がるのはただ瓦礫の世界だけ。そんな彼女は口癖のように同じことばかりを言う。

 --私も、『夢』を見てみたい、と。


「『夢』を見るっていうけど、文字面とは違ってなかなかエグいんだよ」


「エグいって?」


「『夢』を見ると、確かに退屈で何気ないけど幸せだった戦前のあの世界に行くことができる。でもね、『夢』はただの幻想。『夢』から醒める時、その幻想と現実のギャップを思い知らされるんだ」


 言っていると不意にその感覚を思い出し、背筋の凍るような感覚に思わず身震いをした。


「それはまさに、言葉では言い表せないような苦しみだよ」


 このせいで、せっかく戦争を生き延びた人のうちどれだけが自ら命を捨てただろうか。

 見たくもない過去を振り返らされ、そして現実とのギャップに苦しめられる。甘美で、そして苦しみをもたらすその幻想は、まるで麻薬のように心を蝕んでいく。


「……それでも、あの世界を見ることが出来るんでしょ?」


 その言葉に僕はハッとした。

 顔を上げるとふうかが哀しそうな笑顔を浮かべていた。


「少しでも見れるなら、私は……」


 今にも雨が降りそうな顔。

 彼女だって、『夢』を見る代償が地獄のような苦しみだということは分かっている。だって『夢』によって彼女の親友は自ら命を絶ったのだから。

 それでも『夢』を見たいという彼女の心の内には、どんな想いが秘められているのか。


 そこまで思いが至らず、無意識のうちに彼女の心を抉ってしまった。


「……悪かった。そうだよな、本当に悪かった」


 軽率だったと思いながら頭を下げると、彼女は「ううん、私こそごめんね」と言った。


「拓海くんの言うことも分かってるの。でもね、やっぱりあの世界をもう一度だけでも見たいなとは思っちゃうよ」


「ふうか……」


 ふうかは『夢』を見ない。

 それは、もう一度逢いたい人にも愛おしいあの日々も、決して向き合うことの出来ないということ。確かに、『夢』は幻想でしかないのかもしれない。けれども『夢』は二度と戻らぬ過去へと繋がる夢の扉。たとえどんな犠牲や苦しみを払ってでも見たいと思うのかもしれない。

 あの心を抉られるような苦しみは、体験しなければ分からないのだろう。


「やぁ、お二人さん。世界の終わりでもお熱いね」


 そんな湿っぽい空気を吹き飛ばすような明るい声が響いた。


「俺たちを見習ってイチャついてるんだな、感心感心」


木戸きど……惚気るなら他でやってくれ」


 溜息をつきながら振り返ると、そこには一組の男女。男は杖をつき、その袖をつまむように女の子が立っている。


「俺と優香ゆうかに嫉妬か?」


 戦前は同じ高校のクラスメイトだった男--木戸がそう言って笑った。その隣から、女の子が弾かれたようにこちらへと駆け寄る。


「ふうかちゃーん!」


「優香ちゃーん!」


 優香と呼ばれた少女が、ふうかに抱きついた。ふうかもそれを満面の笑顔で受け止める。


「木戸よ。早速ふうかに取られてるぞ」


「狼狽えることなどない。俺の一番は優香だし優香の一番は俺だ」


「さいでっか」


 惚気にため息をつきながら適当に答えると、木戸は「それより」と真面目な顔になった。


「お前こそ良いのかよ」


「なにが?」


「俺たちはもう残り少ない人生なんだから、早くふうかちゃんと一緒になれよ」


「それはそれ」


「とも言ってられないだろ? もう、いつ会えなくなってもおかしくないんだから……」


 その言葉に目を伏せると、木戸の足が目に入った。立っているのもやっとというように震えていた。

 僕が何も言わなくなると、木戸は僕に背を向けた。


「まあ、お前の人生だ。俺は最期の瞬間まで優香と二人で過ごしたい。だから一緒にいる。お前も終末に後悔だけは残すなよ」


 それが俺の遺言だ、と笑いながら木戸はふうかから優香を奪還した。

 そのまま壁際に向かう足取りはフラフラと覚束ない。


「遺言……か」


 木戸の言葉を心の中で繰り返す。


「僕の想い……」


 むぅ、と膨れるふうかと壁際に座り込んでそれを笑う木戸と優香。その三人を見つめていると、自ずと願いが湧き上がる。


「明日も、こうしてみんなで笑っていたい……」


 それは決して叶うことのない願いと知りながら、気がつけば祈るように言葉にしていた。


「……なぁ、やっぱ食い物はもう無い?」


 ぼんやりと自分の願いについて考えていると、突然木戸がそんなことを問いかけてきた。


「ないな」


「そっか……そうだよなぁ」


 あははと笑いながら木戸が「分かった」というように手を振る。そのまま彼は隣に座る優香の手を握りしめると、目を瞑った。


「……拓海、体力はまだ残ってるか?」


「充電3パーセントってところかな」


「結構あるな」


 そう言って笑うとそのまま壁にもたれかかる。


「……俺たちはもうこれ以上動けない」


 またいきなり、木戸はそんなことを言い出した。


「おいおい、これからだろ?」


「だったら良かったんだけどな……もうここに来るので精一杯だったんだ……」


「私も、そろそろかな。木戸くんと一緒にお先に失礼するよ」


 木戸の隣で優香もそう言って笑った。苦しいはずなのに幸せそうな笑顔だった。そんな二人に、僕も笑顔を見せる。


「……まだ今日一日くらいは大丈夫だろ?」


「うん」


 僕の問いかけに二人は頷いた。


「なら、最高の最期の日にしないとな」


 そう言うと二人は顔を見合わせて笑った。


「四人でいるだけで、私達はもう幸せだよ」


「っ!」


 --神様。どうしてこんなにも僕たちから大切なものを奪い取っていくんですか?


 思わずこの世にあらざる者に対してそう問いかける。

 それに応えるように、僕の脳裏にはあの戦争が奪い去っていったものたちが蘇ってきた。

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