第12話

それから数日後。

ヨセキの庭。岩に座ってタバコに火をつける。月がお池にまんまるく映っている。

ヨセキがある場所は元々、知る人ぞ知るちょっとお高い隠れ家的小旅館であったらしい。そのため庭だけはなかなか立派だ。お池に鯉もなんにもいないのが少々残念だが。

「タバコはやめなって言ってるのに」

 背後の通用口が開いた。振り返る。エミリはお土産屋で買った桃色の甚平の上から、これまたお土産で買った赤とオレンジのはんてんを羽織っている。すっかり箱根に染まりきっているというのが見た目からして分かる。

表情は明るい。いくらかは元気を取り戻したようで良かった。

「もうすぐだねえ。うすのろバカ大会」

 俺の隣に座る。ちなみにこのはんてんは『新泉紀エバンゲルマニウム』というアニメ(箱根のご当地アニメながら世界的な大ヒットを記録した作品。OPソングの『残酷な入湯税で』がミリオンセラーを達成したことでも知られる。三十分間みんなで温泉に浸ってまったりしているだけのアニメで、見てると大変眠くなる)の箱根限定グッズショップ『エバ屋』で買ったものだ。ダブルヒロインの一人、ドイツから来た温泉大好き少女、泉流・アスナ・ジャグジーというキャラクターをイメージしたものらしい。

「ああ。あと一週間か」

 はんてんにはアスナの影絵や『あんたハダカァ⁉』『ぱ~んつ!』『のぼせてキモチ悪い……』などの名セリフが描かれている。なかなか洒落たなデザインだ。エミリは子供の頃から彼女の大ファンらしい。多分髪の毛の色やコスチュームが赤色だからであろう。

「それで勝ったら。お姉ちゃんと対決だ」

 エミリは珍しく無表情。そしてポツりと言った。

「ねえ。この間さ。お姉ちゃんはどんな話をしたの?」

 殆どが仕事の愚痴……だったが。重要なのはそこではないだろう。

「この間の大暴れ。やりたくてやっているわけではない。こう言っていた」

「そっか。そうだよね」

 ほっとしたような顔をして大きく息をついた。

「ただ、仕事を辞めるつもりはない。とも言っていた」

 今度は腕を組んで考え込むポーズ。エミリは動きや表情のパターンが豊富で面白い。

「たぶん。会社で働いて、毎月給料を貰うってことの安心とか安定ってことに凝り固まってるんだろう」

「なるほど、ね」

「でな。もうひとつ言っていたことがなかなか重要なことだと思っている」

「それは?」

 俺の瞳をジッと見つめる。この強烈な熱視線。あまり無遠慮に見つめるものだから最初は戸惑ったが、すっかり慣れた。

「奴が言うにはな。例の一千万円の『レッド・オア・ブラック』。もし負ければ責任を取らされて、クビになる可能性が高いそうだ」

「……ヒデェ話だね」

「まァ勝手に戦争なんておっぱじめて、社員はもちろん、関係ない奴にまで赤髪ちゃんとか言って命を賭けさせる会社だからな。クビぐらい当然のように賭けさせるだろうな」

「――でもさ」

 エミリは空を見上げた。

「その方がいいんじゃないかな……? 逆にね。クビになって外に出れば、お姉ちゃんに嫌でも新しい世界が広がる。その世界の方が。お姉ちゃんがもっとずっと笑顔でいられる世界。そんな気がする」

 そして俺の左の二の腕をつつきながら言った。

「健太郎はどう思う?」

「全く同じ意見だ」

「だよねー!」

 エミリがヒュッと左腕を上げた。パチーンと手を合わせてやる。ハイタッチだ。この辺り息が合ってきたと言える。

「よし! じゃあ頑張ろう! 囚われのお姫様を助け出すための闘いだ!」

 魔王の所から無理矢理お姫様を拉致するような闘い。という気もするが。まあいい。

「そうと決まれば! もっと練習しないと! うすのろバカマスターにならないと!」

 ――人間なんでもやればうまくなるものだ。

大会までに俺とエミリは『うすのろバカマヌケ』について、超人的な技術、そして絶対的な自信を身に着けた。


『フラミンゴ』は三次大戦開戦の直前にオープンしてしまった不憫な観光施設だ。大きなもの、小さなもの、屋外、屋内、合わせて百種類以上の足湯を取りそろえた、まさに足湯のワンダーランドである。らしい。大涌谷の黒玉子が『食べると寿命が七年延びる』と宣伝しているのに対抗して、『浸かると足が七センチ伸びる』などと宣伝されている。

「いいな。足が七センチか。伸びたい」

 エミリがボヤく。今日は髪の毛を後ろで二つ結びにしているため、より子供っぽい。

「伸びるわけないだろ」

「わかってるよ」

「ちなみに寿命も延びないからな」

「えっ、寿命は延びるでしょ?」

 鳥の名前なんかつけるもんだから、いつもは閑古鳥が鳴いているが。本日は大盛況。なぜならここで、『うすのろバカマヌケ世界一決定戦 ~アルティメットスーパーサバイバル・バトルロイヤル・アルティメットロワイヤル~』が開催されるからだ。

 庵田にはああは言ったものの。参加費十万も取ったら参加者なんてせいぜい二十人ぐらいだろうと、タカをくくっていたのだが。(というか参加者をそのくらいに調整するために参加費十万円というのを提案した)どうやら本当に百人集まってしまったらしい。観客もその倍ぐらいは来るのではないだろうか。

「ちっ誤算だったな。まァ、みんな、いろいろタマってるというわけか」

 大会の開始まであと二時間以上あるが、すでにたくさんの温泉狂たちが来場し、足湯を楽しんでいるようだ。

「……すごい活気。こんな時代とは思えないくらい」

 エミリは立ち止まって無表情で会場を見渡している。

「そうだな。でもこんな時代だからこそってこともあるぞ」

 後ろからエミリのアタマに手を置く。俺も会場を見渡す。

 ――ん。あの後ろ姿。茶色のポニーテールにいつも真っ黒い服を着た女といえば。

「さつき!」

 こちらに振り返り、歩み寄ってくる。今日は黒の背広に、黒のタイトスカートという珍しいスタイルだ。

「お久しぶりです。健太郎さんと、エミリちゃん……」

「お姉ちゃん……」

 二人はあの『かまぼこ』での事件以来、初対面。メスガキ二人してモジモジしていやがったので、エミリの背中をドンっと押してさつきの胸に飛び込ませた。

「キャッ!」

 さつきは驚きの声を上げた。エミリは俺の方を振り返り一瞬ふくれっつらをした。

「ねえ! さつきお姉ちゃん!」

 そして、耳がお釈迦になりそうなビッグシャウトをさつきに食らわせた。

「は、はい!」

「あのね! 私この間はさ! びっくりしちゃったけど、お姉ちゃんのこと嫌いになんてなってないから!」

 さつきは、目をぱちくりさせた。

「あ、ありがとう。嬉しいよ」

 エミリの背中に手を回した。

「でね! お姉ちゃんはもう箱根大黒なんか辞めちゃったほうがいいと思うの! だからこの大会! 必ず勝ちます! そんでレッド・オア・ブラックでお姉ちゃんもボコボコにして会社クビにさせてもらいます!」

 さつきはエミリの肩越しに俺と目を合わせて苦笑した。

 ――そのとき。

(ん……? あいつ誰だっけ? 見たことがあるような)

さつきの背後から歩いてくる人物に目が行った。

身長一八〇以上あるだろうか。黒い髪をオールバックにしたクロブチメガネ野郎だ。スカしたグレーのストライプのスーツなんぞ着ている。異様に整った顔立ち。やっかみを抜きにしても冷たく、機械のような印象を受ける。

「湯舟さんこちらは?」

「あ、こちらが例の」

 どうやらさつきの連れらしい。エミリと顔を見合わせる。カレシ? いやまさか。

「星月健太郎さんとエミリ桜庭さんでいらっしゃいますか?」

「ああ」

「はい。そうですけど」

「初めまして。わたくし、箱根大黒の社長を務めさせて頂いております、小泉崋山(こいずみ かざん)と申します。以後お見知りおきを」

 エミリと二人して、口をぱっかりと開いて顔を見合わせた。

そして男を指さして、エエエーーーーっ! と叫んだ。

「この大会の話をしたら、連れて行って欲しいと」

 さつきはこともなげに言った。なるほどね。それでスーツなんぞ着ているのか。


 広大な敷地の中央にある巨大な円柱形の建物『アシユタワー』。その内部。ど真ん中には世界最大、半径三メートルの超巨大円形大理石足湯『サンゼンニヒャクモン』がある。真っ白な湯船が、少し黒みがかかったお湯、いわゆる黒湯で満たされている。

大会参加者は皆靴を脱ぎこれに浸かっている。というか学校の朝礼かなんかのようにつっ立っている。その周りには大量のパイプイスが並べられ、観客たちが座っている。

「それでは開会式を始めます!」

 司会進行役は霊柩屋。学校の教壇みたいな机の上に設置されたマイクを握っている。庵田じきじきのご指名で、ギャラは日当で一五〇〇円らしい。

 庵田の奴は会場の壁、高い所に設置されたガラス張りのVIPルームみたいな所でソファーに座っている。バカ殿と煙は高い所が好き。というヤツだ。

「まずはルール説明!」

 霊柩屋が原稿を取り出す。

「えー、進行はいたってかんたん! ランダムでこっちが勝手に決めた組み合わせでみなさんには五試合行ってもらいます! そんで『蔑称』が短い野郎ベストスリーがここ『サンゼンニヒャクモン』で決勝だ!」

 相変わらずよく通る綺麗な声だ。日当一五〇〇円はさすがに安すぎて可哀想だ。二〇〇〇円ぐらいの価値はあると思う。ちなみにお菓子屋を手伝ってくれたときは友情出演ということでノーギャラだったが。

「で、予選の会場はこの『フラミンゴ』に無駄にアホほどある足湯だ。足湯にこいつを沈める! 提供は湯本の駅前のお土産物屋の『エバ屋』さん!」

 エバンゲルマニウムの高さ五センチぐらいのチビキャラフィギュアが五つほど取り出され、机上に並べられる。

「あっ! アスナちゃんだ!」

 エミリの目が輝く。

「カードの数字が揃ったら、足湯にダイブしてこいつを拾いやがれ! 拾えなかった愚鈍にはマイナスポイント! 『蔑称』が一文字増えるぞオラァ!」

 霊柩屋のボルテージがどんどん上がってきている。ヤケクソのハイテンションだ。

「一回戦につき十回カードが揃った時点で終了だ! えっ⁉ そんなにやるんだったら『蔑称』が『うすのろバカマヌケ』じゃ全然足りない? ご心配なく! ちゃんと長い奴を用意してますぜ! 『うすのろバカマヌケこのくそどうていほうけいやろうのマザーファッカーのぜいきんどうぼうのうんこせいぞうき』これだけあるので、雑魚に自信のあるヤカラは思う存分負け散らかしやがれ!」

 エミリが指を折って数えている。

「何文字?」

「五十二文字」

 ちっ。五回戦で一回最高十文字なんだから、二文字余計じゃねえか! ちゃんとしろよ! そういうの気になるわ! うんこせいぞうきをうんこマシンにするとかさ!

「ちなみにカードが揃っていないのに、フィギュア取ったらお手付きね! この場合も蔑称追加! カード揃った回数も加算されるです! だからあっせんなよ!」

 ほほう……それは面白いことを聞いた。

「それから! 言うまでもないかとは思いますが! 優勝賞金は一千万円!」

 ドオオオっと歓声が発生する。

「さらに副賞と致しまして、寄木細工屋『木魂』さんよりこちらの寄木細工麻雀牌が送られます!」

「かわいい! 欲しい!」

これはなかなか嬉しい。今、マイ雀牌がないからな。しかし木製の麻雀牌とは非常に珍しい。使い勝手はどうなのだろうか。

「ルール説明は以上になります! それではつづきまして選手宣誓を行って頂きます」

「へーそんなのあるんだー。健太郎知ってた?」

「シラン。誰がやるんだろうな」

「それでは選手代表! 星月健太郎さん! お願いします!」

俺⁉ と叫び自分を指さす。

「そう! あなたです!」

「アドリブでやれって⁉」

「はい。なにせ選手宣誓をやるということ自体が私のアドリブですから!」

「ハハハ! 頑張ってね!」

 エミリは俺の背中をバンバン叩き笑っている。クソ。ひとごとだと思って。

 仕方がないので足湯からあがり霊柩屋の所に向かう。

 改めて会場全体を見回す。本当にたくさんの人間がいる。ガキ、若造、おっさん、おばさん、ジジイ、ババア。観客席の一番前の席には。さつきと箱根大黒社長の姿。そしてさっきまで俺がいた辺りにはにっこり微笑むエミリの姿。俺は奴ら全員への気持ちを叫ぶことにした。霊柩屋からマイクをひったくる。拍手が発生する。

「おい! 『温泉狂』のカス共! おまえら虫ケラのバカ犬の、負け犬のクソモンキーバナナのポメラニアンら! まだこんなにいたのかよ! 死にぞこないやがって!」

 ヤケクソのシャウト。呼吸をせずに一息に言いきった。一瞬沈黙があったあと、大ブーイングが発生する。

「いいか、シーモンキー共よく聞け! 俺たちはいつ死ぬかわからねえ。いつ霊柩車の世話になるか分からねえ! 餓死する奴、病気で死ぬ奴、凍死する奴、それに箱根大黒にしばき殺される奴! たくさん見てきただろ! だから今日は最後の祭りかもしれねえ! だから騒げ! 暴れろ! それで夢を掴め! 一千万円!」

 今度は大歓声。

「でもダメだ! バカか! 一千万円は俺のもんだ! おまえら馬鹿らはどうせ使い道なんて考えてねえだろう? 俺はちゃんと考えてるぞ! 知ってるかもしれねえがな、俺は一千万で箱根大黒に戦いを挑む! いや箱根大黒だけじゃねえ! 大黒天グループ全部だ! いつも俺らをイジメて、アコギな手で金をかっさらっていくクソ野郎は潰した方がいいなあ⁉ それに! おまえら忘れたわけじゃねえだろ! 奴らが戦争なんかおっぱじめやがったこと! ほっときゃあのカスら、こんだぁ、第四次世界大戦おっぱじめるぞ! だから! まずは一千万をタネに箱根大黒の息の根を止める! そのあと! 鬼怒川、熱海、有馬に草津に登別! 全部ぶっ潰して大黒天グループを崩壊させてやる! そうなりゃあ日本は平和だ! それがラブアンドピース! 違うかい⁉」

 そうホザきながら中指を立てた。大爆笑、そして大歓声。客席の方を見る。箱根大黒の社長とさつきも笑っている。エミリは体をくの字に折り曲げてぴくンぴくンと痙攣を起こしている。所謂バクショウである。

 ホーシヅキ! ホーシヅキ!

 ナゼだか、星月コールが発生する。

全くこいつらと来たら。なんでもいいから騒ぎたいだけだな? 

――まあたまにはいいさ。せっかくの祭りなんだから。


「うすのろバカマヌケ!」

 会場各所で試合が開始される。

同時並行で殆ど全員が叫ぶもんだから、やかましいったらない。

 試合は四人一組で行われる。審判を含めた五人が円形の足湯の周りに集まる。

 湯にはエバンゲルマニウムのフィギュアが三つ沈められている。

選手は足湯の縁に座り、湯に足をつける。

ギリギリカードを交換することができる距離感で、四人円形に構えている。

「うすのろバカマヌケ!」

 掛け声と共にカードを交換する。俺の右どなりのメガネの女が動く。カードの数字が揃ったらしい。足湯に体を突っ込んで行き、泡波レイカ(無口な温泉大好き少女。『こんなときどんな花王すればいいかわからない』などのセリフで有名)のフィギュアを取る。それを見た俺も他二人を押しのけて、井光センジ(ネクラな温泉大好き少年。『洗えばいいと思うよ』などのセリフで有名)のフィギュアを取る。

「二十四番! 蔑称追加!」

 審判の判定により、フィギュアを取れなかった茶髪の若造の胸の『24』と書かれた台紙に『の』と書かれた蔑称シールが張りつけられる。今のでカードが揃うのは九回目。あと一回。次を凌げば無傷で二回戦を迎えることができる。

 審判が全員からカードを集める。シャッフルして一人四枚ずつ配り直す。

試合再開――

「うすのろバカマヌケ!」

 カードを交換した瞬間――。俺はものすごい勢いで足湯に上半身を突っ込んだ。それを見た他の三人も必死にフィギュアを掴む。そしてザバーっと足湯から体を上げる。

「――アレ?」

 三人が顔を見合わせる。三人ともが手にフィギュアを持っていたからだ。

俺は三人と審判に手札を見せつけた。

「揃ってない⁉」

「お、お手付き! 三人お手付きにより二十四番、七十九番、八十七番『蔑称』追加!」

「き、汚ねえぞ! テメエこのニワトリ頭!」

「うるせえ! ドザル共! 闘いに汚ねえもクソもねえんだよ!」

 卑劣な手段により見事一回戦を無傷で突破。博打は常に汚い奴が勝つ。


 三回戦まで終了した。一回休みだそうなのでエミリの試合を観戦する。

「うすのろバカマヌケ!」

 エミリの対面の若い男が、カードを揃え、足湯にダイブした。それに続きエミリも潜り込んで、アスナのフィギュアを奪取する。常に揃った奴の次にフィギュアを奪取している。安心して見ていられる試合運びだ。

(なるほど、この競技じゃああまり能力は生きないと思ったが……)

 赤のカードが見えるというのはやはりかなり有利だ。黒のカードは見えないので『あと一枚で揃う。(三枚同じ数字のカードを持っている)』かどうかはわからないが、『こいつは次で揃うことはない』ということはわかる場合が多い。その場合はそいつ以外の動きに注目していればよい。これは地味ながら相当に有利だ。

それに加え、エミリの無駄な身体能力の高さ。これは死角はなしだな。

「うすのろバカマヌケ!」

「あっ……」

「十一番! 蔑称追加!」

 エミリが初めてポイントを取られた。

「エミリ! ムリにアスナを取りにいくな! 近いのを取れ!」

「だって……」


「皆さま! お待たせ致しました! それでは! 決勝進出者を発表します!」

 再び『サンゼンニヒャクモン』に選手と観客が集まる。

選手は全員水びたしのぐっちゃぐちゃになり、憔悴しきっている。

「第三位! 十一番! エミリ桜庭! 蔑称は『うすの』の三文字!」

 エミリが前に呼ばれる。かわいい~などと歓声が浴びせられる。顔を真っ赤にして下を向いて、大変照れていらっしゃる。ちっエミリの奴。三回も失点しやがって。実力からしたらパーフェクトじゃないといけないくらいなのに。

「さっすが天才少女! 欲望に猛り狂ったマントヒヒ共を押しのけて見事な予選突破! えー続きましてー」

 霊柩屋が手元の紙をチラっと見る。 

「第二位! 十二番! 星月健太郎! 蔑称は『うす』の二文字だけ!」

 俺も霊柩屋の所に向かう。観客席からはやっぱりかーなどという声とブーイングが送られる。さつきがにっこりと笑いこちらに手を振っているのが見えた。

「えー彼に関しましては。『揃ってもないの取りに行ってお手付きをさせようとする』『審判に見えないように、取りにいくのをジャマする』『カードを覗き見る』『審判を買収しているのではないか』などのクレームが十五件、つまり対戦者全員から本部に送られましたが、一切不受理! クソ安いギャラでそんなところまで面倒みてられません!」

 この俺が二位だと……? じゃあ一位は誰だってんだ。

「えー続きましてーいよいよ第一位!」

 選手たちと観客たちがザワめく。

「第一位! 八十番! 永鳥しだり! 蔑称は『なし』! なんと予選十回戦完全試合!」

 緑色の和服を着た女が壇上に上がってくる。会場のザワめきは止まらない。

「誰だ……?」

「知らん……」

「えーっと、誰だという声が大きいのでちょっと自己紹介でも聞いてみましょうか」

 霊柩屋が永鳥にマイクを渡す。

「初めまして。永鳥しだりと申します。小田原城で女中を務めさせて頂いております」

 客席から、あー、などという声があがる。

「なんてゆうか、その、なんでそんなに強いんですか?」

 さすが霊柩屋。いい質問だ。永鳥は首を傾げながら回答した。

「そうですねー、まあ反射神経という意味では百人一首、競技カルタをやっていることが生きているんじゃないでしょうか?」

 成程。あの饅頭当ての紙コップを払ったときのとんでもない手の動きを思い出した。

「カルタですか! アレも強い人の同士闘いとなるとちょっと人間ワザとは思えないスピードですもんねえ。ちなみにどのくらいの腕前で」

「戦前は世界選手権を7連覇中だったんですけど、次はいつ開催されるやら……」

 会場がザワつく。庵田のクソ野郎めやりやがった。なるほど。『うすのろバカの名人』なんてのはいないが……。野郎はVIPルームででワインかなんか飲みながらこちらを見下ろしている。奴と目があった。中指を立ててやったらVサインを返してきた。

 まあいい。こうでなくちゃ面白くねえ。せっかくの祭りなんだから――。


 審判が新品の『エバ』のキャラクタートランプから『2』『3』『4』のカードを取り出し俺たちに見せる。十二枚それぞれに非常に力の入ったオシャレなイラストが描かれ、申し訳程度に端っこに数字と『ハート』や『スペード』などのマークが書かれている。

それをシャッフルして一人に四枚ずつカードが配布される。

決勝戦。夕焼けが焼ける中、三人の闘士が『サンゼンニヒャクモン』の中央に三人で裸足ですっ立ち、ヒザぐらいまで水に浸かる。

そしてギリギリカードを渡すことのできる距離を取る。抽選の結果、左には永鳥、右にはエミリという立ち位置。つまり永鳥からカードを受け取り、エミリにカードを渡す形となる。審判が三人の中心にアスナとレイカのフィギュアが置く。準備は完了だ。

「決勝戦は誰かが『うすのろバカマヌケ』になった時点で試合終了。その時点で一番『蔑称』が短いものが優勝となります!」

 審判からルールの説明が行われた。

 試合開始前に三人で握手を交す。観客席からは大きな拍手と歓声。

「試合開始!」

 審判が宣言するや否や、三人同時に叫ぶ。

「うすのろバカマヌケ!」

 ――この勝負。一番不利なのは誰か。勿論俺だ。エミリにはカードを見通す能力がある。永鳥には圧倒的なスピードがある。俺にあるのはこいつら以上の勝ちへの執念だけ。

従って初回から仕掛けていく。カードの交換が終わった瞬間。俺は水中に思いっきりダイブして手を激しく動かし、水しぶきを上げた。

「おおっと! 星月選手思いっきり飛び込んでいったが、二人微動だにしない!」

 実況中継まで担当して日当が一五〇〇円とは憐れな霊柩屋。

「どうした? 飛びつかなくて良かったのか?」

「はい。少しウソっぽかったので」

「でもちょっとピクっとしてなかったか?」

「ええ。なかなか迫力の演技でしたので」

 エミリは無言だ。まあ今のはハートの三と、ダイヤの四を持っていたのでエミリが動かないのは当然だ。しかし逆に。ハートの三とダイヤの三などという持ち方をしているときに仕掛けてやれば騙しうるのではないか。

「エミリ。随分涼しい顔してるじゃねえか。これからその顔を恐怖にかえてやる」

「健太郎、コワい」


 戦況は複雑である。俺はやや苦しい。

「うすのろバカマヌケ!」

「……あっ!」

「おーっとコレはまた星月のフェイントだ! エミリ選手引っかかってしまった!」

「Boooo!」

「いい加減アレ禁止にしろよ!」

 観客からはブーイング。むしろ心地いい。悪役レスラーの気分だ。

俺のフェイントにエミリも永鳥もたまにひっかかる。その分はアドバンテージがある。――だが。

「うすのろバカマヌケ!」

 エミリがカードを揃えたらしい。小さな体をダイブさせる。

「くっ……!」

「エミリと永鳥が取りました! 星月まったく追いつけない!」

「クソっ……!」

水面をバシャーンと叩く。エミリが揃えた時については、俺は一度も取れていない。

とてもじゃないが永鳥のスピードにはついていけない。

「うすのろバカマヌケ!」

「っく……!」

「はっ……!」

 俺のカードが揃った。エミリと永鳥も飛び込む。

「これは! 永鳥だ! ほんの一瞬永鳥が早い!」

「あなたものすごい反射神経してますね。どうですか百人一首を始めてみては?」

「……なんか名前が怖いから、いいや」

 俺が揃った場合の勝負はきわどい。カードを見通すことができるアドバンテージを含めてもやや永鳥有利か。

「うすのろバカマヌケ!」

 今度は永鳥がカードを揃えた。

「あっ! なんか飛んだ!」

 エミリの後方を指さしながら叫んだが、エミリは意に介さずダイブした。

「チッ……!」

「そんな手なんども通用しないよー」

「これはエミリだー! 星月さすがに苦しくなってきたか⁉」

 永鳥が揃った場合のエミリとの対決。何度か、突然叫ぶ、おしりを触るなどの手で誤魔化したが基本的にはエミリのスピードについていけていない。

「タイムをお願いします」

 ここで永鳥がタイムを取った。一分間のインターバルだ。アップにしていた髪の毛が崩れてしまっている。これを直すためのタイムであろう。彼女は髪の毛を下ろし、後ろでぎゅっと結んだ。

エミリも結んだ髪の毛をほどいた。ぐちゃぐちゃになった前髪を全部後ろに流し、ツインテールに結び直した。ピンクの長袖Tシャツはもうびっちゃびちゃ状態だ。

「おまえ、ブラ透けまくってるぞ。する必要もないのに」

 ――強烈なビンタを喰らう。脳が揺れて大きくよろける。

「いってえ!」

よろけた勢いで思いっきりフィギュアを踏みつけてしまい、アスナのアホ毛が足のウラに刺さる。観客席からどおっと笑い声。エミリと永鳥も笑っている。

「ちっ! この雌豚ども!」

お湯を吸いまくって重いので銀色のTシャツを脱ぎ捨てた。観客のムラついた雌共がキャーとか言って喜んでいる。こんなヒョロい体見ても面白くないだろうに。Gパンも脱ごうとしたのだが止められた。カードも、水を吸いまくって字が滲んできている。

「さあ、星月『うすのろバカマヌ』、エミリ『うすのろバカマ』、永鳥『うすのろバカマ』から試合再開だ。星月ピンチ!」

 やはり俺が追い込まれている。いくらフェイントやらでポイントをちょろまかしても、エミリ、永鳥いずれにもスピードで負けているのだから当然だ。しかし。先ほどの休憩の間に少し思いついたことがある。

「うすのろバカマヌケ!」

 カードを交換する。動きはない。誰も揃わなかったようだ。観客も固唾を飲んでいる。

「うすのろバカマヌケ!」

 カードを交換した――エミリがダイブする! 観客からはウワっという歓声。――永鳥も脅威の反射神経でエミリとほぼ同時にダイブする。

(ここだ……!)

俺はかかと落としをするように足を思いっきり高く蹴り上げた。そのケリはアスナのフィギュアを捉えた。蹴り上げられた赤毛のドイツ娘はお湯から飛び出し、空中に浮きあがった! 俺はそれを悠遊とキャッチした。

「星月が取ったあああ! これで永鳥も『うすのろバカマヌ』! 後がなくなりました!」

「くっ……やられました! そんな手があるとは!」

 永鳥が水面を平手で叩き、感情を露わにする。

「これと引き換えに思いついたんだ」

 俺はさっきフィギュアを踏みつけて出血している足の裏を見せつけた。

「『間欠泉ハイキック』なんて名前はどうだ?」

「うーんどうでしょうね?」

「アスナちゃんを蹴るなんて」

「さあこれでエミリは次、自分が取りさえすれば無条件で勝ち! 星月、永鳥はエミリには取らせないことが絶対条件! 苦しい状態だ!」

 つまりエミリのカード揃ったらほぼ終わりか。こればっかりは祈るしかない。永鳥が揃った場合はとにかく全力でエミリを潰せばいい。オッパイ(胸板)や股間を触ってでもなんとかもぎ取ればよろしい。問題は俺が揃ったとき。エミリが取ってしまうと、永鳥が『うすのろバカマヌケ』になり敗退。俺は現在『うすのろバカマヌ』なので『うすのろバカマ』のエミリの優勝になってしまう。従って俺が揃ったら、永鳥に取らせることを考えなくてはいけない。

「うすのろバカマヌケ!」

 誰も揃わない。しかしこれで俺のカードは、スペードの二、クラブの二、ダイヤの二、ダイヤの四。ハートの二がくれば『二』が揃う。会場は静まり返って固唾を飲んでいる。

「うすのろバカマヌケ!」

 ――ダイヤの四をエミリに渡した。永鳥から渡されたカードは――ハートの二だ! カードを水面に叩きつけ、間欠泉ハイキックでフィギュアを蹴り上げた。今度は二つ同時にだ。左側に、永鳥に向かって蹴り上げた。永鳥は目の前に飛んできたアスナのフィギュアを驚きながらもガッチリキャッチ。そして俺もジャンプしてレイカのフィギュアをもぎ取った。そのまま勢い余ってうつ伏せで足湯にダイブする。

「エミリとれなーい! これで全員『うすのろバカマヌ』! いよいよサドンデスの闘いとなった!」

「いいぞ星月! すげえ粘りだ!」

「盛り上げてくれるぜ! いいぞ! 名悪役!」

 歓声に答え手を振る。審判がさっき俺が水面に叩きつけたカードを確認する。

「アレっ⁉」

 審判が大きい声を出す。観客たちが静まり返る。

「どうした?」

「星月さん……これ揃ってません……!」

 三人全員が審判が持つカードを覗きこむ。観客席もザワつく。

「えっ? 揃ってるよね?」

 エミリが言った。

「あっ……!」

 永鳥が手札からアスナのイラストが描かれたハートの二のカードを取り出した。

――ハートの二が二枚⁉

「こっちの、星月さんの方。『二』じゃなくて『三』なんです」

 審判が俺のレイカのイラストが描かれたカードを指さす。お湯の中で散々いじくりまわされたそのカードの字は滲みきり、カードの端に書かれた『3』の字の下側は殆ど消えていた。そのため。『2』にしか見えない状態になっている。

「ということは……星月お手付き! お手付きだあ! この瞬間星月は『うすのろバカマヌケ』となり敗退! 優勝はエミリ桜庭に決定だあ!」

 観客席からは大歓声。しかし俺は即座に霊柩屋に詰め寄り胸倉を掴む。

「ふざけんじゃねえ! こんなにじむような紙のカードを使わせやがって! プラスチックのカードを用意しろ! それでもう一回だ! てめえらの落ち度だからな!」

 エミリと永鳥が止めに入る!

「健太郎! 落ち着いて!」

「落ち着いてられるか! 俺は負けてない! カードが悪い! やり直させろオラァ! 大体おめえ、こんなほとんどエバのイラストで、端っこにちょっと数字が書いてあるトランプなんて使わせるんじゃねえ! わかりずらいんじゃハゲ!」

 胸倉を掴んだまま霊柩屋を持ちあげる。すごい火事場の馬鹿力に自分で驚いた。

 往生際が悪い? ちょっとでもゴネる隙間があれば、粘り散らかして勝ちをモギ取りに行くのが博打打ちってモンだ。

「ゲホっ! 健ちゃん落ち着いて! いいじゃねーですか! エミリちゃんが勝ったんだから! どうせ一千万円はあんたらのものでしょ!」

 霊柩屋が叫んだ。――しばしの沈黙。

「あっ! そっか!」

 俺の叫びに、観客席からは大爆笑。そして拍手が送られた。

(……てゆうか。エミリが永鳥にアドバンテージ取った時点で、あとはずっとわざとお手付きしてりゃあいいだけだったのか! 俺たち、アホじゃねえか!)

 アタマを抱える俺に、永鳥が興奮した様子で歩み寄ってきた。

「ものすごく楽しかったです! カルタでもこんなに燃えたことはないです!」

 そして俺とエミリに両手を差し出して握手を求めてくる。

「お二人が正々堂々と戦ってくれたおかげです」

俺たちは手を握り返した。エミリも永鳥も無邪気な笑顔。

――まあいいか。こんなに熱くなれることなんて。人生で何回もあるもんじゃない。なんだか気が抜けた。俺はゆらりと後ろに倒れ、仰向けにぷかーっと浮かんだ。


「それじゃあ大会の成功を祝して! カンパイ!」

 庵田が乾杯の音頭を取る。光沢のある紫色の浴衣なんか着てチャラいことこの上ない。

場所は奴が経営する小田原の温泉旅館の大宴会場。運営スタッフだけでなく、どさくさに紛れて潜り込んだ温泉狂の連中もいるため、百人近い人間が参加している。

「ちっ、負けて笑ってられるんだからいい御身分だなあ」

 俺の対面には庵田、その左に霊柩屋、右には永鳥。

「ははは。その通り! いい御身分で悪いか!」

 右隣にはエミリがキラキラした赤い浴衣を着て座っている。賞金一千万円が入ったミニ金庫と、寄木細工麻雀牌を傍らに置いて。

「それにな、一概に負けとも言えないぜ」

 日本酒をかっこつけた仕草でグイっとあおりこむ。

「今回、温泉狂からみりゃ悪役の俺たちが負けて、仲間であるおまえらが勝って、めちゃくちゃ盛り上がっただろ? 顧客満足度バッチリ。こりゃあ次回も稼げるってわけだ」

「ちっ。敵わねえな。おめーにはよ」

「今回だけに限っても十分に黒字だしな。入場料と馬券でがっぽり儲けた」

「やっぱりアイディア料を取れば良かった。二〇〇〇万ぐらい」

「つーことはさ社長! 我々スタッフにも特別ボーナス的なエニーシングが出るんじゃねーですか?」

 霊柩屋。昔のプロレスラーのように声が枯れている。今日は本当に頑張ってたと思う。

「おう! 日当を一五八〇円にしておいてやるぜ!」

 ガクーっと肩を落とす。

「でも負けちゃって申し訳ありません」

 永鳥が庵田に頭を下げる。

「いいよいいよ全然。むしろよく頑張ってくれた。ボーナス包んでやるよ」

 ……なんとなく庵田の気持ち分かるんだよな。霊柩屋はなんかイジりたくなるオーラを出している。声優時代もイジられキャラで人気だったらしい。こんなこと言っておいて、あとでちゃっかり霊柩屋にもボーナスが支給されたんだってさ。三千円ぐらい。


 ゲイシャとか言うれんじゅうが水をまき散らかして踊り狂う。

なんかテンション上がっちゃったおっさんが裸になって踊り荒む。

 庵田が剣舞とか言って日本刀振り回して暴れ踊る。

 モノすげえ大騒ぎになってきた。酒は好きだが、シャカイジン経験がないため、こういう宴会みたいなのものは初めてだ。少々面食らう。

 ……エミリも一緒らしい。俺の浴衣の袖を掴んで出口に視線をやる。そういえばこいつ、さっきからずっと大人しい。居心地が悪かったのだろう。

 二人でミニ金庫を持って廊下に出た。

「いやあ。ついていけねえなあ。宴会って奴は。やっぱり就職とかしなくて良かった」

 エミリは俺の袖を掴んだまま。うつむいている。

「どうした?」

「あの……ね。大事な話があるの。どっか二人になれるところに……行きたいな」

「なんだ、それでさっきから静かだったのか?」

 コックリと首を縦に振った。


 家族風呂。個室に、三・四人は一緒に入れるくらいの大きさの風呂があり、カップルや家族で水いらずで楽しむことができる風呂だ。

今回は露店家族風呂。小石が敷き詰められ、松の木が植えられたミニ日本庭園のような空間。そこにシンプルな丸い木製の浴槽が置かれている。暗い夜空に優しい燈篭の光が良く映える。

湯船に浸かり浴槽の縁に頭を乗せる。やがて、バスタオルを巻いたエミリがそろーっと入ってきた。

「目ぇ瞑ってて!」

「そんなに恥ずかしがるくらいなら、こんなとこ誘わなきゃいいだろうに」

 仕方がないので目を瞑ってやる。

「だって……ここぐらいしかないんだもん」

「そういえば一番最初おまえのハダカ見たなぁ。凹凸はなかったけどおまえ肌が白くてキレイだからな。悪くはなかったよ」

「な、な、なに言ってんのバカ!」

ちゃぽんと音をさせて湯船に入ってきた。目を開く。かなり濃い色の黒湯であるため入ってしまえばバスタオルは無くてもハダカは見えない。少々残念だ。

「今日は疲れたな。体がだるい」

「健太郎、暴れすぎだよ」

「頑張ったんだよ」

「あんまりムチャしないでよね」

 エミリはアゴまでお湯に浸かっている。

――少し沈黙。コーンという音が響く。

「あれなに?」

「ししおどし」

「なにをする奴なの」

「よくわからん」

 両手を組み合わせて袋状にする。その中にお湯を入れ、隙間から水鉄砲のように噴射する。いわゆるツーハンド・ユブネ・ミズデッポウ。それをエミリの顔面に食らわせる。

「ウオオオ!」

 あまりのいい反応に吹き出してしまう。

「おまえ面白いな」

「なにすんの!」

「早く言えよ。大事な話」

 エミリは掌で顔をぬぐった。それから真顔になった。

「ねえ健太郎」

「なんだ」

「……やっぱいい。これ言ったら怒るもん」

「怒らないから言ってごらん」

「それ絶対怒るパターンじゃん」

 前髪をかき上げるエミリ。これも癖だな。色々な仕草の癖があることに最近気づいた。

「あの一千万円……どうする?」

 湯船の外。ミニ金庫を指さした。

一千万円を守るのに脱衣場のロッカーでは心もとないのでここまで持ってきている。

「なにって『レッド・オア・ブラック』でさつきと勝負……」

 エミリは黙って俯く。またコーンという音が響く。

「勝負したくなくなったのか?」

 ――長い沈黙のあと。ものすごく小さな声でうんと言った。

「もうずいぶん前のことみたいな気がするな。日本に来た時のこと」

 ぽつりと話し出す。

「あのときの私なら。負けることなんかひとつも怖くなかった。なにせヤケクソ不法入国のミナシゴだったから」

 エミリらしくない乾いた笑いを発しながら。虚空に水鉄砲を放った。

「でもね。今は違うの。失いたくないものが出来ちゃった。なんだと思う? わからないでしょう」

「……あんまりバカにすんな。いくらなんでもそこまでワカラズヤじゃあない」

 エミリは首を傾げて儚げに微笑んだ。

「あなたと過ごした時間は。刺激的でドキドキするだけじゃなくてね。なんでかな。楽しくて。心が安らいだの」

 俺の左手にしがみついた。

「ねえ。健太郎。一千万円の勝負なんてやめようよ。これだけ元手があればさ、箱根を出てちょっと田舎にいってさ、ほんのすこしずつ増やすくらいに麻雀なんかしてもいいし、二人でお菓子を作って過ごしてもいいじゃない」

 俺の腕に顔を擦り付けて涙を拭く。

「ねえ。私じゃやだ?」

 濡れた宝石みたいな瞳で俺を見る。

「いやじゃないよ。」

 頭にポンと手を置く。

「なあエミリ。おまえはさ。なんのために生きてる?」

「えっ⁉ そんな難しいこと急に……」

「俺の今日のはしゃぎぶり見てただろ?」

「楽しそうだったけど……」

「俺はあんな風にな、いつもなんかに夢中になって。いつも心を燃やして生きたい。そう思っている。そして産まれてきたからには。なにかを残したい」

 空を見上げる。今日は天気が悪い。星は見えない。

「それが。奴らのいない平和な日本なの……?」

「まあそういうとカッコイイけどな。結局はさ。もう弟みたいに会社のために死ぬ奴が出てくるのがいやなだけなんだ。例えば。おまえのアネキとかな」

「お姉ちゃんのことは心配だけど……でも健太郎のことが一番大事なんだもん」

「そうか。俺も――」

 ――あっ。

頭がクラっとしてくる。ちっ。こんなときに。大事な話をしているのに。

「健太郎?」

 一番大事なことを言おうとしたのに。

「け、健太郎ー!」

 口の中に鉄の味が広がる。あまり美味しいものではない。

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