終雪
1.
玄関の引き戸を開けながら、森屋要次は「ただいまっ」と叫んだ。「おかえりなさい」という母親の声が返ってくるよりも早く正面の階段を駆け上がり、すぐ右手の部屋に背負っていたランドセルと脱いだジャンパーを放り込む。すぐに身を返して今度は飛ぶように階段を下りると、要次は居間のテレビの前に陣取ってテレビとこたつの電源を入れた。
今日から、一昨年日曜日の朝に放送されていたアニメ番組の再放送が始まる。早起きが苦手なせいで見られないことが多かったが、要次はこのアニメが大好きだった。それがまた放送されると知ったのは今朝、テレビ欄を見ていた時。放送は夕方、学校から急いで帰ってきてぎりぎり間に合うくらいの時間だ。だから今日は、終礼の後、全速力で走って帰ってきた。
オープニングが流れ始める。間に合ってよかった、ほっと一息ついてこたつに足を突っ込む。こたつの上のかごに盛られたみかんを食べながら、モンスターを召喚して敵と戦うアクションアニメを楽しんだ。
三十分間十分に堪能し、見終わってからも何か面白い番組がないかとチャンネルを変えていた時だった。
「要次! いらっしゃい、要次!」
母親の声が飛んできた。怒っているのか、少し声がとがっている。何か怒られるようなことをしただろうか、帰ってきた時に玄関で靴を揃えなかったことだろうか。こたつから這い出て玄関に出ても、そこに母親はいない。どこから呼ばれているのだろう、台所だろうか。靴を土間の端に並べながら考えていると、「こっち!」と上から声が降ってきた。見上げると、階段を上ってすぐ右、要次の部屋から母親が顔を覗かせていた。
ランドセルを部屋に放り投げたことがよくなかったのだろうか。それとも、ジャンパーをハンガーに掛けなかったから? 考えを巡らせ首を傾げながら冷えた階段を上る。
「何ー? お母さん」
「何じゃありません、何なのこの部屋は!」
部屋に一歩踏み込んで、ようやく母親の言葉の意味を知った。
「えっ」
部屋には、おもちゃや漫画が床を覆い尽くすくらいに散乱していたのだ。
確かに朝家を出る前は――いや、ついさっきランドセルを部屋に投げ込んだ時は、部屋の様子はこんなではなかった。漫画は本棚に入っていたし、おもちゃは部屋の壁際のおもちゃ箱に入れてあったはずだ。
「何だこりゃ」
「あんたでしょうよ、全部あんたのなんだから」
「僕じゃないよ!」
「要次以外に誰がこんなことするんですか」
「でも僕じゃないんだ」
「嘘はいけません」
腕を組んで見下ろしてくる母親はテレビで見た仁王像そっくりである。
嘘じゃないのにとは思っても、これ以上反論しても無駄だということは、要次にも何となく分かっていた。形式だけでもとりあえず謝る。ごめんなさい。片付けます。何度も頭を下げると仁王様も少しは落ち着いたようで、「しょうがないね」という台詞を勝ち取った。
「晩ご飯までに片付けておきなさいね」
「これを!? そんな無茶な……」
床が見えないのである。畳も絨毯も見ることが出来ないのである。これを夕食までに、つまりあと二時間程度で片付けろなど無理だろう。しかし母親は容赦ない。
「お片付けが出来ない子には誕生日プレゼントはありませんからね」
それだけ言うと、母親は階段を下りていった。台所へ向かう母親を見送ってから部屋のドアを閉め、要次は部屋の真ん中で大きな溜め息をついた。
とりあえず謝りはしたが、部屋を散らかした犯人が要次でないのはまぎれもない事実であった。学校から帰ってきてから、ずっと居間でテレビを見ていたのである。他の家族はというと、父親はまだ仕事、兄の創太はまだ学校、祖母は自室で編み物中だろう。怒った本人、母親ももちろん犯人ではない。となると。
要次は足元でひっくり返っているおもちゃ箱を持ち上げた。
「お前だろ、これ!」
箱の中から姿を現した少年は、反省の色を見せることなく、ただ機嫌悪そうに口をとがらせていた。
「だったら何じゃ」
「また僕が怒られたじゃないか! プレゼントがなくなったらどうしてくれるんだ!」
「お主のぷれぜんとなど儂には関係ないわ」
ふい、と顔をそむけると、おもちゃ箱を蹴って跳び上がる。ふわりと浮き、空中に留まり、思いっきり舌を出した。
「ちょ、ちょっと! 幸虎!」
「要次が悪いのじゃ、帰ってきたと思ったらあっという間にいなくなりおって」
「はぁ?」
要するに、気の短いこの少年は、ただ要次に構ってもらえなかったことに腹を立てているようだった。
幸虎は人間ではない、この森屋の家に昔からいる妖怪、座敷童子である。見た目は要次と同じくらいの子供だが、その出で立ちは着物姿におかっぱ頭と少々古めかしい。妖怪だからといって悪さをする訳でもなく(今日のように部屋を散らかすなど無駄に迷惑をかけてくれることはあるけれど)、この家の隅で、この家に住む人間をただ何百年も見続けているだけの存在だった。
幸虎の存在を知っているのも幸虎を見ることが出来るのも要次だけである。家に遊びに来た友だちから幸虎について尋ねられたことはない。以前家族に幸虎のことを話した時なんかは、やれ憑き物だやれ病だと異常なまでに心配されてしまった。それ以来家族の前でこのことは話さないことにしていた。
「儂だってわらべなのじゃ、遊びたいと思うのも当然じゃろう?」
「スーパーじじいのくせに何が子供だよ」
「儂は永遠にわらべじゃからのう」
「……はいはい。ほら、手動かしてよ」
とにかく片付けをしなければならない要次は、とにかく遊びたい幸虎に、遊んであげる為の交換条件として片付けの手伝いを提案した。部屋の片付けが終わったら遊んであげるから、というか片付けないと遊ぶスペースもない。そう説明すると、しぶしぶとではあるが納得したようで、アクションフィギュアをおもちゃ箱に入れ始めた。
空っぽになってしまった本棚に漫画を巻数順に並べながら、要次は「そういえば」と幸虎を振り返った。
「何して遊びたいの?」
尋ねたが幸虎は「うーむ」と首をひねるばかりで、どうやら具体案は持ち合わせていないようだった。学校にいたら友だち少ないタイプだろうなあと思ったが当然幸虎本人には言えず、本棚に漫画を詰める作業に戻る。尚も幸虎は首をひねりその状態で要次の手元を見つめていたが、急に「それじゃ!」と声を上げた。
「そうじゃそれじゃ、画を描こうかの」
「また唐突な提案だね」
「要次、筆を用意せい」
「筆ぇ?」
漫画を指差して言う幸虎と、今手にしている漫画の表紙を見比べる。こういった漫画のような絵を描くのに、おそらく筆など使われていない。幸虎は床の間に飾った掛け軸のような水墨画を想像しているのだろう。唐突な提案というか、突飛な発想だと要次は思った。もちろん口にはしないけれど。
絵を描くのであれば、なおさら床のスペースあけないと、このままでは画用紙すら広げられない。片付けの手を速めながら、今日は学校に置きっぱなしだった絵筆や絵の具のセットを持ち帰ってきたことを思い出す。
「……あっ」
今度は要次が急に声を上げる番だった。
「そうだ! 絵描かなきゃ!」
「うん? だからこれから描くのじゃろう?」
「そう、明日までに!」
ランドセルを学習机の上に、ジャンパーをハンガーに掛けてたんすに。それ以外にも、濡れたり汚れたりしては困るものをとりあえず机に積み、残りのものはブルドーザーよろしく壁際に寄せて部屋の真ん中にスペースを作る。おもちゃに埋もれていたファンヒーターだけは救出して、ようやく顔を覗かせた床に置いて電源を入れた。
「写生会の絵、明日までに先生に出さなきゃいけないんだ。でも僕まだ全然描けてない」
「写生? お主、先月から写生がどうのこうのと言っておらんかったか?」
「そうそれ、うわあ早くやらなきゃ!」
「ひと月もあって、これまで何をしていたのじゃお主は……」
呆れ顔の幸虎をよそに、要次はランドセルの蓋と本体の間に挟んで持って帰ってきたスケッチブックを引っ張り出す。蓋を開け、ペンケースと絵の具セットも出す。それら全部を床に並べる。
絵の具セットの中から洗筆用のバケツを出すと、要次は階段を駆け下りた。まっすぐ台所に向かい、バケツに水を入れる。いっぱいに水を汲んでいる途中に母親から「片付けは終わったの?」と訊かれたが正直それどころではない。セーターの袖に水がかかったが気にしてもいられない。「お兄ちゃんはもっとしっかりしてるのに」という母親の小言を聞き流し、「僕だって忙しいんだよ!」と適当に返して部屋に戻った。
スケッチブックを開き、白いページを一枚ちぎって幸虎に渡す。自分の描きかけのページを開いて畳に広げた。
現在、提出しなければならない絵は、紙の中心を縦方向に茶色で塗り潰し、余白上半分を水色に、下半分を黄緑色に塗っただけの状態である。これだけではいけないことは要次自身とてもよく分かっている。が、だからといってどうしていいかも分からない。ヒーターの前で濡れた袖を乾かしながらどうしようかとあれこれ考えを巡らせていたが、それは幸虎の台詞に遮られた。
「……要次は本当に絵が下手じゃのう……」
いくらそれが事実であったとしても、それを指摘されてむっとしない人はほとんどいないだろう。
「絵が下手で何がいけないのさ」
「いいも悪いも」
「画家や漫画家になる訳じゃないんだから、絵が下手でも生きるのには困らないもん」
「しかし何を描いたのかさっぱり分からぬのでは……」
「だーかーらー、これから描き加えて分かるようにするんだよ」
とは言え、やっぱり何も思い付かないのは事実。一方幸虎はというと、腕を組んで考え込んでいる要次を横目に、パレットに絵の具を絞り出していく。
「こんなに色が豊富とは、墨も進化したのう」
茶色の絵の具を水で伸ばし、紙に筆を置く。筆を何度か滑らせただけで、あっという間に木が完成した。悔しいけれど、速いし、上手い。悔しいけれど、あれこれ悩んでいる時間なんて、要次にはなかった。
「お願いがあります、幸虎先生」
「何じゃ気持ちの悪い」
「僕に絵のアドバイスをください」
要次が頭を下げると、幸虎は面白そうに、にやにやと笑みを浮かべた。
茶色で塗り潰したのは木の幹、水色は空、黄緑色は地面に生えた草。学校からすぐ近くの河原に生えている木を描いたのだと言うと、幸虎は何とも言えない苦い顔をした。光や影を描き込んだらどうだと言われても、要次には影の描き方が分からない。そう伝えると、太陽はどこにあるつもりかとかこの木の枝はどう生えているのかとか細かいことを聞いてきた。
結論だけ言うと、幸虎のアドバイスは的確だった。指示通りに絵の具をぼかし、濃い茶色で線を引くと、最初に比べてずっと立体的に見えるようになった。これならば誰が見ても木だと思うに違いない。言われた通りに筆を動かしていくと、木だけではなく、空は空らしく、草は草らしく見えるようになってきた。
「すごいや、幸虎! こんなにあっという間にそれっぽくなるなんて!」
「当たり前じゃ、芸事は兄弟の中でも一番に上手じゃったからのう」
自慢が鼻をつくが、これだけ能力があるのは事実なのだから文句も言えなかった。
絵が乾くのを待ちながら片付けを再開したが、そう進まない内に創太が呼びに来た。まだ学生服姿だったから、帰ってきたばかりなのだろう。
「晩飯だぞー……って、派手に散らかしたなあ」
「僕じゃないよ」
「まさか『おばけのしわざだ~』なんて言うんじゃないだろうな」
声色を変えた兄の台詞にどきっとして振り返ると、満面の笑みの幸虎がランドセルの上で飛び跳ねていた。思わず睨みつける。そんな要次の顔を見た創太から「どうしたんだ?」と尋ねられ、慌てて笑顔を取り繕った。
要次の部屋に残った幸虎は、居間に下りていく兄弟の背中に、一抹の喜びと、そして寂しさを覚えていた。
今日は珍しく父親の帰りが早かった。家族揃ってこたつを囲み、夕食を食べる。創太が近い内に受ける検定の話や部活で頑張っている話を聞きつつテレビをつけると、ニュースキャスターが例年より早い可能性のある初雪の話をしていた。実際山の方ではもう雪が降り始めているらしい。
「いつもなら、雪が降るのは要次の誕生日の後なのにねえ」
祖母がぽつりと呟き、母親が「そうですねえ」と相槌を打つ。
「あ、誕生日といえば。要次、片付けは済んだの?」
「まだ。宿題してた。ご飯食べたらやるよ」
「あらそう、なら早く片付けちゃいなさいね。でないと本当に誕生日プレゼントなしにするから」
何度も言うということは、母親は本気でプレゼントをくれないつもりらしい。父親も「なら要次の分のプレゼントはお父さんがもらっちゃうぞ」と悪乗りを始めた。そんなことになっては困る。本当はこのあとのクイズ番組を楽しみにしていたが、幸虎を手伝わせて今日中に部屋を何とかしよう。要次はそう心に決めた。
2.
翌日、片付けのせいで寝不足気味ではあったが、宿題であった絵は無事に提出することが出来た。写生会も終わったことだし次からの図工の時間は何をするのだろう、と要次は密かに楽しみにしていた。図画は苦手だが工作なら大好きだ、木工だといいなあと期待していたのである。
しかし実際は『自分史を作る』らしい。成人である二十歳の半分、十年間を生きた記念に、年明けに二分の一成人式をするのだそうだ。それに向けてこれまでの十年間を振り返り、自分の歴史をアルバムの形にまとめるのだという。
自分史作りの最初の課題として、自分が生まれた時のこと、名前の由来などを調べてこいと担任から言い渡され、調査事項の記入欄が設けられたプリントが配られた。来週、本格的に自分史作りの作業に取り掛かるまでに全ての欄を埋めなければならないのだ。
「はあ……」
帰宅して早々プリントと鉛筆を手に学習机に向かったが何となく気が重くて、要次は大きな溜め息をついた。
「どうした要次、名前の由来などお前の親に聞けばすぐ分かるじゃろうに、何を面倒くさがっておる?」
「面倒って訳じゃないんだけど」漢和辞典を引きながら、「自分の名前、あんまり好きじゃないから……」
次。つぎ。二番目という意味。両親に聞かなくたって想像出来る、次男だからという理由だけで次という字が名前に使われているのだ。二番目だなんて名前を付けられていい気はしない。二の次だと言われているように思えて、だから要次は自分の名前を好きになれずにいた。
「お兄ちゃんの名前の方が格好いいもん」
「創太、な……」
創。つくる。ないものをゼロからつくりだすという意味。
「確かに創太は聡い子じゃのう」
創造力、想像力、身内の贔屓目に見ても、創太はどちらも持ち合わせていた。新しい遊びを考えるのはだいたい創太の役目で、その発想のせいで母親から怒られることもあったが、いつも面白いことを考えてくれる兄を要次はとても慕っていた。
まだ創太が中学校に上がる前、一緒に風呂に入っていた時のこと。創太は突然「泡ってどうしたらいっぱい出来るんだろうな」と言い出した。確かに、外から帰ってきて水道水で手を洗う時と風呂で体を洗う時とでは石鹸の泡立ち方が違うような気がする。それならいろいろ試してみようじゃないか。その週末、両親が出掛けていない間を狙って、風呂場に思い付く限りの洗剤や石鹸を集めた。片っ端から泡立ててみた。要次と、創太と、幸虎と、三人で。
――そう、昔は創太にも幸虎の姿が見えていた。
だというのに、いつの間にか創太は幸虎のことを口にしなくなった。要次の隣にいる幸虎をちらりともせず、遊びに誘うのは要次のみになった。どうしたのお兄ちゃん、幸虎のこと忘れちゃったの? あまりのことに理解が追いつかず兄を問い質そうとしたが、きっと尋ねても意味がないことだと幸虎から止められ、以来このことはうやむやのままとなっていた。
「何でお兄ちゃん、幸虎のこと忘れちゃったのかな……」
「まだそんなことを気にしておるのか」
「だって」
「お主にだっていずれ分かる。仕方のないことなのじゃ」
そんなことより、と幸虎は要次の握り締めているプリントを指差す。
「お主が今気にしなければならぬのはその宿題じゃろうに」
「あー、はあ……」
再び大きな溜め息、振り出しに戻ってしまった。やれやれ。溜め息は幸虎にまで伝染した。
「要次、『次』ばかりが気になっておるようじゃが、『要』の字を見落とすでない」
そう言っても要次は幸虎の方を見ようとしない。机に向かって頭を抱えている。むっとして飛び上がり、その頭を軽く蹴った。「何だよ!」と要次が顔を上げた隙をついて彼の抱え込んでいた漢和辞典をめくり、『要』のページを開いた。
「よく見よ。必要の要、重要の要、中心であり不可欠であるという意味じゃろうが」
「そうかもしれないけど、でもそれは、僕じゃない……そういうのはお兄ちゃんの方が合ってるんだよ」
尚も反論する。要次は随分とへそを曲げているようだった。
――無理もない、か。
要次は、純粋に創太のことを尊敬していた。運動が出来る兄。努力が出来る兄。そして、弟の自分をいつも導いてくれ、よく理解してくれる兄が大好きだった。
しかし同時に、要次は創太に嫉妬していた。創太は昔から運動が得意で、話を聞く限り、今も野球部で大層活躍しているらしい。勉学に関しては、創太が今の要次と同じ歳だった頃の成績と比べると若干要次の方が上ではあるが、最近進学を見据えた創太はこちらも精を出し始めた。もともと発想が豊かで考えるのが好きな創太のこと、成績はすぐに伸びるだろう。そんな創太を両親は誇りに思っているし、褒める機会も多い。要次からすれば、創太ばかりが可愛がられているように感じるのだろう。
それから――これは幸虎の憶測であるが――突然幸虎のことを認識しなくなった創太に対して、少なからず不信感を抱いているようだった。要次の目には、それまで親しくしてきた幸虎を、急に手の平を返したかのように無視し始めたと映っているのである。
つまり要次は、『慕っている兄に対して嫉妬し、不信感を抱く自分自身』にへそを曲げているのだ。
「儂はのう、要次」
幸虎のあやすような声は、子供のような見目に似合わず柔らかかった。
「ずっと前から……お主の生まれる何百年も前から、ずっとこの森屋の家におる」
「前にも聞いたよそんな話」
「じゃから、お主が生まれた時のこともよく覚えておる」
遠方からも親戚が駆けつけ、家族だけでなく親戚一同で要次の誕生を盛大に祝った。名前はもう決まっているのかと尋ねられた要次の父親は、もう決まっているとはっきり答えた。この子が生まれたから皆さんが集まってお祝いしてくださいました、お母さんと創太と自分と、それから親戚全員を繋ぐ要、要次です――と。
「疑うようならお前のばあさんにでも聞くがよい、全く同じことを語ってくれるぞ」
儂のことを疑うなんてそれはそれで論外じゃが、という幸虎の台詞を聞く前に、要次はプリントと鉛筆を握って部屋を飛び出していった。小さい声で「ありがとう」と言い残して。
そんな要次を、幸虎は「まだまだ子供じゃのう」と笑った。こんな些細なことを大事のように扱い頭を悩ませるなど、子供である証のようなものだ。
「まだまだ子供だと思っておったが……」
机の上のカレンダーに目をやった。来週の真ん中には赤い丸がつけられている。
しばらくして戻ってきた宿題のプリントの空欄はほとんどが埋められていた。
「宿題は終わったのか?」
「うーんもうちょっと」
ちらりと覗けば、『お父さんから一言』の欄が空いている。『家族から一言(おじいさんやおばあさん、兄弟など)』の欄には祖母からの言葉が書いてあるが、『兄・創太』と付け加えられている。確かにこの二人からの言葉は、二人が帰ってきてからでないともらえない。しかしこれで終わったようなものだろう。
「今回の宿題はすぐに終わったな」
「うん、助かったよ幸虎」
「何、礼には及ばぬ」
要次は再び机に向かうと、『名前の由来』の欄に「命名はお父さん」と書き加えた。鉛筆を投げ出して、自分の身は床に投げ出す。
「本気出したらすぐ終わったよ、僕って意外とデキる子かも」
「さっきまででもでもだってと愚図愚図言っておった奴が何をぬかす」
「それを言わないでよ~」
お互い顔を見合わせ、どちらからともなく吹き出した。
身体を起こした要次が「オセロでもやろう」と言い出した。オセロ、と言われてぴんとこなかった幸虎だが、盤と白黒の石を見て「ああ」と声を上げる。
「覚えてる? 前にお兄ちゃんから教えてもらってたよね?」
「ああ覚えておる、儂は強いぞ」
「じゃあ幸虎白ね」
盤の中心に白と黒の石を市松模様に並べ、要次が最初の一手を打った。
幸虎の強さは自称でなく本物だった。気付いたら四隅を取られており、盤上の四辺を白に染められていた。まだまだ石は残っているが最後まで打たなくても分かる、もう勝ち目がない。勝負はついた。降参降参と残りの石を投げ出して、要次は「そういえばさあ」と話を強引に変えた。
「ねえ、幸虎も座敷童子になる前は人間だったんでしょ?」
「気持ちのよい遊びじゃな、もう一度やるぞ」
「名前、かっこいいよね。誰につけてもらったの?」
「話を聞け要次、また黒をお主に譲ってやるから」
だって幸虎強過ぎるんだもん、とぶつくさ言う要次を無視して幸虎は次のゲームの準備を始める。初めの石を四つ並べ、要次に先手を打つよう促した。
「儂は……」
「うん?」
「儂は、自分の名の由来なぞ知らんがの」
まだ人間だった頃の幸虎は、身体が強い方ではなかった。他の兄弟たちと身体を動かして遊ぶことはほとんどなく、山を駆け回るよりも家の中で出来る遊びを、姉や妹、時には母親とすることが多かった。そんな様子を見た親戚や近所に住む人からは、「幸虎は本当にお母さんに似ているねえ」と言われていた。母親の名はおユキといった。
「儂の母親はその名の通り、雪が好きじゃった……ほれ、お主の番じゃ」
言いながら盤にぱちんと白石を置き、黒石をひっくり返す。幸虎の指す盤上を見れば、またしても既に勝負は決していた。黒石の多くが白石に囲まれてしまっていた。もちろん要次の負けである。
「えええええまた僕の負け? ちょっとは手加減しなよ! じじいなんだから!」
「儂は永遠にわらべじゃと言っておろうに」
「あーもう! あー腹立つ!」
それなら意地でも負かしてやる! と次の勝負を始めようとする要次の悔しがり方は、幸虎の弟のそれにそっくりであった。
3.
けたたましく鳴る目覚まし時計のベルに目を覚ました要次は時計に手を伸ばした。音を止め、時計の冷たさにはっとする。布団の中に戻した腕は、そのわずかな間に冷えてしまっていた。吐き出す自分の息も白い。今朝は昨日まで以上に冷え込んでいるようだった。
寒いのを堪えて布団から出、着替える。脱いだばかりのパジャマを左手に、ランドセルのベルトを右手に掴み部屋を出ようとして、そういえば今日の幸虎は静かだと思った。いつもは朝になると目覚まし時計よりも早く要次を起こして話しかけてくる幸虎が、今日は姿すら見せない。
「何してるんだろう、幸虎のやつ……」
しかし幸虎を探している時間はない。もたもたしている場合でもない。階段を下り風呂場脇の洗濯かごにパジャマを入れ、居間のふすまを引いた。
「おはよう!」
「おはよう要次、誕生日おめでとう」
「おめでとう、要次」
引くと同時に、先に居間に下りていた父親と創太から、そう声を掛けられた。自然と緩む頬を意識して引き締める。が、台所から朝食を運んできた母親からも「お誕生日おめでとう」と言われてまた頬が緩んだ。
「うん、ありがとう!」
母に続いて入ってきた祖母は紙袋を抱えていた。要次の隣に膝をつくと、袋の中身を取り出す。そしてそれを要次の首に掛けた。
要次の好きな水色と黄緑色の、縞模様のマフラーだった。
「おめでとう要次。このマフラーは、おばあちゃんからのプレゼント」
編み物は祖母の趣味であったから、しばらく前から何か編み始めていたのは知っていたが、特に何だろうとは思わなかった。それが自分へのプレゼントだったなんて、思わなかった。
「おばあちゃんありがとう!」
「いいえ、どういたしまして」
「これ今日から学校にしてってもいい?」
「ええ、もちろん」
せっかく巻いてもらったが、一度外して、居間の奥にある仏壇の前に正座した。マッチを擦り、ろうそくに火を灯してその火を線香に移す。手を合わせて目を瞑り、今日で十歳になりました、と心の中で呟く。仏壇に供えられたカメラに落としてしまった線香の灰をろうそくの火と一緒に吹き払い、それから家族でこたつを囲んだ。
いつもと変わらない朝食、でも特別な朝。
今日で大人への道への折り返し地点に到達した。要次本人は別に何もしていないのに、偉業を達成した気分である。何だか気分がよくなって、梅干と漬けてあった紫蘇も一緒にご飯の上に乗せた。これまで意識して食べたことはなかったが、これが大人の味なのだと意味もなく納得した。そんな気持ちが表に出ていたのか、創太から「今日は随分と偉そうだな」と指摘されてしまった。驚いて、箸でつまんでいた紫蘇を落とした。
「そうだお母さん、今度図工で小さい頃の写真が必要なんだけど」
「要次の?」
「うん。だからアルバムとか出しといて」
「はい分かりました」
味噌汁に卵焼き、次々と胃に収めて兄共々立ち上がる。洗面所で身支度を整え、きっちりと上着を着込んでマフラーを巻いた。出掛ける時間である。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
玄関で兄と並んで、冷たくなっている靴を履く。両親、祖母から見送られ、二人は家を出た。
引き戸の脇に置いてあった水の入ったバケツには氷が張られていた。起きた時に感じたように、やはり昨夜はかなり冷え込んだらしい。氷から半分だけ突き出している枯葉をつまんで持ち上げると、厚い氷が顔を覗かせた。
「おー結構重い」
「夜寒かったからなあ。やっぱり今年の初雪は早そうだな」
「もう雪が降るのかー」
道端に氷を放り投げる。バケツ型の氷は、氷のくせに重い音を立てながらアスファルトの上を転がって、側溝に落ちた。新品のマフラーが大きくなびく。要次は冷たい空気に首をすくめた。
今日の空は、要次の誕生日だというのに、厚い雲に覆われていた。
家に帰ると、こたつの上にアルバムが何冊も用意されていた。祖母と母親が家中からアルバムを引っ張り出してきてくれたらしい。一番新しいのは二カ月前に開催された小学校の運動会の写真、一番古いのはもちろん生まれたばかりの時の写真である。小学校に上がってからは運動会や家族旅行といったイベントの写真が多いが、幼稚園までのものはただ食事をしていたり本を読んでいたり遊んでいたりと家の中で撮った写真ばかりだ。
「これは死んだおじいちゃんが撮ったものだよ」
そう言いながら祖母が指差したのは、要次が初めて伝い歩きをした時の写真だった。
要次が生まれて間もない頃、祖父は物忘れが多くなり始めた。痴呆の初期症状だった。人と話したこと、約束したことはメモすればいい。しかし可愛い孫たちの表情は、メモするだけでは足りない。そう思った祖父は、物置から古いカメラを出してきた。忘れないように、ずっと残せるように、祖父は毎日のように写真を撮るようになったのだ――そう祖母が説明してくれた。その祖父も、要次の小学校入学を見届けてから亡くなった。だから小学校入学前までの写真は家で撮ったものばかりなのである。
「それから、これを撮ったのもおじいちゃんだったね」
アルバムのページをめくりながら祖母が懐かしそうに見つめたのは、泡だらけの風呂で創太と要次が泣いている写真。思い付く限りの泡立つものを風呂場で全部泡立ててやった、あの時の写真である。あのあと風呂掃除もせず何もかも放り出したままにしていたら、これを見つけた母親にこっ酷く怒られたのだった。
「うええ、こんな写真もあるの?」
「おじいちゃんは撮った写真をあまり見せない人だったからね」
「おばあちゃんにも?」
「いいえ、アルバムに貼ったのは全部おばあちゃんですから」
おじいちゃん製(正確にはおばあちゃん製)のアルバムは、こんなところまで撮られていたのかという驚きと、こんなこともあったなあという懐かしさでいっぱいだった。遊んでいる写真は、ほとんどが創太と要次のツーショットのようで、実は幸虎も合わせてスリーショットであるものばかりだった。
「どう? よさそうな写真はある?」
台所から急須とみかんを持ってきた母親がアルバムを覗き込んできた。
「今選んでるとこだよ」
「何に使うの?」
「〇歳から十歳までの写真をアルバムに貼って、一年ずつ自分がどう成長してきたのかまとめるんだって」
「へえ、結構楽しそうねえ」
「でもあんまり小さい時のこと覚えてないから、難しいよ」
母の淹れてくれたお茶をすすりながら最近のアルバムをめくる。九歳十歳のアルバムならすぐに書けるだろう。せっかく書くなら、先生から誰よりも褒められたようなことがいい。
……そうだ、まさに今日褒められた。
「この前の写生会の絵ね、よく描けたねって先生から褒められたよ」
「本当? いつも絵の評価は『もっとがんばりましょう』の要次が?」
「嘘じゃないってば!」
「冗談よ、よかったじゃないの!」
テレビの前で投げ出したままのランドセルから、返されたスケッチブックを引き抜く。該当の絵を千切って見せると、母親も祖母も嬉しそうだった。要次も嬉しかった。
その日の晩、いつの間に話を聞きつけたのか、父親は額縁を買って帰ってきた。
「要次、絵で褒められたんだって? よかったなあ!」
父親は要次の頭をくしゃくしゃに撫で回して、買ってきた額縁に要次の絵を入れた。額縁付属のイーゼルを組み立て、床の間の掛け軸の前に飾った。
「おー要次の絵が有名絵画みたいだ」
「褒め過ぎだよーお父さん」
「いやあ、要次が絵で褒められるなんて珍しいからねえ」
「失礼な!」
創太も部活から帰ってきたところで夕食の時間となった。祖母と母親が腕を振るったご馳走と、父親が買ってきてくれたバースデーケーキがこたつの上に窮屈に並ぶ。唐揚げ、グラタン、ローストビーフにポテトサラダ、要次の好きなものばかりだ。ホールケーキは雪のように真っ白で、縁には艶のある真っ赤な苺が、真ん中には『ようじくん おたんじょうび おめでとう』とデコレーションされたチョコレートが飾られている。
ケーキにろうそくを十本立て、父親が全てに火を点けた。それを確認してから兄が部屋の電気を消した。
「要次、誕生日おめでとう」
「うん、ありがとう!」
全てのろうそくを一息で吹き消す。一瞬の真っ暗闇。そんな中では見えるはずのない幸虎の姿が目の端にちらりと映った。
「あれ?」
確認しようと顔を向けたがすぐに電気がつき、そこにいたのは創太だった。兄は何事もなかったかのように明かりをつけると自分の茶碗の前に座った。
「どうした? 要次」
「えっ……ううん、何でもないよ! いただきます!」
そんなに気にすることでもないだろう。自分を納得させ、両手を合わせる。とりあえず今は、目の前のご馳走に箸を伸ばすのが先だ。そう判断した結果であった。
夕食を食べ終え毎週見ているクイズ番組を見ていると、母親がバースデーケーキを切り分けてくれた。
「僕大きいのがいい!」
「あれだけ唐揚げ食べておいてまだ食べるの?」
「デザートは別腹ってお母さんいつも言ってるじゃん」
「そうだけど……でも大きさは全部一緒よ」
「何だあ」
八等分されたケーキにチョコレートを飾り直して皿に取り分け、冷蔵庫からオレンジジュースのペットボトルを出して居間に戻る。ちょっと冷蔵庫を開けただけなのにすごく足が冷たくなった。こたつに入って暖を取り、兄とテレビを見ながらケーキを食べた。
「それにしても寒いなあ」
兄は肩をさすりながら立ち上がった。居間を出、玄関の方に向かったようだが、すぐにばたばたと戻ってきた。
「要次! 雪降ってるぞ、雪!」
「えっ本当?」
言われて要次も立ち上がる。兄を追って玄関を出る。
地面の表面が、うっすら白くなり始めていた。
要次の、創太の口から吐き出される息も真っ白で、しかしすぐに消えていく。空からは氷の粒が落ちてくる。
要次は家の中に戻ると、居間ではなく自分の部屋に駆け込んだ。とにかく幸虎と話がしたかった。
雪が降ったよ、今年の初雪はいつもより早いよ。そう伝えたかった。
それだけではない。
朝からずっと姿を見せなかったくせにさっきちらりとだけ姿を現したのは何だったのか尋ねたいのに。それから、絵のお礼をしたいのに。
そんな思いを知ってか知らずか、その日、森屋家の座敷童子が要次の前に姿を現すことはなかった。
4.
初雪は積もることなく、朝には綺麗に消えてなくなっていた。
しかし冷え込みは相変わらずで、要次はシャツやらフリースやらを着込んで居間に下りた。いつものように仏壇に手を合わせて、それからいつもとは違い、祖父のカメラにフイルムを入れて床の間の自分の絵を写真に収めた。
絵を描いて、立体的ですね、という評価をもらったのは初めてだった。両親からもその点についてとても褒めてもらった。褒めてもらったそのポイントは、誰かにアドバイスをもらって描いたような気がするのだが、誰に言われたのだろう? 首をひねっても思い出すことはなく、まあいいや仕方ない、と結論づける。
カメラを仏壇に戻し、こたつに並べられた自分の茶碗の前に座って手を合わせる。
「いただきます」
いつも通りのはずの、これまでとは少し違う一日が、始まろうとしていた。
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