喉元過ぎれば冷たさを忘れる
パパの運転する車はスピードを落とすことなく、高速道路を走り続けていた。道路の両脇に並ぶ木は眩しすぎるくらいの太陽の光を受けて、いつか焦げてしまいそう。それに対してボクは車の屋根とエアコンの風で守られているけれど、確実に健康に害が及んでいるように思う。確かに、途中何度かサービスエリアで休憩はした。それでも何時間も座りっぱなしというのは身体に悪い――特にお尻に。
「ねえ、まだー?」
後部座席に転がっていたボクは、運転席と助手席の間に身を乗り出した。
「まだ着かないの?」
「あんた、五分前にも同じこと聞いてきたじゃない」
答えるママの目は手元の地図帳に向けられていて、ボクのことなんか少しも見ようとしない。むっとしてボクは頬を膨らませた。
「だってー……今どの辺?」
「地名答えたところで分かんないでしょ」
「そうだけど」
「疲れたんでしょうけど、我慢しなさい、一番大変なのはずっと運転してるパパなんだから」
そう言われて運転席を見上げる。ハンドルを握るパパは黙って前を見ていたけれど、近づいてくる緑色の看板の案内標識を確認して、それからミラー越しにボクの方を向いた。
「もうすぐ高速降りるよ、そしたらすぐおじいちゃん家だ」
にこりと笑ったパパはまた視線を前に戻すと、ウインカーをちかちかさせて左に車線変更した。車のラジオは小さな声で『明日の終戦記念の式典では――』と言っていたけれど、それよりも蝉の叫び声の方が、ボクには大きく響いた。
八月の真ん中、夏の盛り。お盆を前にして、ボクたち一家はおじいちゃん家――パパの生まれた森屋の家に向かっていた。おじいちゃん家は文加市という、北の山の谷間の小さな市にある。簡単に言えば、いわゆる田舎。普段都会に住んでいるボクにとって、おじいちゃん家の周りにあるのは珍しいものばかりだった。毎年二回、お盆とお正月には必ず帰省しているのだけれど、大合唱する蛙やそこら中に広がる田んぼは、何度見ても驚かされる。その他にも、新しい発見はボクの冒険心をくすぐるものばかり。ボク自身もおじいちゃん家に行くのを毎回楽しみにしているのだけれど、行きと帰りの〝七時間座りっぱなし修行〟だけは、何度やっても慣れなかった。
パパの車は高速道路を降りて、今度は田んぼの間の細い道を走り始めた。走っても走っても田んぼばかり。それ以外には農作業用の車が道端に止まっているくらいで何もない。何もボクの視界を遮らない。ここなら、例え都会のビルの中では埋もれてしまいそうな小屋でも、雑踏に紛れてしまいそうな子どもでも、遠くから見つけることができる。
だからボクはこの広い田んぼの中で、二階建ての家をすぐに見つけることができた。車の右側の窓から見えるその家には広い庭も小さな畑もあって、家の敷地の周りは松の木が囲んでいる。周りの田んぼが広すぎるから小さい家に見えるけど、ボクが住んでいるマンションの部屋の何倍も大きくて、そしてすごく古い家だ。
「もう着くぞ」
パパがハンドルを右に切った。二階建ての家が真正面に見えるようになった。あれが、おじいちゃん家だ。
家の前の広い駐車スペースには白い軽トラックが止まっていた。パパはいつもと同じようにその隣に車を止めようとして、ブレーキを踏んだ。窓を開けると外の熱気が車の中に入り込んできたけれどそれに負けずに外を見てみる。トラックの横では、色違いの服を着た双子がビニールプールを広げていた。
ボクたちに気付いたのか、双子がこちらに向かって手を振った。
「翔ちゃん来た!」
「早かったね!」
双子のお兄さん、赤いタンクトップ、隆広。それから双子の弟、青いタンクトップ、靖広。二人はボクのパパのお兄さんの子ども、つまりボクから見ればいとこにあたる。双子たち一家はおじいちゃん、おばあちゃんとこの家に一緒に住んでいて、ボクと双子は年に二回にしか会えないけれどすごく仲がいい。だってボクたちは同い年、同じ小学校四年生なんだ。
ボクは車を飛び降りた。涼しいところから急に三十度を超える車の外に出たせいで、あっという間に汗だくになる。でもそんなことは気にしない。修行のせいで固まった身体を大きく伸ばして、ボクは二人に駆け寄った。
「プールやるの?」
「暑いからね」
「水浴びするんだ」
「わあ! いいね!」
これだけ外は暑いんだから、プールと聞いて手伝わないわけにはいかない。ボクもビニールプールの端を掴んで、「こらっ」という声にびくっとして、すぐに手を離した。
「そこ車止めるから、他に行きなさい」
運転席から顔を出したパパに言われ、三人でまたビニールプールを掴む。「裏に移動しよう」という隆広の言葉に従って、プールの底を引きずらないように運ぶ。途中で一度振り返ると、プールがなくなったあとには、パパが車を収めていた。
裏庭にビニールプールを広げ直すところまで手伝い、これを膨らませるのは双子に任せ、ボクはパパたちのところに戻った。一週間分の着替えが詰まったボストンバッグを車のトランクから出して、右肩からボクの、左肩からパパとママのバッグを斜めに掛ける。二人分の荷物が入っているのだから、パパとママのバッグの方がもちろん重い。右側によろよろと傾きながら、お土産のお菓子が入った紙袋を持つママの後を追った。
開けっ放しになっていた玄関の引き戸をくぐると目の前が真っ暗になった。車から出たほんのちょっとの間に外の明るさに慣れてしまった目では、明かりをつけていない家の中は余計に暗く感じた。でもその分、火照った身体には気持ちいい、ひやりとした空気があるようにも思える。肩から下ろしたバッグを玄関先に並べたボクは、そのまま床にへばりついた。
ママが部屋の奥に向かって「こんにちはー」と声を掛けながら靴を脱いでいる。ボクも真似しなきゃと思っても、冷たい床は気持ちいい。そうやって少しの間転がっていたけれど、あとからやってきたパパに「何やってんだ?」と聞かれて仕方なく身体を起こした。
ボクもスニーカーの紐をほどいて靴を脱いでいると、居間からはおばあちゃんが、台所からはおばちゃん(双子たちのママだ)が顔を出した。
「あら、いらっしゃい」
「どうもーお邪魔します、これお土産」
おばちゃんに紙袋を渡しながら、ママとおばちゃんは台所に消えていく。ボクはさっさと居間に向かうパパに続いて、おばあちゃんに頭を下げた。
「おばあちゃん! こんにちは!」
「久しぶり、よく来たねえ翔ちゃん。疲れたでしょう」
「うん、もうお尻が痛くて」
ボクが畳に転がると、扇風機の前に陣取ったパパが「そりゃ俺の台詞だ」と笑った。やっぱり大人でも長い時間座り続けるのはきついらしい。
「それより要次、早かったじゃないか。もっと遅いと思ったよ」
「首都高が空いてたんだよ」
「まだ時間かかるだろうからって、お父さんも創太も畑に行っちゃったよ」
「まあ、すぐ帰ってくるんでしょ」
要次とはボクのパパの名前。創太は双子たちのパパの名前、ボクからすればおじちゃんだ。おじちゃんはおじいちゃんが持っていた田んぼと畑を継いで、農家をやっている。今もその畑の様子を見に行っているんだろう。
そんなおばあちゃんとパパの、正直面白くない会話を聞きながら、玄関と反対側の障子を開けた。障子の向こうは廊下、その廊下の向こうは外、裏庭だ。裏庭に立つ松の木の間では、赤いタンクトップがポンプを踏んでビニールプールをせっせと膨らませていた。そうだ、あれを手伝わなきゃ。居間を突っ切って玄関に戻ろうとして、台所で大きなスイカを抱えているおばちゃんと目が合った。
――スイカだって! ボクの大好物じゃないか!
ボクは急遽方向転換し、台所のテーブルに飛びついた。
「おばちゃん! スイカ食べるの?」
「そうよお。翔ちゃん、スイカ好きでしょ」
「うん、大好き!」
「あんたたちが来るからって、おじいちゃんが用意してくれたんだから」
「やったあ!」
おばあちゃんの話だと、おじいちゃんはまだおじちゃんと一緒に畑にいるらしい。帰ってきたらちゃんとお礼を言わなくちゃ。
おばちゃんはまな板にスイカを置いて、流しの下から大きな包丁を出した。スイカのてっぺんに当てられた包丁がまっすぐに下りる。真っ赤な部分が顔を見せる。切り分けられたスイカはママが並べたお皿に乗せられていく。お皿はおぼんに並べられる。
「翔、これから皆で食べるから、これ居間に運んでちょうだい」
「はーい」
ママから手渡されたおぼんにはスイカだけじゃなくて、白い粉の乗った小さなお皿も乗っていた。何だろうと思ったけれど両手でおぼんを持っていては確認することもできない。言われた通りに居間に運び、スイカのお皿をちゃぶ台に並べて、それから白い粉の小皿もその横に置いた。
「お、スイカかあ、美味しそうだな」
相変わらず扇風機の前に座り込んでいたパパがようやく動いた。ちゃぶ台に近寄ってきて、スイカのお皿と白い粉の小皿を自分の前に引き寄せる。
「ねえパパ、その白いの、何?」
「これ? 塩だよ」
「……塩? 何で塩?」
「何でって、昔からスイカには塩だって決まってるんだよ」
スイカに塩? 甘いスイカに、しょっぱい塩? とても相性がいいとは思えない。でもパパが必要だと言うのだから必要なのかもしれない。もしかしたら大人にしか分からないことなのかもしれない。それならボクが塩はいらないと思っていても仕方がないや……納得はできないけれど。
空になったおぼんを持って、もう一度台所に戻ろうとした時だった。誰かが――ボクと同じくらいの子どもが、玄関前の階段を上っていった。この家にいる子どもは隆広、靖広、それからボクしかいない。双子は今、外でビニールプールを膨らましている。もちろんボクはここにいる。
じゃあ、あの子どもは、誰なんだ?
ボクはおぼんをママに押し付けた。「ちょっとあんた、どこ行くの!」というママの声を無視してさっきの子ども(多分)を追いかける。靴下越しに床の冷たさを感じながら階段を駆け上った。
二階には部屋が四つある。階段から近い順に、物置、双子の部屋、おじちゃんとおばちゃんの部屋、それからボクたち一家が泊まる部屋だ。物置といっても本当はちゃんとした部屋で、パパが子どもだった頃はパパの部屋だったらしい。パパがこの家を出て都会に引っ越してからは長いこと空き部屋で、その内にいらないものを置いておく部屋に変わっていっちゃったんだって。
あの子がどの部屋に入ったかはボクには分からない。それなら全部見て確認するしかない。一番近いところから、つまり物置の部屋から、ボクはのぞいてみることにした。
ドアノブを握ると、やけに冷たいような気がした。ドアを押し開けると、締め切りの窓とカーテンが見える。太陽の光がカーテンから透けているおかげで真っ暗じゃない。薄暗いけれど、学習机や本棚、床に積まれた段ボール箱くらいは見ることができる。でもさっきの子はいない。思い切って部屋に入ってみると、冷たい空気がボクの足元を流れたような気がした。
……冷たいだなんて!
ボクははっとした。おかしいじゃないか、この真夏に、エアコンもないような閉め切りの部屋に、冷たい空気があるわけないじゃないか!
どうしてこんなことが? と考えて、ボクが最初に思い付いたのは、ボクは幽霊でも見たんじゃないかということだった。こんな昼間から肝試しなんてどうかしているとは思うけれど、固まってしまったボクの頭はそれ以外に考えることができなかった。
だけど、幽霊だとか超常現象だとか、ボクはそういったものを信じていない――だって怖いんだもの。そんなよく分からない怖いものを、簡単に受け入れて信じることは、ボクにはできない。だからさっき見たあの子どもも違う。きっと何かを見間違えたんだ。怖いけれど、そう言い聞かせることで何とか足を動かして、ボクは部屋の真ん中まで進んだ。
机の下、段ボール箱の裏、カーテンの影……何かが隠れられそうな場所は思い付く限り見てみた。でも何もいない。何もない。きっと気のせいだったんだ。ボクは何も見なかったんだ。他の部屋を探すなんてこともやめてしまおう。早く居間に戻ってスイカを食べよう。そう思ってドアの方を振り返って。
そこには着物姿の男の子が立っていた。
ぼやけた藍色の着物におかっぱ頭で、足には靴下も何も履いていない、裸足だ。少し吊り上がった目は何となく気が強そうに見える。
「き、君は……誰?」
ボクが尋ねると着物の子はそれには答えてくれなくて、逆に聞き返されてしまった。
「要次の子か」
「えっ」
要次はボクのパパの名前。だからボクは要次の子。この子が言っていることは正しい。でも、どうしてこの子はボクのパパのことを知ってるんだ?
僕の心を読んだのか、着物の子はにやりと笑った。
「不思議か? そうじゃろうな。しかしのう、儂は何でも知っておるのじゃ」
「『何でも』?」
「ああ、この家のことなら何でも、な。お主は幼い頃の要次によく似ておる……」
着物の子の表情は、にやりという強気な顔から、少し優しい笑顔に変わった。でもそれも一瞬で、ボクがまばたきをすると、次に目を開けた時にはいなくなってしまっていた。
「……消えた? まさか……?」
まばたきするほんのちょっとの間に音もなく立ち去るなんて、普通人間にはできない。それならあの着物の子はやっぱり消えてしまったことになる。だとするとこれは心霊現象か何かなんだろうか。あの子は幽霊だったんだろうか。ということは、ボクは幽霊に取り憑かれてしまったんだろうか!
鳥肌が立っているというのに汗が噴き出て止まらない。いったいどういうことなんだろう。わけが分からず、足も動かせずに立ち尽くしていると、階段を上る足音が聞こえた。思わず身構えてしまったけれど、ドアから顔を覗かせたのは双子たち。ほっとして力が抜けたら身体も動けるようになった。
「翔ちゃん何してるの?」
「スイカ切ったよ、早くおいでよ」
「うん、ボク、幽霊を見て……」
「幽霊?」
首を傾げた双子にたった今見た着物の男の子の話をすると、「そりゃああれだ」「幸虎だな」と双子は口々に言った。今度はボクが首を傾げる番だ。
「ユキトラって?」
「その着物の子の名前だよ」
隆広の説明によると、あの着物の子――幸虎は、この森屋の家に古くから住みついている座敷童子なのだという。座敷童子といえば有名な妖怪だ。きっと幽霊とは違うものなんだろうけど、人間じゃないという意味ではボクの直感は正しかった。
妖怪だからといって悪さをするわけでもなく、昔からずっとこの家の隅で、この家に住む人間をただ何百年も見続けているだけの存在。それが幸虎なんだ、って言ったのは靖広。きっと、この家の守り神的な存在なんだろう。
そんなに昔からいるのなら、ボクだって毎年この家に遊びに来ているんだから、前にも見たことがあってもいいのに。僕が呟くと双子は首を横に振った。
「まあ……幸虎はきまぐれだからな」
「オレたちだって、ずっと一緒に住んでるけどたまにしか見ないぜ」
双子ですらほとんど見かけないのなら仕方ないか。
とにかくボクは取り憑かれたわけでも何でもなく、この家の〝不思議〟にたまたま遭遇してしまっただけだ、ということが分かった。不思議の正体は現実よりも心霊現象に近いものだったけれど悪いものじゃないらしいことも分かった。そういえば前にテレビで見たことがある、座敷童子に会えると幸運が訪れるからわざわざ探しに行くような人もいるんだって。それを考えるとむしろ、いいものに出会ったっていうことになる。何だ、よかった。ボクは軽い足取りで階段を下りた。
居間に戻ると、おじいちゃんもおじちゃんも畑から帰ってきていた。こんにちは、と頭を下げて、おじいちゃんの隣に座る。
「大きくなったなあ、翔」
「うん。おじいちゃん、スイカありがとう!」
「ああ、いっぱい食べなさい」
反対側の隣では、パパがスイカに塩をかけていた。せっかくのスイカがもったいない。「いるか?」と塩の小皿を渡されたけど、「いらない」と断った。
スイカにかぶりつきながら、ボクはパパの脇腹をつついてみた。
「どうした、種飲み込んだ?」
「違うよ!」
もう小学校四年生なんだ、そんなことくらいで大騒ぎしない。そうじゃなくて……ボクは少しだけ声を小さくした。
「ねえ、この家、座敷童子がいるんだって。パパ知ってた?」
「さあ……でも古い家だからな、いてもおかしくはないんじゃないか?」
昔はこの家の住人だったくせに他人事のように呟いて、スプーンで外から見える種をひとつひとつ取り出していたパパが顔を上げる。玄関の方を向く。ボクもその視線を追って、気付いた。パパが目を向けた先には、さっきの座敷童子――幸虎がいた。
「あっ」
「どうした?」
「今そこに……」
玄関を指差したけれど、そこにはもう、幸虎はいない。また、一瞬で消えてしまった。
「何もいないぞ?」
「……うん」
一瞬しか見えなかった。だけど、一瞬で十分だった。
幸虎は何かを言いたそうにしていたんだ。
何が言いたかったのか、ボクには分からない。でも、どうしてか、ボクには幸虎がすごく寂しそうに見えたんだ。
蝉の鳴き声が夏の暑さを増幅し、軒下に吊るされた風鈴の音が暑さを和らげる。冷たいスイカがのどを通っていくけれど、胃に入る頃にはその冷たさも感じられなくなっていた。
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