文加のまちには

水城

蜘蛛の巣の妙

 文加あやか市にも春がやってきた。

 大都会で桜が開花したというニュースから遅れること三週間。我が市でも桜のつぼみがほころび始めた。市といっても、政策で近隣の町村が合併して面積が広くなっただけの、小さなものだ。人口密度はたいしたことがなく、住民たちの意識はまだまだ町だし、村である。そんな地方の我が市にも、等しく春は訪れたのだ。

 桜だけではない。山は緑に色づき始め、長い冬眠から目を覚ました蛙たちが泥の中から顔を出す。虫たちも活発に動き始める。

 そう、虫が――わたしははたきを手に取った。

 それに気付いたのはつい一昨日のこと。少し前に録画しておいた映画を見ていたら、突然画面が暗くなった。何かのコードが抜けたのだろうか、首を傾げてテレビの裏を覗き込み、そしてそこに張られた大きな蜘蛛の巣に気付いたのだ。巣の主の姿が見えなかったためその時は巣を払っただけだった。しかし、壁とテレビの間の狭い隙間に張られたにしては立派で綺麗な網目の蜘蛛の巣だった。それが強く印象に残っているせいか、テレビを見ているとふと巣のことを思い出す。そして裏を覗き込んで、「ああまた」と呟いたのは、一度や二度ではない。

 蜘蛛の生態として春によく活動するのか、それとも餌となる虫たちが活発になるから蜘蛛もそれに合わせているのか、それはわたしには分からない。とにかく問題なのは、払っても払ってもテレビの裏に巣が張られることなのだ。

 決して家の掃除を怠っているつもりはないのだが、蜘蛛の巣がひとつあるだけで、人の手が入っていないような印象を与えてしまう。こんなところを、自分の母親ならともかく、お義母さんに見られる訳にはいかない。これも幾度目だろうかと思い返しながら手にしたはたきで巣を落としティッシュペーパーで摘まんでいると、背後から「そうだよねえ」という声が聞こえてきた。

「何が?」

「くもの巣」

 振り返ると、こたつから頭だけ出した娘がわたしを見上げていた。算数の教科書とノートが広げられ、キャップを外した鉛筆が転がっているが、使った形跡はまだない。彼女の頭の横ではランドセルが大きく口を開けたまま。何から言おうか一瞬迷う。

「みっともないからやめなさいな」

 とりあえずため息混じりにこれだけこぼすと、娘は「今出ようとしてたんだよ」と頬を膨らませた。

 話の腰を折ってしまったのはわたしの方だ。だから先を促すのはわたしの役目である。こたつからはい出てお腹まで見せた娘の顔を覗き込んだ。

「それで、蜘蛛の巣の何が『そう』なの?」

 訊ねると娘は「そうそう、あのね」と前のめりになった。

「今日ね、あたしくもの巣に引っかかっちゃったの」

「やだ、どこで?」

「帰ってくる途中、公民館の前辺り」

 娘の通学路を思い返す。公民館はこの家から子供の足で歩いて五分ほどのところにあり、子供会のイベントなどで定期的にお世話になっている。面する道幅は狭いが車の通りは少なく、子供だけで歩かせても特に心配のない道だ。しかし、そこをどう歩くと蜘蛛の巣に引っかかるのだろうか。道路には、蜘蛛が巣を作れそうな狭い隙間などないというのに。

 考えがそのまま顔に出ていたらしい。「不思議だよね」と娘は言う。

「あたしは普通に道の真ん中を歩いてただけなの。そしたら突然顔に何か引っかかった感じがして」

「それが蜘蛛の巣だったの? 道の真ん中で?」

「そう。短距離走でゴールテープ切るみたいな感じ。ふわぁって」

 人にとっては狭いかもしれないが、小さな蜘蛛からすれば果てしなく広い道だ。蜘蛛がそんなところで、道の端と端を繋ぐように糸を張れるものなのだろうか。その様子は私には全く想像出来ないが、実際に娘は蜘蛛の糸に引っかかっている。

「蜘蛛ってそんな風にも巣を作れるのね」

 感心していると、しかし娘は首を横に振った。

「でもね、今日は隆広くんと靖広くんと一緒に帰ってきたんだけど、二人はそんなの引っかかってないって言うの」

 二人はうちの近所に住む双子の男の子だ。娘と同い年ということもあって以前から付き合いがある。年相応にやんちゃではあるけれど、変に娘をからかったりしたことはない。二人して娘に不必要な嘘をついているとは思えないし、とすれば、巣に掛かってしまったのは娘一人ということになる。

「それは変ね」

 頬に手を当てると、娘は「でしょ?」と吐き出した。

「ほんと、変なの。しかも二人がね」

 娘の声がぐっと低くなる。

「『それ、幽霊だよ』って言うの」

 双子曰く、娘は蜘蛛の巣に引っ掛かった訳ではない。娘は幽霊に引っ掛かった。蜘蛛が道を渡すように糸を張るはずはないが、得体の知れない幽霊の仕業なら説明がつく。全ては幽霊のせいなのだ。

「でもさ、そんな訳ないじゃない? 幽霊なんている訳ないんだもーん」

 語尾を伸ばしながら、娘は再び横になった。わたしが「こら」と目で宿題を示すと跳ね起きて教科書をめくった。

 幽霊なんていないと娘は言う。しかし、本当にそうだろうか。いないことを証明するのは難しい。見たことがないからいないように思えるだけで、本当はどこかに存在しているかもしれないのに……わたしは頭を振って娘のランドセルから連絡帳を出し、今日の日付のページを開いた。

 娘が書いた『きょうのひとこと』に対して担任の先生がコメントをつけてくれている。それにわたしが一言書き添え、また娘に戻す。わたしと娘と先生の交換日記のようなそれは、娘が小学五年生に進級した今年の四月から始まり、もう一カ月になる。一日を振り返って残すのは娘にとって大切なことだし、娘の学校での様子も分かるからわたしとしてはありがたいが……先生の名前を見る度にざらりとした感覚が肌を撫でた。

 気分を入れ換えようと窓の外を見る。隣の家の桜がぽつりぽつりと咲いている。あれももうじき満開になり、散っていくのだろう。

 だが、儚い淡い桜色の光景を邪魔するものがあった。我が家の窓の庇から窓枠にかけて、大きな蜘蛛の巣が張られているのだ。白い網目に主はいない。ああ、また……わたしははたきを握り直した。

 これだけ巣を残しながら姿を見せない蜘蛛。見たことがないだけで、どこかにはいるのだろう。もしかしたら巣の主は幽霊で、今もどこかで姿を隠しながら巣を壊すわたしを見ているのかもしれない。

 窓の外側に落ちていく巣を見送りながら、娘の連絡帳を思い出す。

 子供特有の危うさをもった娘の字の下に、しっかりとした先生の朱書きが並んでいる。流れるような文字は丁寧で読みやすい。娘の言葉を真摯に受け止め、考え、先生自身の言葉で返事をしてくれているのがよく分かる。

 今年の娘の担任の名は、藤原美鶴。私のかつての同級生であり、姉のかつてのクラスメイトだ。まさか彼女にこんな形で再会するとは思わなかった。こんな偶然が、こんな縁があるのだろうか。

 縁とは不思議なものである。どこでつながっているか、全く予想が出来ない。


 だからこそ思う。娘が出会ってしまったのも、本当に幽霊かもしれない――と。

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