獄卒就任記念日: 三幕
その日、僕は午後だけ暇を貰って調べものをしに足を運んだ。
調べものついでの、行き掛けの駄賃に配達も任されている。
出発する前に国木田さんから頼まれた事で、通常業務とは違った配達になるけれど僕も郵便局員の端くれだ。
手紙の宛はそこの主人に宛られたものらしい。
局長が教えてくれた住所を探して、石造りの街を歩く。
私服を持ち合わせていないので、仕方なしに学校の制服を着て行ったのが間違いだった。
通行人の視線が期待や羨望として突き刺さり、何も言われていないのに何か言われている感覚になる。
路面電車で二駅乗るとそこは商店街だった。
浮かない顔の煙草屋に、店先で水煙管を吹かしている金魚屋の店主。
路肩に並べられた青果市場や古物商。
色褪せた郵便ポストと、屋根が重なりあった暗くて入り組んだ路地。
中心部に近い訳ではないので寂れているが、刑場に近いので仕方のない事だと、近隣住民は諦めている。
目当ての場所は、一歩入れば迷ってしまう路地にある様だった。
恐る恐る路地に入ると意外にも明るく、軒にカンテラが吊るされていたり、道端に灯籠が置かれ、少し開けた場所には瓦斯灯が点っている。
そこの八百屋は店内に幾つも裸電球を吊るしていて、一種刺激的な光を影に落としていた。
他にも裸電球が軒先に連なったりしている。
成る程これは迷うのも仕方ない。
幻想的な光と影の共演に惑わされて行方不明になるのも悪くないとさえ思う程だから。
まるでサーカスの蚊帳の中の様に華やかな光を誇る路地を進んで行くと、中央に瓦斯灯が一本立っている開けた場所に出る。
石畳が所々剥がれた広場で、広場を囲う様に建物が密集して円形にしていた。
西洋人形が着飾っているショウウィンドウや、何も着ていないマネキンに、萎れた花籠が飾ってある玄関先。
重なりあった屋根の隙間から青空が覗いている。
住所はここで正解の筈なので、もう少しだ。
調べものをするなら文献があるだろうから、図書館かと思ったがここにそんな施設はない。
なら何だろうかと、改めて辺りを見回すと、一軒の貸本屋が目に留まった。
「貸本屋佐倉井」と痩せた字で記された置き看板があり、入口に繋がる数段の階段を昇ると、硝子製の両開き戸に営業中と書かれた札が掛かっている。
こんにちは、と一言断るも、返事がない。
鰻の寝床の様な細い廊下、かと思えば片面の壁一面が本棚だった。
奥へと進んで行くと、背の低い本棚と陳列棚に無数の本が群れを成していた。
本の日焼けを防ぐ為なのか窓は無く、灯りも抑えられている。
何かが出そうな、一種のおぞましさで鳥肌の立つ店内だ。
その中に唯一灯りの強い一角が目立って、よく見るとそこは番頭台の様子で、その奥に誰か座椅子にもたれ掛かっている。
床より一段高い番頭台で、健やかに寝息を立てているその人は仮眠程度に眠っている様だった。
色素の薄くて長い髪はそのままにされていて、白い肌を夕焼け色の灯りが照らしている。
机に飲みかけの温い紅茶と、蓋の緩んだクッキー缶が置いてある。
その側には卓上に転がった万年筆と、中途半端に書かれた出納帳。
一旦、託された手紙を机に置き、起こすのも悪いので、本を読みながら起きるのを待っている事にした。
番頭台から離れようとした時、一段高いのを忘れていた。
足を踏み外して空を切り、受け身も取れずにそのまま後ろに転げる。
「うわっ!?」
「おあ”っ」
鈍い呻き声で、寝ていた人を巻添えにしたのを悟った。
挙げ句下敷きにしてしまったらしいが、振り替えるのがこれ程恐ろしかった事は後にも先にも無い。
「や~……驚いた驚いた……」
骨髄反射的に立ち上がって頭を下げる。
「すみません! 階段を踏み外してしまって……いえ、その時巻き込んでしまって──」
「ちょっと待ってくれないかい。僕眼鏡が無いと何も見えなくてね。えーっと、あれ? どこやった」
ぱっと卓上の眼鏡を取って渡すと、その人は、ありがとう、と受け取って掛ける。
そして焦点が合うと、僕を見るなりすごく呆気に取られた、と言うか驚いた表情を見せた。
かと思えば数瞬の内に表情筋が柔らかくなって笑顔を浮かべる。
「ああ、お客さんか。ごめんねこんなみっともない所を……営業中にしてたかな」
僕は何が何だか判らなくなって、はい、と素直に答えてしまった。
嘘でも僕が勝手に入ってしまった事にすれば良かったのに。
「そうかあ。所で君は何の用事で来たのかな? その制服はこの付近で見ないし……今日は平日で、学生が出歩く時間でもない」
「あっ! ごめんなさい。僕、私服を持ってなくて、でも仕事着で街を歩く訳にもいかなくて……」
焦ってあれこれと事情を説明すると、成る程ね、と理解してくれた。
「ああ成る程、君が噂の学生さんだったか。それでこの手紙は君の職場の先輩から預かったものだと。でもね、これ多分その先輩から送られたものでは無いと思うのだけどねえ」
まるで独白する様な独り言を呟く。
「兎も角ありがとう……えーと」
「新美鈴、です」
「新美ちゃんね。僕は佐倉井日菜。ちょっとばかし特殊な名前でね、こう書くんだよ」
そう言うと出納帳の端にさらさらと筆を走らせた。
痩せた字で、佐倉井日菜、と書かれている。
成る程確かに不思議な名前だ。
「あの、佐倉井さん。その……調べものをしたいのですが」
「ん? ああいいよ。じゃあちょっとついて来てくれるかい」
頷くと、佐倉井さんは酷く安心した様な表情を浮かべる。
番頭台の奥に入ると、壁に回転式レバーが取り付けてあり、佐倉井さんがそれを操作すると、暗い天井から梯子が降りてきた。
どうやら中二階があるらしく、佐倉井さん曰く、そこに蔵書を保管しているのだと言う。
梯子をするすると昇り灯りが点されると、僕にも昇って来る様促された。
割に長い梯子を昇ると、古書特有の時代の匂いが鼻をつく。
中二階の床には本の傷防止に毛足の長い絨毯が敷かれ、太い梁から硝子ランプが吊られていた。
佐倉井さんが座蒲団をぽんぽん叩いて座る様に言う。
「ここで気が済むまで調べものをしていてくれ。どんな本でも読んでいいけど、傷はつけない様に」
「判りました」
首肯すると、佐倉井さんは、うんうん、と笑顔をこちらに向けた。
佐倉井さんが下に降りて行ったので、僕はその辺の棚から一冊取り出した。
「妖生態全集──壱」
背表紙に大きく刻印された題を信じて頁を捲る。
いろは順に並んだ項目を目で追った。
【姑獲鳥】
難産によって死亡した女性或いはその霊が妖怪化したモノ。
多くの場合、子供を見つけるとその子を守り育てる傾向にあるが、凶暴化して子に近づく者を徹底的に排除しようとする面も見られる。
だとしたら今回は僕たちの失敗だったかもしれない。
恐らく今まで目立った被害の無かったのは、姑獲鳥が現場に居合わせなかったからだろう。
しかし今回は僕たちが不用意に近づき、以前からの侵入者と勘違いした姑獲鳥の攻撃だったのかも。
他にもないかと頁を捲っていると、獄卒と言う項目が目に留まった。
【獄卒】
地獄に従事する者を種族に関係性無く全体を指す。此岸では一般的に鬼と言われている。
獄卒には死と言う現象や概念が無く、指一本でも残されていれば、超常的な速度で再生すると言う特性を有している。
しかしながら時折身体機能の不調が見られ、深刻になれば再生が不可能となり、実質的に死亡が訪れる。
現在立てられている仮説では、身体の不調を治癒する為に力を消費し、その状態で損傷を受けると損傷の治癒に回せるだけの力が無くなる為だとされている。
「おーい」
黙々と頁を捲る。
「生きてる?」
黙々と頁を捲る。
──パンッ!
「……? え?」
「ああやっと反応した」
目の前の佐倉井さんが安堵した様な顔をして、僕は漸く気がついた。
「すみません! 無視したりして……」
「いや良いんだよ。それだけ集中力があると言う事さ。それより今、午後六時半だけど門限は大丈夫かな?」
一瞬だけ思考が完全停止して、抱えていた本が床に落ちる。
がたがたっと騒々しく立ち上がって、大急ぎで階段を降りる。
「すみません長居しちゃって」
「調べものは終わったみたいだね。あるならまたおいで」
「ありがとうございました!」
暗い路地は一層暗く光は強く、雑踏も大きくなった。
路面電車に駆け込んで社員寮に戻ると、フラウさんに物凄く心配された。
── * ──
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