カエルと花火と白衣のアンジェ

黒塚

夕暮れ

 ピアニッシモ。普通の人はこれを聞いて何を思い浮かべるだろうか。ある人は強弱を表す音楽記号を思い浮かべるだろうし、ある人はタバコの銘柄だと言うだろう。間違ってはいないけど、正解じゃない。あの子と僕との間ではピアニッシモは別の意味を持ってくる。僕らはそれに夕焼け空を連想し午後五時になると町内放送で流れる「子供の情景」を思い浮かべるのだ。

 子供にとって夕方は楽しみの終わる時間だ。さっきまで遊んでいた友達にバイバイと別れを告げなければならないし、だんだんと暗くなっていく空を背に家への道を急がねばならない。家ではいろんなことが待っているだろう。夕食である揚げたての湯気を立てるコロッケや、まだ手をつけていない宿題、キャベツを千切りにしながら我が子におかえりと言う母親。もしかしたら父親かもしれないけれど。想像していた夕食は物質となってお腹の中に収まり、少年は眠いながらも宿題をこなし、その後に風呂に入る。

 人間が人生の営みをこなす間に空はオレンジや紫から、色を塗り替えられて濃紺へと変化する。白い絵の具が飛び散り星がきらめき出す。

 家々では灯りが消え人々は眠りにつく。ブルーライトを浴びたがる変わり者の大人もいるけれど、少年は床について寝息を立て始める。

パチッ

 少年の家から少し離れたマンションのベランダで小さな音がした。暗闇に浮び上がるあわいオレンジ色。蛍の弱々しい光みたいに規則的に明るくなったり暗くなったりしている。辺りに漂い始めたのは燻してある草の仄かな匂いとそれに混じる人工的なバニラの甘い匂い。暗闇の中の少女は赤く腫れ上がった自分の頬に触れて呟く。

「早く明日になればいいのに……」

 あの子と遊ぶ夕方はとても楽しい時間だ。だけれど、夜は違う。夜の家には怖い怪物がいるから。そいつは何もしなくてもいつも怒っていて、そのせいでお母さんは毎日泣いていた。少女は母の涙が枯れてしまわないかと、涙を貯めてある瓶が空になりはしないかと心配していたが、さほど問題なかった。母は雨の降るジメジメした日にいなくなってしまったから。いつの日かテレビで見た仏像のような微笑を浮かべ、少女の頭をひとなでするとどこかへ行ってしまったのだ。自分の知らないところにお母さんは行ってしまった。

 ジリリリリリリリリリリとけたたましい目覚ましの音で少年はいつも目を覚ます。こんなにやかましく起こさないでもっと優しく起床を促して欲しいものだけれど、目覚まし相手に何を望んだって現実は変わらないのでだるい体をベッドから起こす。

 朝食の席の時少年は知ることとなる。思わず放してしまったコップの取っ手。フローリングにぶちまけられる牛乳。親が火加減を間違えて焦がしたハムエッグなんて気にならない。

「そんなの嘘……だ」

 ブラウン管のテレビに映し出された顔写真。もっと話しておけば、遊んでおけば。鬼ごっこに水切りに、かくれんぼに……トランプ、花札、あとなんだっけ。知らない遊びは全部あの子が教えてくれた。夕日を浴びて輪郭が明るく光るシャボン玉。それを見て、二人とも呆けた顔で綺麗だねえなんて言い合った。

「楽しかった……」

 テレビのスイッチを消して、席に戻る。座る時に足とズボンの裾に牛乳が着いたけど気にもならなかった。胸の、彼女がいた部分に空席が出来たみたいにそこには今誰もいない。ハムエッグじゃそこの空きは埋められるはずがないけど、少年は無我夢中で朝食をかき込んだ。


「この曲、僕が選んだんだ」

「相変わらず好きなのね……私のために選んでくれたの?」

「もちろんだよ。本当は洋楽とか別のものが良かった?」

「まさか、これが一番好きなの。選んだあなたは流石ね。私たち好みが合うわ」

 鼻にまとわりつく白百合の香りと線香の煙。少女のいる所に少年も行くかもしれない。もうすぐ。

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