貧乏舌万歳

いある

評価とかそういうのについて

 評価。それは時々によって声の大きさや数字や意志の強さなど、単位は変化するものだが、一貫しているの評価が高いものが優秀で、低い者が優秀でないと論じられることが多い。そして私はここに一石を投じよう。優劣など、ナンセンスだ。

 そもそもの話になるが、まったく同じ性質のものなど存在しない。例えば、二つの評価に差がついた作品があるとしよう。その優れている方は果たして劣っている方の上位互換だろうか。もはや一々言葉にするまでもないが否である。それぞれのものには違った良さがあり、一般的に伝わりやすい良さを持っている方が評価が高い。言い換えれば一般的には伝わりにくいものの、確かな良さを持っている作品、そういったものは評価が低くなる。要するに評価という行為自体が愚かなのだ。皆違ってみんないい、とは少し違うかもしれないが、それぞれ好きなものは違うだろう。ハッピーエンドが大好きな人は多いが、鬱エンドやデッドエンドが大好きな人間だって無論存在する。食事だってそうだ。同じ家の中に菜食主義者と肉食主義者が居たって何ら不思議じゃない。野菜が優れているか?否である。だが劣っているか?それも否である。何かが優れている、劣っているという観点を持つことこそ視野を狭める直接的な原因であるし、人間と人間の間に隔たりを生む原因となる。

『俺はこういうのが好きだな』「それもいいけど私はこっちのほうが好きだな。私はそれあんまり好きじゃないし」ならいい。『こういう点が優れているのでこちらが優れていると思います』「そちらにくらべてこういう点が云々」と話が展開される様ならもはや馬鹿だ。端的に言ってしまえば私は評価という行為が嫌いだ。どんな意見にも量の差こそあれ、良い点と問題点がある。完璧な案などこの世界に存在しない。だから優劣をつけ、ランキングし、片方を担ぎ上げるという行為が嫌いなのだ。好きなら好きでいいし、嫌いなら嫌いでいい。しかしその感情を感情以上のものにしてはいけない、それが私の意見。昔中学校の教科書で明確な理由がない記述は説得力がありませんと習った。無くて結構だ。説得する必要があるか?いや、ない。(反語)冗談はさておきとして本当にないのだ。好き、嫌いと言った感情は理由を追い求めれば追い求めるほどに貴重な感動から陳腐な意見へとなり下がる。そしてその好きが嫌いとされるとムキになって反論しようとする。甚だおかしな話だ。嫌いなやつが嫌いなものを押し付けられてそのものを好きになるわけがない。かといってなぜ素晴らしいかを解説しようとするとそれは何の価値もない言葉の羅列にしかならない上に、作品に触れた時の感動を損なわすことになってしまう。嫌いなものを好きになるには長い時間がかかるし、かけても好きにならないどころかより嫌いになることの方が多い。

 だから好きなものはお勧めする程度にしておくのが理想的だ。入り口を作るのは結構だが、その入り口に押し込むのは言語道断。自分の好きが全員にとっての好きではないことを理解したうえで生きていきたい。そして同時に、他人の評価、自分の偏見というものに心を乱されてはならない。あなたが嫌っているものにだって、素敵な感動が眠っているかもしれないのだから。

 物の良し悪しが分からない貧乏舌、結構だ。

 多くのものに感動を見出せる人生の方が肥えた醜い舌より百倍素敵だろう?

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