第17話 死について

 突然ですがたまに死についてぼんやりと考えることがあります。「いつか死んだらその後は一体どうなるんだろう」という考えが漠然と浮かんできます。

 

 ひとつはっきりしているのは、死んだらそこで私という存在、人格ー自我は終わりを迎えるということです。私にとって死は大きく二つに分けられます。一つは他者の中の私の死、つまり他の人の記憶の中の私が忘れ去られることです。もう一つは、自我の喪失です。私が恐ろしく感じるのは後者です。


 一旦自我を脇に置いて、他者の中の私の死について考えてみます。死んでしまった私はおそらく火葬されてお骨になります。土葬されることはないはずです。そして肉体を失った私は、周りの人の記憶の中にだけ存在します。そしてその記憶も時間とともに薄れてゆきます。いずれ私のことを覚えている人も死を迎え、私がいたという記憶も伝承もなくなってゆきます。このように肉体の死の後で、遅れて記憶としての私の死がやってきます。

 例外として、私が物凄い発見をして表彰されて教科書に載ったりした場合には後世まで功績が語り継がれることになりますが、今のところその予定はありません。作家として面白い本を出した場合はその物語が残るわけですが、今のところその予定もありません。


 そう考えるとインターネット上に死後も残るかもしれない文章を残しているのはとても不思議なことだと思います。


 さて、死について考えるときに私が残念に感じるのが、上で述べた二つの死のうちの後者、私という人格、自我の死です。今の人生でどれだけ料理が上手になっても、外国語が堪能になっても、絵が上手になっても、専門知識を得ても、死んでしまったらそこで終わってしまいます。ゲームのセーブデータではないので、万が一また人間として生まれたとしても次の人生にそれを引き継ぐことはできません。

 というか、次に生まれることがなかった場合は一体どうなるのでしょうか。私の自我はどこに行くのでしょうか。

 こればっかりは死んでみないと分かりません。


 実際、死んでしまったら何にも覚えていられないというのはかなり残念です。私が今まで感じた気持ちも、好きな曲や食べ物の記憶も、大切な思い出も全てなくなってしまうのは寂しいです。今の家族との記憶も消えてしまうのは更に寂しいです。身近な人が亡くなったとき、残された人はその人のことを覚えていられるのに、自分が死ぬときには何も覚えていられないのですね。


 いつか死ぬのは必然のことで、不老不死になりたいとも思いません。が、私が死について考えるときにはいつも寂しさがつきまといます。





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