名音楽家に捧げる葬送曲
後日ドイツのベルリンに降り立った私は、都市の街並みには瞥視することもしないで一路バイロイトに向かいました。
ドイツ語でグリジッドの家を聞き回り、ようやく目標の木組みの一軒家に辿り着きました。外観はボロ屋に近く、人が住んでいないのが一目でわかりました。
生前のグリジッドが日本の自宅に書き残しておいた置手紙に同封されていた鍵で、中に入りました。
屋内には過去の生活の余韻が漂っていて、最近にも誰かが掃除をしていたかのように清潔に保たれていました。
床板を踏み外すことを忌避して慎重になっていた足も、自然にいつもと変わりない速度で進みました。
見当たる限りの部屋の中を覗いてみたが、驚くような物は残されておらず、奥の裏口から外に出ました。
裏口を抜けた先には、人の溢れた路地ではなく、四方を建物の壁に囲まれ一面背の高い雑草に覆われた裏庭が、人々から身を隠すようにしてありました。
目の前を塞いでいる雑草から、並んで立つ墓石の頭が微かに見えました。
グリジッドの両親のお墓参りを任された手前、繁茂する雑草を刈り取ることで少しでも恩返しになるなら、とその日から草刈りに明け暮れる日が続きました。
三日後、草刈りを始めてやっと墓石の全体が姿を露にしていた時のことです。裏庭と住む人のいない家に唐突な問題が降りかかってきました。
私が昼食を買いにバイロイトの路地を歩いていました時、裏庭に隣接する家に住む夫人四人が寄り集まってこそこそ何かを話しているのを見つけました。
主婦の井戸端会議はろくでもない、と思っていた私は何の気もなく横を通り過ぎようとしました。
「グリジッドさんのうち、まだ撤去しないのかね」
「もう人が住んでいないんでしょう。取り壊して欲しいわ。いつ倒壊して、私達の家に被害が及ぶかわかったものじゃないもの」
聞き捨てならない会話でしたが、大事にはならないだろうと草刈り以外に考えるのが億劫で気に留めませんでした。
しかし近所の不満は、あからさまな行動になっていきました。
次の日朝、連日と同じように草刈りに精を出していましたら、突然右の家の窓が開いて昨日主婦同士で話していた夫人の一人が疑わしい目で私を睨み下ろしました。
「あんた、最近何をこそこそやってるんだい」
その声音はどう聞いても、敵意を含んでいました。ドイツ語を話すのは苦手でしたが聞き取るのは容易になっていました。
「その庭の所有者はもういないんだよ、あんたがいると解体業者が入れないじゃない」
「草刈りをしてるんです」
「その家には金目の物は残ってないよ」
「私は……」
ドイツ語での会話のせいで、伝えたいことが伝えられない。
「Raus hier!(出てけ!)」
情けないことに怒声に気圧されて、逃げるように私は中に戻りました。
針のむしろに置かれて草刈りが進まないでいるうちに、ドイツ滞在期間の期限になり、慌てて永住権を獲得するためにあちこひ出掛けて苦労させられました。
私はそうでもしてグリジッドの家と裏庭の墓を守りたかったのです。それが私の承った頼み事でしたからね。
けれど現実は都合よく運びません。
近所の者達に訴えを起こされ、老朽化が原因で家の解体はやむなき事でした。そして私は同じ場所でこのビヤホールを始めたのです、問題が収拾して二週間後一度日本に帰り、各関係者に無理を言ってグリジッとの遺体を日本からバイロイトまで運び、裏庭の両親の前に墓を造り埋葬しました。
私が毎日かかさず墓前で拝んでいましたある日、尋ね人がありました。
私がドアを開けて顔を出すなり、ヴィオラのケースを背負った長身の若いドイツ男性の尋ね人は鋭く睨んできました。」
「あんた、誰だ?(Wer bist du?)」
男性の目は完全に私を悪人扱いしている凄みがありました。
「私はグリジッドさんから頼まれて、ここにいる。(Ich wurde von Mr. Grigid gefragt und bin hier.)」
「ほんとうか?(Ist das wahr?)」
確信を持って頷きました。
男性は私のビクビクしない態度で信じるに決めたようで、背負っているケースを指さしました。
「グリジッド先生からヴィオラを教わった、弟子の一人だ。(Einer der Schüler, die Viola von Dr. Grigid unterrichteten.)」
「へえ」
グリジッドがドイツでヴィオラの教導をしていたとは、聞き知らないことだった。
その他にも彼は自分の素性を明かしてくれて、今はベルリン・フィルへの入団を目指していること、グリジッドとは十数年の師弟関係だということ、グリジッドは時々ドイツに帰ってきていたこと、自分は二週に一度バイロイトへ来てこの家の掃除をしていること、など問わず語りに話してくれた。
相手が素性を明かしてくれたので、私も手短にグリジッドとの関係を説明しました。非常に言いづらかったですが、グリジッドさんの訃報を伝えました。
男性は膝を落として、家の前で恥ずかしげもなくむせび泣きました。
その彼は現在、当時の希望を叶えてベルリン・フィルのヴィオラ演奏者として世界を飛び回ってグリジッド直伝の音色を奏でています。休暇になるとわざわざここにビールを飲みに来てくれます。
私を含めて、グリジッドから音楽を教わった人はドイツにも日本にもたくさんいます。フルトヴェングラーやマーラーのように名に負う著名人ではありません。でも私や彼と携わったと人間にとっては誰よりも名音楽家なのは、グリジッド一人なのです。ですから後世に彼と彼のヴィオラ奏法を言い継いでゆきたいと私は思います」
懐旧談を話し終えて、老紳士は長い溜息を吐いた。その瞳にはうっすらと涙が浮かんでいる。
「いや、失礼」
顔を見つめる僕の視線に気づくと、慌てて目元を拭った。
「聞きたいことがあるんですけど、いいですか?」
「ええ、構いません」
老紳士は毅然とした表情で応じてくれる。
僕は問いを発した。天井を貫く太い柱を指さす。
「中央の柱は、先程のお話と何か関係があるんですか。随分立派な柱ですけど」
「そうですな」
老紳士は認めた。
「あれはグリジッドの生家を解体する時に出た木の廃材を加工して、一本の柱状に収斂したものです」
「ということは、グリジッドさんの遺志は今もこの場所に残っているんですね」
なんとも友愛の感じる結末だろうか。木村さんとグリジッドさんは、これからは離れず共にいられる、というわけだ。
僕はフィクションでは聞くことのできないリアルな感動話に胸を動かされ、望むならばグリジッとさんの墓前で追悼を捧げたい、と矢庭に思った。
「あの差し支えなければ、グリジッドさんのお墓を見させていただくことは?」
「あなたがグリジッドのお墓を、ですか?」
思いも寄らない要求に、老紳士は目を瞠って僕の顔を見ました。その後店内にいる客に視線を配ると、数秒して僕に視線を戻した。
「わかりました。普通のお客様には裏庭の存在自体教えませんので、お見せすることはないのですが、話した手前特別に裏庭に案内いたします」
「ありがとうございます」
「じゃあ、こちらへ」
木村さんは立ち上がると柱の向こうのドアを開けて戸外に出た。彼の後に続いて僕もドアを潜る。
先程話の中にあったような雑草が一面に茂った場所ではなく、庭の中央の小丘へ至る短い道が名も知れない草の間を通っている。おそらく木村さんが小道になるように庭造りしたのだろう。
小丘に三本屹立する墓石の真ん中に、グリジッドさんのお墓があった。
僕は墓石の前で膝を地面に落として、目を閉じて合掌し黙祷を念じた。
閉じていた目を開けて墓石に刻まれた文字に向けると、文字ではなく曲の旋律を記譜した楽譜であることに気付く。
「ここに記されている曲は?」
墓前で拝む僕を背後で眺めていた老紳士を、振り向いて尋ねた。
老紳士は面映ゆそうに口元を緩ませる。
「感謝の葬送曲、といったところでしょうか」
「ご自身で作曲されたのですか?」
「私だけではありません、彼に感謝する人達です。完成まで七年かかりましたが」
作曲の経過を頭に思い浮かべた様子で、恩師がそこに存在するかのように老紳士が墓石に目を移す。
僕も墓石に刻まれた楽譜を見遣る。
繰り返しの終わるFine(フィーネ)の記号が、あたかもグリジッとさんの生涯を締めくくるように最終小節に記されていた。
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