18歳
蜂矢 澪音
第1話
兄が死んだと聞かされたのはいつのことだったか。丁度中学三年の夏だったはずだ。――もう、今から三年も前の話だ。
今日みたいに蝉がうるさく鳴き、うだるような暑さが全身を襲う。そんな折、私は塾へ通い始めたのだった。
――そうか、あれは塾でのことだったか。
夏期講習というやつの、八日目だったか。部活を終えた私は――あれ、学校だったのだろうか。先生が私に真っ青な顔で話しかけてきたのも、私が立っていられなくなったのも、それで机に置いてある紙が床に散らばっていったのも、しっかりと覚えているというのに、私がどこにいたのかも、それを告げた先生の顔も、ただならぬ雰囲気に駆け寄ってきた友達の顔も、すべて――まるで闇の中に紛れているように判然としない。
ただ、一つ。その時に私の頭の中で流れ出した前年の兄の発表会で演奏した曲はずっと離れず――今でも、それは耳の奥にこびりついて私の心を締め付けている。
おかげで、BGMいらずだ。
ふと、兄の部屋に行こうと思った。感傷で止まったままだったペンを放り出し、宿題を乱暴に閉じる。どうせもう、今日は進まないとわかっていた。
廊下に出るためドアノブに手をかけると、固い感触が私を拒んだ。……そうだ、母さんが入ってこられないように鍵を掛けていたのだった。
ガチャリ、という音を手のひらに感じながら、今度こそしっかりとドアを開ける。
すぐ目の前にまたドアがある。その向こうが兄の部屋だった。
いつのまにか、昔そこに掛けてあったはずのプレートがなくなっている。母さんが外したのだろうか。いつもこの「Rui」の文字を見ないで済むように目を瞑っていた。そんな悲しい努力をしなくてよくなったのか。よくなってしまったってこと、か。
でも、これがなくなっているということは、母さんもやっぱり見るのが辛いのだ……きっと。
本当に、何で死んでしまったのだろう。
即死だったと聞いた。
あの優しい兄がバイクの単独事故を起こして死んでしまうなど――いったい誰が予想していただろうか。
こんなことなら免許を取らせなければよかった、あの時何が何でも引き留めておけばよかった、というのは母の談だ。涙混じりに吐かれたそれに、空虚な心が引き留められるなら引き留めてほしかったと応えていたのを覚えている。
もう、考えたって仕方のないことだけど。
私の部屋と同じ兄さんの部屋のドアノブ。指に触れた金属は、心なしか私の部屋のそれよりも幾分か冷たく感じた。
冷房の効いている私の部屋よりも廊下の方が暑いから、それはきっとただの心の持ちようの問題だ。
開けてみると、存外に掃除が行き届いているようだった。母さんが時々しているのかもしれない。二つ三つ、散らばったままの小物は、兄さんが死んだ時から、ずっとそのままにしているのだろう。それだけを見たら、まるで――まるで、兄さんがまだ生きていて、この部屋に帰ってきてくれるみたいに錯覚してしまう。
そんなはずは、絶対にないのに。
「優姫菜」と呼ぶ優しい低音が聞こえた気がした。幻聴だと知っていながらその声を探してしまうのは、人間の性というものではないだろうか。
「兄さん……琉生兄さん……」
机の上に、一枚だけ写真が置いてある。私と兄さんとで紅葉を見に行った時に撮った一枚。もちろん、私と兄さんのツーショットだ。
兄さんがこの写真だけをわざわざ選んで机の上に置いていた意図、それはもう今となっては永遠に知ることはできないけれど、この写真がここに置いてあるのを見つけた時から私はこの部屋を――ひいては兄さんをみるたびに、一種の優越感だか自尊心だか、そんな何かが混ざり合った言い知れない感情に酔っていたものだ。
色褪せることも、ほこりをかぶることもなく、写真立ての向こうの世界に閉じ込められたその笑顔にもう一度会いたいと、願った。けれど写真は、兄さんがかつてここにいた証を明示するだけで終わっているのだ。
くるりと四畳半の全てを見回した。
生前、よく兄は部屋の模様替えをしていた。やれ腰が痛いだの、こっちのほうが綺麗に見えるだの、何かと理由をつけてはキャスター付きの家具を引っ張るのだ。その姿を昔は不思議に感じていたのを覚えている。
そんな兄さんの部屋は、彼が死んだ日から三日後の――私にとっての、最後の記憶の通りだった。
ほこりの積もっていない生活感のあるその部屋に、変わっていない家具の配置はむしろ不釣り合い、で。
「……っ」
耐えられず、私の両目から涙がこぼれ出てくる。決壊したダムからあふれる水のようにとめどなく流れるそれが、主がいないまま止まっているこの部屋の時間を進めてしまわないように、袖で乱暴に拭って、部屋を後にした。
あの部屋と同じように、私の時間もきっと、まだ一秒も進められないままなのだろう。
今までなんか、兄さんの部屋のドアすらまともに見ることができなかったのだから。
もう、三年。だけどまだ、三年。
普通に過ごすには長いけれど、身近な誰かの死を受け止めるには、途轍もなく短い時間。――少なくとも、私にとってはそうだった。
私にとっては、まだ、たったの三年なのだ。
兄さんはこんな私をどう思うだろうか。まだ立ち直れていない私のことを。……不甲斐ない妹だと思われているのかもしれない。
でも私は、日々色褪せていく思い出も、曖昧になっていく記憶も、何一つとして受け入れられないのだ。
洗面所に五人分吊られたタオルに、五人分一緒に交換される歯ブラシ。そんなものにいちいち安心してしまう。
今や私と兄さんの間にはただ、兄さんが死んだという、そんな「事実」だけが横たわっていた。そこに双方の感情を挟み込む余地などないかのように。
もっとたくさんのことを話したかった。学校で習ったことも私が聞いた面白い話も、真っ先に聞くのはいつも兄さんだった。
もっと悪友めいたことをしていたかった。兄さんが何か思いついた時、一番に巻き込まれるのが楽しかった。心地よかった。
もっといろいろなところに連れて行ってほしかった。秘境の滝を見た時も、話題の新商品を食べた時も、いつも隣に兄さんがいた。
――もっと、ずっと一緒にいたかった。いられるものだと思っていた。
階下に降りる。廊下の先、二番目の扉。そこにもきっと、止まった時間が閉じ込められている。――私があの部屋に入らなくなってしまったから。
だけど、仕方がない。だって、兄さんがいなければ意味がない。私にとって、それでは全く意味がないのだ。
正面のリビングへ続くドアの中には、でも、行く気が起きなかった。母さんは私に、兄さんの代わりを見出そうとしている節がある。やめたはずの習い事の月謝だって払い続けているのだ。
あの日から、父さんも母さんも姉さんも――そして私も。みんな、変わってしまった。琉生兄さんが確かに残していった「軛くびき」だ。
十五も離れている姉さんと私は、どこか通じ合わないところがあったように思う。姉さんは私たちを可愛がってはいたけれど、他の場所を見ているような節があったし、私は私で時折かまってくれるお姉さんのような認識しかなかった。
でも兄さんは……三つしか離れていない兄さんは、私に対してたくさん甘えさせてくれた。ちゃんと叱ってもくれた。母さんが「優姫菜は琉生の言うことしか聞かない」なんて苦言を呈するほどに、私は兄さんにべったりだった。
姉さんとも話していなかったわけではない。ただ、兄さんと過ごした時間の方が圧倒的に長かったし、密度だって、きっと濃かった。
外に行こうと思い立ち、突き当り右の玄関へ歩き出す。涙の溜まった視界で、廊下といくつかのドアが不自然に歪んで見えた。
「誰かいるの? 優姫菜? あなた――」
母さんが物音を聞きつけたのは、誰何する声が聞こえた。とっさに近くのドアを開けて中に入る。ドアを閉めた途端、母さんの声が聞こえなくなった。
顔を上げると、視界を塗りつぶすような艶めいた黒が、その存在を誇示していた。
ああ。
この、部屋は。
風に舞ったのか、誰かが落としてしまったのか、床の上に散らばっている楽譜たちは、いったい、いつに弾いたものだろう。
いつから私はこの部屋の中央に堂々と鎮座する黒く美しいそれに、そのグランドピアノに、触れていなかったのだろう。
連弾の譜面が、兄さんと私とで、昔に確かに弾いていた音たちが、脳裏に、耳奥に、私を嬲るようによみがえってきた。その小さな幻聴に惹かれるように私はピアノの鍵盤を外気にさらし、そっと指を這わせる。
長らく誰も触れていなかったグランドピアノは、案の定音が歪んでいて。
ただ眠るばかりだった部屋の、たしかな時間の流れを感じさせられた。その事実が――譜面よりも明確に、鋭利に、私の心を深くえぐった。
きっともう、ピアノは忘れてしまったのだ。私と兄さんの指づかいを。私たちが過ごしてきた時間を。私たちに記憶され、私たちを記憶していたはずのこのピアノは、その一切合切を、正しい音とともに時の彼方へ追いやってしまったのだ。
ひどく、心細くなった。
私の望んだ思い出は、ここには残されていなかった。
兄さんはもう、私の預かり知らぬところで、いつの間にか過去の存在になってしまったのだ。
私も、認めるしかないのだろうか。だがそれは、大切なあの日々を棄ててしまうことになりやしないだろうか。それが、よりにもよって、今日なのだろうか。
ピアノは、君は、そうだと頷いているのだろうか。
私が弾いていない幾つものソロの譜面と、二人で息を合わせる連弾の譜面、そして二つ並んだピアノの椅子が、そこにいたはずの人間の存在をただひそかに暗示していて。
「…………、兄さん」
明日、私は、世界で一番大切で大好きで、見上げるほどに憧れていた人兄さんの、見られなかった未来18歳へ、到達する。
18歳 蜂矢 澪音 @HoneyRain
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