カレーは生き物 第一章~ようこそ! メルヘニック・パンクへ!!~ 5
* 5 *
机が整然と並ぶオフィスには、人影はほとんどなかった。
機材なども整理され、殺風景にも見えるそこには、深緑の髪をした女性がひとり。
彼女は口が開かれたスナック菓子の袋を三つと、コーヒーの入った大きなマグカップをだらしなく机の上に並べ、いくつも開いたエーテルモニタで忙しく作業をしていた。
「あー。ここもいいなぁ。でも旅館の空きがないか……。まぁいいや。チェックチェック。それとこっちは、いけるかな? よしっ、空きがある! ちょっと高いけど、いいかっ」
身体の線が見えるほどタイトな濃紺のパンツスーツを着こなす女性がポニーテールの髪を振りながら見ているのは、温泉街の宿泊施設の空き状況。
面倒臭かった書類仕事は先ほど処理を終え、女性は明日からの休暇のために旅行先をネットで検索していた。
「ここと、ここと、ここ、かな? 結構距離あるけど、いいか。あー。しばらく車動かしてなかったけど大丈夫かな? 最悪ホウキでいいか。まだ寒いけど」
チョコとチップスと煎餅に順番に手を伸ばし、人のいないオフィスで女性はそんなことを呟きながら、宿泊施設の仮予約申請をし終えた。
「さて、と……。課長に見つかる前に帰らないと」
椅子から立ち上がり、手を伸ばしてエーテルモニタを消そうとしたとき、すべて窓になっている廊下から丸見えのオープンなオフィスに、扉を開けて人が入ってきた。
「お疲れ、ミシェラ署員」
背後からかけられた声に、名前を呼ばれた女性、ミシェラは肩を震わせて硬直した。
「お、お疲れさまです。スミス課長」
ニコニコとした笑みを見せて近づいてきた男性は、課長のジョン・スミス。
白髪交じりのグレーの髪をオールバックに決め、グレーのスーツをピシリと着たスミス課長は、ミシェラの上司。その冗談のような名前は本名なのか、それとも通り名なのかは、課に所属する人たちの間でも話題になるが、真相は不明だった。
スミス課長は開いたままのエーテルモニタにちらりと目を走らせるが、にこやかな笑みは崩さず、ミシェラの肩に手を置いた。
「大変だったみたいじゃないか。本当にお疲れさま。お手柄だったね。君だからこそ解決できた事件だと思うよ」
ミシェラが勤めているのはWSPO。ワスポとも呼ばれる、世界システム警察機構。
世界どころか宇宙までが身近となり、しかし国というまとまりが限りなく薄くなってしまったいまの地球には、それでも統一政府のようなものが生まれることはなかった。
各自治体が規模を大きくし、街とその周辺を収めるようになったいまの世界で、自治体間で共通して守るべきルールを定めるために設立されたという世界システム会議、WSM。
上層部が誰ひとり公開されず、謎だらけで色々噂も多いWSMは、その理念が充分に機能しているがために、いまの世の中で受け入れられている。
WSMの下部組織であるWSPOは、各自治体が組織したり契約している警察機構とは別に、自治体をまたがって起こる事件や犯罪の捜査を行う組織として設立された。
ミシェラは今朝まで担当していた事件に懸かりきりで、三週間かかってやっと解決し、二ヶ月近く取れていなかった休暇を明日から取る予定だった。
「本当に大変だったんですよ!」
何かを言おうとしているスミス課長に先んじて、ミシェラは彼に噛みつくように言う。
「亜光速魔導レールガンや空間消滅ミサイル程度ならともかく、もう少しでエーテル場断層弾まで投入されるところだったんですから!」
「そんなものまであそこにはあったのか」
「報告書はさっき送りましたから、ちゃんと読んでおいてください!」
ミシェラが担当していたのは、遥か昔に製造された兵器が使用されているという事件だった。
いまから二百五十年ほど前、すっかり魔導世界となった地球で、まだかろうじて残っていた国の威信とやらをかけて勃発するはずだった、最初の魔導兵器が配備された世界大戦。
戦端が開かれる直前、突如発生した自然災害により、戦場となるはずだった場所では一切の魔導兵器が使用不能となり、ぐだぐだになってただの一度も戦闘が行われることなく終結を見た。
通称、世界魔導「不」大戦。
その当時製造された兵器の中には地球環境を破壊するどころか、ヘタをすると太陽系そのものが消滅しかねない物騒極まりないものまであったとかで、まだ戦争を懸念する多くの国は解体せず厳重に封印を施したとされる。
とある自治体が治める街の近くで勃発した今回の事件は、その世界魔導不大戦当時の兵器が発掘され、使用されていると思われた。しかし兵器の管理責任があるはずの国家はすでに消滅済み。
そのためにWSPOが事件解決を担当することになり、ミシェラが奔走することになった。
戦っている二勢力のそれぞれが、大型ミサイルの弾頭に地球程度なら簡単に消滅させられるエーテル場断層弾を搭載し、発射態勢に入ったところで、かろうじて間に合ったミシェラたちWSPO捜査官が乗り込んで犯人の確保に成功したために、世界の危機は免れた。
回収された兵器は、博物館や一般の好事家に無力化を条件に払い下げられ、事件は解決した。
問題を先送りにしただけのような気もしていたが、ミシェラはこれ以上その事件に関わり合いたくなかった。
戦っていた二勢力の争いの理由というのが――。
「信じられますか? 課長!! スープの味が濃かったとか薄かったとか、それが原因で始まった夫婦喧嘩で、太陽系を危機に陥れたんですよ?!」
「はははっ。それは凄い理由だね。いや、まったく」
怒っていいのか萎えていいのかわからないその理由に、ミシェラはとりあえず怒ることにして、ヘラヘラと笑っているスミス課長に詰め寄って犯人の代わりに責め立てる。
魔導世界前後の古いものを発掘したり流通したりで生計を立てている夫婦は、世界の危機を起こしながらも、捕まった後は仲直りしたそうで、バカップルのような甘い言葉を留置されている場所でかけ合っているという。
ミシェラ個人としては、そんなはた迷惑な夫婦は死刑にでもしてほしかったが、いまどき死刑制度などはなく、防御魔術が付与された服を着ていれば現場の判断で射殺することも叶わず、致命傷を負わせられても法廷に出るために死んだ直後なら魔導医療で復活させられてしまう。
高い技術と財産はあるようだから、少しすれば釈放されてくるだろうが、魔導兵器さえまた掘り当てなければ今回のような事件を起こすことはないだろうと思われた。事件を再発させそうな仕事やっていることは気がかりだったが。
一時の感情で高ぶってしまった気持ちを深呼吸で抑え込み、姿勢を正したミシェラは課長に向かって宣言する。
「そんな大変な事件やその前の事件でもう二ヶ月も休みが取れていないので、明日から――」
「あぁー、それなんだがね、ミシェラ君」
両肩を強くつかまれ、顔を近づけられたミシェラは思わず言葉を飲み込んでしまった。
――しまった!
と思ったときにはもう遅い。
「今日の昼間にちょっとした事件が発生してね」
「いや、私は今朝まで――」
「なに、たいした事件ではないようなんだよ。ほら、これを見てくれ」
言ってスミス課長が開いたエーテルモニタに映し出されたのは、素人が映したと思われる、明らかにヘタなアングルの怪獣映画。
いや、ライブ配信されていたものを保存して再生したものであることが、隅の表示でわかる。
「怪獣退治、ですか? それこそ自治体の警務隊か、魔法少女辺りの仕事でしょう? 現地で起こってる事件なんですし。それでなければ、うちなら退治業務は執行部隊が管轄ですし」
「そうではないんだよ。この怪獣は昨日の朝に配信が開始された料理魔術の暴走で生まれたものでね。怪獣そのものは魔法少女たちによって処理が終わっているんだが、料理魔術の暴走の方はいま現在も暴走が発生していて、これまでに数十件ばかり報告が寄せられている。この怪獣ほどのものは他に例はないようなんだけどね、暴走によって不可思議なものが生まれ続けているようなんだよ」
ニコニコと笑いながらも、有無を言わせぬ迫力を発するスミス課長に、ミシェラは口を挟む隙を見つけられない。
「魔術の方は鑑識課で解析中なんだが、カテゴリー二の割に何しろ巨大なスペルコードでね、解析には最低でも一週間、場合によってはひと月近くかかりそうだということなんだよ」
「で、でも、個別の暴走事故は、WSPOの出る幕ではないですよね? 各地の警務隊で対処すべきことで……」
「いやいや、いやいやいや」
どうにか口を挟んだミシェラの肩をばんばんと叩き、スミス課長はロマンスグレーにしてはにこやかすぎる笑顔で言う。
「やってもらいたいのは暴走の原因調査と、犯人がいるような事件ならそれの逮捕などだよ」
「いや、あの、ですね……。私はほら、二ヶ月ほど休みを取っていないわけで……。今朝までかかって事件を解決したところですし……」
「わかってる。わかっているんだがね、ミシェラ君。だがほら、見てみてくれよ」
そう言って課長はミシェラの小柄な身体をくるりと振り向かせ、捜査課のオフィスを見せる。
オフィスにいるのは、ミシェラとスミス課長のふたりだけだった。
「捜査課は人手不足でね、いま手が空いているのはミシェラ君しかいないんだよ」
「で、ですがね? 課長? 私も休みを取らないと――」
「まぁたいしたことのない事件だと思うから、大丈夫だよ。たぶんね。君だから頼めるんだ。くれぐれも頼んだよ。あ、捜査は明日から始めてくれていいから。今晩はゆっくり休んでくれ」
事件に関する情報が詰まっているらしい、動画を映していたエーテルモニタを縮小して投げ渡してきた課長は、踵を返してオフィスから出て行ってしまう。
反射的に受け取ってしまったエーテルモニタを手の中で握りつぶすようにして自分のストレージエリアに送り込んだミシェラは、追いかけることもできずに深く、深く、地獄よりも深いところに届くため息を吐いた。
「あーーーーっ! もうっ!!」
叫び声を上げたミシェラは、ポニーテールが解けてしまうのも気にせず髪をかき乱す。
スミス課長はミシェラにとって大恩のある人。
何をするでもなく、生きる目的もなかった彼女を、WSPOに入れて鍛えてくれたのは彼だ。
その課長が頼むと言うなら、最終的には断れないのはわかっていた。
けれど、タイミングが悪すぎる。
まだ開いたままだったエーテルモニタで、宿泊所の仮予約を全てキャンセルしたミシェラは、チップスを鷲づかみにして口に頬張る。
「やってやる、やってやるわよ! さっさと解決して一週間くらい休みを取ってやるわよ!」
人のいないオフィスで叫び声を上げて、ミシェラは机に拳を叩きつけた。
思い出すと、前回の事件を解決したときも同じようなことを言っていた気がしたが、忘れることにした。
スミス課長らしくきっちりとまとまっている事件の概要と、これまでわかっている状況をエーテルモニタで確認し始めたミシェラは、それでももう一度、深いため息を漏らしていた。
*
怪獣をやっつけた上に、芋煮会を開催できるようにしたことで、大量にもらったジャガイモ。それを使い、いろんな野菜と鶏肉を入れたクリームソースグラタンは、キーマにも好評だった。
ピーマンは「上げる」と言われて全部僕のお皿に投入されてしまったのが悲しかったが。
実年齢二日なのはともかくとして、キーマくらいの年頃ならピーマンが苦手なのは仕方ない。
「キーマ。あとひと口だよ」
「うんー。食べるぅ……」
昼間に芋煮会で結構な量食べてたし、はしゃいでばっかりいたキーマは、夕食の最後のひと口を飲み込んだ後、よだれを垂らしながら船を漕ぎ始めた。
「寝る前に歯磨きするから、口開いて」
「うん……」
目を閉じたまま口を開いたキーマに、細いブレスレット型の魔術具で歯磨き魔術をかけ、綺麗にする。身体の内側はダメだけど、体表面近辺ならエーテル場の影響はほとんどないから大丈夫。
もうすっかり眠ってしまってお風呂は無理そうだから、ついでにお風呂代わりの身体洗浄魔法を使い、そのまま抱えてロフトベッドがある斜めのハシゴを気をつけて上がり、キーマをベッドに寝かせた。
「……大変そうね」
「うん、大変だよ」
食器をキッチンに持っていってくれたロリーナが、呆れたように言う。それに応えて僕は彼女の碧い瞳をじっと見つめると、目を逸らされた。
キーマの世話を僕に押しつけてることには、さすがのロリーナも多少の罪悪感があるらしい。
料理は下手なのに、それだけは僕よりも得意な紅茶をロリーナが淹れてくれ、彼女と向かい合ってテーブルに着く。
外はすっかり暗くなっているのに、まだ帰るつもりのないらしい彼女に、僕はついでにグチを零すことにする。
「本当に大変なんだよ? 元気がいいから暴れ回るし、食事も結構好き嫌いあるみたいだし、お風呂も遊んじゃって昨日は凄いことになったし――」
「お風呂、克彦が入れてるの?」
「そ、そりゃあ、ね? だってほら――」
「エッチ!」
「いやいやいや! だって、キーマだよ? そういうのじゃなくて!」
頬を膨らませて上目遣いに僕を責め立てる碧い瞳に、僕は慌てて釈明する。
確かにキーマは愛くるしいくらいに可愛いけれど、あんな幼い女の子にそんな感情を抱くような趣味は、僕は持ち合わせていない。
――そう思えば一〇年後、結婚しようって言われたっけ。
この先キーマがどうするかはまだわからないけど、一〇年後の彼女は、いまのロリーナに似て美人な女の子に成長することだろう。
身体を乗りだして僕を睨んでくるロリーナの胸は、男の僕じゃ絶対にそんなことにならないけど、ブラウス越しにテーブルに押しつけられ、柔らかく形を変えてるのが見える。
そのときになったらキーマも、なんて考え始めたとき、何かを察したようにさらに険しくなったロリーナの視線に我に返る。
「……今度は、ロリーナが代わりにお風呂、入れてくれる?」
「うっ。えぇっと、か、考えておくね」
幼い頃から大人びていた彼女は、キーマみたいな幼い感じの子供は苦手気味だ。
睨んでいた勢いを失い、そっぽを向いて紅茶のカップを傾ける彼女に、僕は苦笑いを漏らしていた。
「これから先、キーマのことはどうするつもり?」
「ん……」
問われるとは思っていた。
ロリーナに押しつけられたからだけじゃない。僕は進んでキーマの世話を焼いている。
キーマをこれからどうするかは、ロリーナとも相談しないといけないと思っていたけど、僕なりに昨日からの一日を使って考えてはいた。
一番最初、魔術で生まれたあの子に対して、いつ魔術の効力が切れるかとかの不安があった。
でもそれについては、サリエラ先生に検査してもらった結果を見る限り、心配はなさそうだった。
だったらその後を考えなくちゃいけない。
キーマはこれから先、生まれ方は特殊であっても、この世界に住む人間のひとりとして、生きていかなくちゃならない。人間として生きられるならば。
僕の奥底を覗き込むように、碧いふたつの瞳が見つめてくる。
この世界での僕の生い立ちを一番に知っているロリーナは、僕がキーマに対して思っていることも、こだわる理由も知っている。
知った上で、彼女は僕に問うてくる。
「あれくらいの子供を世話するのは大変なの、わかってるよね? 実感してると思うけど」
「うん」
「キーマを生み出したのはわたしだってのはわかってるから、できればうちで引き取りたいとは思ってる。でもいまは、ママが忙しくて出払ってるから、しばらくは相談することもできないの。克彦があの子にこだわるのもわかるけど、手を負い切れなくなることもあるかも知れない」
「うん、わかってる。僕はそれを、キーマ自身に決めさせてやりたいと思ってる」
碧い瞳に僕を映して、わずかに目を細めたロリーナの視線をしっかり正面から受け止める。
「キーマに決めさせるって言っても、いまのあの子じゃそこまでの判断、できないでしょ?」
「だから基礎インプリンティング学習を施してもらうつもりだよ」
「でもあれは、住民登録してないと受けられないから――」
「僕だって、あのときはそうだったろ?」
この世界に僕が来てしまったのは、僕がロリーナと出会ったのは、いまのキーマの身体年齢と同じ、四歳くらいのとき。
異世界漂流者なだけに身元がはっきりしなくて、特殊な体質のこともあって、すぐにはネオナカノの住民登録ができなかった僕に、どうしていきたいかを問うため、ロリーナが手を回して基礎インプリンティング学習を施してくれた。
そのこともあって、僕はいまこの世界に生きている。
僕はあのとき、たくさんの人に世話になった。そして何よりロリーナに、たくさんのことをしてもらった。
「この世界への発生原因は違うけど、僕とキーマは同じだ。だから僕は、キーマにも自分がしてもらったようにして上げたいと思ってる」
笑みはなく、引き締めた表情で見つめてくるロリーナに、僕ははっきりと言う。
「あのとき、ロリーナが僕にしてくれたみたいに」
「……うっ」
何かを喉に詰まらせたみたいにうめき声を上げた彼女は、急に顔を赤くして乗りだしていた身体を大げさに後ろに引いた。
「キーマが生まれたそもそもの原因はわたしだし、克彦がそこまでして上げたいって言うなら、手伝うよっ。本当、克彦は言い出したら聞かないし、仕方ないんだから!」
顔を赤く染めて慌てたように言うロリーナは、いつもは大人びて見えたりするのに、いまは僕と同い年の普通の女の子に見えた。
「そんなこと言って、ロリーナだってあの解除魔術、つくってくれてたんでしょ? たぶんキーマと、僕のために」
「うぅ……。いや、それは、ね? もしかしたらキーマがあの怪獣みたいに材料に戻りたいって思うかも知れないって、思って……。あの子の身体はどれくらい安定してるかわからなかったから、わたしの失敗でもあったわけだし、いざというときのために料理魔術を解析して対策を立てることくらい、ね?」
美しくて、僕が近くにいるのは畏れ多さを感じてしまうことだってあるのに、たじろいでいる彼女は親しみやすくて、何だか笑ってしまう。
自分がやったことを指摘されるのは苦手なのは知ってるけど、僕は僕で、ロリーナがやってくれていたことに感謝したかった。
「キーマのことはできるだけ僕がやる。僕がそうしたいから。でも、ロリーナ。ありがとう。いつも僕のことを助けてくれて」
「うっ、うん……。しっ、仕方ないでしょ。わたしと、克彦の仲なんだから」
「うん」
もう恥ずかしさで堪えられないように身体を震わせてる彼女に、僕は精一杯の笑みを見せていた。
初めて出会った頃も、彼女はこんな感じだった。
言わなくても僕のことを助けてくれて、率先して自分のできること、得意な方面のことをやってくれて、結果を見せつけてくれる。
そんなロリーナのことが、僕は好きだ。
ひとりの、女の子として。
彼女に釣り合わない僕はこの想いを告げることなんてできないけれど、ずっと抱いていきたいと思う。
この世界に来てひとりぼっちの僕に手を差し伸べてくれて、たくさんのものをくれるロリーナのことを、あのときからずっと好きだった。
*
友達の家に遊びに行こうとしたのに、気がついたら知らない場所にいた。
階段を上った憶えなんてなかった。それなのにずいぶん高いところにいるみたいで、吹き抜けていく風は冷たかった。
僕はたくさん歩いた。
知っている場所に出ないかと思って、たくさんたくさん歩いた。
ビルか何かの外なのか、階段がたくさんあって、でもコンクリートとは違うように見える建物の中に入れる扉は見つからなくて、たくさん歩いて疲れてしまった僕は、もう歩けなくなっていた。
空は、どこまでも抜けるように青かった。
東京の水色にくすんだ空ではなくて、碧く抜けるような空は、綺麗だけど寂しかった。
歩き疲れて動けなくなった僕は、金属製の階段の途中に座り込み、泣いていた。
同じところをぐるぐる回ってるみたいで、知ってる場所にはいつまでも出られなくて、人とも出会わなくて、どうすることもできなくて、ただ寂しかった。
泣く以外のことは、もう何もできなかった。
「邪魔」
抱えた膝の間に顔を押しつけて鼻をすすっていたときに、そんな舌っ足らずな、可愛らしい声がかけられた。
顔を上げた僕は、思わず寂しさを忘れた。
白いレースやフリルで飾られた水色のワンピース。
静かな川のように流れる金色の髪。
怒りで歪められていても愛らしい顔立ち。
僕のことを厳しく見つめる碧い瞳は、空の青さよりもさらに深く、苛立ちを湛えているのに、そこに吸い込まれてしまいそうな気がした。
たぶん僕と同じ四歳くらいの女の子の綺麗さに、僕は泣くのも忘れて見惚れてしまっていた。
そんな僕を、何故か手に持っているホウキで叩いてせき立てどかした女の子は、階段を上って行ってしまう。
「ま、待って!」
こんな不思議なところに来て初めて出会った人だ。逃すわけにはいかなかった。
「何? 何か用なの?」
さっきよりもさらに不機嫌そうに振り返った女の子に、ちょっと怖くなりながらも僕は勇気を出して問う。
「ここは、どこなの?」
「どこって、それは……。んん?」
苛立った様子はそのままに、小首を傾げた女の子は、ホウキを回し先端で円を描く。
「ついさっき、異世界から迷い込んできた人? 何かヘンな体質も持ってるみたいだし……。歩いていればそのうち人がいる場所に出られるから、歩き回っていなさい。誰かに会ったら、その人に区役所にでも連れて行ってもらえば?」
「え?」
突き放すように言った彼女は、階段を上って行ってしまう。
だけど僕はたくさん歩いて人に出会えなかったんだ、彼女を追っていく以外にいまやれることはない。
女の子にしては早足で、時々振り返って邪魔そうに顔を歪めてるけど、彼女は走って僕のことを突き放したりはしなかった。
やっと女の子が立ち止まったのは、さっき僕が泣いて歩けなくなっていた場所から、ずいぶん高く上がった場所。
展望台のように柵の向こうに景色が広がるそこからは、僕が来てしまった場所を見渡すことができた。
東京タワーの特別展望台に上って、景色を見たことはあった。
でもここから見える景色は、東京のとは大きく違っていた。
高い山から見ているように、地上にあるたくさんの緑は木だと思うのに、ひとつひとつを見分けることはできなかった。
どこまでも家やマンション、道が続いていた東京と違って、地面にあるのは森と、たぶん広い畑。
そして僕は、いまいるこの場所が、街であることを知る。
山よりも高いくらいの場所から見下ろすと、間を空けて積み重なった板の上に、家やマンションが建っているのが、端っこだけ見えた。
遠くに見えるのは、たぶんここと同じ街。
卵型だったり、三角形だったり、柱のようだったりする街が、いくつも見えていた。
――僕は、こんなとこに来ちゃったんだ。
もう友達にも、お父さんとお母さんいも会えないんじゃないかと思った。
でもそれよりも、この不思議で、もの凄い風景を、ただ見ていた。
まるで映画の中に出てきた未来の世界みたいだった。
僕に起こっていることは、まるでファンタジーのゲームみたいに思えた。
あまりに現実離れしすぎてて、僕は自分が童話の世界の登場人物になったようだ、なんてことを考えていた。
ただ呆然と景色を眺めている間に少しずつ太陽が傾いていき、空はだんだんと赤く染まっていっていた。
僕から少し離れた場所で同じ風景を眺めている女の子は、ひと言も言葉を発していない。
ただ僕と同じように、風景を眺めてる。
そう思ったけど、違っていた。
彼女の横顔に見える碧い瞳が、微かに揺れていた。
唇は噛みしめられていた。
彼女が何を考えているのかはわからなかったけど、でも僕にもわかることがあった。
「何を、そんなに悩んでるの?」
思わず、僕はそう問うていた。
「え?」
びっくりしたような顔で僕を見た女の子。
涙は流れていないけど、泣きそうにも見える彼女が、何かに悩んでいるのはわかった。
僕に話してもらってもどうにもならないのはわかってる。
僕と彼女は、たぶん違う世界に生きてる人間だ。遠い存在だ。
でも僕は思ったんだ。
――この子には、笑っていてほしい。
だからもう一度訊いた。
「なんでそんなに悩んでるの? もしよかったら、僕に聞かせて」
「聞いたところで――」
「うん……。たぶん何もできないと思う。でも話したら、少しは楽になるかも知れない」
前にそう言って僕の悩みを聞いてくれたのは、お母さん。
微笑みながら僕の言葉を残さず聞いてくれたお母さんの顔を思い出して、ちょっと泣きそうになったけど、それを飲み込んで女の子の言葉を待つ。
「わたしは……、うん。悩んでる。わたしはいま――」
語り始めた女の子の言葉を、僕は逃さず聞こうと集中する。
話してくれたことに相づちを打つだけじゃなくて、できるだけ返事ができるように、勉強のときもしたことがないくらい、頭を使う。
それからたくさん、たくさん話をした。
夕焼けが終わりに近づいて、数え切れないほどの星が東の方から瞬き始めるまで、僕と女の子は話を続けた。
必死で、一所懸命で、聞いたときには答えられても、難しい話でもあったから、僕はほとんど女の子が話してくれたことを憶えられなかった。
それでも彼女は、最後に笑ってくれた。
――うん。やっぱり、凄く綺麗だ。
夕日の残りに赤く照らし出される女の子の笑顔は、本当に綺麗で、僕はまた、見惚れてしまっていた。
「わたしはロリーナ・キャロル。友達になりましょ。貴方の名前は?」
言いながら差し出された女の子の、ロリーナの手。
握手なんてしていいのかわからなくて、でもロリーナが眉根にシワを寄せたのを見て、仕方なく僕は服で拭ってから自分の手を恐る恐る差し出した。
素早く伸ばされた彼女の手に、僕の手は包まれる。
いままで経験したことがないくらい、僕の心臓がドキドキし始めた。
僕に向かって笑ってくれるロリーナの碧い瞳から、目を離すことができない。
彼女は僕とは違う世界に生まれて、違う世界に生きてる人だ。
遠い場所に住んでる女の子だ。
僕には彼女の隣に立つことはできない。友達になってと言われただけで、凄いことだ。
そんなことを、僕は思っていた。
だってそれくらい、僕と彼女は違っていたから。
「僕は、音山克彦」
「うん。よろしくね、克彦。いまから貴方は、わたしの一番大切な……、友達だから」
夕日のためか、少し頬が赤くなっているように見えるロリーナ。
満面の笑みを浮かべる彼女と握手をしながら、僕は思っていた。
――僕は、この子のことが好きだ。
たぶん、最初に彼女が声をかけてくれたときからそうだったんだ。
でも改めて、僕は彼女への気持ちを確認した。
綺麗で、凄くて、笑顔が可愛いロリーナ。
この世界のことを何も知らず、違う世界から僕は、彼女には絶対釣り合わない。
それでも僕は、彼女が好きだと感じてる自分を、どうすることもできなかった。
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