カレーは生き物 第一章~ようこそ! メルヘニック・パンクへ!!~ 2



          * 2 *



「おはよう、克彦。……どうかしたの?」

「あぁ、ロリーナ。おはよう」

 朝になり、食事を終えて制服のブレザーを着た僕がアパートの部屋から外に出ると、もうロリーナが扉の前で待っていた。

 身体にあんまり力が入らなくて、肩を落としてる僕に対して、ロリーナもなんでか目の下に隈をつくって、げっそりした顔をしていた。可愛い顔が台無しになりそうだけど、それでもやっぱり彼女は美しい。

 昨日と同じ改造済みの純白のブラウスにフリルが飾られた濃紺のプリーツスカート、それからやっぱり改造してある上着を羽織る彼女は、基本はホウキのように、長い持ち手と下端に膨らんだ部分はあるけど、見方によっては大型ライフル銃のようにも見える、金属製の魔導ホウキを片手に持っている。

 魔導ホウキは個人用の移動手段として、たいていカテゴリー二のエーテルアンプとマナジュエルを搭載してる。

 でも改造してカテゴリー三に近いものを搭載してるロリーナのそれは、出力関係だけじゃなく物理的にも強靱な、ロリーナスペシャルなホウキだった。

「どこいくのー?」

 僕がげっそりした顔をしている原因である声が聞こえてきて、奥からやって来た。

 ロリーナに一瞬むっとした視線を向けてから、僕に笑いかけてきてくれるのは、キーマ。

 昨日の午後から一緒にいる彼女だけど、まだ十四歳で、独り暮らしをしてる僕には、幼い女の子の相手というのは、予想以上に大変な仕事だった。

 まだキーマは聞き分けがいい方だろうからマシなんだと思う。

 それでも何にでも興味を持つ彼女は、僕の部屋で盛大にいろんなことをしてくれた。

 ネットから育児関係の情報を拾い上げて見たりはしていたけど、そんなものは事前に準備をしているからこそ意味があるもので、キーマに対しては何の役にも立たなかった。

「おはよう。キーマって名前になったんだね」

「んっ。……おはようっ」

 ロリーナの挨拶の声にキーマはちゃんと答えるけど、すぐにそっぽを向く。ふたりの仲の悪さ、というか、キーマがロリーナを嫌ってる理由は、よくわからない。

 本来ならロリーナがキーマの生みの親なんだし、生まれ方が普通じゃないからそういうのはないのかも知れないけど、あっちに懐いてもいいんじゃないかと思えた。

 ――思えばロリーナがママで、僕がパパって設定、なのか?

 ふとそんなことを思って、僕はちょっと嬉しくなるのと同時に、なんだか悲しくなる。

 学校では絶大な人気があるロリーナ。そして彼女の人気は、学校内だけに留まらない。

 そんな彼女が僕に構ってくれるのは幼馴染みだからこそだろう。

 僕がパパで、ロリーナがママで、キーマが子供という設定は、ある意味凄く嬉しいんだけど、それが現実になることがないというのが、悲しくもあった。

「やっぱり、消えなかったんだね」

「え? うん。え?」

 駐機場に向かって歩き始めた僕に、ロリーナが耳元で小さく囁く。

 目の下にくっきりとした隈がある彼女は、夜遅くまで、もしかしたら朝まで寝ずに何かをやっていたらしいことはわかった。

 僕にキーマを押しつけて、ロリーナが少しも手伝ってくれなかったことに不満はもちろんある。

 ただ、幼い子供が苦手なのはよくよく知ってるし、それに彼女は、迷惑を僕にだけ押しつけて、何もしてくれないような無責任な性格もしてない。

 キーマを放って置いてママのロリーナが何をしていたのかはわからない。

 十年もの間、ロリーナとの関係が途切れてない僕は不満はあっても、割と責任感の強い彼女は、僕にできない何かをしてくれてたんじゃないかと思えた。

「後で説明する」

「うん、お願い」

 顔を引き締めてそう言うロリーナに、キーマの手を引く僕は、同じように顔を引き締めて答えていた。

 駐機場からスカイバイクを出し、ロリーナと並んで歩いて発着場まで向かってるとき、背後から革靴の足音が聞こえた。

 イヤな予感。

 でも、振り向く以外にはない。

「うわっ……」

「きゃーーぁ!」

「はぁ……」

 僕の驚きと、キーマの悲鳴と、ロリーナの呆れ声はほとんど同時だった。

 一瞬前まで気配すらなかったのに、いつの間にか僕たちの後ろに現れていたのは、きっちりと黒いスーツを着た人物。

 ただし、顔がおかしい。

 特徴的な顔をしてるってだけならまだマシだ。

 目はなく、前後に長くてわずかに弧を描き、僕の拳よりも小さそうな口から、キシャー! とでも言いそうな、その顔。

 緑色でねっとりとした粘液質の表皮をしているそれは、B級映画に出て来そうな、エイリアンの頭部そのものだった。

「お、おはようございます。モンスターギュ男爵」

 バイクの上に座るキーマはしがみつくようにしてくるが、僕はできるだけ冷静に挨拶をする。

 怪物の顔で頷きを返してくれるその人物は、モンスターギュ男爵と呼ばれる、人。

 本名かどうかはわからない。人間なのか、ファントムなのか、異星人なのかすら誰も知らない。

 一切喋ることはなく、喋ったのを聞いたことがあるという話も聞かないから、本当に正体不明で、ネオナカノの住人なのかもわからず、ここで出会う人物の中でも一番くらいに不思議な、たぶん人。

 必ず身体はスーツをきっちり着こなし、今日はエイリアンだけど、出会う度に違っている頭部は何かしらのモンスターなので、見た目で判別が着く。彼の名前はその頭部だからつけられた愛称なのかも知れない。

 噂ならいろいろあるが、どんな人物なのかは誰もよくわかっていない。

 普通にしていればたいてい人畜無害なのはわかっていた。

「探し物は見つかりました?」

 ロリーナがそう問うと、彼は両手を上に向けながら大きく肩を竦めて見せる。

 正体不明でよくわからないモンスターギュ男爵だけど、名前と一緒にわかっていることがあった。

 いつも、何かを探しているということ。

 それが何なのかは、声を発することもなければ、文字での会話もほとんどしてくれないから、知られていない。

 それでもいろんなところに出没して、何かを探し続けていることだけは、確かなようだった。

「ひっ」

 悲鳴を上げたのはキーマ。

 顎、らしき場所に白い手袋に包まれた手を当てて、モンスターギュ男爵はじっくりキーマのことを、目のない顔を近づけて眺めてる。

「大丈夫だから」

「でも……。パパ、怖い……」

 四歳くらいの女の子が見たら、そりゃあいまのモンスターギュ男爵のようなグロテスクな顔は恐怖の対象だろう。

 でも静かにしていれば、ヘタなことをされることは、滅多にない。

 キーマの肩に腕を回して軽く叩いてやりながら、僕は見つめてくるモンスターギュ男爵の行動が終わるのを待つ。

 何に納得したのか、満足そう、にも見える頷きを何度もした彼は、次に僕とロリーナのことを交互に見つめてきた。

 ――抑えてくれよ、ロリーナ。

 学校に向かうはずが足止めを食らって、けっこう短気なロリーナが、そろそろ不機嫌そうに顔を歪め始めてる。彼女はモンスターギュ男爵が相手でも、理不尽なことをしてくる人に対しては容赦をするタイプじゃない。

 僕の心配は杞憂に終わったようで、また何かに納得したらしいモンスターギュ男爵は何度か頷き、上着のポケットに手を突っ込んだ。

 取り出したのは、何かのスイッチ。

 手に握り込めるくらいの円筒形で、白い筐体の先端に、赤いボタンがある。似ているものを想像するなら、爆弾の遠隔起爆スイッチ。

 でもスイッチだけあっても仕方ないし、何に使うものなのかはわからない。

 モンスターギュ男爵はそれをロリーナの左手を取って渡し、握り込ませた。

「何なの?」

 不機嫌そうに眉を顰めるロリーナに、彼は肩を竦めて答えようとはしない。

 そのまま背を向けて歩いて行ってしまった。

「……どうするの? それ」

「さぁ、どうしよう。ヘタに捨てられそうにないしね、あの人が押しつけてきたものなんて」

 モンスターギュ男爵は、本人が何か問題を起こすことは少ない。いや、あの恐ろしい顔を見たら、驚いて転けたり逃げ惑ったりする人は少なくないようだけど。

 仕事とかは何してるか知らない。たまに人に発明品か何かの物を渡すことがあって、たいていは何の役にも立たないガラクタなんだけど、たまに魔導的に飛んでもない物もあって、それを使った人が事件を起こしたり、悲惨な目に遭ったりという話は聞いたことがあった。

 ロリーナの見つめてる物もいったいどんなものなのかわからない。

 指でつまんで彼女が眺め回してるボタンの部分には、よく見ると「REDO」という文字が、微かに書かれてるのが見えた。

 ――レド? 人の名前かな? 本当になんなんだろ。

 周囲を見回してまたモンスターギュ男爵が現れないかと警戒してるらしいキーマをバイクに座り直させて、僕は発着場へと歩き出す。

「行こう」

「ん。そうだね。学校に遅れちゃう」

 そんなことを言うロリーナは、遅刻したりサボったりが多いような気がするけど、気にするのは止めてバイクにまたがり、横座りにホウキを構えたロリーナと、空路へと舞い上がった。



            *



 一度息を飲み込んでから、僕は思いきって教室の扉を開ける。

「おはよう」

 そう声をかけながら中に入ると、みんなは一斉に僕たちの方に目を向けてきた。

 それもそうだろう。

 学校で絶大な人気を誇るロリーナと一緒に学校を通ってるのは幼馴染みってことで見逃されてるけど、肌の色は白と褐色で違うにしろ、面影がロリーナに似てるキーマと僕が手を繋いで教室に入れば、視線を集めるのも仕方ない。

 この学校、セントラルナカノ学園ことCNGに去年入学して以来、すでに告白された回数は三桁を超え、メッセージや古風な手紙のラブレターなどは四桁に達するというロリーナと、特別良いところもなく、成績も運動神経もぱっとせず、あんまり公表はしてないけど異世界漂流者であることくらいしか特徴がない僕とじゃ、釣り合うはずもない。

 恋愛の可能性もなく幼馴染みというだけでロリーナが構ってることで、僕は男子だけでなく女子からもヘイトを集めていたりする。

 その上ロリーナに加え、キーマと登校してくるなんて、一大事と言っても過言ではないだろう。

 ――事前にロリーナが先生には連絡してくれてたけど、クラスのみんなには伝わってないみたいだからなぁ。

 何かを警戒してるのか、それとも驚きすぎているのか、遠巻きにして近づいてこないクラスメイトに、僕は緊張を覚えつつも何歩か教室に入っていく。

「あの……。どうしたの? 音山君。もしかしてその子、ロリーナとの、その……」

 背後から恥ずかしげな、か細い声がかけられる。

 声の感じからすると、小柄で細い女の子を頭の中に思い浮かべることができる。それくらい可愛らしい声だ。

 でも、振り返ったそこにいるのは、分厚い装甲。

 普通の人の何倍もある身体の厚みと、二メートルを超える身長の人型ロボットと思しき、重機動装甲兵にしか見えないその人は、人間ならば口があるはずの場所に、僕の細い腕ほどありそうな指を当て、躊躇いがちに問うてくる。

「ロリーナとの間に子供つくったの?!」

「そんなことあるわけじゃないじゃないか、稲生(いのう)さん」

 おろおろとしている重機動装甲兵の名前は、稲生紗理奈(さりな)さん。僕やロリーナより一歳年下の十三歳。

 見た目はどこからどうみても重機動装甲兵だけど、彼女は立派な女の子。

 魔導があり、科学も発展していて、ほとんどの病気や身体の不都合は治せるし、延命だって若返りだっていろんな方法があるメルヘニック・パンクな世界だけど、すべての病気や体質が治せるわけじゃない。

 稲生さんは生まれつき身体が弱く、魔導医療でもそれを改善できなくて、幼い頃に身体の機械化に踏み切った女の子だ。

 弱い身体がコンプレックスだったらしく、だんだんと身体を強く、強靱にしていった結果、いまの身長約二メートル、乾燥重量五〇〇キロを超える重機動装甲兵、ならぬ重機動装甲乙女へと変化していったのだと言う。

 声はもちろん、性格的には完璧にか弱い女の子で、見た目のギャップもあってか密かに人気が高い。もちろん、この見た目が好きな男の子に限るみたいだが。

 しかし稲生さんには幼い頃からつき合いのある彼氏がいて、CNGに入学するのと同時に半同棲状態に突入しているという。当然、その彼氏も重度のメカマニアなわけだけど。

 稲生さんはある意味先端だけども、クラスメイトのラインナップは彼女程度は序の口だ。

 教室内にいるのはグレイタイプだったり岩石型だったりする異星人を手始めに、制服のブレザーの上に羽衣を纏っている天女系ファントムだとか、モニュメントにしか見えない一応ファントムだとか、様々な人がいる。

 一番多いのは僕やロリーナと同じ普通の人間だけども。

 ネオナカノでは学校は義務だけど、教育期間は他の自治体と同じく三年。

 入学年齢も六歳以上二〇歳以下であればいつでもよく、クラスメイトと言っても年齢は様々だ。

 このメルヘニック・パンクの世界では、基礎的な勉強に関する知識は基礎インプリンティング学習として脳に書き込むのが普通なので、僕が生まれた二一世紀の学校とは、その存在の意味が大きく違ってしまっている。

「僕はまだ子供を持つような歳じゃないし。それにあり得ないでしょ? 僕と、その……、ロリーナで、なんて」

「え? ……う、うん」

 稲生さんの問いに、僕はあり得ないことと可能性を切って捨てる。

 隣にいるロリーナが、何故か僕のことを軽く睨みつけてきてる気がするけど、さすがに彼女と親友と言っていいくらい仲良しの稲生さんであっても、キーマが僕との子供と言われたんだから、機嫌が斜めになるのも仕方ない。

 しっかり否定しておかないといけないなと、僕は思う。

「昨日ちょっと、事故があってね」

「そうなんだ」

 教室内の男子からは、これまであったピリピリとした攻撃的な視線に代わり、なんだか微妙なものを含んだ雰囲気が漂ってきてるけど、その意味は僕には理解できなかった。

 不満そうに息を吐き、腰に手を当ててるロリーナが何を考えてるのかも、よくわからない。

 何だかよくわからない状況の教室内で、その空気を斬り裂くような声が発せられた。

「ふんっ! ロリーナ。事故かなんだか知らないが、子供をつくってしまうなど己が分をわきまえよ!」

 そんな尊大な感じのある声をかけてきたのは、僕やロリーナよりも少し小柄な、純和風の、黒髪を膝裏まで伸ばしている同じクラスの女の子。

 小柄だけど僕たちよりも一歳年上の一五歳で、ピシリとした清楚さを持つ彼女は、カグヤ・プラクティカ。

 僕たちと同じ太陽系人類だけど、出身は地球ではなく、月。

 一説によると人類史よりも歴史があるという、月の地下世界に古くから住んでいた、月下人と呼ばれる一族の女の子だ。

 彼女に付き従うように少し後ろに歩く背の高い女性はツクヨ・マイナシア。

 十代くらいにも見えるけれど、大人びた雰囲気を醸し出すツクヨさんは、同じなのに幼さを感じるカグヤさんとは別物に見えるようなくらい制服を着こなし、クセのあるセミロングの髪を揺らしながらにこやかな笑みを浮かべている。

 カグヤさんは月下人の中でも、一族をまとめる現在の首長の娘で、ツクヨさんはカグヤさんの護衛とお目付役として、一緒に行動していることが多い。

 月下人は遺伝子的には地球人とほぼ同じであることがわかっていて、見た目にはほとんど違いはないんだけど、何かの風習らしく、ふたりの頭にはウサギの耳を模したヘアバンドが乗せられている。

 近づいてきたカグヤさんは、顎を反らした上から目線で、身長差によって自分の目より上にあるロリーナの目を睨みつけながら言う。

「克彦と子供をつくるなど、破廉恥極まりないぞ!」

「わたしと克彦が子供つくったとしたら、何か問題があるの?」

「当たり前だ! お前たちは結婚をしていないどころか、恋仲にすらなっていないのだろう? そんなつき合いで子供をつくるなど、まともな者のすることではないわ!」

 いまどき子供をつくる方法はいくつもあるから、僕くらいの年齢で子供がいる人もいなくはないけど、カグヤさんの発言はいろいろ前提が間違ってる気がする。

 ロリーナとカグヤさんは火花でも散っていそうなほど強い視線で睨み合う。

 僕はその様子を見ているしかなく、僕と手を繋いでるキーマは不思議そうにふたりのことを眺めていた。

 他のみんなも固唾を飲んでいる中、カグヤさんの後ろに控えるツクヨさんだけが、なんだか楽しそうな笑みを浮かべている。

「どうせお主がそのイヤらしい身体で克彦をたらし込んだのであろう?」

「もしそうだったら、どうだって言うの?」

「くぅ!」

 余裕の笑みを浮かべるロリーナに対して、カグヤさんは悔しそうに歯を食いしばる。

 何だかよくわからない雲行きのふたりに、僕はとりあえず言い争いを止めようと、キーマから手を離して間に割って入る。

「いや、ちょっと待って。違うからっ。そういうことじゃないから! あり得ないからっ」

「克彦は黙ってて!」

「克彦は黙っておれ!」

「……はい」

 ふたりから睨みつけられて、二の句を告げなくなった僕は、すごすごとキーマの元まで戻る。

「よしよし」

「ん。ありがと」

 戻ってきて手を繋いだ僕を、キーマは慰めてくれるように空いた手で腕を撫でてくれる。

「お主とはここで決着をつけねばなるまいな」

「いいわよ。いつもいつも突っかかってきて、うざったかったのよ。白黒はっきりつけましょ」

 一触即発の状況に、僕はもう手が出せないでいた。

「あらあら」

 避難してきたらしいツクヨさんが、状況に流されずに楽しそうな笑みを浮かべて僕の隣に立ち、キーマににっこりと笑いかける。

 ロリーナがスカートのポケットに入っているスティックに手を伸ばし、カグヤさんが大粒のマナジュエルがはめ込まれた指輪を突き出したとき、さすがにこれ以上続けさせられないと、僕は大声を出した。

「違うんだ! キーマはその、昨日ロリーナが使った料理魔術の暴走で生まれちゃっただけなんだ!! 僕とロリーナの子供とか、そういうのじゃないんだ!」

「料理魔術の暴走で、だと?」

 その言葉に指輪の構えを解いたカグヤさんは、僕の方に目を向ける。

 揃えた指を口元に当て、唇を歪ませる。

「くっ、くくくくっ。魔術ごときを失敗するなど……。くくくくくくっ!」

「バグが仕込んであったのよ。けっこう厄介な奴が」

「そのバグにまんまと引っかかったのであろう? くくくっ、あーっはっはっはっ! 手先だけでなく、ロリーナは魔術も不得意なのか? これは傑作だな!」

「くくっ」

 さっきまでカグヤさんが歯を食いしばっていたのに、今度はロリーナが歯を食いしばる番だった。

「料理と裁縫の腕なら、カグヤ様もロリーナ様とあまり違いはありませんのにねぇ」

「こら、ツクヨ!!」

 相変わらず雰囲気に流されないツクヨさんの言葉に、カグヤさんは顔を真っ赤にする。

「似たようなものじゃない、カグヤ?」

「ふんっ。お主と同じにするな。魔術に仕込まれたバグ程度に引っかかるお主と!」

「何よ!」

「何だと?!」

 前屈みになったロリーナと、少し背伸びをしたカグヤさんが、顔を近づけて睨み合う。

 ――まぁ、こんなのもいつものことだけどさ。

 ロリーナとカグヤさんの仲が悪いのは入学当初からで、理由はよくわからないけど馬が合わないらしい。

 口喧嘩くらいはしても、殴り合いの喧嘩にまで発展することはない。たまに、決闘に発展することはあるけど。

 いつ終わるとも知れない睨み合いは、新たに教室に入ってきた人物によって終わりを告げた。

「そこまでにしてくださいね、おふたりとも。仲がいいのもわかりますが、大概にしてください。ホームルームを始めますよ」

 どう見ても険悪な状況なのに、どうしてふたりの仲がいいなんて言うのかよくわからない。

 でもそんなことを言うこのクラスの担任の登場で、お互いそっぽを向いたふたりは自分の机に向かっていった。

 僕もキーマを連れて机に向かい、クラスメイトたちもそれぞれの机に着く。

 教壇に立った担任は、カグヤさんよりもさらに背が低い。

 カジュアルな服を着ているから、制服の僕たちと違ってはいるが、ともすると子供にも見えてしまいそうだ。

 結い上げた黒髪をし、柔和な笑みを浮かべているその女性、ヌナカワヒメ先生は、人間ではなくファントム。

 日本神話にも登場する古い女神のひと柱。

 女神だけあって、滅多にはないが、怒ると手がつけられないという噂のヒメ先生は、キーマを膝の上に座らせる僕の方に視線を向けてきた。

「音山君。キャロルさんから連絡は来ています。その子がキーマさんね」

「え? あっ、はい」

「今日は授業はいいですから、第一保健室に行って、キーマさんの身体を検査してもらってきてください」

「わ、わかりました」

 椅子から立ち上がってキーマと手を繋ぎ、集まってるみんなの視線にちょっと冷や汗を垂らしつつ、ヒメ先生に言われた通り保健室に向かおうとする。

 廊下に出たところで「わたしも一緒に行く」と言って、ロリーナも教室を出て来た。

「どこに行くの? パパ」

「保健室。って言ってもわからないか。キーマが元気かどうか調べてもらうところだよ」

「キーマは元気だよ!」

「うん。でも、ちゃんと検査をしてもらおうね」

「わかった!」

 ホームルームが始まって静かになった廊下に、キーマの元気のいい声が響き渡る。

「まぁ、さっさと行きましょ」

「そうだね」

「えー。ロリーナも一緒ぉ?」

「いいでしょ、別に」

 頬を膨らませるキーマに対抗して頬を膨らませるロリーナも一緒に、僕は第一保健室に向かって歩き始めた。

 いろいろと、不安を覚えながら。



            *



 CNGには第五までの保健室があると言われている。

 第五はいまは使われず空いていて、第四は何故か存在は報告されているけど、場所が確認されていない。主に使われているのは第一から第三までの保健室で、それぞれ腕利きの養護教諭が担当している。

 それだけ保健室があるのは、CNGが相応に大きな学校だからで、卒業自体は三年通って卒業試験をパスすればできるけど、卒業を望まない人は何年でも通い続けることができる。

 僕とロリーナは一〇四期生二年目だけど、一番古参な学生はひと桁期の人がいると言う。

 メルヘニック・パンクの学校は小学校から大学までを一緒くたにしたようなものだから、もっと勉強がしたいため、研究などをしたいために残る人もいるし、学生で居続けるために残る人もいる。学生でいるということは、この世界ではメリットのあることだったりもするから。

 重い気持ちが顔にも出てる僕のことをちらちらと心配そうに見てきてくれるキーマの手を引きながら、学校全体の構造はともかく、二一世紀の学校とあまり変わらない廊下を歩いてたどり着いた第一保健室の表札がついた扉の前。

「何してんの? 早く行くよ」

「うん……」

 そうロリーナに促されて、僕はノックの後に彼女が開けてくれた扉を潜った。

「おはようございます……」

「おや、珍しいね。音山克彦君か。君は私のことを避けてると思っていたのに」

「そんなことは、ないですけど……」

 学校によくある回転チェアから気さくに声をかけてきてくれたのは、まだ二〇代半ばに見える若い女性。

 第一保健室を支配している養護教諭のサリエラ先生だ。

 ロリーナのもうすっかり大きいってサイズになった胸や引き締まった腰もときどき目のやり場に困るけど、サリエラ先生のはそれ以上だ。

 走らなくても身体を動かしただけで揺れるほどの胸と、何を食べていればそんな風になるのかわからないほど細い腰をし、ボディラインが丸見えになる赤いワンピースを着て、太股を気持ち程度に覆っている裾から伸びたストッキングに包まれた脚を高く組んで座ってる。

 クセの強い茶色の髪はそれなりに整えられていて、白衣を羽織っているサリエラ先生はそこだけ見れば養護教諭だけど、美人というのがまさにぴったりな顔に浮かべられた笑みは、獲物を狙う肉食動物の獰猛さが感じられた。

 第一保健室を支配しているというのは比喩ではなく、教室ほどの広さの室内には様々な機材はもちろん、義手や義足と思しき機械の手脚、棚に詰め込まれた標本、魔導陣やロウソクといった、いにしえの魔術に使いそうな道具などが、雑然と押し込められ怪しい雰囲気を醸し出していた。

 怪我をした生徒の治療から悩みの相談までこなすのが養護教諭というものなんだろうけど、若さを弾けさせる生徒の相手とか、改造手術まで趣味でやってくれるそうだから、彼女の誘惑にヘタに応じるのは危険だ。

 第一保健室に入り浸り、素敵なレディとして卒業していった男子生徒については、伝説として語り継がれている。本人が同意してたそうだから問題はなかったらしいけど。

 人間だけでなく、ファントムや異星人、サイボーグや改造人間も通うCNGの養護教諭は、それくらいじゃないと務まらないのかも知れない。

 ロリーナは普通に接してるサリエラ先生のことは、僕はどうしても苦手だった。

「そうか。ついに君たちは子供をつくったのか。しかしまだ君たちには早いだろう? 避妊は大切だよ」

 そんなことを言いながら椅子から立ち上がったサリエラ先生は、近づいてきてひんやりとした手で、妖艶な笑みとともに僕の顎を撫でてくる。

「いや、ちょっと……」

「この私が君に、手取り足取り避妊の大切さをすり込んであげようか?」

 教える、じゃなくてすり込む、ってところが気になる僕だけど、身体を密着させようとしてくるサリエラ先生から逃れるので精一杯だ。

「克彦!」

「パパをいじめちゃダメ!」

 ロリーナは何故か僕に非難の視線を飛ばしてくるだけだったが、彼女に代わりキーマがサリエラ先生と僕との間に割り込んできてくれた。

「うぅーーっ」

 情けなくも逃げ腰になってる僕の前で、キーマは両腕を広げてサリエラ先生を睨みつけ、近寄らせないようにしてくれる。

「ふふふっ。可愛いね、君たちの子供は」

「いや、だから――」

「ヌーちゃんからは聞いているよ。この子が料理魔術の暴走で生まれたキーマちゃんだね」

「……知ってるんじゃないですか」

 どうやら僕はからかわれていたらしい。

 不満そうに鼻を鳴らしているロリーナと、にやけた笑みを向けてくるサリエラ先生に見つめられて、僕は深くため息を吐いた。

「それで、この子の検査をしてほしいということだったね。幼女は趣味ではないんだが、仕方ないか。ヌーちゃんが心配しているし、君たちにとっても気がかりだろうからね」

 ヌーちゃんことヌナカワヒメ先生と仲がいいサリエラ先生は、言いながら保健室の奥手に置かれたベッド回りの機材の電源を入れた。

 キーマの身体が気がかりだったのは、確かに言われた通りだ。

 魔導やそれに関連して産み出される生き物にはいろんな種類がある。

 普通の生物並みに安定して生殖までこなすのもいれば、数時間で寿命が尽きてしまうものもいる。

 とりあえずキーマについては一日弱のこれまでの間、寿命が尽きたり身体が崩れたりといった兆候はなかった。でも調べてみない限り、どれくらい安定しているのかまではわからない。

 朝、ロリーナが僕にささやいた「消えてなかったんだ」という言葉は、それに関係してることだと思う。

 ちらりとロリーナの方を見てみると、金糸のような髪を掻き上げながら僕のことを見て、小さく頷いていた。

「さて、キーマちゃん。このベッドに横になってもらおうか」

「うぅ……。大丈夫?」

 不安そうに表情を曇らせ、僕の顔を見上げてくるキーマに笑いかける。

「大丈夫だよ。僕も一緒にいるからね」

「うん……」

 まだ不安そうだけど、とりあえず納得してくれたらしいキーマ。

 ベッドに上がったキーマの髪を邪魔にならないようロリーナがまとめてくれ、寝かせる。

 検査機材に取りつけられた真空管状のエーテルアンプが光を放つとともに低く唸りを上げ、スキャンが始まった。

 緊張と不安で堅くなってるキーマを横目で見つつ、僕は恐る恐るサリエラ先生が見ている古風な液晶モニタを覗き込んでみる。ロリーナも僕と並んで見ている。

 数値と図形で主に示されるスキャンの結果は、僕じゃ何のことだかわからない。

 横目でロリーナのことを見てみると、ある程度内容がわかっているのか、碧い瞳に何だか微妙な色が浮かんでいた。

「パパーッ。ちょっと怖かった!」

「大丈夫だったか?」

「うんっ。何でもなかったよ!」

 程なくスキャンは終わり、ベッドから降りたキーマは駆け寄って僕の足に抱きついてくる。

「さて、結果だが」

 丸椅子を勧められて、まるで夫婦が子供の検査結果を聞くように、僕とロリーナは並んで座る。まぁ、ロリーナと夫婦になるなんてことはあり得ないんだけど。

 膝の上に座ってきたキーマが落ちないよう身体に腕を回しつつ、僕は息を飲んでサリエラ先生の言葉を待つ。

「まぁ、健康体だな」

「そういうことではないんですが……」

「わかっているが、保健室の機材では魔導的な方面の検査はあまりできなくてね。他にもわかったことはいろいろあるが」

「どんなことがわかったんです?」

「いまも言った通り、キーマちゃんは健康体だ。人間として、至って健康」

「それって、つまりそういうこと?」

 少し険しい顔をしながら言うロリーナに、サリエラ先生は大きく頷く。

「キーマちゃんは完璧に人間の身体をしている。ホムンクルスのように半端な身体をしているわけではない。至極安定。昨日生まれたばかりと言うが、すでに成長の痕跡も確認できたよ。成長すれば女性として子供を産むことも何も問題ないだろう」

「子供を産む? パパと結婚できるってこと?!」

「いや、それは……」

「あぁ、もちろんできるとも。身体は概ね四歳程度だから、あと十年ばかり後になるだろうがね」

「やった! 十年経ったらキーマと結婚しようね、パパ!!」

「えぇっと……」

 抱きついて僕の胸に頬ずりしてくるキーマに、なんて答えたらいいのかわからない。

 ロリーナが向けてくる犯罪者を見るような視線が痛い。

 幼い子供が父親と結婚したいと言うのと同じだと思うのに、ロリーナの視線はすでに僕がいけないことをしているかのような不審を含んでいた。

「気になる点もあってね。どうやらキーマちゃんはエーテル場に影響されやすいようだ」

「どういうことです? もしかして僕に近いとか?」

 異世界から漂流してきたからか、僕は世界でも珍しいちょっと特殊な体質をしている。

 このメルヘニック・パンクの世界で生きていくには迷惑以外の何ものでもないその体質をキーマも持っているとしたら、若干面倒なことになりかねない。

 クセのある髪を撫でつけつつ、サリエラ先生は僕の問いに答えてくれる。

「君の体質は特殊過ぎるからね、さすがにそれはないよ。ファントムともまた違う。彼らはエーテル場に生きていて、物質世界に受肉しているだけだからね。身体は完璧に人間で、物質としては安定しているんだが、魔導的には不安定なんだよ」

「それはその、どういうことです?」

 理解が追いつかなくて、僕は質問を重ねてしまう。

 僕の問いに答えてくれたのはサリエラ先生じゃなく、ロリーナだった。

「魔術で生まれたばっかりだからだと思うけど、キーマの身体は魔術とかの影響を受けやすいの。身体強化系とかの、身体の内側に作用する魔術を使ったりすると、場合によっては魔術が解けて材料に戻っちゃう可能性がある状態なの」

「その通りだ。キーマちゃんの身体は、言うなればまだ料理魔術がかかり続けている状態でね。例えるなら彼女は鍋で煮込み続けているのに近い。しばらくすれば魔術が完成して、エーテル場の影響も普通の人と変わりなくなると思うが、いましばらくは直接身体にかける魔術は避けた方がいいだろう。そこまで不安定ではないが、念のためね。キーマちゃんに近いものがいるとしたら、生まれたてのキマイラかな? 魔導合成生物。身体は人間だからキマイラのように不自然さはないが、生まれたてのときエーテル場に影響されやすいところはよく似ている」

「わ、わかりました」

 さすがに何を言われてるのかわかっていないらしく、首を傾げてるキーマを抱き直しながら、僕はサリエラ先生の言葉に強く頷いていた。

「それから、キーマちゃんのいまの知識は術者のものを部分的に引き継いでいるようだ。この場合はロリーナちゃんのだね」

「あぁ、なるほど」

 生まれたばかりのキーマが最初から喋ることができ、僕をパパと呼んだりカレーを食べたいと言ったり、最初から最低限の知識があることはちょっと不思議に思ってたんだけど、いまの言葉で納得できた。

「まぁ、術者から引き継いだのは知識だけでなく、感情面ものようだけど、ねぇ」

「ん?」

「え?!」

 どういうことなのかわからなくて首を傾げた僕に対して、ロリーナは金糸の髪を乱しながら椅子から立ち上がる。

「それはどういう――」

「わ、わたしはちょっと、用事を思い出したから行くね! キーマのことは克彦、よろしくっ」

「あ、うん」

 よほど急ぎだったのか、顔を少し赤くしたロリーナは、僕の返事も待たずに保健室から出て行ってしまう。

 キーマをよろしくもなにも、ずっと僕ばっかりが相手してるわけだけども。

 ――いいんだけどね、それは。

 僕がキーマを放っておくなんてことは、できない。

 これから先、彼女がどこで暮らすかについてはもう少し考えないといけないけど、ちゃんとそれが決まるまでは誰かに委ねたいとは思わない。大変なことがいっぱいあるとわかっていても。

 僕の、わがままも入っているけど。

「でもロリーナはどうしたんだろう? 急ぎの用事って、大丈夫かな?」

「……君はもう少し自覚を持った方がいいだろうね」

「何に対してです?」

「いや、私が口を挟むようなことではないからね、言わないでおくよ。まぁキーマちゃんは、術者の身体情報も部分的に引き継いでるから、美人になるだろうよ」

「はぁ」

 なんだか誤魔化された気もするけど、机の方に身体を向けてしまったサリエラ先生からそれ以上のことを聞くことはできそうにない。

「キーマちゃんの情報は君に送っておいてあげよう。ロリーナちゃんにも渡しておいてくれ」

「直接本人に送信すればいいじゃないですか」

「そこはほら、心遣いというものだよ」

「はぁ」

 やっぱり何のことかわからないが、何故か口を尖らせたキーマが、僕のほっぺたをつまんできていた。

 サリエラ先生から送信された情報を、手元の携帯端末の本体画面で確認して、僕はキーマを抱いたまま立ち上がる。

「この後はどうするつもりだい? 君の年齢では子供を養育するにはいろいろ大変だろう」

「それはそうなんですが、できるところまではやってみようかと思っています。それと、今後はとりあえず、基礎インプリンティング学習を施してみようかな、と」

 僕がこの世界に来て早々受けた基礎インプリンティング学習は、学校で勉強するはずの知識を一括して、脳に直接書き込むというものだ。

 知識さえあれば勉強なんて必要ないと思えるが、実際にはそうはならない。

 脳に書き込まれた情報はそのままでは、言うなれば目次のない本のようなもの。目次がなければ必要な情報のあるページをすぐに開くことはできない。

 計算機を持っていても、使い方を知らなければ計算に使うことができないのにも近い。

 図書館に住んでいたとしても、所蔵された本を読んだことがなければその内容を知ることはできない、なんて言われることもある。

 基礎インプリンティング学習を施されてる僕やロリーナが学校に三年間通うのは、人間関係の構築法なんかを学ぶ意味とともに、すでに脳にある情報を利用するための定着学習に必要な期間が、最低それくらいだからだとされているからだ。

 そして基礎インプリンティング学習には、この世界そのものの知識と、この世界で生きるための知識も含まれている。

 キーマを今後どうしていくかは、キーマ自身の意志も尊重したいと僕は考えてる。

 その意志を確認するためにも、最低限の知識が、基礎インプリンティング学習が必須だと思えた。

「それならここでも施せるが?」

「ここで施せるのは、住民登録してる人だけですよね」

「……そうだったな」

 僕の指摘に、サリエラ先生は肩を竦めて見せた。

 基礎インプリンティング学習は、希に上手く書き込めていない情報が発生することがあって、保健室で再施術ができることは僕も知ってる。

 でも住民へのサービスであるそれは、学校の機材では住民登録をしてない人へはできないようロックがかかってる。保健室じゃキーマに施してやることはできない。

「じゃあどうするつもりだい? キーマちゃんは魔導生物扱いで登録して立場の確保はすぐにできると思うが、基礎インプリンティング学習となると、正規の住民登録が必要だろう? 料理魔術の暴走で生まれたキーマちゃんでは、住民登録は難しい」

「えぇ。だから僕がやってもらったところでやってもらおうかと思っています」

「――あぁ、あそこか。あそこなら確かに可能だな」

「頼み込まないといけませんけどね」

 僕が基礎インプリンティング学習を施してもらったのは、まだ住民登録をする前だった。

 本来病院や役所関係の施設で行うそれを、住民登録なしに施せる場所は限定される。

 僕はそんな場所を、一ヶ所知っていた。

「じゃあ僕は教室に戻ります」

「あぁ。ヌーちゃんには報告をいれておいたよ」

「ありがとうございます」

 僕にしがみついてるキーマを抱いたまま、椅子を立った僕は扉に向かう。

「克彦君」

 扉に手をかけた僕の背中にかけられた声。

 振り向くと、ここに入ってきたとき漂わせていた妖艶さはなく、養護教諭らしい真面目な表情のサリエラ先生がいた。

「君の精神はとても素晴らしいものだと思うが、気をつけたまえ。若干破滅的にも思えるからね。自分ができる範囲を見誤ってはいけない。それは自分を不幸にするだけでなく、君の周りの人を泣かせることになりかねない」

「肝に銘じておきます」

 そう応えた僕は、真っ直ぐな目で僕の瞳を見つめてくるキーマに、できるだけの優しさを含んだ笑みを返していた。



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