34、異変

 そちらを気に掛ける間もなく、ヴェネの視線は1人の男に釘付けになる。つい先程まで人体発火の超能で暴れていた男が、ゆらりと立ち上がっていたのだ。


 完全に気絶させたはずなのに。ヴェネが目を見開く前で、彼の体に変化が訪れた。


 まずは腕。みるみる内に黒い体毛が生え始め、指先から伸びた鋭い爪で掻き毟られた首に深い傷跡が残る。


 その首にもびっしりと黒い体毛が生え揃い、裂けた口から太い犬歯が2本飛び出す。丸みを帯びていた耳、鷲鼻がごつごつとしたフォルムを帯びていく。


 男の人相が急速に捩じ曲がった後、胴体へ、足へと、蝕むように変化は及んだ。手錠の拘束をまるで糸を解くように造作もなく絶ち切った。


 そして、歪に発達した膝を折り勢いよく地を蹴る。


「っ……っ!?」


 乱暴に腕を振り回しただけの野生極まる攻撃を、ヴェネは咄嗟に構えたナイフで受け止める。


「ぐっ……」


 が、受け止めきれず、力任せに弾き飛ばされる。ヴェネはビルの壁に叩きつけられる寸前、どうにか体勢を整え直して激突を免れた。


 その横では壁に叩きつけられたミオナが地面にへたり込んでいて、意識が朦朧としているのか、目を閉じて荒い呼吸を繰り返している。


 男の姿はもはや、人間ではなくなっていた。その歪な姿はまるで、


(猿、か……?)


 ……いや、違う。容姿が近い獣を挙げるのであれば猿に間違いないが、人の面影も残しているので違和感しかない。


 それはまさしく、人と、獣の、中間。


(……まさか、人獣……?)


 人獣事件。人と獣を足して2で割った様な生物が通行人を襲うという怪事件。


 模倣犯事件と同じく未解決事件であるそれが、今目の前で牙を剥いている。


 耳障りな奇声を上げる猿。再度ナイフを構え直そうとして、気付く。刀身が粉々に砕け散っていた。


 マズイ。ヴェネは人獣から目を離さず、辺りに落ちている短剣を拾い上げた。


 路地裏に廃棄された物かと思いきや、柄には土竜の爪、漆黒の鞘。禍々しい血色の刀身を持つそれには、特注の品と思しき高級感が漂っている。


 〝土竜〟の捜査証、赤黒小剣ブラッディだ。叩きつけられた時にミオナが取り落としたらしい。


  獣の瞬発力と人の柔軟さを兼ね備えた驚異的な身体能力。ヴェネを襲うのは敵だと認識しているのか、はたまたただの本能か。


 いずれにせよ、長期戦は望まない。どうにかして無力化を……!


「はっ!」


 空間跳躍で猿の背後に。背中にナイフを突き立てる。


(ちっ、硬いな……!)


 だが、刃は通る。ならば、戦闘能力を削ぎ落す。


 ヴェネは空間跳躍を繰り返して人獣の死角を突き、幾度となく刃を走らせる。狙うは腕、そして足の根元。動けなくすれば、とりあえずこちらの勝利だ。


 人獣となって知能レベルが落ちたのか、猿はやはり力任せに暴れ回るばかり。慎重に立ち回ればどうとでも対処できる。


 ものの1分と経たず、ヴェネは猿を無力化した。ぴくぴくと痙攣するように動きながら、地面に突っ伏す人獣。が、その闘争心は微塵も衰えていない。


「もうすぐ〝大鷲〟が到着する。それまで大人しくしていて欲しいんだけどね」


 その言葉は、恐らく届いていないのだろうけど。


 改めて考えてみても、異常過ぎる現象だ。人の獣化……普通に考えてあり得ない。強いてあげれば、〝先祖返り〟などが近いか。


 一言で言えば、今の人類に進化する前の存在へと退化する現象だ。極めて稀な現象ではあるが……、


「……まさか、あいつの……」

「ぐおおおおおおおぉぉぉぉぉぉ!!!」


 思考を掻き消す歪んだ叫び声。猿の鳴き声と人の声が入り混じった、おぞましく濁った音の塊。


 まだ暴れる気か……! 赤黒小剣を構えたヴェネだったが、想定外の事が起きる。


 今にも暴れ出しそうだった人獣の体が、ぱきぃ! と硬質な音を立てて〝欠けた〟のだ。


「なん、だ……?」


 ヴェネの前で次々と体が欠けていく人獣。それは次第に加速していき、最後には砂のように融けてしまった。


 そして、ビルの間を吹き抜ける風に流され、跡形も無く消える。そこに残されたのは、無残に引き裂かれた黒装束だけだった。

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