終らないで幼年期(短編集)

一ノ瀬メロウ

#01 : VR有給休暇

「まったく、きみには社会人としての自覚がないのかね?」


 課長はそう言いながら、おれが差し出した休暇届をびりびりと破いてしまった。これでもう三回目になる。細切れにされたカーボン紙は息絶えた蝶のようにひらひらと床に舞い落ちた。


「課長、わたしは決して有休を諦めません……!」

「むむむ……。なんという反社会的な態度だ。有給休暇など認められん! 勤労に感謝しろ! やりがいを喚起しろ! 働けば自由になれるのだ!」


 課長は怒り心頭だ。無理もない。労働者階級の分際で休みを希望するのがおこがましいことくらい、おれも知っている。

 もちろん有給休暇は、法律上、権利として認められている。しかしこの時代においては、そんなものは建前にすぎない。そして建前とは、この国の伝統であり、文化であり、先人が残した大いなる遺産の一つだ。おれはこの無形文化遺産に傷をつけようとしている不届き者なのだ。


 しかしそれでも、おれは有休を取ってみたかった。好奇心が抑えられないのだ。生まれてから一度も経験したことのない有給休暇とやらを、どうしても味わってみたかった。おれはその後も毎日のように有休を申請しつづけた。やがてシュレッダーのダストボックスが休暇届で一杯になったころ、ついに課長は折れた。


「分かった。そこまで有給休暇がとりたいのなら仕方がない」


 そう言って、課長は何かを取り出した。それはVRゴーグルだった。


「何ですか、これは?」

「わが社には、社員に有休を取らせる余裕などない。ただし、有休をさせることならできる。これを装着すれば、働きながらも仮想世界で有給休暇を味わうことができるのだよ。テクノロジーの神秘だ」

「仮想でも神秘でも、有休が取れるなら大歓迎ですよ」


 おれは課長の言葉に納得し、VRゴーグルを受け取った。

 そしてその日、終業時間の十八時を過ぎてからさらに三時間ほど就業したころ、仕事が一区切りついたので、おれは心を躍らせながら有休を体験することにした。


 VRゴーグルを装着すると、視界いっぱいに有給休暇が広がった。


 おれは自宅の近くの街路に立っていた。正確には、VRゴーグルでそう思わせられる映像を見ているのだ。まるで現実と見間違えるほどリアルな光景だ。自分の体に目を向けると、スーツではなく私服を着ているのが分かった。腕時計は、今が朝の10時であることを示している。街の景色はどうだろう。画素数という意味では限りなく現実に近いが、いつもの現実と違って人があまり見当たらない。そうか、今日は平日なのだ。有休は平日に取るものだが、平日の昼間というのはこんなにも人が少ないのか……! おれはささやかな発見に満足しながら、街中を歩いていた。


 やがて通勤で利用している駅についた。ほとんど習慣的な動作で、ここにたどり着いてしまったのだ。さてこれからどうしようと考え、街の中心部にある映画館に行こうと決めた。駅構内を見渡すと、これまた人が少ない。いつもはビジネススーツで包装済みの労働者が、ベルトコンベア上の加工製品のように規律正しく大勢で移動しているものだ。

 改札のところで、一人の老婆がうろうろしているのが見えた。どうやら、IC専用の改札を前にして、切符を片手にどうしたらよいか分からず困惑している様子だ。おれはその老婆に声をかけて案内してやった。普段だったらベルトコンベアから外れてしまうため、こんな親切は中々できない。貴重な体験だ。


「ありがとうございます。よい有給休暇を」


 老婆は感謝の言葉を呟いて去っていった。


 電車に乗ると、座席が空いていることに困惑した。まるで座ってくれと言っているようではないか! 電車というものは、肩をすくめて圧縮された状態でいるのが礼儀だと思っていたが、有給休暇ではその限りではないらしい。

 おれは未開の文明に接触した探検家のような気分で、座席に腰を下ろした。いつもはぎゅうぎゅう詰めにされて人間の形を保つのがやっとだったが――たまに形を維持できず人間でなくなってしまう日もあったが――、今日は座席に座って窓から景色を眺める余裕さえある。いつも見ているはずなのに、窓を隔てて向こうに広がる景色が、なんだか非現実の世界のように感じられる。……いや待てよ、そもそもおれは仮想現実を見ているのだ。いつの間にかそのことを忘れそうになっていた。


 目的の駅で電車を降りた。おれはいつもより混雑していない市中を歩き、映画館にたどり着いた。最近公開された作品を見ようと思ったのだ。チケットを購入して案内されたスクリーンに入ると、ここでも人の少なさが目に付いた。座席の空きが目立つ。VRとはいえ、よくできた有給休暇じゃないか。

 映画は、流行りのゾンビものだ。人類の大半が未知のウイルスで死滅してしまった世界がスクリーンに映し出されている。もしかしたら、この映画の世界と今おれがいるこの場所はつながっているのではないだろうか? 急にそんな錯覚にとらわれた。それならばこの人の少なさには納得がいく。みんなウイルスで死んでしまったのかもしれない。平日昼間の街中とは、ゾンビ映画だったのだ……なんて考えているうち、またもや自分が仮想世界にいることを忘れかけてしまった。長く仮想世界にいると、そこを現実世界のように感じてしまうことは、よくあることなのだろうか。


「あれ?」 


 思わず口に出して驚いてしまった。様子がおかしい。

 映画が、なぜか早送りで上映されている。登場人物は高速で動き回り、カットが頻繁に切り替わっていく。何が起こっているんだ? しかもどんどん再生速度が加速している。もはやストーリーも追えないほどの早さで映像が移り変わり、一瞬暗転したのち、エンディングになってしまった。スタッフロールがすさまじい速度で流れていく。

 その時、別の観客が猛スピードで通路を通ったのが見えた。そうか、映画ではなく、この仮想世界全体が加速しているのか! クレジットが終わり、おれ自身もすさまじい速度で立ち上がりシアターを後にする。余談だが、おれはスタッフロールが終わるまで一応席に座っているタイプなのだ、などとのんきに述懐している場合ではない……。世界が猛スピードで進んでいる。すでにおれは早送りで街中を移動し、どこかの店に入って時間を高速でつぶし、帰りの電車に乗ってしまっている。なんということだ。自分の行動があまりにも速すぎて、目に映る光景がまるで絵の具が引き延ばされたカラフルな抽象画のように見える。まばたきするごとに絵柄が次々と変わっていく。おれはそのまま自宅に戻り、あっという間に食事と風呂を済ませ布団の中に入り目を閉じた。

 すべてが黒一色になり。その中に光る文字が現れた。


 <<有給休暇が終了しました。VRゴーグルをお外しください。>>


 VRゴーグルを外すと、視界いっぱいに平日が広がった。オフィスの蛍光灯がまぶしい。

 時計を見ると、仮想世界に入り込んでから90分ほどしか経っていないのが分かった。たった90分でおれの有休は終わってしまった。そんなバカな。


「有給休暇には満足できたかね?」


 課長がふざけたことを聞いてきた。


「こんなのあんまりですよ。こんな、早送りであっという間に終わってしまうなんて……」

「間違いもなにも、これが現実だったのです。さて、そろそろ負荷が高まってきましたね。終わりにしましょう」

「え?」


 課長の口ぶりが急に変わった。

 その途端、目の前が真っ暗になった。


 目を覚ますと白い天井が目に入った。次第に、おれは自分が何者だったのか思い出した。頭の方に手をやって、VRヘッドギアを取り外していると、店員がやってきた。


「いかがでしたか? 『VR社畜』は」

「なかなか味わい深い体験でした。今じゃほとんど経験できそうにない、独自の緊張感がありますね。当時の人々の暮らしぶりがよく分かりましたよ」


 テクノロジーによってあらゆる社会問題が解決された22世紀において、古い時代の暮らしを仮想世界で体験するのは、ちょっとした娯楽になっている。おれはVR体験施設で、21世紀初頭の人々の生活を体験していた。まだ、社会が人のためにあるのではなく、人が社会のためにあるような過酷な時代だ。


「楽しんでいただけたようで何よりです。この年代を体験できるコンテンツは他にもたくさんありますから、またの機会にでも、お楽しみいただけると幸いです」

「どんなものがあります?」

「代表的なものに『VR就活』や『VR年金問題』など……最近入荷した『VR SNS炎上』も人気ですね」

「なるほど面白そうですね。しかし、昔の人は色々と大変そうですね」


 おれは眩暈を覚えた。どうやら、仮想世界に熱中しすぎてしまい、だいぶ疲れているようだ。他のコンテンツは、体力が十分戻ってから体験してみようと思う。



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