53万円とちょっとの時間停止系魔法
和泉ハルカゼ
0章 〜俺たちの時間〜
ちっぽけな魔法
朝一のせいか、空間は妙な肌寒さが支配していた。
教壇では眼鏡をかけた地味な男が熱弁をふるっている。
ものの数分前は緊張感が目に見えそうなくらいピリピリしていたというのに、気温のみならず冴えない見た目にも反した眼鏡の男の暑苦しさに気圧されてか、前列に座る学生の屹立していたはずの背筋にも歪みが生じ始めていた。
そんな温度差におかまいなく、男は黒板に数式を羅列させては、数学の奥深さとやらを説いている。
なんでも、高校と大学ではその専門性が違うのだとか。数学に限らず、情報系分野も科学も英語もどれを取ったって、学ぶ内容は実践的になっていく。社会の外に出て使っていくためにだ。
確かに、中高生にとって数学や物理というものは、能力を測るための物差しでしかないと言えるだろう。
例えば、ロボットを作ったりするのには制御工学という学問が活かされているのだと。その中で使うラプラス変換だとか伝達関数だとか。聞いたことがあるような聞いたことないような単語を出しては、相も変わらず外の温度に反した暑苦しい主張を続ける。
「えっと、君たちはこの講義が大学生になってから一番初めの講義になるんだよね?」
教授が、確認するように全体に問いかける。
今日がこの『
確認するまでもなく、これがまだ寒いこの春の一番最初の講義だ。「はい!」と最前列でノートと参考書を開いた黒い髪の女の子が返事をする。意識高くて結構なこった。
「そっか、じゃああえて言っておきます。僕の講義では……というか多くの教授がそうなんだけど、高校の授業とは違って、問題を解いてもらうことを前提にして説明するんじゃなくて、実際に現場で使われているレベルの数学を理解してもらうために講義を進めていきます。今まで数学が得意だったとか苦手だったとかそういうのを撤廃して──」
話の途中で、一度眼鏡をクイっとあげたのが見えた。
まだ講義開始から十分足らずだというのにどれだけ眼鏡のポジションが気になるのだか。
新入生にとっての大学一発目の講義だからか、インパクトを残そうと気合が空回っているような感じが伝わってくる。
少し、そういうノリが苦手だ。
それでも、ここにいる人間にとってはこれから何百回と出席していく、90分の講義の内の記念すべき一回目でもあるのは事実で。
あまり前の方に座るのも気恥ずかしいもので、目立ちそうにないという理由で、後ろから三列目の座席を選んで座った俺であったがそれでも、俺よりも後列に陣取る新入生は多くなかった。
さすがにこの教授の迫力にはかなわないだろうけども、同じく入学したての大学生というのもまた、意識が高いものらしい。
かくいう俺はというと、開始十分足らずにして、あるいは開始数十秒にして、この雰囲気に飽きていた。
俺よりも前列にいる人間どもは、時おり相槌を打ったり、板書をメモするためにシャーペンを握っていたりだとかしているというのに、俺は窓の外の桜だとか、シャーペン代わりに握るスマホだとかに気を取られていたりする。
一発目の講義から堂々と何をしているのだとか考えたりしないわけでもないし、周りと違うことをしているとどこか不安になったりもする。
たとえ、今もなお続く、ある種の高校数学を扱き下ろすような男の話に聞く価値などないとしてもだ。
「僕はね、正直、大学じゃなくても、高校数学とかそれより他でももっと取り扱って欲しい題材があるんだよね。数学って言うのは思ってる以上に身近に溢れていて、理解出来たら面白いことがたくさんあるわけ。だから、どこでどんな理論が使われているか、ほんの触りだけだけど、15回の講義で取り扱っていこうと思います。ちょっと、出席確認の小テストとか面倒くさいこともするとは思うけど、真面目に講義を受けてみてください。そうしたら、きっと──」
「はいはい、世界が変わるんでしょ」
斜め前の座席で、ひょろっとした男が何事かと肩をビクつかせた後、俺の方を振りむいてすぐに視線を前にもどした。
小声で、誰にも聞こえない程度に呟いていたつもりだったのだけど、あいにく俺の独り言は聞こえていたみたいで申し訳ない事をしたと反省する。
「きっと、大げさじゃなく世界が変わると思います」
教壇に立つ数学に魅せられた地味顔の眼鏡は、俺の予想通りの言葉を発した。
俺の独り言が不幸にも耳に入ってしまったヒョロガリ君が、首を傾げた。何かおかしなことが起こったとでもいわんばかりだった。
いや、きっとおかしなことなんだろう。
なんてたって、これは新入生にとって大学生活一回目の講義だ。
だというのに、俺は。
──この光景を、知っている気がした。
同じ時を繰り返している。
少なからず、三回。この時をループしている。
だから俺は、男が語ることを知っていたし、この後の14回の講義が俺の世界を変えるものなんかではない事も当然理解していた。
いや、どちらかというと、俺の世界は変わった。
もっと何の気なしに進んでいたはずが、本当に突然、停滞したのだから。
「あー、
いつの間にか、この部屋で唯一の見知った顔が遅ればせながら登場する。
俺が一人で占領していたはずの三人掛け机の反対端の椅子が引かれて当然のように美少女が座った。
新年度早々、大層な態度だこと。
おおよそ、勉学にいそしむことを目的とした施設に訪れる人間のものとは思えない小ぶりなハンドバッグは二人の間にある残りの椅子に置かれる。元よりその席に堂々と置かれていた、ノートパソコンやゲームやらDVDが粗雑に突っ込まれた俺の大きめのリュックサックが並ぶとアンバランスで気色悪い。
「まじで最高のタイミングで遅刻してきてるぞ」
「えー?もしかして、もう世界変わっちゃってる?」
……そして、こいつもまた、俺と同じループに嵌っている。
「大坪も覚えてるんだな、あのくだり」
「うん、むしろそれしか覚えてないかなー」
ずけずけと酷いことを言ってるようには聞こえるだろうけど、こいつは本当にナチュラルに思った事を口にしてしまうだけで悪気もないし、もちろん皮肉を言いたいわけでもない。見た目に反しているという点で言うなら、教壇に立つ男に対してもダブルスコアをつけているとさえ思うほどに意外性のある人間だ。素直に損していると思う。
「にしても、木良くんとこの講義で会うのって前回の八回目の授業以来じゃない?」
「あー、よく覚えてるな。多分その次の講義からリタイアしたかなぁ。逆写像あたりか?」
リタイア。きっと今この空間で、俺の伝えたいニュアンス通りにこの単語を理解してくれる人はいないだろう。強いて言うならたった今、勢いをつけすぎて新品同然だったチョークを豪快に真っ二つにした教授なら汲み取ってくれる可能性がある。
だって、アイツに関しては俺の何倍もこのループを繰り返しているわけだし。
「ねぇ、そのリタイアとかカッコつけた言い方やめない?」
大坪が呆れたように指摘する。「だったら、なんて言えばいいんだよ」って聞き返したところ、「んー」と顎に人差し指を当てて考えるそぶりを見せてから解を導いた。
「……出席数が足りなくなったでいいんじゃない?」
「俺がクズみたいになるからやめて」
あまりにも簡潔に。句点を付け加えてもたったの十二文字で俺の失態を誰にでも分かるようにまとめられてしまい、慌てて反論をしたが、まさに火に油を注いだようだった。クズみたいも何も、俺はクズだ。少なからず十人中十人は認めるレベルでクズだ。
「だって木良くん、クズじゃん。留年してるし、1年生向けの必修講義を3回も再履修しているわけだし」
「違うし、大学五ヵ年計画の一環だし」
「木良くんがそう解釈しても、大学側に原級留置を叩きつけられた人間は社会から見て総じてクズなんだよ?」
「……うっ、相変わらずブーメランの殺傷能力がエグすぎる」
「別に私は自分がクズでも気にしないからね」
この鋼のメンタル。
会話からうかがえる通りに、俺たちは留年している。世界が巻き戻ったとか、未来からやってきたとか。そんなファンタジーは一切ない。ただ、留年している。
本来なら、今年は就活と卒論の二大ビッグイベントをこなして、社会に放流される前の最後の一年になっているはずだった。
大学という空間にはいろんな人間がいる。
それこそ十人に一人か二人は留年生だし、二十人に一人くらいは外国人だったりもするわけで。
俺たちは珍しい人間なわけではない。だけど、劣等生なのには変わりない。とりわけ一年生の必修科目に対して三度目の挑戦を果たす醜態を晒しておいて自分がまともだなんて胸を張れるわけがない。
この『線形代数Ⅰ』という名前の講義なんて、二年生や三年生で学ぶ講義においては出来て当たり前という前提のもとに講義が進んでいくわけだ。そんな基礎科目の単位を習得していないのは大学を舐めていると取られてもおかしくない。……正味、舐めクサってるわけだけど。
ふわぁーっと大きなあくびの後、伸びをしてから、大坪は机に突っ伏した。なんたる無防備。男の欲望と表記して[おっぱい]と読むわけだが、伸びをした瞬間、大坪のただでさえ大ぶりな膨らみが、まるで大規模デモさながらの激しい主張を見せた。年度の始まりの項、俺の下半身には朝から盛大に春一番が吹く。
……いかん。
というか遅刻→罵倒→睡眠態勢って。俺以上に大坪の大学の舐めっぷりが凄い。おっぱいと態度が無駄にデカい。
「また、夜勤明けか?」
「んにゃ、最近はクラウドソーシングだけで稼いでるからバイトはしてないよー」
右の頬を机に擦り付けたまま、眠そうに大坪は答える。
実は大学生が留年する理由は特に多いわけじゃない。どちらかというと勉強が苦手だから留年したというケースは多くないように感じる。留学だとか意識高い理由を除いた時、留年の理由で一番多いのは、アルバイトだと思う。特に忙しい理系大学生が深夜勤務をすると、午前の講義に出席できなくなって高確率で留年する。こいつは特にバイト戦士だ。だから表向きなこいつの留年理由はアルバイトだったりする。
「とはいえ、結局深夜まで金稼ぎしてるんだろ?」
「まぁねー」
クラウドソーシングを勧めたのは俺だったりする。といってもこいつの学業を心配したわけじゃない。……そもそも勧めた時には手遅れだったわけだし。
こいつは一流のプログラマだ。プログラミングのことは正直よく分からないけど、それでもなんとなくこいつが凄いことは分かる。俺が所属している学科は情報系なのだからプログラミングの事がよく分からない俺の方が異常な気がしないでもないが、こいつは不真面目なくせにその辺のしっかり勉強している学生なんか話にならないくらいに出来てしまうわけだからやはりすごい。
それに、おもに講義で取り扱うC言語だけではなく、javaやRuby、FORTRANなども使いこなしてしまうので、活躍の幅が広い。だから、バイトをするくらいならクラウドソーシングで稼げばいいと勧めたまでだ。
ちなみに、クラウドソーシングというのを簡単に説明すると、例えばネットで「五千円あげるので、この仕事やってくれませんか?」と不特定な人物に仕事を依頼して、それを見た我こそはという人物が「やりますよー」と名乗り上げる。そして依頼を遂行したのを確認して、五千円が譲渡されるというシステムになっている。分かりやすく言うなら、モンハンのクエスト受注と同じだ。それがインターネットの世界で行われている。
報酬額はピンキリで、例えば、アニメの感想を百文字くらいの文章で伝えるだけで十円くらい貰えたりするものもあるが、がっつりお金が欲しい場合には、指示に従いまとめ記事やブログを書いたりすることで千円単位の報酬を得るのが賢いだろう。しかし、プログラムを作れる大坪の場合はもっと効率よく稼げる。いかんせん、プログラミングなんて誰にでも出来るものではない。特殊なスキルを要する仕事依頼は当然、報酬も弾む。
そういうわけでこいつは存分に自分のスキルを活かして金を稼ぎはじめ、結果、学業がなおの事疎かになっているわけだ。
「真面目だよね、新入生。私もああだったのかなー?」
「それ、去年も言ってたな」
そうだっけ?と呟いて、ようやく体を起こす。それが板書を見るためではなくて、教室を見回すためだけの行動だというのだから恐ろしい。
「というか木良くんて、無駄に記憶力いいよねー。よくそんなどうでもいいこと覚えてるね」
「どうでもいいも何も大坪の発言だろう。それと無駄を強調するな」
「いちいち発言全部記憶されてると気持ち悪いし、不要なスキルだと思うけど。気持ち悪いし」
「全部は覚えてないし、気持ち悪いは二回もいらない」
「私的には気持ち悪いは言い足りないくらいだよ、もう少しくらいずぼらで隙があるくらいの方がモテると思うけどなぁ」
「留年してる人間にもう少しずぼらでいいとか、お前恐ろしいな。それとすでにモテてるから関係ない」
「モテてるってスト咲ちゃんと病みかげの二人だけじゃん?」
「理系のオタク男子が女性二人に好かれるなんて人気アパレル企業の社長が月に行くより難しいことだぞ」
知人への別称があまりにもひどすぎる。
「そんなんだからモテない」はこっちが言いたいセリフだったりするけど、残念ながらこんなんでもモテてしまうのが大坪彩乃という女だったりする。というか工業大学となると女子の数が圧倒的に少ないために、容姿がよければ大概モテる。
そんなこんなで、こいつと軽口を交わし合ったり、スマホでネットサーフィンしたり、ノートに落書きしたり、虚空を見つめたり、今日の昼めしは何にしようかと考えたり。
そうこうしているうちに講義が終わる。授業終わりに配られる出席確認の代わりの小テストを先人の知恵(過去問)を活用してあっさり解答を終える。そして俺の解答用紙を奪っては丸写しするのが大坪彩乃。
──俺たちはこうやって世界を繰り返している。
ただ単に、勉強が出来ないわけじゃなくて、生きていくことが苦手で世界をやり直している。
朝起きることが出来なかったり、提出物が億劫になったり。趣味に圧迫されて、他の事に手が回らなかったり。
そんな自業自得に苦しめられ続けて、当たり前の事が当たり前にできない苦悩を抱えて。誰に理解してもらえるでもなく。
情けなくも一年間の時間と五十三万円とちょっとの国立大学の学費を追加して、まともに生きている奴らの存在に苛まれ続けながら大学生活を送っている。
「それで、大坪はこの後の予定は?」
そして完成させた小テストを教壇に提出してから、荷物をまとめて、大坪に尋ねる。
「火曜日はこの講義だけだよ。木良くんは?」
確かに、その小さなハンドバッグはがっつり一日中講義を受ける装備ではないよなと思う。プログラミング用のノートパソコンすら持ってきてないし。聞くまでもなかったと反省する。
「俺もこれだけだ。というか前期は講義がほとんどない」
「ふーん。じゃあ今から帰り?」
「学食で飯食ってから、寄り道して帰宅かなぁ……」
「なるほどね、私も珍しく今日は暇だから付き合うよ?」
「珍しくね、俺たちみたいに惜しい所で留年した奴は腐るほど時間が余ってるもんだと思うけどな」
「なーに言ってんの?時間が余ってるから予定を沢山詰めていくんだよー。美景とかと遊ぶ時間も限られてんだよ?」
「まぁ、確かにそれはそうなんだけど──痛っ……」
くだらない話をしていると右足に鋭い痛み。足元を見ると誰かに足を踏まれたことが分かった。
事故的なものだと判断して、何事もなかったかのように、再び歩みだそうと顔を上げる。
足が止まった。
止まったというのは、歩くのを完全に停止させたというニュアンスでしかなく、膝下はガクガクと震えていたので厳密には止まってなどいない。
目の前で腕を組んで、俺の前に立ちふさがる女の子。俺に似た鋭めの目つきは最大限の殺伐とした雰囲気を演出するに十分だった。いかにも最近ヘアスタイルを確立したのだと分かるくらいにムラのないアッシュカラーが行き届いたセミロングと、綺麗めな服装から察するに彼女は俺たちと違って新入生だ。
……そもそも、俺、こいつの事知ってるし。
「なんで、あんたがここにいんのよ!」
大学生活も四年目を迎えてから最初の登校日。俺は年齢にして三つ下の新入生に、突然のビンタをくらう。
さすがに突飛すぎる滑り出し。ヒリヒリと痛む頬をさすりながら、ふと今日という日のことを考えた。
──これは、俺自身の怠惰によって失った単位と進級の権利を獲得するためだけの人生において最も価値のない一年間の物語。
まともに生きてきた奴には訪れることがない、無碍で無意義でひたすらに無駄な、エクストラステージの日常。
まさに停滞した一年間のくだらない話。
そして。
──俺が、俺と、戦う。
そんな、時間停止系の魔法の中の、本当にちっぽけな物語だ。
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