3-13 へにゃらぽっちぽー氏と「ジーク・ヨコハマ」について

 テキレボ、というイベントはいろいろな奇跡が起きる。そのひとつに、ぼくの創作人生を文字通り大転換させる書き手と出会うことがあげられる。ぼくが師匠とよぶことになり、永遠にぼくの中に残るであろう小説の書き手である咲祈氏、そしてぼくに小説というものの気づかなかった側面を気づかせてくれた今田ずんばあらず氏、最後にぼくと「かれ」の関係性を気づかせてくれる端緒となった、特異すぎる小説と特異すぎるキャラクターを持つへにゃらぽっちぽー氏である。

 氏とは、まさにこのテキレボの前夜祭と呼ばれる有志の会で出会った。真っ白なTシャツにでかでかと手書きのマジックで「へにゃらぽっちぽー」と書いたものを着ていた彼はいったいどんなものを書くのか、ぼくはとても気になった。そして次の日、彼の代表作である「ぽ」を購入した。そして、その夜に「ジーク・ヨコハマ」を作ることになった。そのいきさつについては「ジーク・ヨコハマ」でくわしく明かしているが、ここで語るべきは、そこにへにゃらぽっちぽー氏が入っていたのは偶然ではあるにせよ、ある種の必然でもあったのである。現に、氏が入ることによって「ジーク・ヨコハマ」はまさに「完成」した。これはおそらく他の書き手には成し得なかった快挙ではないかと思っている。前述したように、ぼくは「ジーク・ヨコハマ」をただのカオスアンソロジーとして考えていなかった。これはテキレボを中心とした小説同人界隈への明確な殴り込みをかけた、ひざのうらはやおがひざのうらはやおたるために作り出されたもので、そういった意味で「ぼくのかんがえたさいきょうのごうどうし」であり、それは以前にシーズンレースで総合優勝を飾った「こころにいつもドラゴンを」を明確に意識したものでもあった。美麗なイラストとドラゴンと人間というひとつの巨大な軸をもとに五人の書き手と描き手がコラボしながら編まれたこの合同誌は、まさに「界隈内最強」と言うべきであったし、それを象徴していたといえる。正直、このコンセプトと内容からしてすでにすさまじいものであることを予感させる内容でありながら、ぼくが最も強く感じたのは「悔しい」という感情であった。合同誌を合同誌たるものとして編むのにはあまりにもシンプルすぎる。そして、そのシンプルであるということからぼくは、シンプルになりえないものなんかいらない、という界隈のメッセージを明確に感じ取った。それはぼくに対する拒絶と挑戦にみえた。ここまで読まれてこられたみなさんはお気づきのように、ぼくはシンプルという概念にねじくれたコンプレックスのようなものがある。小説と絵がよければそれでいいというのは、ある種当たり前の世界でもあるし人によっては救いになる。けれど、ぼくはこの合同誌が最強でありながら、ぼく自身にとっては、自らの創作スタイルを真っ向から否定する、地獄に落とすようなそういった本になったのである。つまり、どれだけメタや文脈を大事にしたものを作ろうが、シンプルなものをシンプルに組み合わせ、それだけを楽しんでもらえるように、つまり「シンプルであることが伝わるように」様々な趣巧が施されているところに、そういった文脈を暗に否定した文脈を持ってしまったというところがとても悔しかった。そこまでシンプルを推さないとこのクオリティの小説すら読んでもらえない。ぼくはそう言われているように見えた。もちろん、そうしたねじくれた見方をする人間が多数であるとは思わないが、しかしぼく自身からすれば、そうした背景があったからこそ、全く逆の方向性で同人誌たる作品を作るモチベーションになったのは事実であり、その俎上にあがったのがまぎれもなく「ジーク・ヨコハマ」であった。もともとぼくは前述したように今田ずんばあらず氏と転枝氏とはいつかコラボする合同を作りたいと考えていた。かれらとであれば前述したような究極の同人誌を作ることができると感じたからだ。だからこそ、酒の上ではあったが、それが徐々にかたちになっていくところでぼくはある種の「自分が主催しないといけないんだろうな」という「演技」をしながらそれに取り組んだ。そしてそこに幸運にも居合わせたのがへにゃらぽっちぽー氏であったのである。

 もっとも、それ以前に「ジーク・ヨコハマ」に寄稿した夕凪悠弥ゆうなぎゆうや氏と白色黒蛇はくしょくこくじゃ氏に関しても界隈でそれなりの知名度を誇る上に、ぼくとは全く異なるタイプの書き手であることを感じたので、それが結果的にこの合同誌のクオリティを限界まで高めてくれたのは事実である。このふたりも当然のことながら必要不可欠な存在であった。夕凪氏はエンタメど直球の一番読みやすいものを作ってくださった上に表紙も作成いただいているし、白色黒蛇氏も電子書籍進出についてすべて取りはからっていただいたし、座談会での彼の活躍は目立たないところで非常にいい仕事をしている部分にある。このふたりは間違いなく「ジーク・ヨコハマ」を作るにあたって必要不可欠なファクターであった。

 しかしそれでもあえてぼくはここで書かせていただく。へにゃらぽっちぽー氏が入ることによって、ぼくにとって「ジーク・ヨコハマ」は完全に理想の合同誌として完成した、と。読まれている方はおわかりかもしれないが、この「ジーク・ヨコハマ」というのは各作品の統一感のなさと、ヨコハマという一都市にどれだけ「カスる」ことができるかというお互いの忖度無用の共犯的な駆け引きによって成り立っている。少なくともぼくと今田ずんばあらず氏、転枝氏の三人に関しては、ぼくはまちがいなく「カスる」の戦いであるに違いないと予想し、現実としてまさにその通りになった。そして、前述した夕凪氏と白色氏の二名はむしろヨコハマを真っ正面から見たタイプの小説を用意していただくことで、その対比が際だつであろうとも予測した。そして、その予測は想像通り、いや、想像以上の破滅的な均衡となって原稿に現れた。全員が全員、ぼくの予想を遙かに超えるクオリティの原稿を提供してきたのがぼくにとって唯一の誤算だった。たとえるならば、予定調和の不協和音がそこにあったのだ。そして、その不協和音の主軸にいたのがだれあろうへにゃらぽっちぽー氏であったのだ。これは実際に全員の作品を精読しないと感じ得ないことでもあるのだが、あの中で水と油のようにヨコハマを正面からとらえているものとあえて「カスって」いるものを奇跡的に口当たりなめらかにしているのは、へにゃらぽっちぽー氏の作風の異常性そのものになるのだ。


 ここで氏がどういった作風なのかも説明する必要がある。氏は、「へにゃらぽっちぽー兄さん」と「へにゃぽちゃん」というふたりの兄妹を中心とした短編を延々と繰り出していくスタイルだが、語られる内容が、たとえば他の世界観と全く混じり合うことがない、いっさい他の干渉を許さない空間なのである。つまりかれらがいる空間に何者も――それは著者である氏すらも――干渉することがない世界であり、それがすべて文字だけで示されているのが恐ろしいのだ。たとえば、現実世界に近いものを書けば、当然固有名詞などを使うことにより特定の雰囲気を出すことが可能になる代わりに、その固有名詞そのものに物語や世界観が引きずられる可能性が発生する。しかし、氏はそれをいっさい許さない。氏の作品で完全な固有名詞が登場するのは前述したふたりだけであり、それ以外の登場人物はたとえば「ヨコハマさん」のように別の概念と癒着した、その性質が一般名詞と強く結びついている名も無き存在なのだ。固有名詞というのは名付けることによって読み手と書き手をつなぎあわせ、読み手に書き手の世界観への介入を行わせる助けとなるようなものであるが、氏はその介入をいっさい許さないということなのである。へにゃらぽっちぽーは何がどうなってもへにゃらぽっちぽーであり、へにゃらぽっちぽー以外にはならないということなのだ。一見なんでもないことのように見えるかもしれないが、とんでもないことなのである。なぜか。小説というのは読み方によって様々な側面があって、それはことばの読み方に個人差があるというところから端を発しているのだが、一見して意味のない描写ひとつにどう意味づけするのか、というところが各人によって異なるから、小説は個人的な読み物であるし、さらにいえばそれを一種のよりしろにして書き手と接続するためのものであるとぼくは考えている。しかし氏の作品はどこをどう読んでもそうならない。つづられていることばそのものからの解釈における個人差を与える隙が全くないのだ。意味のない描写がない、という意味ではない。すべての描写に描写それ自体以上の意味付けをするということが極端に困難であるという意味である。つまり、ぼくはこう思った、というところまではもちろん表現が可能だとしても、それをよりしろにして、書き手たるへにゃらぽっちぽー氏本人の横顔へと到達することはまったくもって不可能であるということなのである。この衝撃をことばにするまでにぼくはここまで、つまり一年以上を要している。ただ、この異常さはむしろ、従前の読み方がきわめて容易である、非商業小説を読むことが日常的であったぼくしか気づくことはないのかもしれない。


 そして、おそらくそれにいちはやく気がついたのが「かれ」であったことは想像に難くない。「かれ」はぼくの何倍も勘が鋭く、頭脳明晰で、自己中心的で野蛮な存在だ。そして氏とはほぼ逆の書き方をしているぼくに近づいてくる氏を、「かれ」は快く迎えている。ぼくにとって小説とはなにか、書き手の一部に接続できるようなものであるように考えていたのだが、氏の登場によって、そうでなくても小説たりうることが可能である、という現実を見せつけられた。また、氏の登場によってぼくは自分が何をどのように書きたいのか、また書くべきであるのかを再考させられていく。

 氏の異常性は、その書き手たるへにゃらぽっちぽー氏に接続する手段をいっさい持たせない小説集を、登場人物と同じ「へにゃらぽっちぽー」という筆名で発表しているということに端的に現れている。というより、はっきりいってしまえば、ここに氏の異常性のすべてが集約される。おわかりだろう、同人を、自主的な創作を行う人間にとってこれは最大の矛盾であると言っていいはずだ。いや、正確にいえば少なくともぼくにとっては最大の矛盾であった、というべきだろうか。表現の中で、ぼくは特に属人性というものに着目しているように思う。そしてぼくの小説はすべてその属人性を意識した表現であるし、今後もそうであることは間違いない。ぼくはそれ以外の表現技法を持つことはおそらくない。それはそれ以外の表現技法を使用する必要がないからだ。つまりどういうことかというと、この小説は「ひざのうらはやお」が書いた、ということがはっきりわかるような小説をぼくは書きたいのだし、書かなくてはならないと思っている。そして、そうであるためにはひざのうらはやおという書き手がどのような思考を行うのかということをある程度知ってもらう必要がある、と考えて日々広報活動を行っている。しかし、へにゃらぽっちぽー氏は全くそうではない。なぜならへにゃらぽっちぽー氏の作品それ自体には属人性がない。つまり、へにゃらぽっちぽー氏以外の人間が書いた小説であっても、その技法を完全にコピーすることさえできれば、書き手たるへにゃらぽっちぽー氏の存在意義はなくなるのだ。それではペンネームを冠する意味がないし、ぼくの思想でいえば小説を書く意味がなくなってしまう。もちろん実際に氏の作品を読んだひとは、これがいかに詭弁であるかをわかっていただけるだろう。へにゃらぽっちぽー氏の書くものは、へにゃらぽっちぽー氏以外の人間には書くことが不可能であることが読めばすぐにわかるはずだからだ。実際、氏は書き手としてなぜへにゃらぽっちぽーという名乗りにしたかという問いに、「何か名前がないといけないと思ったので」というひどく簡潔な答えを返している。(「ジーク・ヨコハマ」座談会の項より)氏にとってはへにゃらぽっちぽーという固有名詞は何ら特徴的な意味を持たない、感嘆詞のようなものであることがここからも察することができる。つまり、氏にとっては自らの作品を発表する理由は「たのしいから」以外になく、また自らがその物語を書く理由も同じく「たのしいから」以上にないということが、どうやら作品を読めば読むほどそうでしかあり得ないと思うようになってしまうのである。


 ぼくはこれが非常に衝撃的だった。ぼく自身は、小説を書くこと自体は別に楽しくはないどころか、むしろ苦しくて今すぐにでもやめてしまいたいくらいつらい活動で、ましてそれをひとさまに見せて本にして売るなどということはどうしようもなく面倒で負荷のかかる作業なのであった。ではなぜやっているのかというと、結局のところ「そうしなくてはならない(とぼく自身が完全に思いこんでしまっている)から」でしかない。つまり、ぼくと氏は完全に逆のモチベーションをもって活動をしていることになる。おそらくであるが、氏がぼくに興味を示している部分についてもその辺にあるのではなかろうかと思われる。そして、そのようなモチベーションの違いを考慮して接すると、氏とプライベートでの語らいの中にあるすさまじいバックグラウンドにもどこか親近感をおぼえるのだ。氏の活動はある意味で同人活動の究極体であるし、それは一種の宗教活動のようにも見える。氏はへにゃらぽっちぽーを広めるためであればリソースの許す限りのことをするだろう。なぜならそれが氏にとって楽しいからである。この楽しいことを追求し続けるということも、実は常人にとって難しいことである。現にぼくは同人活動で純粋に楽しいと思えることなんてほとんどない。ただ活動をした先に見えるものを見たいという、これもまた極端に、ある種の純粋さがあるのだと気づいた。そしてそれを気づかせてくれたのが、誰あろう、書き手としてのへにゃらぽっちぽー氏なのである。

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