3-11

 しかし、ぼくは、実のところ今になってもこの「ひざのうらはやおらしさ」とはなんなのか、明確に答えを出せないままである。まして、当時はそれすらわからないまま、それらしいものを出そうとばかり考えていた。それは、「まんまるくろにくる」を出したあたりからすでに始まっていたのだろうと思う。そこからぼくは明確に「売り出すこと」を考えるようになった。それは、はっきりといえば今までになかった視点である。むしろぼくは、それこそ今田ずんばあらず氏に会うまでは「売る」ということを心のどこかで見下していた。だからあまりにも「売り」に徹していた彼の態度に好感を覚えなかったのである。ぼくの小説は売らなくてもよくて、むしろ売らないというところに価値があるように思えた。しかし、小説というものはだれかに読まれなくてはその価値を発揮しえない。少なくとも、ぼくはそうだと思っている。つまり、売らないことに価値のある小説というものはぼくの考える小説の定義から反しているということになる。ぼくはこれに気がつかなかった。ぼくの書くものを「読んでもらう」というのはどういうことなのか、というある種の哲学的にしてひどく簡単な問いを、ぼくは思いつきすらもしなかった。そして、思いつかないままぼくは愚かにも、文章それ自体を磨きながら、実質的にぼく自身を「切り売り」していくこととなっていったのである。

 それをしていった結果どうなったかといえば、つまり最終的には売るものがなくなってしまうということになる。ぼくの自意識というのは非常に複雑で不安定で多重化しているから一概にどう、という表現はできないのだが、強いて言うならば、ぼくという存在自体には何の特異性ないし固有性がないものだと思っている。だから、結局のところ切り売りしていったものというのは経験にほかならず、ぼくの、そして「かれ」のことばというものはむしろ奥底に封じ込められていった。ぼくはぼくの書きたいものを書いているつもりだったし、実際そうであった。けれど、「かれ」はそうではなかった。今、「かれ」の文章を読むに、「かれ」は「かれ」が書きたいものではなく、「かれ」が書かなくてはならないものを書いていたことがわかる。

 それが如実にでているのが、この作品ではないかとぼくは思う。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る