【短編】神はサイコロをふらない (From ラブホテルアンソロジー 満室になる前に)


 イヤホンを外すと、ピロウズが遠くなって、ベローチェの喧噪が戻った。中性紙に書き殴られたインクの筆跡を、丁寧に紙ナプキンで拭き取って、ぬるくなったコーヒーを飲む。なんだか味が薄い気がして、夢の中なのかもしれないと思った。眠っているときに飲むコーヒーはいつもぬるくて味が薄くて、変なとろみがあって、それに近い気がした。もっとも、夢を見ているときにこれは夢だとわかった試しがないし、そういう考えに至っているくらいだから、多分現実で合っているのではないかと思う。

 万年筆のインクを使うために何かを日常的に書いていこうと思って、いつもそれなりの日記帳に日記を書き始めるのだが、だいたい一週間で終わってしまう。そんなことを何度も繰り返しているうちに何が原因なのかを探りたくなってきてしまった。どうやら、夜寝る前に書くことに決めていたのがやめる要因になってしまっているみたいだ。寝る前というのは基本的に憂鬱だし何もする気になれない。書く気にならず、いちどやめてしまったものをおいそれとまた始めることも難しい。だからやめてしまうのかもしれない。決められたことを決められた時間通りにやるということも苦痛だ。そういえば学校もそれがとても嫌だった。高校まで皆勤賞だったのは、やらないということもそれなりに苦痛だし、やらないことを見咎められるということも苦痛だったからで、要はそれよりは毎日出るだけだったらその方が楽だろうと考えていたからにすぎない。まったくもって、面倒な性格だ。

 日記だって本当は嫌で嫌で仕方がないのだろう。けれど、万年筆は使いたいしインクも使わなければ腐ってしまう、そんな中で使うために思いついたことだったし、やめても結局はまた別の日記帳で再開してしまうのだった。

 やめようにもやめられないことがつもりつもった、そんな状態のことをひとは人生と呼ぶのだろうと思う。人間に強い意志などありはしなくて、結果的に折り重なったしがらみだけが、そうみせている。この横浜の片隅を見渡したってそんなことはいくらでもある。

 向かいの席に座っている、おそらく大学生くらいの男がしきりに髪をいじっている。デートの待ち合わせなのだろうか。その割にはずいぶん辺鄙なところを選んだものだ。魂胆が見え見えである。同じく待ち合わせをしているぼくに言われたくはないだろうけれど。

 スマートフォンの通知を横目で見ながら、ぼくは机を片づけた。1の目が出たサイコロ、日記帳、原稿執筆用のメモ帳、取材のつもりで読んでいるドストエフスキーの『罪と罰』、などなど、いかにも、というような雰囲気を少しでも隠したかった。何が「いかにも」なのかは自分でもよくわかっていない。


「お待たせ」


 彼女は思っていたよりも少し背が高くて、すらりとしていた。もったりとした一重まぶたはいやに扇情的で、悪くなかった。それを強調させるために目のメイクを控えめにしているところが、もっとも美しいと思った。

 やわらかそうな青白い肌は少し病的だが、ぼくの好みでもあった。ただ赤地に白い花柄のワンピースは少し大仰な気もする。もう少し、暗い色遣いが好きだ。

 差し出された細い手にぼくは握手を返した。思ったよりも堅い手指がぼくの掌を撫でて、身体のおくがぞくりと疼いた。

 いつのまに情報を盗み取ったのだろうか。

 ぼくはゆっくりとうなずくと、飲み物を片づけ、彼女について店を出た。

 繁華街にしてはすこしばかり細い路地を行くと、目的の建物がたち並ぶ区画に出る。横浜駅西口から歩いて数分ほどにある、数軒レベルの小さなラブホテル街。

 ぼくはこの中の、ひとつをよく使っている。

 「エンゼル」と控えめに書かれたガラスのドアを手であけ、赤い絨毯が敷かれた中に入った。


 サイコロがひとつ、転がり落ちていった。




 不意に気配がして、ぼくは文庫本から目を離した。目の前に誰かが座っているなんてことはなかったが、スマートフォンの通知が思い出したように鳴ったので、どうやら気のせいではなかったようだ。

 メッセージアプリを開くと、どうやら先方が横浜駅についたらしい。ここまでの道順を示しておいた。必要があるかどうかはわからないけれど。

 少し、気がせいているようだった。人肌恋しい季節だからかもしれない。

 手元にあったサイコロは5の目がでている。きっと今日は運がいい。根拠もなくそう思った。

 窓の外は、雨が降っていた。濡れた路面がいやに景色に似合っているような気がした。色彩が強すぎるから、天気が悪くて丁度いいのかもしれない。

 ぼくの体温は低めなので、たいてい肌を合わせると相手の身体が熱いと感じる。それがあまり好きではなくて、できれば身体が冷たいひととしたいと思っている。今日の相手はそうだろうか。

 部屋に入る前からそんなことを考えるなんて、よほどだった。彼女に迷惑をかけないように、少し自制した方がいいのかもしれない。


「お待たせ」

 彼女は思っていたよりも少し背が高くて、すらりとしていた。もったりとした一重まぶたはどちらかというと直情的で、嫌いじゃなかった。それを強調させるためにまつげを長く伸ばしているところが、もっとも美しいと思った。

 やわらかそうな青白い肌は少し病的だが、ぼくの好みでもあった。ただ薄いピンクの地に黄色の花柄のワンピースは少し幼すぎる気もする。もう少し、大人びた色遣いが好きだ。

「大丈夫?」

 彼女からすれば、ぼくは確か「つきあい始めて半年くらいの彼氏」であるはずで、初対面であったとしてもそのように接してくる。見た目がさほど変わらないからぼくもそれなりに自然に振る舞えてはいると思うけれど、ふとしたところで不自然さが出てしまって、たとえば彼女のこのことばにぼくは答えることができなかった。

 そのかわり、ぼくは深くうなずいた。握った彼女の手は嘘みたいに冷たくて、背筋がぞくぞくと疼いた。

 この身体からすべてが消えてなくなってしまうくらい、彼女にゆっくりと抱かれたい。何もかもを食らいつくし、奪い取ってもなお物足りないような顔をされてみたい。気の抜けたような体温も、さらさらになってしまった体液も、底に残った最後の精力も、それでもなお頭に残り続けている執着も、ぜんぶぜんぶ、すさまじい力で搾り取ってほしい。

 足もとがおぼつかないまま、ぼくは彼女のあとをついて店を出て、細い道を歩く。

「ここに入りたいな」

 彼女の方からそう言ってくれたので、ぼくはいつもの部屋に入るのをあきらめ、ぴかぴかの比較的新しい建物に入った。


 いつのまにか手に持っていたサイコロがころころと転がっていって、ぼくの目の前で止まった。



 サイコロは3を示している。とはいえ、ぼくは双六をしているわけでもTRPGをやっているわけでもない。ただ、サイコロをふるのが好きなのだ。出た目が何であるかで、その先が違ってくるような、そんな不思議な雰囲気がある。

 ぼくは日記帳をしまうと、入れ替わりでドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を取り出した。上巻の最初のほうでスピンが入ったまま、もう半年以上そこから動いていない。ドストエフスキーが悪いわけでは決してないが、『罪と罰』も、『悪霊』も持ってはいるけれど読破したことがない。半分読めたものがあればいいほうで、たいていは最初数ページであきらめてしまう。とにかく言い回しがとっつきにくいのだ。同じような現象は夏目漱石にも起きている。猫と『こころ』しか読み切ったことがない。その猫だって、小学生の時に読み切らないと何か悔しいような気がして無理矢理読んだので、中身なんて覚えていないし、なんだったのか未だによくわかっていない。もっとも、わかるべきものだったのかどうかは知らない。

 そろそろ待ち合わせの時間だが、メッセージアプリに通知の気配はない。何かに巻き込まれたのかもしれないが、かといって助けようもない。こちらから連絡をしたところで何かが好転したこともないので、おとなしく待っている。これが意外と思われるかもしれないがぼくには難しいのだ。ひとつの場所で、何もしないで待つというのが難しい。本や調べ物などの目的があれば別だが、今みたいに、すべてやり終えてから時間をつぶす行為がとても苦手で、そういうときにサイコロは重宝する。けれどこれはおいそれとふってはいけないものだ。なぜなら、いったんふりはじめると終わりがないサイコロの旅へと繰り出さなければならないからだ。ふってしまったが最後、無限にサイコロをふり続けないと気が済まなくなる。そうなってしまえば、彼女が来るまでひたすらサイコロをふり続けてしまう。それはある種の宇宙であり、永遠だ。

 サイコロをふりたいという欲望をよそに、ぼくはサイコロを手にしていた。

 手からそれはゆっくりと転げ落ち、そして、ぼくの目の前で止まった。



 雨が降ってきている。道行く人たちが色とりどりの傘を広げ、先を急いでいた。

 焦点を近くに戻すと、4が出ていたサイコロがコーヒーの脇に転がっている。ベローチェのコーヒーは少し苦くて、眠気覚ましとなる以外に主な効能はなかった。けれど他のコーヒーショップよりべらぼうに安いというのと、この立地が非常に特殊であることからぼくはよく使っている。

 万年筆の筆跡はすでに乾いていて、ぼくはその上から別のペンで書き足した。モンブランの緑色の筆跡がペリカンの古典ブルーブラックによって継ぎ足される。継ぎ足したことがわかるように。違う時空のことばであることがわかるように。

 小説の構造を考えることは、どこか立体的な作業で、家を建てるだとか、数パートにわたる音楽を作るだとかに似ている気がする。その時考えたことをメモしたりしながら原稿を作っていくが、それだけでは奥行きも深みも出ないし、息継ぎをせずに泳ぐような息苦しい文章になってしまう。中には潜りきれるものもあるし、とんでもない肺活量のひともいる。けれど、たいていは途中で息継ぎのために立ち上がったり、いったん陸に上がって身体を休めたりしないといけない。しかも、一度泳いだところを、同じように泳ぐことは二度とできない。

 ことばの海は、その時その時によって姿を変え、組成を変え、しかも個人差がある。十人十色、千差万別のことばの海から、ぼくら小説の書き手は適切なことばを選び、溺れないようにしっかりと泳ぎながら拾いあつめていく。多分、泳ぐのがうまいひとだけがプロとして生きていけるのだろう。泳ぐのがうまくなくたって、ことばを拾い集めて並べることはできる。その並べ方がうまいひともいる。潜水の選手みたいに、ずっと潜り続けて底にある、碁石のようなことばをひたすら拾い集めるようなひともいる。息継ぎや泳ぎ直しを繰り返して、時空の狭間をいくつも泳いで、ぼくらはことばを小説として紡いでいく。それは高尚でも美しくもないけれど、ただただ真摯で、だからぼくはことばの海を泳ぐことが好きで、小説を書いている。それ以外のことについてはあまり好きではないが、できあがったものを見たいという一種の欲望だけでどうにかやっている。世の中、好きなものの好きなことなんて、たいていはそんなものだと思う。ステーキについているマッシュポテトを食べるために、そんなに好きじゃないステーキを頼むひとがいるのときっと同じことだ。

 メッセージアプリの通知で現実に引き戻された。素早く返信をして、ぼくは周りを片づける。ヘミングウェイの『老人と海』は、今日も読まないまま終わってしまった。かっこつけのために出しているといわれても反論ができない。一種のファイアウォールのようなものなのだが、それはきっと理解されないだろう。ことばは塩のようなもので、自分の海に溶かしてみないと味がわからないからだ。

 気がつくと、目の前に彼女が立っていた。

「おまたせ」

 すらりとした身体つき、もったりとした一重まぶた、すこし痩せている手足に黒いワンピースが映える。彼女はピアスをしていた。そして、右腕に腕時計をしている。

 もう少しいろいろなことを考えていたかったが、仕方がない。

 ぼくは彼女のあとについて歩き出す。ベローチェを出て、彼女の傘に入った。

「あっ」

 ポケットにしまったはずのサイコロが、転がり落ちて彼女の靴の上に落ちた。



 ぼくは目の数を数えた。7つの点がある。つまり、サイコロの目は7だった。

「どうしたの?」

 目の前の彼女は訝しげな視線を向ける。彼女に見せたところでしょうがない。

「いや、なんでもない」

 「エンゼル」のカーペットに落ちたサイコロを拾い上げてぼくは外に出た。

 後を追うようにして彼女は外に出て、いつもどおり消えた。

 7の目が出たとき、妙な違和感があったが、よくよく考えれば別に7の目だって出ることもある。いったい何に違和感を覚えたのか、もう忘れてしまった。

 ベローチェに戻って抹茶ラテを注文した。

 さっきまでいた席に座って、彼女を待つことにした。スマートフォンの通知はない。

 席に座って、西尾維新の『クビシメロマンチスト』を取り出して置いた。そういえば、いつ買ったのか思い出せない。

 サイコロを手にとって眺める。7の目があった。その裏は真っ白で、すべすべとしている。

 なんとなく、顔を描きたくなった。油性のペンを取りだして、まるい顔に困った表情をつけてみた。僕がサインを求められたときに描く、自画像兼サインである。このサイコロを落としても、これを知っている人が拾えば届けてくれるだろう。まあ、そんな人が横浜駅すぐのラブホ街を歩くかどうかはわからないけれど。

 ようやく、万年筆で原稿を書く気になれた。ノートにすらすらと筆跡が刻まれていく。筆圧が高いので、細字にしないと切り割りが壊れてしまうらしく、太字がどんどんだめになっていくのだ。かといって細字はこのノートの紙の繊維が挟まってしまう。ちょうどいい太さのが見つからなくて困っている。

 この原稿は私小説である。僕が大学生時代、初めて恋と呼べるようなものをした、という形で、彼女の就職先である神戸を現在として、横浜を過去として、その場面が交錯するような、今となってはよくとられているありきたりな構成だが、そのシンプルさゆえに、登場人物、すなわち、当時の僕の心情がありありと浮かんでくるような設計にしてみた。クライマックスは空き瓶に手紙を詰めて神戸の海に流すという描写だ。あの日書けなかった手紙を書いて、それを彼女が生きている神戸に沈めるという行為。それは純情とも、執念ともとれるし、その塩梅は読み手にゆだねるスタイルである。

 とはいえ、僕は小説のプールを泳ぎきれなかった。途中でスマートフォンの通知が鳴ったからだ。

 西口ってどこ? わかんない。

 彼女のメッセージは端的で不機嫌な感じがでていて好きだ。人の温もりがないと同僚に言われているらしいけれど、ほかの女性よりよっぽど人間らしいと思う。

 僕は位置情報を送った。それをどう使うかは、彼女の勝手だが、そう時間をかけずにここまでくるだろうと思った。



「思ったよりちゃんと記録をとっているようで、安心した」

 彼女はぼくの日記を読んで、にっこりと笑った。ひとなつっこい笑みとどこか大人びた表情が同居するその顔を見ていると少し不思議な気分になる。

「ま、そう思ったから全部塗りつぶしたんだけどね」

 満足そうに、ガムシロップがふたつぶんも入った抹茶ラテをストローで吸い上げる。十数分前まで、彼女は同じようにぼくから精力を吸い上げていた。彼女「たち」に吸い上げられたものは、すべてそれで上書きされてしまったと思う。

 もっとも、目の前の彼女こそが本物だからそれは当たり前のことなのだけれど。

「1番はサイズの微調整が必要。5番は体重に違和感。残りは行為にたどり着けず……。結構失敗してるなあ。もうちょっとうまくいけると思ったのに」

 十分、うまくやっていると思う。

 ぼくはそう答えた。彼女は彼女自身のコピーとして、ぼくの理想の女性の身体を作り込んでいる。それは彼女自身にはないものがいくつかあって、たとえばもったりとした一重まぶただとか、すらりとした長い身体だとかがそれにあたる。けれど別にぼくは彼女にそれを求めているわけではない。彼女の自己満足と知的好奇心が、この実験を支えるもとのようだ。

 7の面とぼくの落書きが書かれたサイコロを見て、彼女は大笑いした。おかげで僕は注目の的だ。

「すんごいバグだね。おもしろ」

 そう言って彼女はサイコロを口に含み、ゆっくりと舌で転がしたあと、奥歯でがりがりとかみ砕いて、のどをごっくんとふるわせて、飲み干してしまった。血液が下に引っ張られるような気がしたが、もう勃起する気配はなかった。コンビニで買ったぶんも、備え付けのぶんも使い果たしたのだから当たり前だ。

「もうちょっと勉強するわ」

 実質他の女に抱かれているわけだけど、そこは気にならないの。

 そう訊くと、彼女はゆっくりと首を傾げた。

「あたしが作ったものにあんたが抱かれてるくらいで嫉妬したりしないけどな。むしろあんたがちゃんといけるなら、そっちのほうが興奮する」

 ひとの性癖はよくわからない。

「はいこれ、あたらしいやつ」

 彼女は何の変哲もないサイコロを出した。

 白地に黒い点がふられているだけの、無機質なプラスチックっぽい、なにかの塊。

 これがふられるごとに、「彼女」のデータは書き換えられる。

 いつまでやるの。

 ぼくはそう言った。

「あたしが満足するまで」

 甘い抹茶ラテを吸いながら、けだるげに答える。彼女の視線は鋭い。ぼくの思考の変化を見逃したくないからだ、と言っていたが、思考なんて見逃すのがふつうだ。たぶん。

「んじゃ、いこっか」

 彼女はすっくと立ち上がった。ぼくより三十センチくらい小さい。

「夕飯何食べたい?」

 疲れたから、牡蠣が食べたい。

「まあ、そりゃそうね。いつものとこ行きましょうか」

 いつのまにかベローチェの外は暗くなっていた。星空が見下ろす中、彼女はぼくの手を引いて、横浜の繁華街へと連れ出していく。

 またインクを買わなければ、と思った。

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