【中編】猫にコンドーム(〇版)

(1/9)猫にコンドーム(〇版)

 何もかもにアイスピックをぶっ刺して殺してやりたかった。緑色にゆがんだ川面をにらみ、堤防の脇の道を下る。ヘドロを流すような工場もないのに、そんな感じの臭いがするのはなぜだろう。つんとした、アンモニアっぽいあの感じ。まあでも、アンモニアって中学の化学の授業でしか知らない。刺激臭だって。こんなんじゃ、叫びがいがない。

 市役所なんてさ、退屈だよね。

 とか言いやがった警察官をあたしは死ぬまで許さないだろう。501で喉元を撃ち抜かれてしまえばいい。同じ公務員のくせに、税金泥棒とか罵られながらどれだけしんどい思いをして生きているか気づけないなんて、こんな男をちょっといいかもなあ、とか思ってたことすら嫌悪するくらい、本当にいい加減にしろと思った。自分は違うとでも思っているのか。前線兵士ごときで傲慢も甚だしい。たしかハイヒールでぶん殴って帰ってきたような。よく覚えていない。覚えている義理もない。

 干上がりかけの何かがごっぷり溜まった護岸を、ぺたぺたとスニーカーで歩いていく。市長はどのつくスケベセクハラオヤジで、今朝の挨拶でも「職員の服装が」しか言ってなかった。服の中身までなめ回すように見てるの、みんな知ってるぞ。とっととスキャンダルで捕まればいい。どうせあるだろ、そういうの。

 それほどまでに悪態をつきたくてあたしはぶっとんでいた。はさみを振り回すザリガニの気持ちもわかるような気がした。いらいらする自分に酔っぱらっているみたいな。ストロングゼロと同じくらい、怒りはひとをだめにする。

 視線をおろすと、ひなたぼっこしている猫を見つけた。畜生、昼寝してやがる。

 税金泥棒も本職を究めると、ろくに文書も書けず、頭も悪くて価値観も古い脳に支配され、もはや生きているのが奇跡みたいな人間になる。一時間ほど前、真性税金泥棒、もとい自称三十三歳オトナ女子は、明らかにあたしをいびる目的でヒスり始めた。間に入った課長は喧嘩両成敗だとか言って、あたしだけ早退させた。じゃあ両方ぶっ殺せばいいじゃん。児童相談所じゃねえんだぞこっちは。なあ、お前もそう思うだろ。

 語りかけるが猫はぐっすりと寝ていて起きない。堤防のコンクリートを触ったらめちゃくちゃ熱くて手が焼けるかと思った。よく寝られるな。もしかして死んでたりして。知らんけど。あたしは心配になっておなかを触ってみた。ほどよくぬくぬくしてあったかい。

 ぐるるる。

 猫は目を覚ましてうなった。猛獣のアレみたいで威嚇してんのかな。

 そのままのんきに引っかかれた。この野郎。だけれどまあ、猫だし、アイスピックをぶっ刺すわけにもいかない。覚えてろよ、と悪態をついて逃げるしかなかった。

 左腕の内側についた傷は実際の痛みよりもイタい。主に見た目が。方向を間違えたリスカみたいに、赤い平行線が並んでいた。たまたま絆創膏を持っていたからいいものの、持っていなかったらあの猫はどうするつもりだったんだろう。病院にでも案内してくれるのか。いや猫に人語は無理だけど。ただまあ、にゃんにゃん言ってれば誰かが適当に解釈してくれるという点では人間とそう変わらないようにも思う。

 家でうなっていても仕方がないので、精神科に遊びに行くことにした。電話をして名前を告げたら野太い男の声で「すぐ来れそう?」とか聞いてくるから三十分で行きますと伝えといた。聞いたことなかった声だけど誰なんだろう。事務はおばちゃんしかいなかったはずだな、とかどうでもいいことを考えながらバスに飛び乗って宇佐見駅を目指した。

 千歳県の西端に位置する宇佐見市の中心街であるところの宇佐見駅周辺は、市域でいえば北端に近いところにあるのだけれど、日本有数の利用客を誇る東京メトロ東北線が通っているだけあって、市内で一番人口密度もあるし適度に薄汚く見える街だった。言い方を変えると繁華街、繁るに華に街と書くアレの定義に当てはまりはするけれど、にしては怪しげな無料案内所もないしラブホは二軒だけだし、居酒屋はチェーン店ばっかり、西友とユニクロがなぜかでかい顔をしている、などなど、新宿歌舞伎町だとか池袋駅のサンシャイン通りだとかの一般的な繁華街とくらべるとだいぶ規模も文化もしょぼくれてしまっている。地方都市にもなりきれなかった衛星都市なんてどこもそんなもんだろうと思うのだが、これで警察も行政も「悪い風俗をやっつけて浄化してやった」と大ドヤ顔してはばからない。ピッカピカの展示場にあるトイレで誰が用を足すんだよ、みんな漏らすだけだろそんなん、って思うのだけれど、職場で同意してくれる人はひとりもいなかった。

 唯一、ラブホが二軒並んでいる通りの隣、かろうじて薄汚いといえる、場末の雑居ビルの最上階に、「ほくぶメンタルクリニック」はある。いいのかこれで、と最初来たときは思った。常連になってからはむしろ、これでいいのか、と思ったりもする。

 扉を開けると、図体のでかい男とぶつかりそうになった。見上げるとひどく間抜けそうな顔をしている。でも眼鏡をかけているだけまだマシか。冷房が利いているのに、灰色の半袖シャツには脇汗がにじんでいた。てか、初めて見たぞこいつ。

「すみません」

「あ、もしかして君が古田さん?」

 声、どこかで聞いたことあるな、と思ったら、さっき電話に出た人だったらしい。ずいぶん馴れ馴れしいな、この前合コンに出てきた警察官かお前は。

 あたしは少し弱々しい声でメンヘラちゃんアピールをしながら名前を名乗った。

「今ちょうど先生あいてるから入りなよ」

 彼はあたしから保険証と診察券を受け取ると、回れ右をして診察室に入っていった。

「古田さん来てますよ」

「わかりました。まわして」

「はい」

 彼が手招きする。いちいち身振りが大きいのは、多分声が低くて通らないせいだろう。声自体がそこそこでかいのもきっとそれ。市長かよ、ウケる。

 上下灰色だし、なんとなく、こんにゃくでできた壁みたいだな、と思った。

「彼氏はまだなの?」

「はい」

 精神科医だってセクハラをする、みたいなどこかの雑誌で読んだものをそのまま具現化させたおじいちゃんが、「ほくぶメンタルクリニック」の院長で、今目の前の行政職員(二十代後半女性。メンヘラはキャラづくり)にそう訊いてくるわけで。

「いい加減作らないと、本当にふつうに戻れなくなっちゃうよ」

「ふつう、ですか」

「うん、ふつう。やっぱり公務員はふつうでなくちゃ」

 雑もいいところだ。本当に精神科医の仕事をしているのだろうかこの人は。だいたい「ふつう」ってなんだ。

 とはいえ、あたしもあたしで本物の患者じゃないわけだから文句も言えない。

クスリもくれるし。

「ありがとうございます。なんか元気でました」

「そりゃよかった。お薬、出しとくね」

「ありがとうございます」

 というわけで、「ほくぶメンタルクリニック」はおすすめしない。自称メンヘラ女子のみなさんにはおすすめするけど。

 いつものように五百円を払って、五日ぶんのクスリをもらって、あたしは颯爽と病院をあとにする。クスリ込みで五百円。安い。喫茶店かよ。ここも自称メンヘラ女子のみなさんにおすすめするポイントだ。


 職業に貴賤なし、などと言うけれど、税金泥棒の日本代表こと基礎自治体職員は、現代において間違いなく「賤」に近いとあたしは勝手に思っている。

 定時で帰れる、土日は休み、残業はない、そう母親に言い聞かされて、これで就職しなければ今までの教育費がなんだったのと泣きつかれ、なげやりに、宇佐見市の職員採用試験だけ受けたらあれよあれよという間に最終面接試験まで進んでしまった。

 新築の匂いがする会議室で、副市長に「お前みたいな学歴だけがいいクソ女なんか採るわけねえだろ」みたいなことを言われたことを憶えている。はあそうですか、と思った記憶が残念ながらはっきりとある。採られなくてもあたしは困らないもん。庁舎はピッカピカのくせに、お偉いさんの脳みそは今にも卒中を起こしそうなくらいガタが来てるんだな、と思って扉をぴしゃりと閉めて意気揚々と帰った。二週間後通知が来て合格していた。補欠で。しかもその副市長の采配だと入庁してから知った。たぶん女だからで、それもそんなにブスじゃなかったからだと思う。ナメられてるのはわかるけど、お互い様だし、しょうがない。

 ちなみに定時で帰れるのは役所が決めたノー残業デーのときだけだし、市民祭りやらイベントやら運動会やらで土日はあってないようなもので、当然残業も山ほどある。虚言癖は遺伝するらしいから、あたしも気をつけなきゃなとか思ったところでもう遅い。アラサーだし。きっとそういうことばっかりな人生。たぶん、ずっと。

 こんなブラック役所なので、セクハラやパワハラ、という概念そのものがなく、年次が下のものは上につき従うのがほぼ絶対で、残業代も各課で配分が決まっているから、上の人間の分は用意されているが、あたしのような主事と呼ばれる入庁数年程度のペーペーにはお鉢が廻ってこない。結果一緒に残業しているのに、その分が一銭も入ってこないなんてことはよくある話で、それを人事に言っても「いや慣習だし、うち金ないし」と下手くそなラップで返され、ほう、これがいわゆる税金泥棒なのか、などとその時は思った。他にもたとえば、勤務時間中に水を飲んでいると「サボっている。市民を舐めているのか」というクレームが五件くらい入る。お前らが人間を舐めているか、自分の税金の生産性を舐めているかだろうと思うのだが、真に受ける管理職もいるようで、部署によっては水分補給すら休憩時間でないと禁止されるらしい。この前それで脱水症状を起こして辞めちゃった女の子がいたけど、労災おりたのかな。かくいうあたしもクソみたいな上司のもとで大喧嘩しまくって、異動願もずっと出し続けて、三年目にようやく受理されて今の部署になった。それまでは持って行くごとに破られてた。まあつまり、そういうところなんです、市役所って。みんな知らないだろうけど。

 比較的財政に余裕があると、市長がドヤ顔で言っていた宇佐見市ですらこんな懐事情、お家事情なのだから他の自治体はもっと悲惨なのだろう。みんなもっと税金の行方をきっちり気にして欲しい。公務員がろくに生きられない国にまともな明日が来ると思うな。

「古田さん、これ、この書類のデータを調べたんだけど……」

 目の前で眼鏡をぐい、と押しやり得意そうな表情を隠せていないのは、熊川砂里奈主任主事。自称オトナ女子、もとい、あたしの天敵。

「……で、どうすればいいと思う?」

 どうすればいいと思う、じゃねえよ。

 あたしはのどまで出掛かった言葉を飲み込んだ。要は、あたしが作った書類に不備があって、このままだと対象者がひとり余計に多くなってしまうから、決裁をとりなおす必要がある、という旨のことらしい。

 ちなみに、決裁は主査にすらいってないので、文書を差し替えれば済む話である。巷で騒がれている文書改竄とか、そんなことをするまでもない、正規の手段で取り戻しが可能なものだ。

「あの、熊川さんはどうしたいんですか?」

 だいたい、人数を知っているんだったら書き換えて差し替えてから報告したり、付箋をつけて注釈をいれたり、やり口はいくらでもある。あるが、このポンコツメスダヌキには思いつかないようだ。いや、こいつのことだ、思いついたとしてもやらないだろう。あたしをいびりたくて仕方がないから。

 頭が悪いのだからしょうがない。頭の悪さは、本人にはどうしようもない。頭が悪いのだから当然性格だって悪い。それもしょうがない。あたしだってそうだ。

「まあ、うん、この書類を書き換えて、最初から決裁を取り直したらいいんじゃないかなあ、って」

 なんでそんなこと聞くの?

 という顔をしている。

「じゃあそうしますね。ありがとうございます」

 と、いつものように冷淡に答え、あたしは書類を書き換えた。

 熊川は、脚を引きずりながら席に戻って、

「うわあああああああああん」

 と大声で泣き真似をし始めた。

 涙はない、泣き真似だから。

 始まった。また始まった、始まった。

 良子ちゃん、こころの俳句、なんつって。

「年下! 年下の古田さんに怒られたああああああ! わたしが障害者で頭が悪くて使えないから! 偏差値の低い大学を出て新卒からずっと! ずっとずっとこんなしょぼい課の仕事しか! させてもらえないからだ! うわあああああん」

 熊川砂里奈は、左足にちょっとした麻痺があって、障害者枠で採用されていた。ついでに言えば、新卒でこの課に入って以来、十年もの間同じ仕事をしているし、残りの一年は鬱病で休職している。それでいて、主任主事なので当然あたしより給料をもらっているし残業手当だってちゃんとつく。障害者年金は知らないけど。

 さらに言えば、熊川というのは市長の苗字だった。つまるところ、これ以上あたしの口からは言えない。ごめんね。察して。

「うわああああああやだあああああ! 若者に! 若者に馬鹿にされる! やだああああああああ! わたしは何も悪くない、ただ頭が悪くて脚も悪いだけなのに! しかも貧乏! 貧乏で三食めざしとご飯しか食べられないのに! うわあああああああ!」

 頭と脚が悪けりゃ十分だろ。いい加減にしないとぶっ殺すぞ。

 ここに異動して三ヶ月になるが、熊川砂里奈は一日に一度は話しかけてきて、そのたびにあたしは地雷を踏む。というか、踏まされている。まあ、つまり、常にこう。過去にこの仕打ちを受けた人の話は知らないが、あたしの席に座っていた先輩は役所を辞めているし、つまりそういうことなのだろうと思う。

 隣の前川主査に小突かれた。スイッチを押すな、という意味だろう。スイッチを押させられているんですけど、とは言えなかった。

 やがて課長が慰めようと席を立ったところで、見てられなくなってあたしはトイレに行くふりをした。やってられるか。人喰い虫とかにそのご自慢のおんぼろマンションを占拠されてしまえばいい。それで赤ちゃんみたいに悲劇のヒロインを演じながら孤独死して、頼むから。

 トイレに行ったら吐きそうになったので吐くマネをしていたら本当に吐いてしまった。お昼を食べていなかったので胃液しか出なかったけれど。

 帰ってきたら、課長が有給休暇申請簿を手にして立っていた。

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