【中編】幻影のかなたに  ~Precious Memories~ 第1話

(1/9) 幻影のかなたに  ~Precious Memories~ 第1話 

 桜の色が目にしみるような、ある春の日のこと。

 勾配の激しい坂を、一人の少女が息を切らしながら登っていた。

 彼女の名前は、千住玲奈せんじゅれな

 聖アーカンゲル女学園高等部に入学する一年生である。

「おっかしいな……」

 地図によれば、もうすでに着いているはずだった。いや、そもそも地図にこんな坂などない。

 つまり、どう考えても道に迷った、と表現するより他にない状況に陥ったといえる。

 最寄り駅からたった数百メートルにもかかわらず、迷ってしまった自分が、非常に情けなく思えた。

 しかし、そんなことを考えていられるほど時間は残されていない。

 入学式まで、あとわずかしかないのだ。

 俗世の誘惑から解き放たれるようにとの想いでデザインされた、敬虔なシスターを思わせる、真っ黒でシックなデザインの聖アーカンゲル女学園の制服は、もうすでに春の陽気と彼女の汗を吸ってその威厳を失いつつあった。

 とりあえず、坂を上ってみる。

 学校というものは、どこでもたいてい丘の上にあるものだ。

 というわけで、彼女は坂を駆け上がるしかなかった。


 と、

「うわっ」

 ばたん、がしゃ、などの音と共に、玲奈は何者かにぶつかって転んでしまった。

「いてててて……」

 玲奈はさっと起き上がった。運動神経にはそこそこ自信がある。

 ところが、相手の少年はどうもそういうわけにもいかなかったようだ。玲奈が立ち上がってからも、しばらくはしりもちをついたまま動かなかった。

玲奈が駆け上がった坂道を登りきったところに、道が横切っていて、そこから急に現れた少年を避けきれずに勢いよく突進する形になってしまったのだ。


「ちょ、ちょっとあんた大丈夫?」

 彼女が思わず声をかけてしまうほどに、少年はゆっくりとふらつきながら起き上がった。

「ええ、まあ、はい。僕が余所見していたから……」

 いや、彼が余所見をしていなくてもきっとぶつかっていただろう。

 なにしろ彼女は急いでいたのだから。

「あれ、眼鏡はどこだ……」

 彼は、自分の顔を触って眼鏡がないことに気づくと、ゆっくりと周りを探し始めた。

「あっ、ほら、ここにあるじゃない!」

 玲奈はその様子にいても立ってもいられなくなり、急いでいることなどすっかり忘れて彼の眼鏡を拾って渡した。

「ああ、どうもすみません。助かりました」

 彼は、眼鏡をかけ、玲奈の服を見てから、

「……あれ? 失礼ですが、もしかして聖アーカンゲル女学園の生徒さんですか?」

 と言った。

 本来、男子生徒である彼が即座に女子の制服を見てどこの生徒か判断できたことを玲奈は少し疑ったが、たしかに、特殊なデザインだからこの制服は非常に目立つだろうと大して気にも留めなかった。

「うん、そうだけど……あっ、あたし入学式が始まっちゃうから急いでるんだ、悪いけどあとで! じゃあ!」

 玲奈は走り出した。

 方向はわからないが、とりあえず前進してみようと思ったのだ。

「いや、あの……待って! そっちじゃないですよ、聖アーカンゲル女学園!」

 玲奈が走り出すと少年はあわてて追いかけてきた。

「え? 本当に?」

 玲奈は器用に急停止して振り返る。

「ええ、そこの角を曲がって……って、こんなところにいるってことは、もしかして道に迷ってしまったのですか?」

 ここは、路地が多い。どう考えても住宅街だ。

 そして、聖アーカンゲル女学園は広大な敷地を持つ屈指のお嬢様学校として知られ、生徒の半数以上が寮を利用する。どう考えても近所の人間が通うような学校ではない。そして、こんなところにそんな学校など建っているはずもない。

そんなところにその学校の制服を着た生徒がいたら、どう考えても道に迷っていると考えるのが妥当だ。

 なかなか鋭いな、と玲奈は感心したが、そんな場合ではなかったことをすぐに思い出す。

「……うん、実はそうなの。あたしすっごく方向音痴だから、もう地図を見ても何がなんだかよくわかんないのよ」

「ああ、それなら僕が案内しましょうか?」

 その言葉で、彼女は少し落ち着きを取り戻して少年を見た。

 丸顔に薄い緑色の髪は、短く整えられていて、とても聡明そうな印象を受ける。眼鏡をかけてはいるが、よく見れば女性的なかわいらしい顔をしている。

 背は低く、どうも中学生のようだが、なぜか信頼できそうな、そんな少年だった。

「あんた、学校大丈夫なの? あたしが言うのもあれだけど、時間ぎりっぎりだよ?」

「いえ、大丈夫じゃありませんが、その……困っている女の子を見るとほっておけない性格でして……」

 見るからに年下の少年に「女の子」扱いされるのもどうかとは思ったが、そんな贅沢を言っているほど余裕はない。むしろ助かったと考えるべきだ。

「ああっ、本当に? ありがとう! あんた、名前は?」

「ぼ、僕は上川雄来かみかわゆうきといいます。霧島高校の一年生です。……あの、貴方は?」

「あたし千住玲奈。というか、えっ、あんた高校一年生なの? あたしと同じじゃん!」

「へえ、やっぱりそうでしたか。……しかし、僕って高校生に見えないのかなあ……」

 雄来は玲奈の何気ない発言に少し凹んだようだった。

「ごめん、高校生には見えなかったよ」

 それもそのはず、雄来の背はようやく一六〇センチを超えたくらいで、ともすると女の子にしては背の高い玲奈の方が若干大きいくらいだった。

「……まあ、しょうがないです。慣れていますから。えっと……とりあえず、聖アーカンゲル女学園はこっちですね」

 雄来が走り出す姿を見て、玲奈はその背中が初めて見たときよりも若干大きくなったように感じた。

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