【短編】春なのに工事中 (from 順列からの解放)

「今までありがとうございました」

 退職届と素っ気ない挨拶だけを残して、僕はとうとう無職になった。なにがしかの感情は、ここまでの勤務生活ですり減って無くなってしまっている。誰にも何も言わないで決断したけれど、上司はわかっていたのだろう、すぐにうなずいてくれたし、時間の問題だったのかもしれない。やっぱりこの仕事に適性などなかったのだろう。

 定時を知らせるチャイムが鳴った。僕が聞くことになる最後のチャイムだということに気がついたのは、駅について電車を待っている時だったし、つまりどうでもいいことだった。僕ひとりが働いていなくても世界は鈍然と回っている。電車は遅れもなく来るし、夕日はきちんと沈むし、ビルには灯りが当たり前のようにともっている。誰かが作りあげてきたこの世界を、どうにかして回していこうと考えていたのは、いつまでだっただろうか。気がつけばそんな大それた事が出来ずに、ふがいなさとわだかまりだけを抱えたまま、僕は社会の構造からすっぽりと抜け落ちてしまった。歯車になるには素材が弱すぎたのかもしれない。

 旧式の電車は、悲鳴にも似た電子音で動き始める。年季の入った内装と、ぴかぴかに磨かれた扇風機が、外のビル群と絶妙に合っていない。電車の中だけ僕に合わせているのか、それとも街から放り出されたから僕を乗せているのか、知っている人間はいない。

 ふと、視線を右に向けると、学校帰りの女子高生が、シートの端にぽつんと腰掛けていた。くたびれた紺色のセーラー服の襟に白いラインが入っていて、袖にTと小さく刺繍が入っているが、どこの高校かは知る由もない。彼女はひどく疲れているようで、うつむいて眠っている風だった。まっすぐ伸びた黒い髪は真下にだらしなく垂れ下がり、髪先が少し乱れていた。部活動が終わるような時間でもないし、読者モデルのような華奢な白い腕からは部活動をやっている形跡がそもそもない。しかし、だとしたら何に疲れているのだろうか。少し不思議に思った。

 車窓は次第に、ネオンの光が目立つようになって、速度も徐々に緩んでいった。街の中心部に着いたのだ。向かいに座っていたさっきの女子高生は、むっくりと起きあがると、人並みに揉まれながら駅のホームへと吸い込まれていった。そして、夥しい数の人が乗ってくる。そんな光景に軽くめまいがして、気が遠くなった。

 たくさんいた乗客がまばらになったころ、僕の最寄り駅を告げるアナウンスが鳴った。辺りはすでに暗くなっており、個性もへったくれもないアパートやマンションが建ち並ぶだけの住宅地に、列車は滑り込んだ。

 駅前の商店街はほとんどシャッターが降りてしまっている。こういう時間にやっていなければ寂れる一方だろう。実際、僕はこの商店街が買い物客で溢れている様子を見たことがない。空を見上げれば、街灯りに負けない星々が、スーツについた埃みたいにばらついている。僕は実家への道をゆっくりと歩いていく。

 実家に会社を辞めたことは一言も言っていない。言ったところでどうにかなるものでもないし、下手をしたら家を放り出される。一応当面暮らしていけるだけの貯金はあるのだが、それも家賃や引っ越しの料金を含めてしまうとすぐになくなってしまうし、雇用保険がおりるまで暮らせるかぎりぎり、いや、きっとその前に資金が尽きてしまうだろう。そんなことになってまで生きていたくはないし、かといって路頭に迷って死んでしまうのもいやだった。もっとも、それだけわがままな人間だから社会人生活についていけなかったのかもしれない。生きているだけで儲けものなんて誰かがよく言っていたけれど、ただ飯を食って寝るだけの人間に、生きている価値などあるのだろうか。人間は巡りめぐって社会に貢献しているのだろうが、その環から外された人間が行き着くところは、地獄しかないのだろうか。そんな形のはっきりしない不安が僕の両肩に重くのしかかっている。

 うすぼんやりとした夜空が見下ろしているのは、誰なのだろうか。


 仕事をしないとわかっているのにスーツを着ることが、これほどまでに心苦しいものだということに今まで気づかなかった。曲がりなりにも仕事をしていたせいだろう。しかし、裏を返せば、今の僕の仕事は、まさにスーツを着ることだけにあるようなものなのだ。そう言い聞かせて、退社するときは二度と履くかと思った、型くずれしかけている革靴を履いて、鉄筋コンクリートのマンションを後にした。

 エレベーターを降りて、ふとおもむろに家のあるマンションを振り返る。小さい頃から見慣れていたはずの十三階建てのそれは、かつての住宅公団が建てた恐ろしくダサいものの頑丈さは折り紙付きの代物で、無骨なベージュ色の壁の塗装や、外側に継ぎ足され錆だらけの螺旋階段が年季を物語っているが、数年前の大地震でもびくともしなかったし、おそらく今後五十年くらいは何の問題もなく住居として使えるのだろう。僕に建築の学はないが、すでに二十年以上ここで住んでいる実感としてそう思う。このマンションはすべて分譲だが、そういえば値段を聞いたことはない。たまに郵便受けに入ってくる近所の中古マンションの値段から考えると、きっと僕が死ぬまで働いたとしても到底払えるような値段ではないことくらいは、なんとなくわかる。そもそも、鉄筋コンクリート造の建物は高いし、さらに十二階という高層階だ、資産価値がその時点で爆発的に上がる。中身はしょぼくれていたとしても変わりようのない事実が確かにお金として勘案されているのだ。どうやらいくらで買ったのかは聞かないでおいたほうがよさそうだ。急にここにいるのが恥ずかしくなってきて、僕はあてもなく歩き始めた。

 整備されきった広い道路を逃げるように、細い路地へ入り込むと、せせこましく建てられた戸建住宅の並びに、ふといきなりひなびた公園が現れた。あまりにも唐突にぽっかりと空いたその空間は、朝っぱらなのになぜかほんの少しゆるやかに淀んでいるような気がして、僕は吸い込まれるように中へと足を踏み入れた。

 公園の中には、緑色の塗料が剥げて中の板がむき出しになり、それも茶色に焦げながら水を吸って割れている今にも朽ちて折れそうなシーソーや、幼稚園児がようやく相撲をとれる程度の大きさの砂場、そして二つ仲良く並んで赤錆に覆われているブランコが無造作に置きっぱなしになっていて、奥にはトラロープでぐるぐる巻きにされた回転木馬が、「工事中」という張り紙に封印されていた。空き地があるから仕方なく公園を造ったという自治体の不器用な優しさと、その税金を僕みたいなどうしようもない若者に費やすつもりはないという毅然とした態度を体現するような、期せずして存在する現代芸術がこんなところに、いや、きっと日本の至る所にあるに違いない。行政は年金暮らしの老人の機嫌をとることに精一杯になっていて、僕のような生きる気もなければ働こうともしない、まして子供を作る予定すらなく、しかも生まれ落ちてからたかだか二十数年の人間の面倒なんて見ていられないのだろう。毎月あくせく税金を納めた結果がこれなのだから、テレビの向こうの政治家が不倫をしようが三億の賄賂を受け取ろうが勝手だと思われても仕方がないし、彼らだって票にならないことは仕事ではないので僕らに目を向けることもない。かくして日本は団塊の世代ばかりが儲かって、彼らと一蓮托生となって死んでいくのだ。どうしようもない虚無感に僕は思わず鞄に隠し持っていた煙草を探した。

 随分前にどうしてだか、焼身自殺が一番楽な自殺だと聞いたことがあって、面白半分になにかと便利そうだと思って買ったジッポのライターをポケットからつまみあげて、会社――いや、今となっては元職場だ――の始業時間を過ぎた空気と一緒に煙草の煙を吸い込む。春先の空気はのどかで、それだけに罪悪感がこみ上げてきた。けれどそれもニコチンに当てられてしまえば一瞬で、浮かんでいるのか沈んでいるのか、深海にいるのか高山にいるのか、そんな不適当な感覚に支配されてしまっていても、もう慣れたもので僕はきちんと前を向いてものを見つめることが出来るのであった。

 ブランコに座り込むと、ぎぎ、と嫌な音を立てて金具が軋んだ。鎖に触れると意外にも錆は進行しておらず、触っても手の色は変わらなかった。煙草をもみ消してブランコを漕ごうと足を伸ばすと、目の前に紺色の人影が見えたような気がして、僕は思わず動きを止めた。

「おじさんさあ、何してんの?」

 あからさまに上から口調の彼女は、けれど紺色のセーラー服を着ていた。行くべきところに行っていないのは同じだから言われる筋合いはない。そもそも僕と彼女はおそらく十も年齢が離れていないのだ、おじさんだなんてよして欲しい。

「さあ、何してんだろうな」

 虚空にでもつぶやくかのように、あえて吐き捨てるように言ったその様子がおかしかったのか、彼女は素直にふふ、と笑った。

「君こそ、こんなところで何やってんの?」

 それがなぜだか少し悔しくて、そんなことを聞いてやると、

「あたしはエンコーの客探し」

 と、とんでもない答えが返ってきた。

「つまんねえ冗談だな」

「冗談に聞こえる?」

 少女はどこか余裕ぶった笑みで僕ににじり寄る。長い黒髪は確かにいかにも少女という感じがするし、彼女からは石鹸のにおいが微かにしている。

「いくらがいい?」

 少女らしくない計算された角度で、彼女は首を傾げた。きっと一度や二度ではない、いや、まさに彼女はこれを仕事としているのだろう。下手をすれば僕より社会を知っているかもしれなかった。それに恐れや怒りや悲しみといった、人間らしい感情が浮かんできていれば、僕はまだ社会で働くことが出来ていたのかもしれないけれど。

「んなもんねえよ。他をあたれ」

「えー、なにそれ」

 彼女はあからさまに不機嫌な顔をして(それもポーズだろう、そうは見えないくらい精巧だったけれど)、隣のブランコにさりげなく座った。

「本当にお金ないの?」

「ねえよ」

「スーツ着てんのに?」

「スーツ着てても金持ちじゃない奴なんかいくらでもいるだろ」

 現に僕には仕事がないのだ。だいたい、こんな時間にうろついている人間がろくな収入があるとは思えないし、そもそもまず援助交際をしようと思うような時間帯じゃない。

「だいたいこんな朝っぱらからエンコーなんてする奴いるかよ」

「うん、わりと」

 あっけらかんと答えるのが変なところに妙に刺さって、僕は黙り込まざるを得なかった。

「もしかして、リストラされたの?」

「ちげえよ、辞めたんだよ」

 思わず語気を強めてしまった。

 本当にリストラされていたらどうするつもりだっただろうか。

「そうなんだ。ブラック?」

「さあな。他の会社を知らないから」

 僕にとっては確かにブラック企業だと言う自信はあるけれど、他の人間にとってそうかと言われると、はっきりとうなずくことは出来ない。労働時間が長いわけではないし、社内の風通しが悪いとも言い切れない。上司が悪い人間だとも思えないし、むしろ問題は僕の方にあるような気がする。

「生きづらい世の中だからねえ」

 お前が言うな。

「じゃさ、そんなこと忘れてあたしと遊ぼうよ」

 少女らしくない微笑みと上目遣い。

「金がねえって言ってんだろ」

 再度、今度は故意に吐き捨てるように言って僕は持っていた煙草を地べたに投げつけ踏み消した。

「あっそ。つれないね。そんじゃ、煙草ちょうだいよ。切らしちゃってさ」

 女は気だるそうに、それこそ演技を諦めたのか、急にうつろな目をしてそう言った。

「未成年じゃねえか」

「適当に会社入って合わないとか適当なこと言って辞めてるくせにそんなしみったれたこと言ってないでさあ」

 いきなりぐっと身体を近づけてきたので、全身がこわばった。女性にここまで近づいたことが今まであったかどうか、直ぐには思い出せない。たぶんあるはずだけれど。

 その隙に彼女は胸元からライターと煙草をひったくり、慣れた手つきで火をつけた。

「金なくなったくせにいい煙草吸ってんじゃん」

 にやりと、酷薄な笑みを浮かべながら気持ちよさそうに煙を吐き出した彼女は、さっきまでの清楚を形だけでも装っていた女子高生とは別人のように見える。それはそれで、生かされている人形のような、あるいは堅苦しさと制度にあてられた感染症患者のような無秩序な柵から解き放たれたようで、彼女が意図しない美しさを持っていた。けれどそんなことを口にしようものなら、今度こそ僕は反社会的な人間として指をさされてしまうだろうなと根拠のない妄想がとめどなく流れてきそうなのでやめた。

「金があるうちは、辞めたらこんなに金がなくなるなんて思ってねえからな」

 なんだかんだ、安いと思っていた給料は、意外にも僕の経済活動に余裕をもたらしていたらしいということはすぐにわかっていた。けれど、それすらも僕は認めたくなかった。

「あんた金持ってんの? 持ってないの?」

 はっきりしなよ、と心底どうでもよさそうに、彼女はふう、と長い煙を吐いた。

「それもよくわからねえ」

「わからないことばっかで困らないの」

「意外と困らないんだよ」

「大人のくせにそんなんで恥ずかしくないの」

「朝っぱらからエンコーしてるような女に言われたくねえ」

「お、いいじゃんいいじゃん、素が出てきてんじゃん」

 なおも上から目線で腰に手を当て、顔を近づける彼女。さっきまでしていた清楚そうな石鹸の香りは、僕の煙草に塗りつぶされて、名実ともに不良女子高生に成り下がっている。

 彼女は隣のブランコを一端降りて、煙草を踏み消すと、もう一度腰掛け、ぎこぎこと揺らし始めた。

「そいやさ、あんた、名前なんていうの?」

「コウジって呼んでくれ」

「そ、あたしハルナ。源氏名だけどね」

 コウジも僕の本名ではないし、お互い様だろう。ハルナは真っ黒な髪をかきあげ、薄いピンクの色の付いたリップクリームを塗っている。

「ん? ちゅーする? 一回五百円ね」

 物欲しそうな顔をしていたのか、それとも唇を注視していたことに気づいたのか、彼女は薄い微笑みを浮かべてそう言った。

「安いな」

 思わずつぶやく。

「そうかな? 煙草吸ったばっかだし、嫌かなと思って。あ、でも今ちょっと機嫌いいし、初回だけ無料でもいいよ」

 どこかすっとぼけたような声と共に、ハルナの顔が無遠慮に接近する。

「愛もないのにされてもなあ」

「へえ、意外と清純だね。コウジくん、って呼んでもいい?」

 彼女に距離を詰められるのはもう慣れ始めていたし、それが彼女のやり方なのもわかっているので、僕は首をゆっくりと縦に振った。なんとなく、そうしたかっただけなのだけれど。

 ハルナはあからさまに高圧的な微笑みを浮かべると、

「コウジくん、面白いじゃん」

 と言って、

「じゃ、またね」

 と急に何かを思い出したように、とことこと走り去って行ってしまった。

 最初からここにいたのに、なぜか取り残されてしまったような気がして、僕はゆっくりとブランコを降りて、駅の方へと足をのばした。


 いつの間にか高く上っていた日が、スーツを強く照らしていて、やたらに暑い。気まぐれでひと駅となりまで歩くような服装じゃなかった。それもこれも、時間があり余っていて、とにかく暇をつぶさないと気が狂ってしまいそうだと思ったからだ。

 皮肉なもので、会社を辞めてからたった数時間で、僕は業務のない平日に飽き始めていた。それだけ仕事に心血を注いできたということなのだろうが、実際に辞めたら何をしようか考えたことは確かになかった。あれだけ辞めたいと思っていたのに、いざ辞めたら、することが何もない。こんな馬鹿なことがあるだろうか。だからせめて、この暇をつぶそうと考えたのだ。暇つぶしなら得意だ。

 そうして駅前から、線路沿いに意気揚々と歩き始めたまではよかった。いざ歩いてみると、坂道が続くわ高架橋を超えなくてはならないわ、徐々に直射日光に悩まされるわで、何も面白くなかった。唯一の頼みだった景色も、何の代わり映えもしない無味乾燥な住宅の並びが延々と続くだけ。普段通過している隣の駅が見えてきた頃にはへとへとで、喫茶店にでも入って休みたい気分だった。

 仕方なく見えてきた駅前広場のベンチに腰掛けて、辺りを見回す。一羽の薄汚れた鳩が、食べ物を恵むのが当たり前だと言わんばかりにこちらを見ている以外は、サラリーマンの擬態をしている人間に目をくれるものはいなかった。やはりハルナはちょっと変だったのだ。そもそも、今となっては白昼夢のような気もする。あんなすれた女子高生がいてたまるか。いて欲しくない。少なくとも、僕の前には出てきて欲しくないのが僕の汚らしい本音でもあった。けれど、彼女が一体どんな生活をしているのか、少しだけ気になった。

 ふと鳩を見やると、根気がいいのか、他に構ってくれそうな人間を知らないのか、まだ僕の方を向いて物欲しそうな顔を向けている。

「お前はいいよな、余計なことを考える必要がなくて」

 鳩に至極どうでもいいことをつぶやきながら、母が作ってくれたハムサンドを取り出し、湿った耳の部分をちぎって放り投げた。あろうことか、鳩はしばらく怪訝そうな顔をしていた。お前に投げたんだよ。何してんだ早く食えよ。そして二、三回つつき回すと、パンくずをくわえてどこかへ飛んでいってしまった。すがすがしいほどの現金さに、僕は羨ましいとしか思えない。

 ハムサンドを平らげると、いよいよする事がなくなってしまった。電車に乗るにも、近くの喫茶店を見つけるにも金がかかる。これから先、いやというほど必要になるというのに、今ここで費消してどうする。しかし、かといってお金を使わずに時間を潰すのにはそろそろ限界がきていた。

「あれ、なんだ、コウジじゃん」

 聞き覚えのある声と、ほのかな煙草の匂いがした。

 いつのまにかハルナが、すぐ側に座っている。大麻などのドラッグ類に手を出した覚えはないが、白昼夢かもしれないので、手を出して彼女の頬をつねってみた。

「おい、なにしてんだ」

 ハルナはきわめて冷静に腕を振り払うと、ぱちんと頬を張った。思ったよりずっと痛かった。

「今のぶんの料金ね」

 そう言って胸ポケットから煙草をひったくって一本くわえた。まだ煙草を鞄にしまっていなかったことにその時気づいた。

「夢じゃないってわかってよかったね」

 すぐ隣に腰掛けて、ハルナは皮肉げにそんなことを言った。自然なピンク色の唇から、ふーっと煙が長い尾を引いて吐き出される。

「あんたって唇フェチなの?」

「なんで?」

「さっきから口元ばっかり見てるから」

「そうかな」

 意識したことはない。目は見ていないのはわかるけれど。

「どうしてエンコーなんてしてるんだ?」

「なに? 説教?」

 至極現代的な嘲笑を含んだ口調で、僕はハルナが少なくともずっと年下であることに気がついた。

「いや、単に気になっただけ」

 そもそも社会から脱落した人間が社会規範を説くべきではないだろう。教師でもあるまいし。

「へえ」

 ハルナは目を丸くした。もったりとした一重まぶたが妙になまめかしい。

「別に、あんたが考えるような理由はないんだよね」

「金がないとか?」

「そ、べつにうちはサラリーマンで貧乏とかじゃないし」

「じゃあ何だ、暇つぶしとかそういうこと?」

「うーん、そうかも。あと学校行きたくないから」

 不意に、昨日の帰りに見た女子高生を思い出した。彼女は学校生活に疲弊しているように思えた。

 そういえば、あのTの刺繍の制服、どこかで見たと思ったら、職場の近くの女子校のそれだったことを思い出した。出勤前に登校している生徒をよく見ていた。お嬢様学校として、都内では非常に有名な学校であるらしい。同僚の誰かから聞いた話だ。

 そしてその制服は今、僕の目の前で清楚さを空虚に主張している。

「確かに必ずしも、楽しい場所ではなかったけれど、どうしてそんなに行きたくないんだ?」

 自分の思っていることを率直に言うことは、社会的な死を意味するという法則にとらわれていない女子高生。だからこそ僕はここまで反社会的な態度を彼女に向けているのかもしれないなと少しだけ思った。

「それがわかるんだったら、諦めて学校に行くでしょ普通。違わない?」

 ここで「違わない?」と付加疑問文をぶつけるハルナに、僕は少しだけ好感を持った。少なくとも何も考えていないような女子高生ではないことだけはわかったからだ。裏を返せば女子高生なんて中身がなくても成立するパッケージみたいなものだと僕は常日頃思っていたわけだけれど、そんな都合の悪いことは普段忘れているのが大人という醜悪な生き物である。

「コウジくん、頭いいのか悪いのかよくわかんないね」

 いつの間にか彼女は藍色の箱から煙草を取り出して、僕のライターで火をつけた。よくよく考えれば、真っ昼間に制服を着ている女子高生が公衆の面前で喫煙をしているのに咎める人間が誰もいないのは、かなりクレイジーな社会じゃないか。というより、その銘柄は非常に強いニコチンとタールが含まれているのだが、大丈夫なのか。

「何? ピース吸い出したからビビってんの?」

「まあな、未成年が吸うもんじゃない」

「マルボロもメビウスも未成年が吸うもんじゃないだろ」

 こつん、と頭をはたかれた。

 おそらく僕は、ここで初めて彼女の顔をまじまじと見た。その制服の質実剛健な演出もあいまって、教室の中に佇んでいるだけであればきっと良家のお嬢様にしか見えないだろうし、だからこそ彼女からピースの匂いがぷんぷんするのが、どこか退廃的でリアルな闇となってこちらに迫ってくるのであった。さほど厚くない唇と薄い一重まぶたは、彼女自身から発せられる女子高生特有の華美さを相殺させている。

 制服が似合うはずなのに、絶望的に似合っていないのはこのせいか。僕はなんとなく納得した。

 ふとセーラー服の胸ポケットに黄色がさしているのが見えた。

「何でたんぽぽ入れてんの?」

「ん? 拾った」

「ふうん」

「そこは拾わないんだ」

 納得できればそれでいいことなんていくらでもある。納得できなくても抱えなくてはいけないことも、同じくらいたくさんある。そして、それをいちいち伝えるほどの義理もスキルも僕にはないわけだ。

 それ以上は特に会話もないまま、僕らはなま暖かい風に吹かれながら、時折煙草をくゆらせながら、気がついたら正午を知らせる無機質な鐘が鳴った。

「お昼だね」

「ああ」

「なんか、食べる?」

「てか、いいのかよ」

「何が?」

「こんな街中で、制服で歩いてさ」

 そもそも、これほど堂々と喫煙しているのにも関わらず、彼女は補導どころか警官の職務質問すら受けていない。どのようにしてくぐり抜けているのか知らないが、相当の手練れなのかもしれない。

「警察官ってね、意外と忙しいし、だから疲れが溜まってるの」

 見過ごす理由にはならないと思うが、なんとなく納得できればそれでいいのだ。

 そう思うと、いろいろなことがどうでもよくなって、僕はいちいち考えるのをやめた。


 ハルナは女子高生にしてはほんの少し背が高いのだろう。夕暮れ時の影を見て少しそう思った。そして、なぜこんな時間になっても彼女は僕のそばを離れないのかが理不尽に不思議で仕方がなかった。

「はあ、面白かった」

 そして、何がそんなに面白かったのかさっぱりわからないあたり、僕は彼女を理解することがついぞ出来なかったことを悟った。

「僕はちっとも面白くなかった」

 大人気もなくそんなことをつぶやくと、

「面白くしようとしてないじゃん」

 意外にもシビアな答えが返ってきた。

「せっかくリストラされたんだからさ、もうちょっと自由に生きりゃいいのに」

「自由に生きるべきでない人間に言われたかないけど」

「それどういう意味?」

 急に噛みつくような語勢になったので、僕は驚いてハルナを見つめた。

「あたしが自由に生きるべきでないってどういう意味かって聞いてんの」

「だってお前はまだ高校生だろ、学校に通うってのはそれだけの制約が発生するじゃねえか。そりゃお前がエンコーしようが煙草を吸おうが自由だろうけど、それでも学費は学校に支払われている。だから最低限それなりの行動を示す必要がある、って僕は思うけどな」

 もっとも、そう思って平穏に学生時代をやり過ごして今ここで稼げなくなってしまったような人間に言われても説得力などないのだろうけれど。

「その学費はあたしが納めてるんじゃないし」

 ゆるやかに、しかし確実にハルナは先ほどの怒りを抑えようとしている。抑える余裕があるのか、それとも抑えたくて仕方がないのか、どちらにしても自由を切実に希求していることは明らかであった。

「他人に決められた、お仕着せの人生なんて嫌なんだよ。あたしはあたしだ、あたしを生きる!」

 かつて持っていた傍若無人さをどこかに捨ててきてしまっていたことを、僕は今更になって思い出した。それと同時に、彼女が持っている若さと奔放さはそれに起因するのだということに気づいてしまっていた。

「あのな、人間てのはしょせんお仕着せでしか生きられないんだ」

「今更になって説教でもする気?」

「そうじゃねえよ」

 実際、彼女に説教をするつもりは微塵もない。

「仕事にも生き方にも、向き不向きってのがあるんだ。けれど仕事も生き方も、完全に自由に選ぶことはできない。結局はどこかの誰かに押しつけられたもので、なんとかやっていくしかないんだ。だからこそ僕は僕としてここまでやってきたけれど、それである日不幸にも気がついちまった、僕は僕を生きるのに向いていないって」

 なんとなく、僕は立ち上がっていた。それは明らかに僕の僕による僕のための釈明だったし、ハルナに全く関係のない話でありながら、将来的にはどこかで密接に繋がってしまうような宿命的なものでもあった。だからこそ僕はここで、数時間前に出会ったばかりの、したたかすぎる女子高生に対してこんなに格好の付かないことをしているのだろう。そういう自尊心だけは、なぜだか大事にとっておいた。

「なるほどね。あんたの言いたいことと、これまでの生き方、なんとなく判った気がするよ」

 その言葉で、僕は思わず呆然としてしまった。

 できることなら、彼女に強い言葉で否定して欲しかった。淡い期待が目の前でもろくも打ち砕かれてしまったことに、幸いにして彼女は気づかない――ふりをしていた。

「あたしはさ、できれば自分で作った道で満足したい。人に造って貰った道なんて、絶対に満足できない」

 決然とした言葉が楔のように僕を磔にしていく。ハルナの顔が醜く歪む妄想を一瞬だけしてしまった。葉桜がわずかに鮮やかに光って、目を逸らしている間に、彼女はどこかへ消えてしまっていた。吹き付けるそよ風から、かすかに石鹸の香りがしたような気がした。

 白昼夢から醒めたのか、それとも。

 判然としない頭で考えても、傾いた太陽の謎はわからないままだった。


 いつものように家で夕飯を食い、眠りにつこうとしてもハルナの様々な表情がそれを邪魔した。あの女子高生は、たった一日だというのに僕の人生にかなり大きな印象を与えてしまった。よくよく考えれば、ここまで二十年以上何かを積み上げてきて――あるいは、積み上げようといてきていて、昨日それを一気に取り崩したというか、崩壊させたのだし、その次の日がいつもと変わらない日常であるはずがないわけであって、つまるところ僕は今日もきちんと働いていれば文字通り彼女に会うことはなかったのだ。

 なんとなくハルナと出会ったことにある種の運命があることは否定できないけれど、そこから僕の人生が好転するような兆しなどまるでなく、むしろこれから転げ落ちるのではないかというような気さえしてくるのだった。

 ベッドのスプリングが少しだけ弱っているのを感じながら、夜を超えた。


 日常はモノクローム、なんて言葉がラジオか何かの流行歌で流れていたけれど、果たして、鮮烈な日常など存在するのだろうか、いや、存在していいのだろうか。日常は自分の中に蓄積されていく一歩一歩の歩みである。そのひとつひとつの情報量が余りにも重すぎたら、人は容量超過を起こし、思考が崩壊するかもしれないだろう。日常が白黒だったり、文字だったりするのは、どちらかというと人生を守るためのリスクマネジメント的な意味で重要ではないだろうか。

 そんなことを考えながら、今日も懲りずにサラリーマンの擬態をして家を出た。僕が過ごす日常も、あとから考えれば何かの蓄積として重要になるのだろうか。今のところ、そんな幸福そうな要素はどこにも見あたらないのだけれど。

 昨日の公園を通り過ぎようとすると、紺色のセーラー服を着た女子高生がブランコを漕いでいた。遠くからじゃ顔も見えないけれど、誰がそんなことをしているかくらいはすぐにわかる。ブランコはぶるんぶるんとかなり大きい角度で揺れているが、ハルナは恐がりもせず、楽しそうにもせず、それが仕事だと思っているように一心不乱に漕いでいた。そこまでアピールしているのに近づかないほど子供でもないので、仕方なく公園に足を踏み入れてブランコに近寄る。

「コウジくんじゃん」

 昨日と全く変わらない調子でハルナはブランコの上から声をかけ、一番高いところで飛び降りた。

 その身体は極端に高い放物線を描き、柵をすれすれのところで越えて着地した。

「何やってるんだ」

「柵が無意味だってことを証明しただけ」

 まわりくどいやり方しかできないのか、あえてそうしているだけなのか、それはきっと誰にもわからないだろう。わからなくてもいいことなんて世の中には山ほどある。

「お金、持ってきた?」

「なんで?」

「昨日、あたしと遊びたかったんでしょ?」

 随分な自信である。もっとも、彼女は自信を持っても仕方がないくらいには女子高生として完成されたフォルムではある。それこそ、僕に構わず本気で客を探せば、そこそこ稼げるだろうに。

「むしろ、金にならない僕になんの用だよ」

「いや、あたしはただ、ブランコを漕いでいただけだし。昨日もあんたに出会わなければ、ここでブランコを漕いでたと思うけど」

 なるほど、僕が昨日この公園に寄ったのは偶然だったから、確かに理屈としては間違ってはいないと思う。

「真面目にしてるフリってさ、すごく疲れるじゃん。こうやって無意味に時間を潰さなきゃいけないし、家に帰ったら真面目に学校行ってたフリしなきゃいけなくて、時々それがばからしくなって止めたくなるみたいなさ」

「でも、もうレールに乗っちまったら最後、降りる方法なんてそんなに多くないんだよな。無理に降りようとすれば大けがをしちまうから」

 だから、僕らはこうして。

 文字通り姑息な時間潰しをしているのだろう。自分の乗ったレールを上手に降りる方法とそのタイミングを探して。

 けれど、本当は。

 けがをしてでも降りなくてはいけない時があるかもしれない。

 無理をしてでも逃げなきゃならない時があるかもしれない。

 「工事中」という紙だけ貼られて、解体されるのを待つあの回転木馬のように、ただただ時間をつぶしている場合ではないのかもしれない。

 でも、僕は。

 そう思っていながらも、それを言葉にすることはできなかった。

「だから、今はそう、夏休みみたいなものなんだよ、きっと」

 口は勝手に空気を上滑りして浮かんだ言葉を有機的につなぎ合わせた駄文を吐き出す。けれど、本当はどちらも、その意味を気にしたりはしていないのだ。

「夏休みかあ……そう考えると、なんだか終わらないのが不思議になってくる」

「ああ、まあ確かに、あれは勝手に終わるからな」

 そう言いながら僕は煙草を手に取り、火をつけた。社会人としておよそ道徳的とは言えないだろうが、今更そんなことを言ったところでどうしようもない。

「コウジくんの夏休みも、いつか終わるの?」

「終わらなきゃいけないだろ、いつかは」

「ふーん」

 気のない声に思わず伏し目がちにしていた視線をあげると、ハルナは煙草をくわえて火をつけるところだった。彼女に箱は握られていなかったので、おおかた僕の煙草でも失敬したのだろう、だがもう言及する気にはなれなかった。有害なものなのだし既に常用しているのであれば、何をどれだけ服用していようとそう変わりはしない。少なくとも、それを意識していない人間にとっては。

「コウジくんってさ、人生の遊び方、知らないでしょ」

「お前は知ってるのかよ」

「うん、まあね」

 女子高生は自分の年齢を知らないようで一番よく知っている。その利用価値も、暴力性も。その身体感覚に驚異を覚えながら、僕はいつのまにか短くなった煙草を投げ捨て、踏み消した。

「だから、あたしと遊ぼうって言ってんじゃん」

「どうせ金とる癖に……」

「ただで遊べるほど女子高生は安くないでしょ。他人に対して失礼すぎない? それ」

 ハルナは煙草を踏み消すと、やんわりとした口調ではっきりそう言った。

 その価値に気がついているなら、もっとまともに使えばいいのにとは思ったが、僕が言ったところで何も進展しないのは目に見えていたのでやめた。削れて角が取れてからでは手遅れだというのに、彼女はもう既に歯が欠けていた。

 思えば僕もそうなのかもしれない。

「それに、そこまであたしは守銭奴じゃないからさ」

 ハルナはおもむろに数歩の距離を縮め、すっと背伸びをした。

 唇を柔らかい感触となめらかな何かが覆う。幻覚じゃなくて、はっきりと目の前に人間がいるのだ。

 重たい。

 あまりにも重たい事実が急にのしかかってきた。僕は彼女に何を返せばいいのだろう。いくらなのだろう。お金じゃない。お金で数えられるようなものではない。それはあまりにも重い、重すぎる。

 次の瞬間、僕は唇をワイシャツで拭っていた。丁寧に、見せつけるように。

 そのことにハルナは思いの外衝撃を受けたらしい。一瞬固まって、呆然とした後、視線を落とした。多分落とした高さは僕の身長と同じくらいだったと思う。

「あ、そ。あんたがそうなら、仕方ないね」

 さっきまで柔らかく暖かかった唇は、張りつめたように固くなっていて、やっとの思いで放たれたであろうその言葉すら歪ませてしまう。僕は僕で、彼女は彼女で、ただ単に無駄に重たくなってしまった現実を背負い込んでしまっただけなのだろうけれど、それ以上に、自分であり続けるということがひどく極端に造成されきった奇跡で塗り固められていて、その塗料がなくなった以上は自分で造っていくしかないというただそれだけのことがどうしようもなくつらかったのだ。

「言っただろ、高いって。僕には払えない」

「そう言いながらちゃんと払ってくれるって、そう思ってたのにな」

 再び視線を戻した彼女の瞳は、普通の女子高生のそれと同じように見えた。世間が考えるような、この社会の汚れの象徴たるシンボルではなくて、十代の普通の少女という意味である。それは果たして僕のせいなのだろうか、などとほんの少しだけうぬぼれてみたりする。

 無言で踵を返し、公園からいなくなるハルナをよそに、僕は再び煙草に火をつけた。


 公務員にでもなるか。何もない空き地から、こんな誰の為にもならないような公園を作り出せるような、そんな存在として生きていくくらいしか、今の僕では思いつかない。そして、市民から集めた税金で放置されたままの危険な回転木馬をきちんと撤去するのだ。ここまでされたのだから、きちんと成仏させてやらなければならないだろう。なぜだか急にそんな使命にかられた。

 手元のスマホで調べたら、市役所の職員は試験に通れば簡単になれるそうだ。公園でぶらつくよりは、まだ勉強していた方がましかもしれない。

 そう思って、僕も公園からゆっくりと歩き出した。家の方向か駅の方向か、一瞬だけ迷ったけれど、そこは坂道を上ることに決めたのだった。

 何事もなくやっていた商店街が、穏やかに姿を現して、僕を出迎えるのだった。

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