【短編】Dear Y (from ジーク・ヨコハマ)
百円玉を入れると、がらん、と音がして、ペットボトルのコーラが無造作に落ちてきた。キャップをひねるとものすごい音がして中の液体が吹き出た。あわてて身体をペットボトルから離す。コーラはだらしなくぼとぼとと垂れ落ちていった。
十月の上旬なのに今日の神戸は二十八度で、長袖のシャツが汗ばんで肌に張り付いて不快だ。
べたべたになった手をティッシュで吹きながら、近くにあった「神戸大学案内図」を眺める。農業経済学は、農学部なのか、経済学部なのか僕にはわからなかった。冷えていたはずのコーラは若干炭酸を吹き出したせいでぴりぴりと甘い。全部中途半端で、だから甘く感じるのだろう。
ここまで来ておいて、もう横浜に帰りたくなっている。日本最大級の港町とは名ばかりの、山と坂が連なる薄汚れた街から来た僕は、からりとして気品あふれる神戸という街に足を踏み入れた時点でどこか罪悪感を覚えた。それは、深窓の令嬢に夜這いをするような、背徳とねばついた快楽が混じり合った複雑な感情で、とても言葉で表現できるようなたぐいのものではない。
阪急六甲駅からの上り坂からして、横浜とは大違いだった。道はひろびろとして見通しがよく、振り返れば神戸の海が一望できるような景観に圧倒されるばかりで、いよいよ神戸大学が近づいてきたところで坂は急峻となり、用なく上るものを拒んでいるような気がして、僕は俄然踏破しようと躍起になった。社会人生活も二年目、横浜市入庁時から十五キロも太ってしまった身体は悲鳴をあげ、程なくして正門前で息が上がり膝の嘲笑を受ける。目の前に広がる石段が断崖絶壁のように思え、僕は経済学棟を見物するのをあきらめ道なりに進んで人文学棟のある鶴甲キャンパスへ向かったのだった。
なぜ僕が神戸大学に、このような心持ちで侵入しているのか。話せば長くなるし、僕だって実のところよくわかっていない。ただひとつ、はっきりとわかることは、発端となった彼女が、神戸大学の大学院に進んだということくらいだった。
事実としてどうしても確認したかったから、僕はわざわざこんなところまで足を運んだのだ。
今更のように徒労感に襲われ、目眩がした。けれど、身体とは裏腹に、やっぱりこの街の、この大学に来られてよかったと思っている。彼女はあの薄暗い横浜国立大学で過ごしてはならない存在だったのだ。そして、僕はこんなところに来てはならなかった。
それがわかるだけで、すべてだった。
三ツ沢上町駅は大学の最寄りだというのに何もない。コンビニと、小さなファミレスと、寂れた中華料理店があるだけ。閑静な住宅街と言えば聞こえはいいが、横浜のよの字もないというのが僕の考えだ。もっともそれは、僕が横浜市民になったことがないからかもしれない。
車の排気ガスだらけの、なだらかな上りを延々と歩く。道路の反対側の歩道がはるか遠くにあって、横浜というまちがいかに大きいのかを思い知った。
僕は横浜が嫌いだった。海辺の、外面だけはきらびやかな街並み、泥臭い工業地区、堕落した風俗が横たわる繁華街、そして、それらに縋りつくように生きている人々。どれもが薄っぺらで薄汚くて、人間というのはこんなにちっぽけな存在なんだということを思い知らされるのがいやだった。だから、横浜国立大学の経済学部に合格したときも、さほど喜ぶことはできなかった。浪人を避けて確率の高いところに変えたのにも、なぜ横浜国立大学なのかもそれなりの理由があったのだけれど、それがすべてこの薄汚いまちに通い続けるほどなのかと聞かれると、少し自信がなかった。今ならきっと、ないと答えるだろう。
春先の空気は寒々しく、おまけに空は暗く澱んでいた。数年は新調していないぼろぼろのジャケットのジッパーをのどもとまで上げて、大きなフードをすっぽりとかぶった。
程なくして、湿っぽく冷たい空気に雨粒が混じるようになった。
ふざけてるなあ。
僕はたしか、そう言ったと思う。
「寒そうだね」
すぐそばで女の声がして、とても驚いた。
目線の少し下から白くて細い手が伸びて、薄いピンク色の傘が差し出された。
ありがとう。
それしか言うことができなかった。
「入学式、すぐ近くにいたんだけど、その顔じゃ覚えていないみたいだね」
彼女は千野由紀と名乗った。初雪のように柔らかそうな一重まぶたと、目元にある泣きぼくろを見て、何となく見たことがある顔だなとしか思えなかった。
僕、女の子の顔を覚えるのが苦手なんだ。
言い訳だけれど、本当だった。
「女性限定なんだ。変わってるね」
もしかして、男子校出身だったりする?
由紀の問いに僕は首を縦に振った。中学、高校と男子校で過ごした僕は、まさに嘘ではなくて、女性の顔を覚えるのが苦手だった。まず、目をそちらに向けること自体、できなかった。
「覚えようと思って、ちゃんと顔を見たほうがいいと思うよ」
その時、僕は由紀の顔をまじめに見てしまった。ふわりとほほえんでいた表情は、少し意地悪そうにも、無邪気そうにも見えた。
だから僕は、由紀に落ちてしまったのだった。
並々ならぬ活気と、通りに漂うパンの香りが神戸三宮の象徴だと思う。照りつける太陽は相変わらず秋とは思えないくらい強くて、僕はぶらぶらと歩きながら海岸のほうへ向かった。神戸市役所の脇を通り過ぎて、ポートアイランドへと続く道を見つけた。特に用もなかったのだが、新幹線まではかなり時間があった。気づけばポートライナーの高架に沿って歩き始めていた。
鉄道を通すような頑丈で大きな橋が、頭上を通っているのが少し怖い。もしここでそれらが破壊されるようなことがあったら、僕はここで下敷きになってつぶされてしまうだろう。もっとも、つぶされたところで困るわけではない。困るのは僕以外のひとたちであって、僕はこの場で死んでしまってもそこまで困ることはない。自分勝手かもしれないが、そういうものだろうと思う。今歩いているこの橋だって、もしかしたら倒壊するかもしれないし、そんなことを考えていたらきりがなくなってしまうのだが、最近よく考えてしまう。
橋の先には、巨大な人工島が浮かんでいた。大きなマンションが列になっているのが見える。ポートアイランドがここまで本格的な住宅街だったことに、僕は今初めて気づいた。
由紀は合唱団に入ることを決めたらしい。僕もそういった目的を隠して、同じ合唱団に入ることになった。もちろん、そんな理由だから合唱など露ほども興味がなくて、死んだような目をした人と異様に輝いた目をしている人しかいないようなところだったけれど、どうでもよかった。幸い音楽は苦手ではなかったので、ピアノの音に声を合わせるのは他のことに比べれば苦痛ではなかった。パートリーダーは独特なくせのある説明をしていて怠惰な空気が蔓延していたが、そのぶん学生指揮者が熱心で、少しでも自分が期待していた声が出ないと何回も同じところを歌わせられたりした。遠く、ソプラノで歌っている由紀を見ている時間が増えていっただけだから、さして苦に思ったことはなかったが、パート内では物議を醸したらしく、学生指揮者の恋人であった先輩が何か言ったようだった。ある日指揮者は真っ赤に泣きはらした顔をして出てきて、一回通しをしただけで終わった練習があって、それが至極つまらなかった。由紀を見る時間が少なかったから。
とはいえ僕は積極的に由紀と話をするのを避けた。話しかけにいけるほどの話題を持ち合わせていなかったし、彼女もおそらく同じだったのか、僕と目があったときにほほえむけれども話しかけたりはしなかった。
「私、女子校出身なの」
帰りの電車では降りる駅が同じだったから、自然と二人きりになった。
「だからあんまり男のひととうまくしゃべれないんだけど、加藤くんとはそんなに緊張しなくてもしゃべれるね」
一重まぶたから上向きに放たれる視線は少し扇情的でどきりとした。僕は平静を装えていたのだろうか、今となってはもうわからない。実は浪人していて、由紀が年上だということ、地元では有名な資産家の孫だということ、テレビマンの父と准教授の母、受験生の弟がいること、わずかな会話の時間の中で、僕が由紀について知ることができたのはおおむねこれくらいだった。合唱団の中の話も、合唱に関する話もしなかった。もしかすると、彼女も歌がうたいたくて入ったわけではないかもしれなかったが、確認するのが怖くて聞けなかった。
「お嬢様だって、思ってるでしょ」
僕はその時、ムートンブーツに気を取られていたから、由紀が口をとがらせていたことに気がつかなかった。
「これでも学校の中ではふつうだったんだけど、大学だと違うね。加藤くんもどっちかというとお坊ちゃまでしょ?」
由紀は、僕が見つめると目線をそらすようになっていた。肝心なところは見ていないくせに、こういう細かい所作にだけ気がついて、そのたびに惹かれてしまう。
「もっといい大学にいければよかったのかなあ。加藤くんも東大をあきらめたんだっけ」
由紀の口振りは、本当に僕のことなんか心底興味がなさそうで、それが逆に心地よかった。本当は僕なんかが彼女の前にいてはならないのだ。由紀が僕によって心を乱されるようなことが、あってはならないと勝手に思っていた。
開けた公園から、オカリナの音色が聞こえる。ポートライナーの高架はその先の駅までずっと延びていて、そこから二股に分かれていた。
「コンドルは飛んでいく」が、夕方にさしかかった空に寂寥感を残していく。公園を覗いてみたがそれらしい人は見えなかった。どうせ行くあてはないので、中に足を踏み入れてみる。
遠くの方で、柔らかそうな帽子をかぶった男が演奏しているらしかった。周囲に見物客のようなものはいないし、服装も普通だったから、パフォーマンスではなく練習のつもりなのだろうか。祭りのモチーフは軽やかに、しかしどこか空虚に響いている。遠巻きにそれを眺めていると、僕と同じように遠巻きに見守っている人が何人かいることに気づいた。みんな、観客とわからないようにそれらしく装っているが、目線は演奏している男に向かっている。そして、示し合わせたかのように、僕らは等間隔に散らばっていた。なんだかおかしくなった。みんな観客になればいいのに、遠慮している。もしくは、観客になるほどでもないとでも思っているのかもしれない。
初詣、一緒にいかない?
メッセージを送った時、手の震えが止まらなかった。むりやり手榴弾を飲まされたみたいに、心臓が破れそうになって、なんとか落ち着こうとトイレに入った。
なんてことをしてしまったのだろう。
確かに由紀が好きだった。
きっと、信じられないくらい、好きだった。
けれど、僕はそう、彼女の観客でいられればそれでよかったはずだった。なぜ、こんなことになってしまったのか、自分でもわからない。
「クリスマスだね」
横浜は、雪がちらついていた。
合唱団の定期演奏会の帰り、二次会に向かう団員たちを後目に、僕と由紀だけが抜け出して、家に帰るところだった。朝までつきあわなければいけないのはさすがにしんどい、と漏らしたのを、僕が送り届けるという名目でつきあったことになっている。多分、魂胆は見え見えだったのだと思う。彼らにも、由紀にも。
電車に乗っている途中で、零時を過ぎてしまったことを確認した由紀が、少しはにかんだ。
「クリスマスの夜に、男の子と一緒にいられるなんて、考えもしなかったなあ」
僕もだよ。
興味があるようにも、ないようにもとられるような自然な抑揚を意識して、僕はゆっくりと、息を吐いた。
「女の子と一緒にいるから緊張してるの?」
由紀はいたずらっぽく笑った。そのほほえみをパートの男たちは氷のほほえみと言うらしい。彼らはなにもわかっていないのだ。これは氷なんていう生易しいものではない。千野由紀というひとりの女を悪魔にも天使にも見せる、混沌だ。
「私と一緒にいられてよかったね」
分かれ道、彼女はそう言って手を振った。僕は平静を装って、手を振り返した。
「来年も、よろしく」
去っていく由紀の姿を見て、僕は彼女を初詣に誘おうと考えたのだった。
三日かかって考えたシンプルすぎる文面は、同じく三日ほどかかって、
「四日なら、空いてるけど」
と返ってきた。花の女子大生は予定ばかりのようで、その文面のぞんざいさが、僕にとっては救いだった。
すぐに返すと、手ぐすねを引いていたことがわかってしまうので、二時間ほど経ってから四日でいい旨を送った。メッセージアプリと違って、メールは既読機能なんてなかったから、送ってから返信されるまでは相手が読んだかどうかわからなかった。だけれど、それはそれで、どこかわくわくしたし、相手にそのわくわくを悟られることがなくてよかった。もし由紀に、僕の舞い上がりっぷりが伝わってしまっていたら、大変なことになっていたと思う。
結局、僕らは三日になって、神田明神に行くことに決めた。
ひなびた喫茶店は、乾燥した空気がちょうどよくて、万年筆の筆跡がすぐに乾いていく。青緑色のインクは、神戸のご当地インクだったような気がするが、名前を忘れてしまった。としをとっていくごとに、こうして些末なことをどんどん忘れていってしまう。それは脱皮と同じで、進化なのだ。だから僕はきっと、彼女のこともきちんと忘れてしまうのだろうと思うし、そのつもりで手紙を書いている。僕がなぜここに来たのか、あの日、本当は何を伝えたかったのか、それを今ここに書いて何をしようというのか、そういったことを書いたり書かなかったりしながら、万年筆はつぎつぎと文字を綴っていく。
ナポリタンが静かに置かれたので、僕はいったん休憩して、食事にありついた。
すっぱめのトマトケチャップと、太いパスタと、たまねぎとピーマン、マッシュルーム。どれもありふれていて想像通りだったけれど、特別な味のように感じた。それは僕が、ここに二度と来ないだろうということがわかっていて、味に影響を与えたのかもしれなかった。
だからナポリタンを食べ終えてしまってからも、僕はしばらくのあいだ余韻に浸っていた。食後にコーヒーが出されて、僕はようやく我に返った。十八金のペン先から、わずかにインクが染み出して、刻印を際だたせている。夏のボーナスで買ったこの万年筆は、聞いていた通りの書き味で、細身で実用的な見た目と、一見そうとは思えないほど豪華なペン先が特に気に入っていた。一見清楚で、それでいてどこか官能的な由紀と、よく似ていた。
万年筆は、何年も暖めすぎて腐敗してしまったその思いを、表面上だけでも取り繕って、綺麗に漉しとった形に整えてくれる。市役所に務めることが、そういった文面を作る技能を磨かせてくれていた。今や僕は太りすぎて、ただの球体の生物に等しい。けれども、この想いだけはきっとあのころと変わらないのではないか。そう、思わずにはいられなかった。
濃い茶色のカーディガンに白いブラウス、紺のプリーツスカートで現れた由紀は、いつも通りのシンプルな恰好のように見えた。
「なんだ、いつもと変わらない恰好じゃん」
君もね、と言ったら、
「私はいつもが特別だから、これでいいの」
と返された。
それはそれで返す言葉を持てなかった。言葉少なに、僕らは電車に乗ってお茶の水へ向かった。
「私、デートしたの、初めて」
僕も。
会話が続かなかった。続けるのもどこか違うような気がしたが、続けたいと思ったのに、怖いくらい言葉が出なかった。
ゆっくり、隣に視線を動かす。由紀は、まっすぐ車窓を見つめながら、どこか張りつめたような顔をしていた。やはり、僕のことなどはなから目に入っていないのだ。きっと彼女は別のことを考えていて、初詣に行こうと思ったのも単なる気まぐれか、僕が想いを寄せていることを知っていて、からかうために乗ったのか、そんなところだろう。
出そうとした手を、無意識にポケットにしまっていた。由紀のブーツは、不安そうにつま先がそろっていた。
昼過ぎをねらったから、神田明神はそれほど混んでいなくて、少し並んだだけで境内に入ることができた。ゆっくりと歩いていきながら、左手が所在なさげに浮いている。
由紀が右の耳たぶを触っていた。
「この前ピアス開けたんだけど、なんだかまだ穴が変な感じがして」
多分変な視線を感じたのだろう、ちょっと恥ずかしそうに笑った。
耳たぶはほんの少し赤かったけれど、寒さのせいかもしれなかった。
膿んでいる感じはないよ。
「ありがとう」
由紀の声は少し硬くて、それを隠すように五円玉を投げ入れた。柏手を打って、祈る。
何も、祈ることが思い浮かばなかった。
僕は由紀と何がしたかったのだろう。男女の仲になろうにも、そういうことが想像できなかった。僕は由紀が好きだ。だけど、その先はどうすればいいのだろう。好きだからといってつき合えばいいわけではないはずだ。むしろ、狂おしいほどのこの想いを打ち明けたところで、由紀に伝わらない。由紀はこの想いを知らない。きっとその方がいい。
「祈りすぎ」
ぽん、と肩をたたかれて、参拝客の視線から引き下ろされた。
ありがとう。
「何を祈ってたの」
小首を傾げたその表情は、この世界に舞い降りてきてしまった妖精みたいで、僕は突然自分が恥ずかしくなってしまった。
ひみつ。
咄嗟に答えた言葉に、彼女はいたずらっぽく、
「じゃあ、私も」
と、ひとさし指をくちびるの前に持ってきた。
そのまま世界が止まってしまったらどうにかなってしまいそうだったので、僕はおみくじを引こうと誘った。徐々に顔色がよくなってきた彼女を見て、実は夜型なのかもしれないと思った。
僕は大吉を引いた。わかっていたことだった。由紀と一緒に初詣をしている今この時が、大吉以外のはずがない。
「すごーい」
由紀は中吉だった。
「待ち人、こない、だって。がっかり」
恋愛、成就せず。待ち人、来ない。縁談、今は早い。
堂々とそれを僕に見せてしまうところが、とても好きだった。
やっぱり僕は、由紀が好きだった。
だから、用意していた恋文を、ポケットの中で握りつぶした。
どこかぎこちない会話をしながら家に帰って、僕は団長に合唱団をやめる旨のメールを送った。
それから、由紀とことばを交わしたことはなかった。
拝啓 千野由紀様
お元気ですか。突然、このような手紙を書くことをお許しください。とはいえ、これが貴女のもとに届くことはないと思います。僕は貴女の行く末を知らないから。
貴女と神田明神で初詣をしてから、もう七年になろうとしています。あの後、僕は突然、何かに打たれたみたいに貴女の前から姿を消しました。貴女の前に、僕のような汚れた人間がいることが、耐え難いと感じたからです。構内でも姿を見つけては逃げ回り、こっそり動向を伺っては、貴女を避け続けました。貴女は気づいていたのかいないのか、何も変わらないまま友人たちと談笑していました。僕はその世界こそあるべき姿だと、そう思いました。
けれど、その想いと僕の欲望は切り離すことができませんでした。風の噂に、神戸大学に進学したと聞いた僕は、貴女を追って六甲の地に足を踏み入れました。からりとした、明るくて起伏の激しい神戸。薄暗く汚れ、じめじめと湿った横浜。それらは、僕と貴女を象徴していたように思いました。
だから僕は、この手紙を書いています。貴女への想いを書き残すために。
そして、書き切るために。
今、僕はとても清々しい。わずかに交錯したあの一年間だけが、僕と貴女の汚点だった。
でも、安心してください、貴女と同じように、僕もようやく、忘れることができそうです。
数日前、交際していた女性に婚約をしました。彼女は、今を生きることの出来るひとです。とても大切に思っています。
自分勝手に想い続けていましたが、自分勝手に、ここで、貴女との想いを断ち切りたいと思いました。
美しく、清く、可憐で強い貴女の側にいたかった。強く、清廉で、高潔な男になりたかった。
けれど、それはもう僕ではありません。
だから、僕は僕として、横浜で生きていこうと思います。
さようなら。
そして、おやすみなさい。
手紙を入れた瓶は、岸壁にぶつかったときにできた罅からどんどん水が入っていき、徐々に神戸の海に沈んでいった。由紀がこれを読むことはない。だからこそ、僕は本当のことを書いた。
スマートフォンが通知音を鳴らす。
「夜、間に合う?」
ふと、心配そうな顔が浮かんだ。不安に苛まれやすい彼女をゆっくりと抱きしめたい気分になった。そろそろ、横浜に帰らなくてはならない。
大丈夫だよ。
僕はいつものように答えると、神戸の海に背を向けて、ゆっくりと歩き出した。
僕はここにいるよ。
そう送ろうとして、やめた。
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