【短編】冷たいパンケーキ

 バターとシロップの甘い匂いがする。

 機嫌よく鼻歌を鳴らしながら、玲子はパンケーキを焼いている。パンケーキが好きなのだ。僕はあんまり好きじゃないけれど。

次第に強くなってくる甘い匂いに胃がもたれそうになる。漆を塗った茶碗のように真っ黒な彼女の髪がふわふわと弾むように揺れる。その小柄な背中は、これから三枚のパンケーキを食べるとはとても思えない。そして、ひとくちだって僕には寄越さないのだ。もちろん、それに越したことはないのだけれど。

 彼女の黒髪がしなやかに伸びて、僕を絡めとってしまうような幻想に駆られそうになったので、部屋を出て煙草を吸うことにした。


 非常口の重たい扉を開け、非常階段に出る。ギザギザの鉄板に塗料を塗っただけの無骨な階段と、高めの柵が目に入る。コートの隙間を風が吹き抜けて、凍り付くような寒さを感じた。僕は胸元から煙草とライターを取り出して、火をつけた。こんな寒い日に吸う煙草は格別なのだ。誰も信じてくれないけれど。

 口の中に苦味が広がる。最近買い始めたこの銘柄は、前のと違って、最後まで苦味と葉っぱらしさが薫るから好きだ。これで全く同じ値段だというのだから、どうして今までこの銘柄にしなかったのだろうと疑問に思うくらい。

吸い口が茶色に汚れていく。この汚れを喫煙者は気にせず、非喫煙者は怖いと思うらしい。僕からすれば、自分が生きていること、煙草を吸えていることの証明であるような気がして、なんだか嬉しい。とはいっても、汚れの原因であるタール量が多い煙草を吸う気にはならない。あくまで、少し汚れればそれでいいのだ。そういう欺瞞を抱えて生きてさえいれば。


 ぎい、と扉の開く音がした。直後に、かん、かん、とヒールを鳴らしながらこちらに近づいてくる女が見える。口元のパンくずを舐めとるさまは、下品ではあるが官能的ともいえる。

「また、こんなところで煙草吸ってる……」

 玲子は僕を睨みつけた。必然的に上目遣いになるため、本人が思っているような効果は与えない。少なくとも、僕に対しては。

「いいじゃないですか、成人してるんですから」

「そんな若いうちから吸ってたら、肺癌になって死んじゃうよ」

「その時はその時でしょ」

「もう」

 玲子は頬を膨らませる。同期や後輩からは「いい歳をしてぶりっ子かよ」などと言われて不評を買っている彼女のそういった不器用な感情表現が、僕はたまらなく好きなのだ。これも、誰も信じてくれない。

「私より先に死んだら困るんだけど」

「死にませんよ、僕のほうが若いし」

「うるさいなあ!」

 玲子はぱし、と僕の肩をはたいた。

「もっとも、心が若いですけどね、センパイは」

「こら、やめなさいって!」

 黒髪がふわっと揺れて、髪の匂いが舞った。

 臭いが移ってしまうような気がして、僕は煙草の火をもみ消して携帯灰皿に投げ込んだ。

「ねえ」

 玲子は横に並んで、人工甘味料のような甘ったるい声で囁いた。

「あの件、考えてくれた?」

「考えたも何も、それ以外のこと、何も考えられないんだ、さっきから」


《私たち、そろそろ結婚しない?》


 しんしんと雪が降る静かな夜に、玲子はそう言った。彼女の言葉が湯気を立てて、そのまま白く凍りついていった。

 ベージュのニット帽が儚げに揺れる。

 兆しはあった。

 ずっと待っていたのが、きっと耐えきれなくなったのだろう。彼女は犬ほども待てないし、猫よりも気まぐれだ。

 僕は大人げない答えをした。

 それは明らかに悪手だった。


「別に、嫌ならそう言っていいの。まだそんな時期じゃないだろうし、別に私とが嫌だというわけじゃないでしょう?」

 余裕たっぷりの表情で彼女はそう言った。そんな裏が見える顔をされても困るのだ。

「うーん、なんというか、それ以外にも、僕には考えたいことがあるんです。これからどうしよう、とか」

「……もしかして、まだ決まってないの?」

 僕を睨みつける玲子。

「はい」

 去年から就職活動をしているが、もう少しで大学を卒業する今になっても就職先が決まらない。面接ではいつも罵倒され、グループディスカッションでは考えている間に議論が進んでしまう。

「まさか、とは思ったけれど……もしかして、来年も就活する?」

「それも、ちょっと考えてて」

「ふーん」

 玲子の顔が、ほんの少し険しくなった。

 もっとも、これくらいは予想できた。なぜ躊躇っているか、その主な理由のひとつに就職先が決まっていないというどうにもしがたい現実があるのは間違いがない。

 まさか、プロの小説家になるために片っ端から新人賞に応募する訳にもいかないだろうし。

 玲子は僕に背を向けて、

「私、絵本作家になりたいの」

 と唐突に言った。

「絵本作家?」

 僕が聞き返すと、彼女はうつむいて頷いた。

「言ったことないよね?」

「うん、初めて聞いた」

「だから、君の文章がいいな、なんて」

 イベントサークルで知り合った時から、玲子はひとりで絵を描いていた。水彩絵の具で描くのが好きなのか、持ち歩いている黄色のバッグの中には、いつも小さな水入れと絵筆、そして水彩絵の具が入っている。

 大学に入った頃、僕は小説家を目指していた。昔から本を読むのも、物語を考えるのも好きだったから。ただそれだけの理由で、僕は小説家になりたかった。印税生活とか、文化の発展とか、そういったことには興味がなくて、自分が考えた物語を本にして、それを自分で読んだり、気に入った人に読んでもらいたい、と、ただそれだけを思って、新人賞に応募したり、小説を書きためていたりしていた。

 けれど。

 それは、僕自身が生きていくことをまったく前提としていない人生設計だった。この人生を歩んでいくためには、そこに至るまで生き続けなくてはならない。生きるためには当然お金が必要で、それを自分で稼ぐ必要がある。けれど、僕にはそういった考えが全く抜け落ちていたのだった。おそらく、僕のあり方は出版社にも正しく伝わっているのだろう、一次選考で落ちることはほとんどなくなったが、いつも二次選考どまりだった。

 だから、僕はあわてて就職活動を始めた。はっきり言って、それは遅すぎたかもしれないけれど、やらないよりはマシだと信じて。

 プロになるまでフリーターとして食いつないで行くことも考えたが、そもそも、今の段階で二次選考すらくぐり抜けられないような大した文才もないのに、数年程度でプロの小説家として生活できるようになるのか、という問いに自分で答えるすべがなく、そのうえ気がつけば、ひとつ歳が上の女とねんごろになっていたという動かしようもない事実がそこにあった。付き合おうという言葉はお互い発していない。確かそうだった気がする。けれども気がつけば、玲子はいつも僕のそばにいるし、黒子の位置もわかるようになっていた。

 きっと僕はこれから彼女と暮らすのだろうし、歳をとるのだろうし、もしかすると子供もできるのかもしれない。なんとなく、そういった予感がどこかにあった。

 もう僕は、どこもかしこも自由じゃない。

「どうして、それを今言うんですか?」

「なんか、ことばにしないと、いけない気がして」

「タイミングが悪くないですかね」

「それは……」

 玲子は口ごもった。振り返った彼女の腫れぼったい一重まぶたにほんの少し赤みがさしたような気がした。

 人としての鈍さは、僕にとって心地がいい。誰も信じてくれないけれど。

「ごめんね」

 玲子はくるりときびすを返して、部屋に戻っていった。

 僕は再び煙草に火をつけた。



こぶたのパンケーキ


 森の中に、小さな家がありました。

 茶色のれんがの小屋からは、いつもわたあめみたいなまっしろい煙が、もくもくとたちこめていて、メープルシロップのすてきなかおりがするのです。



 書けない。

 僕は確かに童話を書くのが好きだけれど、玲子の絵に合うようなものを、と思うと、筆が全く進まないのだった。

 パソコンを閉じて、布団に寝転がった。

「ん……まだ起きてたの」

 玲子が色っぽい声を出そうとしながら言った。

「ああ」

「論文?」

「まあ」

 僕は何故だか、そう答えた。

 今日は失敗ばかりだ。

 そんな日は、都合よく彼女に甘えてしまう。

「もう……」

 僕は玲子を抱きしめた。彼女は拗ねたような、けれど甘いあどけない声を出しながら抱き返す。

華奢な身体がきしり、と軋んだような気がした。

「最近、妙に甘えてこない?」

「そうかなあ」

「ほらあ。タメ口も増えたし」

 彼女の感情表現は絶妙に不器用で、少し機嫌を損ねたような、人を苛立たせる口調だが、きっと嬉しさを隠したいからそうなってしまうのだろう。僕はそれを、意識せずに読み取った。きっとそれが、なんとなくほうっておけない理由なのだろう。

「別に、敬意を払ってもらおうなんて、思ってないよ」

 いつものように口を尖らせて彼女は言う。

「はいはい、玲子はお姫様だもんな」

「もう、やめなさいそういうの」

 赤子を諭すように、彼女は言った。

 いったい誰のお姫様なのだろうか。自分で言っておきながら、なんとなくそんなことを考えてしまった。その問いから逃げるようにして、彼女のぬくもりに包まれながら眠った。



 ある日、こぶたのララは森の中を散歩していました。

「あ、なんだかとってもおいしそうな匂いがする!」

 と、ララはシロップの匂いにつられて、小さなれんがの家を見つけました。

「あそこで何か作ってるのか。なんだろう」

 ララはとびらをこんこん、とノックしました。

「すみませーん、誰かいますかー?」

 すると、おくからのそのそと足音が聞こえて、とびらがひらきました。

「こんにちは、なにか用かい?」

 茶色い毛むくじゃらの大きな動物が、玄関を埋めつくしていて、ララはびっくりしました。



 冷たい北風が厚手のコートの中の背広にまで届く。寒さに震えながら、僕はゆるやかな坂を上る。周りには住宅しかない。

 かつてはニュータウンともてはやされ、日本の経済成長の象徴とまで言われたこの周辺であったが、今では住民の高齢化に伴い都市インフラの老朽化、さらに都心からの中途半端な距離が禍となって、どこか荒涼とした印象を残すだけとなってしまった。こんな季節だからかもしれないが、さっきから人も車も見かけないし、どことなく不気味な雰囲気を漂わせていた。

 不気味といえば、最近の玲子もどことなく不気味だ。前は嫌がっていたようなお願いも平気で聞いてくれるし、最近では面接の相談もしてくれるようになった。ちょっと前までは、「お互いのことはできるだけ知らないほうがいいでしょ」と言って何も言わなかったし聞かなかったのに。それに、ほんの少しだけ間合いのような、物理的な距離が近くなった気がしている。ほんの少しだけ。

 などと、どうでもいいことを考えながら、坂を上りきった。

 僕はスマートフォンで地図を確認する。

 どうやら、ここを左に曲がって道なりに進むと、お目当ての会社があるようだ。

 その指示通りに先へ進む。


「あ、ああ、あった」

 その会社は、思わず声を漏らしそうなほど、小さなプレハブ小屋だった。

 システムエンジニアリングの会社なので、もう少しハイテクなものを想像していたが、どうやら思った以上に小規模な会社らしい。

 粗末な引き戸を開けると、大きなモニターがぽつんと置いてある。

 どうやら受付はこの機械で行うらしい。とりあえず人事部を呼び出すことにした。

 しばらくお待ちください、と表示された後、呼び出し中とだけモニターには表示されていた。

 そんなシステムは初めてだった。



「うわー、おっきい」

 それは、見たこともないほどの大きさのくまでした。

「きみはこぶただね」

 くまは、のそのそとさがって、

「はいっていいよ」

 といいました。



「君がわが社でどんな活躍ができるのか、簡潔に説明してください」

「この業界は、元気がなくては生き残れない。君は見たところ、あまり元気がなさそうに見えるが、本当にやっていけそうかね?」

「学生時代、勉強以外で打ち込んだものは?」

「仮に君が面接官だったとして、君のような学生が部屋に入ってきたとき、君はどう思うかね?」

 そんな、質問とも嘲笑とも罵倒ともつかない面接で、今日の予定は終わった。

 すでに暗くなってしまった道を、寂れた私鉄の駅まで歩く。相変わらず風は凍えるように冷たい。ふと空を見上げると、早くも星がきらきらと瞬いている。


「空気が乾燥して綺麗だから、冬は星が綺麗に見えるんだ」

 学生が勉学に励みやすいようにとの想いで山の中に置かれた僕たちの大学が、実はとても素晴らしいところなのだと教えてくれたのは彼女だった。大学に入って初めての冬、玲子は僕を深夜のキャンパスまで連れて行った。

 あのときも広場で凍えながら、僕は玲子の冷たい手をただ握っていた。彼女はこげ茶色のダッフルコートを着て、大きなヒールがついたブーツを履いていた。ダッフルコートの袖からは赤い毛糸のカーディガンが覗いていて、袖が赤い毛玉だらけになっていた。当時の彼女はショートヘアーをやめたての頃で、文字通り手入れの行き届いていないボブになっていたことを気にしてか、真っ白なポンポンのついたニット帽をずっと被りっぱなしだった。首には僕の真っ黒なマフラーが巻かれている。首元があまりにも無防備でかわいそうだったから、貸してやったのだ。

「死んだ人は、流れ星になって天に還っていくなんて、最初に考えたの、誰なんだろうね? ロマンチックだけど、ちょっと怖いな」

 玲子は誰にでもなくそうつぶやいた。

 僕は言葉を返せなかった。

 星なんてちっとも見ていなかったのだから、当然だ。


 僕は星が綺麗だとはどうしても思えない。星だって元は太陽と同じで、ガスを燃やして生きているだけの存在に過ぎない。

 生きているものは、なんだって汚い。

 だから、星を見に行ったり、星に願い事をしたり、そういう人たちの気持ちが、よくわからないのだ。それは、生きている人間に同じことをしているような気がして、どこか嫌だった。

 坂を下りきると、ほんの少しだけ活気のある駅前広場に出た。

「また一時間半の道のりか」

 そうつぶやきながら、僕は改札をくぐった。



「おじゃましまーす」

 玄関に入ったとたん、ララは甘いにおいにうっとりしました。

 くまは毛むくじゃらのからだをふるわせて、奥の大きな鍋をかき混ぜました。

「何をつくってるの?」

 ララは、くまに近づいて、鍋を見上げました。

「シロップだよ」

 くまはのんびりと答えました。

「何につかうの?」

「まだ、考えてないなあ」

「じゃあ、わたしがパンケーキをつくってあげる!」

 ララはパンケーキが大のとくい料理でした。

「え、おいしいの、それ?」

 くまはパンケーキを知りません。どこか、困ったような顔をしています。

「うん、とってもおいしいよ。わたしに任せて!」

 ララはえっへん、とむねを張りました。



 部屋に帰ると、玲子が野菜を切っていた。

 料理を嫌がる彼女が、一週間連続で夕飯を作っている。不気味を通り越して、なんだか怖くなった。

「おかえり」

 そんな僕の気持ちを知らないのだろう、玲子は幸せそうな笑みでこちらに駆け寄る。

「遅かったね」

 彼女の媚びるような上目遣いが、なんとも不器用に生きてきた人生を象徴するようで、僕はこの上もなく好きなのだ。どうせ誰も信じてくれないけれど。

「ありがとうございます」

「……だめそうだった?」

 玲子は少ししょんぼりとした表情になった。

「なんでですか?」

「すごく、元気ないから」

「まあ、仕方ありません。明日もありますから」

 僕は嘘をついた。

「ふうん、そう……」

 玲子は再び野菜を切りはじめた。



 ララはフライパンを器用につかって、パンケーキをひょいっ、とひっくり返しました。

「おお、すごい」

 くまはぱちぱちと拍手をします。

 ララは鼻たかだかです。

 たちまち、おいしそうなパンケーキが、一枚できあがりました。

「おいしそうだね」

 くまは、鼻を近づけてにおいをかいで、にこにこと笑いました。

「これに、くまさんのシロップをかけたらいいと思うんだ」

 ララは、鍋でくつくつと煮えているシロップを指差しました。

「でも、そうだなあ、これはきっと、シロップをかけないほうが、おいしいと思うよ」

 くまは、ふーんと考え込んで言いました。

「えー、そうかなあ」

「そうだよ」

 ほんとうのことをいうと、くまはシロップが大好きなので、ララにシロップを取られたくなかったのです。


 

 だめだ。

 これじゃだめだ。

 どうも、巧く書けない。

 かわいらしくて玲子にも描けそうなもの、といえば動物、動物といえば森、というような連想で文章を書いているのだが、イマイチしっくりこない。なんとなくかわいらしいイメージで子豚を主人公にして、あとは熊、それで余力があれば子猫、あたりも出したいと思っていて書いていたら、まさかのパンケーキを作る話になってしまった。ふざけている。

「何書いてるの?」

 玲子がむくりと起き上がってパソコンを覗き込んできた。

「えっ、何これ? 童話?」

 彼女の顔がほころぶ。

「へえ、パンケーキ作ってるんだ」

 玲子は嬉しそうに抱きついた。

「これ、私のために書いたの?」

 僕の顔を覗き込んだところで、答えが顔に出てしまっていたらしい。

「うわあ、ありがとう。完成したら教えてね。ちゃんと、絵をつけてあげる」

「うん、ありがとう。でも、なかなか続きが書けなくて……」

「そっか、じゃあ、もう寝たら? 布団はいつでも暖かいよ」

 玲子は僕を後ろから強く抱きしめた。首元に彼女の唇が吸い付く。きっと僕と同じように、今彼女は甘えたいのかもしれない。

 僕はそっとパソコンを閉じて、彼女を布団に押し戻した。


「はい、これ」

 玲子は、赤い布に緑色のリボンがかかった、小さな箱を僕に手渡した。

「なんですか、これ?」

「もう、とぼけないでよ」

 彼女は口を尖らせる。そのオーバーリアクションが、僕はきっと好きだったのだろう。

 大学に入ってから初めてのバレンタインデーだった。

 布をよく見ると、ココアパウダーらしき茶色の粉末が、ほんの少しだけかかっていた。

「手作りなんですか?」

「うん、まあ、他の男の子にもあげたけど……君のは特別だから」

 そう言って、彼女は逃げ出すように授業へ行ってしまった。

 よくよく考えたら、この日を境に、玲子はだんだんと他の男子から離れていった。


 すんすん、と玲子が鼻を近づける。

「どうしたの?」

 と僕は訊いた。

「ん、今日、煙草の匂いしないな、と思って」

 そう言われてみれば、今日は吸っていない。

 特に意識をしたわけでもないし、忘れていたのだろう。だから調子が悪かったのかもしれない。

「なんだか、寂しい」

「いつも煙草吸うと怒るくせに」

「そうじゃないの。そうじゃない……うん、ごめんね」

 玲子は黙りこくってしまった。代わりに、ぎゅっと強く抱きしめてきた。


 気がつくと、白一色の部屋にいた。と言ってもあるのは目の前の机と僕が座っている椅子だけで、あとは真っ白な壁。昔、何かのドラマの精神病棟みたいな場所が、こんな感じだったような気がする。

 僕はパソコンで小説を書こうとして、けれどデータがどこにもないことに気付いた。

「それはね、もう絵本になっちゃってるんだ」

 気付くと、玲子が真っ白なドレスを着て目の前にいた。僕しかいないのに、少し化粧が派手で、厚い。そんな彼女が好きだった、ような気がする。

「関口君、私ね、結婚するんだ」

 ああ、そうなのか、僕ではないのか。

 ただ、単純に僕はそう思った。思った以上に受け入れている自分に、ほんの少しだけ腹が立った。

「ごめんね。本当は……いえ、今までありがとう」

 せっかくの綺麗なウェディングドレスなのに、一重まぶたが真っ赤になっている。僕はそう言おうと思ったが、なぜか口が鉛のように重くて動かなかった。

 玲子は、そういい終わると、無表情になって宙に浮き上がった。それは、天国かなにか、そういうところに行ってしまうのではないかという怖さがあった。

 僕は追いかけようとして、脚が鋼のように重くて動けないことに気がついた。

 ふと見ると、錆びた鎖が、蛇のようにぬるぬると全身に絡みついている。

 視点を戻すと白い部屋は消え、僕は宙吊りになって溶鉱炉に沈められるところだった。

 鎖がぎりぎりと音を立てて、僕を解放した。溶鉱炉が、眼前に猛スピードで迫る。


 そこで僕は目を覚ました。

 玲子は隣で眠っている。いつの間にかネグリジェを着ていた。

 夢だったのだ。

 あまりにもリアルすぎた。それに、象徴しているものが明らかだった。

 僕にはもう、自由がない。希望がない。夢がない。そして、職もない。

 大学生活で得たもの。

それは、玲子だけだった。

 きっとそれも、恐らく誰かに奪われてしまうのだろう。なんとなく、そういう予感があった。そもそも、僕だって、彼女のことを心から、誰に対してもはっきりそう言えるほど愛してはいない。けれど、かつて僕が好きだったものは、今の僕も、同じように愛さなくてはならないと思っていた。そうすることでしか、玲子を守ることが出来ないと、そう、思い込んでいた。

 どうしようもなく不器用でサークルのメンバーに疎まれ、媚を売っていると蔑まれ、嫌われていく玲子の最後のよりどころが僕ならば、僕はそうであり続けたいと思っていた。玲子をそんな風に変えてしまった人間が、誰かも気付かずに。

 僕には職も、希望も、そして夢すらない。さらに自由まで奪われてしまっては、僕の生きている意味は、果たしていったいどこにあるのだろうか。

 もしかしたら、僕はこの女に大学生活を壊され、全てを奪われてしまったのかもしれない。彼女が、僕に全てを奪われたのと、おんなじように。

 玲子は隣で安らかに眠っている。その首元は、入学したばかりの娘のものではすでになく、この先に見える老いの影が、ほんのわずかに見え隠れしていた。

 この首を絞めれば、彼女を守れるのだろうか。僕も、救われるのだろうか。

 そう思ったときには、彼女の首に両手が巻きついていた。徐々に力が入っていく。

 玲子は相変わらず安らかに眠っていた。僕はもう、後戻りができない。

 指が白く変色し、次第に痺れてきた。

 そのとき、彼女の一重まぶたから涙が零れた。


 我に返った。

 怖くなって手を離し、後ずさりをした。

 玲子はけほっけほっと噎せて、起き上がった。

「ごめんね……ごめんね……」

 彼女は泣きながら、そう言った。


 それを最後に、玲子は僕の部屋から消えた。

 僕はようやく、自由を取り戻した。


 この前面接を受けたところからは、やはり採用できないという旨の通知が届いた。

 その代わり、僕はアルバイトの面接に受かった。学習塾の非常勤講師だった。春からは大学もなくなるので、多くの生徒を受け持って欲しいし、頑張りによっては常勤に昇格させることもやぶさかではない、と塾長に言われた。塾長の営業スマイルを見ながら、このまま講師を続けて小説も書いていこうとなぜか強く思った。

 こうして僕は、職と希望を取り戻した。

 無事に大学は卒業できた。卒業式にひっそりと参加している玲子も確認した。声はかけなかった。僕は僕を信じることが、すでにできなかった。


 卒業してから三度目の春、アルバイトで塾に入ってきた女子大生と仲良くなった。彼女は将来のこともきちんと考えるような真面目な子で、出版社で編集の仕事がしたいらしい。僕は彼女に小説を見てもらって、推敲を繰り返した。その結果かどうかはわからないが、二次選考を抜けて、最終選考に残るような作品も出てきた。

 そのことを話したら、彼女は恥ずかしそうに、僕と一緒に棲みたい、と言った。僕は少し戸惑った。今いる部屋ではお互い手狭だろうから、新しい部屋を借りよう。そう言って誤魔化した。僕はきっと、誰も信じることができないのだと、そのとき悟った。

 その夜、メールが届いた。メールアドレスが変わっていたが、なぜだろう、すぐに気がついた。

 案の定、玲子からだった。

 彼女はただ、謝りたかったそうだ。僕に甘えてしまっていたこと、僕が彼女から離れていくことに気がついてはいたけれど、離れることがどうしてもできなかったと。彼女にとって僕は、初恋の人であったこと。

 そして最後に、こう書いてあった。

《私、結婚しました。今、妊娠三ヶ月目です。》

 彼女は僕に奪われた何かを取り戻したようだ。だから、わざわざ僕にメールなんてよこしたのだろう。これはきっと、彼女の復讐なのだ。ささやかな全力の呪いなのだ。

 僕は部屋を探しまわった。あの時の思い出は全て、忘れるようにいろいろな場所に散りばめてある。検索することすらも、できないように。

 小一時間探してようやく大学時代使っていた古いパソコンを見つけた。僕は小説のファイルを片っ端から探した。そして、「こぶたのパンケーキ」と書いてある書きかけの小説を見つけた。



こぶたのパンケーキ


 森の中に、小さな家がありました。

 茶色のれんがの小屋からは、いつもわたあめみたいなまっしろい煙が、もくもくとたちこめていて、メープルシロップのすてきなかおりがするのです。

 ある日、こぶたのララは森の中を散歩していました。

「あ、なんだかとってもおいしそうな匂いがする!」

 と、ララはシロップの匂いにつられて、小さなれんがの家を見つけました。

「あそこで何か作ってるのか。なんだろう」

 ララはとびらをこんこん、とノックしました。

「すみませーん、誰かいますかー?」

 すると、おくからのそのそと足音が聞こえて、とびらがひらきました。

「こんにちは、なにか用かい?」

 茶色い毛むくじゃらの大きな動物が、玄関を埋めつくしていて、ララはびっくりしました。

「うわー、おっきい」

 それは、見たこともないほどの大きさのくまでした。

「きみはこぶただね」

 くまは、のそのそとさがって、

「はいっていいよ」

 といいました。

「おじゃましまーす」

 玄関に入ったとたん、ララは甘いにおいにうっとりしました。

 くまは毛むくじゃらのからだをふるわせて、奥の大きな鍋をかき混ぜました。

「何をつくってるの?」

 ララは、くまに近づいて、鍋を見上げました。

「シロップだよ」

 くまはのんびりと答えました。

「何につかうの?」

「まだ、考えてないなあ」

 くまは、なんとなく、うそをつきました。

「じゃあ、わたしがパンケーキをつくってあげる!」

 ララはパンケーキが大のとくい料理でした。

「え、おいしいの、それ?」

 くまはパンケーキを知りません。どこか、困ったような顔をしています。

「うん、とってもおいしいよ。わたしに任せて!」

 ララはえっへん、とむねを張りました。

 ララはフライパンを器用につかって、パンケーキをひょいっ、とひっくり返しました。

「おお、すごい」

 くまはぱちぱちと拍手をします。

 ララは鼻たかだかです。

 たちまち、おいしそうなパンケーキが、一枚できあがりました。

「おいしそうだね」

 くまは、鼻を近づけてにおいをかいで、にこにこと笑いました。

「これに、くまさんのシロップをかけたらいいと思うんだ」

 ララは、鍋でくつくつと煮えているシロップを指差しました。

「でも、そうだなあ、これはきっと、シロップをかけないほうが、おいしいと思うよ」

 くまは、ふーんと考え込んで言いました。

「えー、そうかなあ」

「そうだよ」

 ほんとうのことをいうと、くまはシロップが大好きなので、ララにシロップを取られたくなかったのです。

「じゃあ、このまま食べよう……」

 ララは、しょんぼりしてパンケーキを食べました。

 それは、あんまりおいしくありませんでした。



 自然と、玲子のことが思い出される。子豚のような素直でいて、ちょっぴり大人を気取りたかった玲子。その心のまま大人になってしまったことに、気がついていなかった玲子。いや、彼女はすでに、気がついていたのかもしれない。僕がそれに気がつかなかっただけで。僕は、ただシロップを取られたくなかった熊だった。愚かな熊は暖かくて柔らかい、バターとシロップのたっぷりかかったふわふわのパンケーキを知らないまま、ここで死ぬのだ。

 僕は、ファイルを削除して、ゴミ箱を空にするコマンドを選択した。

 シャカシャカと、人工的な紙の音がして、「こぶたのパンケーキ」は消えた。

 僕が吐いた息は、なぜか震えていた。

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