〇(Web Edit)
ひざのうらはやお/新津意次
序文
「かれ」はぼくの脳の中に、確かに存在していた。物心ついたときから、ぼくは「かれ」とともに考え、ともに動き、ともに怒り、ともに涙し、ともに悩んだ。そうして二十年以上、ぼくは「かれ」と同じ身体の中で、ずっと一緒に過ごしてきた。
平成三十一年三月十一日。
平成が終わりを告げる年の、その時代を代表する災害のひとつが起きたのと同じ日に、「かれ」は忽然と、ぼくの中からいなくなった。
今ここに、「かれ」はいない。「かれ」のことを考えると、涙で前が見えなくなる。けれど、そうしたところで戻ってはこない。
「かれ」はぼくの分身だった。
「かれ」はぼくの感情だった。
「かれ」はぼくの武器だった。
「かれ」はぼくの、たったひとりの、信じることのできる存在だった。
「かれ」を失ったぼくにできることは、身体すら残せずに消えてしまった「かれ」の、その一生をできるだけ正しく、精細に、ありありと、つまびらかにして、みなさんの前にお伝えすることではないかと思う。
つまりこれは、「かれ」にしてやれる、ぼくにしかできない、たったひとつの弔いである。それ以上でも以下でもないし、ご覧の通り、「かれ」の消えたぼくは、抜け殻のような文章を綴ることしかできない。それをしっかりと認めつつ、「かれ」がいかにぼくに深い影響をあたえたのか、「かれ」がどれだけぼくにとってかけがえのない存在だったかということを、みなさんに示すために、ぼくはあきらめずにこの文章を完結させることを、ここに誓おう。
いつ、完結させられるのかは見当がつかない。半年しかかからないかもしれないし、何年もかかってしまうかもしれない。この世の時の流れは残酷だ。だから、「かれ」のことを忘れてしまうその前に、ぼくはこれを書き上げたいと思っている。
物語と呼ぶにはあまりにも冗長で真実が多すぎるし、伝記と呼ぶにはなにも成し遂げていないし、日記と呼ぶには本当に起きたことがほとんどかかれていない。そんな中途半端な文章であるから、あえてぼくはこれを「小説」と呼びたい。ぼくがかつて、小説家と自称し、その片鱗を描いていた人間として、これはれっきとした小説であるとさけびたい。
そうするために、そうしていくために、今、ぼくは、生きている。
平成三十一年三月十七日
ひざのうらはやお
もしくは、「かれ」の抜け殻
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