第24話 真実(その5)
「待てっ、伊澄っ!!
くっ……誰か、誰かおらぬかっ! 伊澄を捕まえるのじゃっ!!」
「私が追います! エレクシアはアナスターシアを!」
エレクシアとクライヴの声が遠くなり、自身の足音でかき消されていく。伊澄は顔を強張らせたまま、激しく疼く心臓と共に走った。明確な目的地もないまま暗い廊下を駆け抜けた。
裏切られた。伊澄の脳裏に浮かぶのはそんな言葉だ。
やり遂げたと思った。自分の力で信頼と尊敬を掴み取れたと思った。何の役にも立たないと思っていた自分が、誰かに本当に必要とされたと思ったのだ。
けれども、それも全て仕組まれたものだったのだ。何もかもがお膳立てされ、書かれた台本通りに踊っていただけだった。自分で掴み取ったと思ったものは所詮与えられたものに過ぎなかった。
(僕は……馬鹿だ……!)
おだてられていい気になっていただけだった。褒めそやされて調子に乗っていて、裏に隠されていた意図に全く気づけなかった。気づこうともしてなかった。
(ちょっと考えれば……分かる話じゃないか……!)
自分は何の実績もない若造だ。自分で彼女に伝えたではないか。他にもっと招くべき人間はいる、と。要はただ単に、自分がちょっとノイエ・ヴェルトの操縦が上手くて扱いやすいから選ばれただけにすぎない。
階段を転げ落ちそうな勢いで駆け下りていく。自らの愚かさに強く奥歯を噛み締め、悔しさに拳が震えた。
途中でけたたましいベルが鳴り始める。きっとそれは自分を捕まえるため。容易に想像がついた。だから伊澄は少しでも音源から音源から遠ざかりたい一心で階段を飛び降りていった。
やがて地上階まで降りきったところで伊澄は立ち止まった。ずっとデスクワークばっかりでまともに運動していなかったせいか、足を止めた瞬間に一気に汗が噴き出した。体にこもった熱が空気に逃げ出し、それにつられるようにして沸騰しかかっていた頭も冷静さを取り戻し始めていた。
「裏切られた、なんて……言えないよな」
裏切られたという言葉は、裏返せば自分が彼女らに期待していたということを意味する。勝手なものだ。自分だって彼女らから頼られて喜んでいたくせに。彼女らが自分を必要としてくれることを期待していたくせに。
息を吐いて気を鎮める。頭が真っ白になって思わず逃げ出してしまったが、落ち着いて彼女の話を思い出せば、必要以上におだててはいたが、別に悪い扱いはするつもりはないようだった。最後に言っていた魔法で意思をどうこうするというのも最終手段として考えていた話だろう。国を預かる者として最悪を想定するのは間違っていない、はず。ただ、元の世界に戻れない。それだけは認められない。
(本当に……?)
這い寄ってきた疑問を、伊澄はもう一度息を吐いてかき消した。自分はニヴィールの人間であり、そちらを捨てることはできない。できないはずだ。だから伊澄は、彼女の考えを否定しなければならない。
それでも、少なくとも立ち聞きなんてしなければ、彼女を疑わずに従っていればこうも傷つくことはなかった。もうしばらくは都合の良い存在のままでいられた。それはきっと、両者にとって幸せな関係だっただろう。
けれども。
(もう……僕もエレクシアさんも元には戻れない)
さっきの話は間違いなく聞いてはならない類のものだ。それを聞いてしまった以上、彼女は伊澄を許さないだろう。たとえ伊澄が「何も聞いていない」と主張したとしても聞き入れはしないはずだ。
いつか、自分に仇なすかもしれない。疑念は伊澄にもエレクシアにもくすぶり続ける。そんな状態を是とするはずもなく、ひょっとすると……このまま捕まえて、今度こそ魔法で伊澄の意思を奪うかもしれない。その考えがぬるりと脳を這いずり、伊澄は体を震わせた。
「伊澄っ!!」
鳴り響くベルを切り裂いてクライヴの声が届いた。ハッとして伊澄が見上げると、二階の手すりからクライヴが睨みつけている。
「居たぞっ! あそこだっ!」
それとほぼ同時に、右からも声。振り向けば、武装した兵士たちが伊澄を指差して迫ってきていた。
「くっ……!」
「待てっ! 逃げるなっ!」
呼吸も整いきらないまま伊澄はまた逃げ出した。だが何処に逃げればよいのか。城の構造など、今日来たばかりの伊澄が覚えきれているはずもなく、ただ闇雲に、ひたすらに追いかけてくる兵士たちから遠ざかろうとするだけだ。
(けどっ……!)
そんなことで逃げ切れるはずもない。分かっている。外だ、外に出れば何とかなるかもしれない。伊澄は入口を探して走る。城の入口ならば広くて大きい場所だろう、とままならない思考のままに走り、やがて幸運にも目論見通りそこに辿り着いた。
しかし当然というべきか。入口には既に見張りの兵士が張り付いており、伊澄は見つからぬよう慌てて壁に体を貼り付け、そっと様子を伺った。
「どうしよう……」
汗が滴り、落ちる。強行突破は望むべくもなく、かと言って都合よく兵士がここを離れてくれるはずもない。時間だけがただ過ぎていく。
(……っちに)
立ち尽くす伊澄だったが、その時小さな声を聞いた。少女のようなか細い声だ。慌てて振り向く。しかし誰もいない。
聞き間違いか、と伊澄はため息をついた。顔を上げても誰も居なければ何もない。ただ変哲のない通路が薄暗い口を開けているだけだ。
そう、何の変哲もないのだ。
だが妙に伊澄はそちらが妙に気になった。意識がそちらへと貼り付いて離れない。
(なんだろう、この感覚……?)
特段注意すべきこともないはずなのに。むしろ兵士たちの声が聞こえてくる正面側の通路にこそ意識を向けるべきだ。けれどもそちらに行くべきだと何か自分の内から叫んでいるようだった。
ひょっとして、これが本当の直感という奴だろうか。伊澄は直感がいつだって正しいとは信じないタイプだが、どうしようもない状況の今はこの内なる囁きに従うべきだと思った。
意を決して歩き出す。メインの通路から離れたこの場所に絨毯は引かれていない。足音を立てないよう慎重に踏みしめる。灯りの落ちた仄暗い道を伊澄は進む。
そうしていくと、視線の先にドアノブが目に入った。エリアとしては使用人や役人が職務に当たるであろう区画だろうか。一切の装飾はなく、作りも簡素だ。外来者を出迎える用の歴史的な趣がある通路と違い、のっぺりとした汚れた壁石がその姿を晒している。
階段下の、荷物が乱雑に積まれた場所にあるそのドアノブに伊澄は手を掛け、そこにある不自然なものに気づいた。
ノブの横の壁に埋め込まれた箱状の機械。一見するとそれが機械だとは気づきにくく、まるで単なる壁の模様のようだ。しかし伊澄はそれが何であるかすぐに気づいた。
(ひょっとして、施錠システム?)
伊澄の会社でも似たようなものが設置されていた。知っていればすぐに気づけるが、そうでなければ分からないよう偽装されたもので、だが明らかにこんな倉庫のような場所に付いているのは不自然だ。そして、誰かが出入りした後でキチンと閉まっていなかったのか、伊澄の目の前のそれは鍵としての機能を果たせていなかった。
果たして、進むべきか。伊澄は迷ったが、後ろから足音が近づいてきている。迷っている暇は無かった。
覚悟を決め、ドアを開ける。古びた外見とは別に滑らかに動く。音も立てずに、まるで当然のように扉の奥は伊澄を受け入れ、伊澄もまた足を踏み入れた。
先に広がっていたのは階段だった。一定の間隔で足元にライトが埋め込まれてステップを照らしている。ややひんやりした空気のそこを伊澄は降りていく。
階段はそう長くは無かった。螺旋状に伸びたそれは程なく終わりを迎え、扉が行く手を阻む。しかし伊澄がその前に立った途端、小さくピーと音が反響し、プシュという空気が抜ける音がして扉が開いた。
その先にあったのは上層階とは全く違う世界であった。
城らしいレトロな雰囲気を残した地上と異なり、地下であろうここはひどく無機質で一切の無駄を排除した無味乾燥な通路があった。
例えるなら――
「……基地?」
深く考えずに発した言葉だったが、なるほど、それはしっくり来る単語だ。
そう言えば、と伊澄は思い出した。ノイエ・ヴェルトに乗っていた時にモニターに映っていたオペレータがいたが、ノイエ・ヴェルトを運用するということは言ってみれば軍である。であればオペレータの人たちがいる管制室や職務に当たるための発令所のような場所があってしかるべきだろう。ひょっとすると、城の地下にそうした機能を集めているのかもしれない。
しかし、だとすればそんなところに足を踏み入れた状況はまずいのではないか。軍と言えば機密の塊。それらの何か一つでも眼にしてしまえばいよいよ言い訳のしようがなくなってしまう。そんな考えに思い至り、一度階段へと戻ろうとする。だが一度閉じた扉は伊澄が立とうが触れようが二度と開くことはなかった。
「……進むしかないか」
やむを得ず伊澄はその無機質な通路を進むことを選んだ。どちらへ向かうべきか全く分からないが、ここにきて「もうどうにでもなれ!」と深く考えることを止める。どうせ深く考えたって進むべき道は分からないのだから。
「ん? なんだ?」
半ばヤケになりながら一歩を踏み出した伊澄。だがその一歩目の足裏に違和感を覚え、そっと右足を上げた。そして踏んだらしい何かを拾い上げた。
それは小指ほどのサイズの小さな鍵であった。当然心当たりはなく、だがもしかすると何処かの裏口や小窓などの鍵かもしれない、と微かな希望にすがってポケットに突っ込んだ。
どこへ行けばいいか分からないながらも、頭の中で囁かれる声に従って伊澄は息を潜めて慎重に進んでいく。時折、帯剣した険しい雰囲気の警備兵が近くを通り過ぎていく。どうやらこちらにも連絡は伝わっているようで、明らかに伊澄を探しているようであった。
だが幸運にも伊澄は見つからずにいられた。それでも常に神経を張り巡らせているせいか、ひどい疲労感を覚えていた。昼間に戦ってから結局はゆっくり休めていないせいもあるだろう。
「……ふぅ」
何度めかの兵士を見送り、大きくため息をつく。背は壁に貼り付けたまま、規則的に照明が並ぶ天井を見上げた。少し気が抜けたせいか、照明に目がくらみ、脚から力が抜けて体が傾いた。
「……っ!?」
そのことに一拍遅れて気づき、伊澄は慌てて手をついた。その拍子に何かが手に触れた。それと同時に電子音が鳴り、空気が抜ける音が耳に入る。体を支えるはずだった壁がなくなり、伊澄はあえなく仰向けにひっくり返った。
「ひでぶぅっ!」
ケツから脳天に衝撃が走る。室内だというのに星が瞬き、思わず首ブリッジで尻を浮かせ、そっと押さえる。が、疲れた体では支えきれず崩落。また尻を打ち、痛みに痛みを重ねて伊澄は床をゴロゴロと転がった。
「この短時間で何回打ってんだか……」
いよいよ尻が四分割になってないだろうか、と半ば本気で考え、ソフトタッチで無事であることを確認し安堵のため息をつく。思わず浮かんだ涙を拭い、伊澄は立ち上がって顔を上げた。
そして、そこにあった光景に言葉を失った。
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