2日目「両親の寝室」
母親、父親
日記を書くにあたって、書き出しは最も悩ましい部分だが、今日はとりあえず自分自身を褒めてやりたい。
ぼろぼろの体に薬を飲ませ、二日目の仕事を無事に完了させたこと。仕事の虚しさに絶望せず、世界を再定義する習慣を二日間持続させたこと――これは世界新記録だ。肉体と精神を凌駕する強靭な意志力がなければ、この偉業は成しえなかった。
世界記録の更新を祝して、グラス一杯のチューハイでも飲めたら幸せなのにと思わなくもないが、肝臓をやられるのはお断りだし、明日も仕事が控えているのだから飲酒は禁物だ。
代わりに、ペットボトルの炭酸水でも飲んで、喉を潤す程度にとどめておく。
記録の更新といえばもう一つ。日記の連続執筆日数も歴代最高記録を塗り替えた。
いや、正確に書くなら、すでに昨日の時点で記録は塗り替えられていたのだ。一日より長く日記を継続したことなど、一度もなかったのだから。昨日で二日連続、今日で三日連続、日記を書いたことになる。
昨日、新記録を打ち立てた事実に気づかなかったのは、ひとえに私の頭が退化しているせいだ。注意力と記憶力が低下しているために、当たり前の事実さえ見落とすのだ。無能な脳には、いちいちうんざりさせられる。
裏を返せば、そんな脳に足を引きずられながらも、日記を三日間、仕事を二日間続けた点は評価に値する。前置きが長くなったが、そろそろ今日の仕事について記述を始めるとしよう。
仕事の現場は両親の部屋(今では「客室」と呼ばれている)だった。ウォークインクローゼットを備えた広々とした部屋で、二台のシングルベッドが58センチの間隔を置いて並んでいた。
私は定められた手順通り、空間の測量・イアの観察・物品の目録作り・事物の命名を行った。その作業の間、ずっと私を悩ませ続けたのは「両親とは何か」という素朴な疑問だった。
両親とは何か?
この問いの煩雑さは、両親が無生物ではなく生物であることに起因している。無生物であれば、昨日実行したような事物の命名を、親に対しても同じように適用すればよかった。
無生物はその特性上、極めて単純な存在であり、基本的には単一の機能しか持っていない。蛍光灯は「部屋を照らす」ための、普段着は「体を包む」ためのものだ。機能に着目しさえすれば、その事物に適した名前をつけるのは容易い。
しかし、両親は生物なのだ。時と場所に応じて、多様な側面を見せる。ある時は料理を作り、ある時は部屋の掃除をする。毎日、玄関の扉から異世界に旅立ち、食糧や生活物資を携えてこの世界に帰還する。部屋のベッドで眠ることもある。
このように複数の機能を持つ両親を何と名付ければいいのか。午前中いっぱい頭を使っても答えはでなかった。
進展が見られたのは、昼の義務を果たしている最中だった。事務的な動作で食糧を口に放り込みながら、他に誰もいない食卓を眺め回して、ふと思い出したのだ。時々、両親がこの場所で食事をしていることを。
両親は毎日欠かさず異世界に出かけるので、少なくともこの世界の永住民ではない。
その一方、夜の食事と就寝だけは、この世界で必ず取るようにしているらしいのだ。
こうした事情を勘案した結果、私は彼ら二人を『宿泊客』と呼びたい衝動に駆られた。プラン内容は、二階のツインルームに無期限滞在(夕食付き)。浴室とドライヤーは無料で利用できる…………というより宿泊費からして無料だ。
だが、宿泊客が永住民のためにわざわざ料理を作るだろうか? 世界中の部屋をきれいに掃除したりするだろうか? 何かがおかしい、何かが変だ。「宿泊客」という言葉では片づけられない要素があまりに多すぎる。
やはり、世界に対して複雑な挙動を見せる生物を、一つの名前に押し込めるのは無理なのだろうか?
それが、無理ではなかった。簡単な解決法を思いついたのだ。
周囲の環境と時間の変化に応じて、生物は変質する。生物が同一性を維持できない以上、一つの名前でその全容をとらえるのは不可能に等しい。唯一の打開策は、生物が有する機能の一つ一つに異なる名前をつけ、機能が発揮される場面ごとに違う名前で呼び分けてやることだ。
生物一体につき複数の名前を与える必要性が、こうして生じた。
午後の作業の間、私はルーチンワークと並行して、両親の新しい名称を考えた。以下に数例を示す。
料理を作る母親→料理人の女
料理を作る父親→料理人の男
異世界に出かける母親→異世界旅行者の女
異世界に出かける父親→異世界旅行者の男
夕食を食べる母親→宿泊客の女
夕食を食べる父親→宿泊客の男
寝る母親→宿泊客の女
寝る父親→宿泊客の男
宿泊客の二人は、私が今日仕事をしていた部屋で毎晩寝ている。従って、その部屋は客室だ。宿泊客が寝るのだから、疑いの余地なく客室だ。
となると――仕事を終える瞬間まで、この状況を全く理解していなかったのだが――事情があるとはいえ、私は他人の客室に無断で侵入していたことになる。宿泊客が不在の隙をついて、部屋を荒らしまわっていたわけだ。これでは、自室の扉を許可なく開けて侵入してくる無法者と大差ない。
仕事の漏れがないか最後のチェックを終えると、私は足早に客室を出て、少々の後ろめたさを感じながら、客室の扉をそっと閉めた。
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