家の中の世界の中の家
沖野唯作
0日目「混沌」
家
もう何年も家から出ていない。
毎朝配達される新聞を取りに、郵便ポストまで足を運ぶことすらない。
病気のせいか、自分に自信が持てないせいか、他者との関わりを本能的に恐れているせいか…………理由はいくつもあったような気がするが、それもどうでもよくなってしまった。
日常にへばりついた習慣に、いちいち起源を問う者などいないだろう。
その習慣が、生きている限り逃れられないアレルギーの痒みのように不愉快なものならば尚更である。紅い湿疹を掘り起こしてみても、現れるのはじゅくじゅくにただれた表皮と汚らわしい体液だけだ。傷口は広げない方がいい。
過去に興味はない。そして、自室と食卓を往復するだけの単調な生活は、私から未来への希望を奪い去ってしまった。
だから、自分には「現在」しか残されていない。
その「現在」さえ、意識する間もなく私の前を通り過ぎ、クレーターのように巨大な空白を私の人生に刻みつけていく……。
私の家は奈良県の県庁所在地、奈良市の某住宅街の一角にひっそりと建っている。
二階建て、車庫つきの一軒家。壁の色は白色……だったと記憶している。
きっと、たぶん、おそらく白色だ。ほぼ間違いなく白色だ。
家の側面が白で覆われている可能性は極めて高いが、一年前に雨戸の外から聞こえてきた工事の騒音のことが多少気にかかる。
あれはもしかして、我が家をリフォームしていたのでは? 年老いた両親が食卓でそんな話題を持ち出していたのをうっすらと覚えている。
家が改装されたのであれば、壁の色も私の知らないうちに塗り替えられたかもしれない。
もっとも、例の工事の音は、地続きの隣家から届いたものかもしれないし、空耳だったのかもしれない。
私の記憶違いで、壁は最初から黒色だったというパターンもないとは言い切れない。
要するに、家の外側は大して重要ではないということ。
内部こそが――内壁が規定する居住空間こそが、これから話す事柄の核心部分なのだ。
私は今、二階の自室にいる。快適なチェアに座り、何をするわけでもなく虚ろな視線で真っ黒なディスプレイを眺めている。何ヶ月も何年間もずっとこんな調子だ。
目覚め、食べ、寝る――その永劫の繰り返し。何もしないというより、何もできないと表現する方が妥当に思える虚脱感に体を蝕まれ、生産性どころか消費すらゼロに近い死んだような生活を送っている。気力とは絶縁状態にある。
一言で言えば「無」だ。果てしのない「無」だ。
無。無。無。
無、無、無、無、無、無、無、無、無、無、無、無、
無無無無無無無無無無無無無無無無無無無無無無無無無……………………
ところがほんの六時間前、思考を埋め尽くす無の集合体に風穴があいたのである。
その穴は、アリの巣のようにほんの小さなものでしかなかった。六時間経ったいまでも、ゴルフのホールカップ程度の大きさまで成長したに過ぎない。
広大な大地に比べれば、矮小で取るに足らない微生物だ。だが、その微生物は大いなる進化の可能性を秘めており、緩速ではあるが着実な足取りで巨大化を進めている。周囲の物質をあたり構わず飲みこんで、質量を増大させていくブラックホールのように。
無に穿かれた穴――それは一つの「認識」として、私の前に現れた。
家に引きこもって無為な時間を過ごしていると、ついつい余計なことばかり考えるものだ。「行動」は止められても、「思考」を中断することはできない。とりとめのない想念と無意味な連想が次から次へと頭に去来し、海馬に記憶されることもなく虚空の彼方に消えていく。興味深く思えた考えも、十秒後には覚えてすらいない始末だ。
だが、今回は違った。六時間を超える時の洗礼を受けてもなお、一片足りとも欠けることなく、頭の中に留まり続けている。
その認識とは――
『家とは世界である』
家=世界という単純な確認。所属の実感を持ちうる空間の限界を「世界」と呼ぶのなら、私にとっての世界とは家そのものだ。
行動範囲は家の中に限定され、五感が知覚する全ての物は家の内側に属している。社会を騒がせている事件や日々営まれる人類の営みは、自分とは何の関係もない別世界の出来事であり、重要なことは全て屋内で起きている。
My house is the world.
House is the world.
House is World.
世界が縮小し、家との同一化を果たした以上、私にはやるべき仕事がある。
――世界の再定義だ。
家が世界であるという公理の上に、そこから導き出される結論を積み重ねていく単純作業。家=世界を観察し、世界を再構築するという設計仕事。ある意味それは、暇を持て余した自分にしかできない無賃労働だ。
しかし、そんな行動に一体何の意味が?
自ら発した問いに自ら答えよう。人間の一生同様、意味があるかはわからない。しかし、やるべきことがあるのは良いことだ。どんなにつまらない仕事でも、一日をベッドの上でふて寝して過ごすよりは遥かにマシ。時間はたっぷりあるのだから、世界=家を観察し、記録し、認知し、定義する一連の単純知能労働に邁進しようではないか。
今日は珍しく頭を使ったので疲れた。仕事は明日から始めることにする。
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