初夏のあわいに消える声
星 雪花
初夏のあわいに消える声
お墓参りの日は、快晴だった。
朝起きる前、ベッドわきのカーテンの隙間から差しこむ光を感じていたゆずは、理想的な天気に満足して、右手をショート・パンツにしのばせた。すでにもう、しっとりと濡れている。ゆずは、自分の体の奥深くへ続く亀裂に指を含ませると、日が昇るまで短い自慰をした。
――ゆずの谷間からあふれる液体は、蜂蜜に似ているね。
そんな言い方をした彼の言葉まで、そのまま思いだす。自分で触れている手の指先が、記憶のなかの彼と重なって、ゆずは少しだけ幸福な気持ちになった。
ずっと泣いてばかりの毎日だけど、こんなふうに思いでのなかで自分の裂け目に触れる瞬間だけ、ゆずは現世にはいない彼のささやきを、すぐ耳元で聴けるような気がした。
――ゆずの体って、本当に良いにおい。
目をつむっていると、見えない世界のどこかで彼が言って、朝日に混ざったその声は本物のようで、ゆずは切なさに泣きだしたくなった。でも、この日は泣かないと決めていた。
大好き、大好き。もう会えないなんて、あの体温をすぐ近くで感じられないなんて、本当に嘘みたい。
指先の動きが激しくなるにつれて、ゆずは泣きたいのをこらえながら、みずから生みだした快感に身をゆだねて、ただ一点を目指して体をくねらせた。大丈夫だよ、と誰かの声がして、それはまるで夢の続きのような、どこまでも優しい彼の声だった。
ありがとう、とゆずは心のなかで彼に答えてみせる。現実にいる私は全然大丈夫じゃないのに、泣いたりしたら心配されてしまう。今日はたぶん、彼の魂が一番近くにやってきてくれる日で、ゆずはできれば涙を見せたくなかった。たとえ、どんなにかなしい気持ちでいても。
お墓参りの日は、お弁当をつくると決めていた。
鮭とおかかをふった俵のおにぎり、いんげんのごま和えと、甘辛く煮たつくね。黄色が映える卵焼きは、砂糖の量をいつもより多めにした。塩も少しだけ入れて、卵の甘さがひきたつようにする。その味付けも、生前の彼が好んだものだった。
油をひいて熱したフライパンに、溶いた卵がじゅっと広がる瞬間がゆずは好きで、ほどよく全体に火が通ったあとは、菜箸だけで手早くまるめてしまう。
赤と白のチェック柄のきんちゃく袋にひとり分の弁当箱を入れ、温かいほうじ茶を同じ柄の水筒に注ぎ入れると、小さな生き物を抱くように、そっとリュックの底へしまい入れる。
ひとりで食べるのだから、少々傾いても平気なのに、彼がどこかで見ていてくれる気がして、そんな一瞬も気を抜けない自分がいた。
ピンク色のナイキのスニーカーは、彼とおそろいで買った気に入りの一足で、もうかかとが擦りきれているけれど、まだはいていたくて傷んだ箇所は見ないようにしている。靴ひもを丁寧に結びなおすと、デニムパンツにパーカーにリュックという出で立ちは、まるで登山へでも行くかのよう。もっと女の子らしいかっこうをすればいいのに、たとえばワンピースとか。そんな彼の声が聞こえた気がして、ゆずはほほ笑んだ。
そういう甘い服装は似合わない。
彼が隣にいるときも、ゆずはめったにスカートをはかなかった。でも、体のラインが隠れるようなゆるいワンピースより、お尻の形や足の細さが強調される気がして、ゆずはタイトなスキニーパンツをはきこなせる自分が好きだった。
胸が小さい代わりのアピールポイントだという自負があって、色気がでるとひそかに信じている。でも今日は、見えない彼に見つめられる高揚が、自慰の名残で胸に灯っていて、家を出る直前にパーカーをやめて白いブラウスにした。襟元に大げさにならない程度の花の刺繍があり、袖がふくらんでいてかわいらしい。これならデニムパンツの色合いにもあうし、甘すぎなくていいと姿見で確認したあと、ゆずはリュックをつかんでバス停までの道のりを歩き始めた。
辺りは桜が散ったあとの初夏が始まる空気を含んでいて、風はまだ冷たくてすがすがしく、こんなにも美しい季節に旅立っていったことが、彼の最期の優しさに思えてくる。
鼻孔をくすぐる風には、萌え出づる若葉や、新芽の気配や、草木の生きる喜びみたいなものが含まれている気がして、たとえばこれが秋や冬だったら、ゆずはとっくに潰れていただろう。死期を決められるなんて思っていないけど、ゆずは、春の終わりに毎年お墓参りに行くことを、彼が予期していたとしか思えない。
さみしくないように。いつの日か、初夏に満たされた空気のなかで新しい息吹とともに、立ち直っていくことができるように。そんな想像にひたってしまうのは、やはり彼が優しかったからだ。
彼の優しさについて考えると、きらめきを取り戻しかけていた世界の一端は、喪失の傷口にひらかれて、あっというまに涙でくもってしまう。
大丈夫。まだ、こんなにもかなしい。
忘れたくないのに、この風は私に忘れていいよと、何度も語りかける。忘れてしまえば、この感情も少しずつやわらいで、海岸の砂のように小さな模様を描くだけのものになるのだろう。そうすれば、こんなに泣きたくなることもないと分かっていても。ゆずはいつまでも、このかなしみの底に漂っていたかった。それだけが、彼が世界に存在した確かな証のようで、ゆずはそれを手放してしまうことを、心のどこかでとても恐れていた。
バス停は空いていた。
平日のラッシュを過ぎた時間帯は、わずかな学生と年配の人が数人乗るだけだ。時間より遅れてバスはやってきて、ゆずはこの日のために用意したパスケースを、入り口の運賃機にピッとかざしてみせた。
雲が刷いたように紺碧の空へ薄く広がっていて、思いでを抱きしめて歩くのにちょうどいい日和。懐かしい絵画を眺めているみたいに、どこかで見た景色だな、と思う。風に、日差しに、彼はまぎれていて、ときどきゆずの髪を揺らしたり、大丈夫? と声をかけたりする。その声にまた泣きそうになりながら、彼の魂が純度の高い宝石のように透明に澄んでいくのを、ゆずは見守ることしかできなかった。
現実で接していたときよりも、ずっとずっと彼は優しくて、もう優しくしかいられない彼は、人間らしさ――欲望や暗い哀切や、感情の矛盾――をどんどん失っていく。死んで会えなくなると、もう喧嘩してぶつかり合うこともできなくなるんだな、と当たり前のことを今さら思い知って、世界じゅうに存在するあまたの恋人や夫婦が、ささいなことで仲たがいすることさえ、とても羨ましかった。
座席から見える窓越しの風景はもう何度も眺めたはずなのに、いつもま新しい光に包まれている。天気が良いのも関係あるかもしれない。ゆずが出かける日を、彼は遠い空のどこかで知っていて、晴れるようにしてくれているのではと思うほど、お墓参りの日はいつも澄んだ青空に包まれていた。
会いたいな。どうしてもう会えないんだろうって、何千回でも思ったことを、またくり返し心でつぶやいている。ゆずがそう強く念じると、いつでもここにいるよ、と答える声が、風のはざまに聞こえることもあった。幻聴かもしれない。聴きたい言葉を、勝手に自分で生みだしているだけかも。そう思っていても、気持ちがむかう先は今彼がいる場所にしかなくて、そちら側へ行きたいと思うたび、何度も初夏のさみどり色の風に押し戻されてしまう。
そんなにかなしまないで。僕はここにいる。ゆずのすぐ隣に。また会えるから。だからそこにいて。
彼が送ってくるメッセージは光になって風にまぎれていて、ゆずはそのたびに胸が締めつけられる。この痛みを忘れて他の誰かを好きになるなんて、この先あるのだろうか。あんなにも強く結びついたのに、どうしてこんなに早く別れなければいけなかったのだろう。考えても仕方のないことがぐるぐる頭の奥で回り始めて、ゆずは目を閉じた。
平日のバスは、遠い海原を行くクジラのようにゆったりと進んでいて、少しも急がない。規則的で一定の揺れに身をまかせていると、一時的に高ぶった感情は、まるで潮がひくように徐々に消えていく。前は痛みがやわらいでも、胸の中心はじくじくと熱かった。でもこの頃は、痛みはわずかな核を残しているだけで、摩耗したように余韻を残すだけ。
癒されることなんて、望んでいないのに。
いつまでも思いでとかなしみに浸っていたいのに。時間というものは、一番大切にしていた記憶さえ、揺るぎない力で奪っていってしまう。その事実を許容できなくて、でもどこかあきらめに似た気持ちで、ゆずは喪失の痛みが次第に凪いでいくのを、じっと感じることしかできなかった。
三十分くらい揺られたままでいたのち、ゆずは紫色の降りますボタンを押した。ポーンと高い音が車内に鳴り響く。ここで降りるのは、いつもゆずだけだ。ゆずはもう一度パスケースをかざすと、まるで世界の隙間に吸い込まれるように、誰もいない停車場に降りたった。
降りた先の小道に、小さな昔ながらの花屋があって、いつもそこに寄ることに決めている。
普段花を買う習慣のないゆずは、自動ドア越しの店内に足を踏み入れるとき、たくさんの花のみずみずしいにおいに圧倒されてしまう。黒いシャツに洗いざらしたボーダーのエプロンを巻いた女の人は、五十代くらいだろうか。いつもこの時期に必ずやってくるゆずを覚えてくれていて、目が合うと自然に笑いかけてくれる。
女の人は何も質問しないけれど、一年に一度訪れる事情を察しているのだろう。ゆずを見るとほほ笑みながら、入荷したばかりの花を教えてくれる。今日は、チューリップとラナンキュラス。点描のようなカスミソウを織り交ぜて、華やかで優しい花束ができあがった。
チューリップは淡いピンク色で、ラナンキュラスは紫と白と黄色。女の人はよほど花が好きみたいで、レジで手渡す前、いつも花言葉をゆずに教えてくれる。ピンク色のチューリップは、誠実な愛。ラナンキュラスは、紫が幸福、白が純潔、黄色が心づかい。そんな意味に守られた花束を見つめていると、彼に贈りたい気持ちがはっきりするようで、その言葉も一緒に届けばいいなと思う。切り取られたばかりの花は、不思議な生命力に満ちあふれていて、そのたたずまいのかけらでも、自分のなかにあればいいのにと思う。
仕事が休みの平日の火曜日に、ひとりでふらふら歩くのが、ゆずは嫌いじゃない。
ゆずは市内にある図書館の司書をしていて、職場には男性がほとんどいないから、異性との出会いはまったくないに等しい。大学を卒業して五年、今年で二十七歳になるゆずは、三十になっても四十になっても、ひとりきりでいる想像しかできない。このままずっとひとりなのかもな、と考えると、胸の底がすうすうするような寄る辺なさに不意におそわれるけど、それは今のところ、そんなに悪くないとても自由な気持ち。三十を超えたら変わってくるのかもしれない。
職場の先輩で、三十代半ばの女の人は婚活に疲れていて、彼女曰く、二十代と三十代じゃ男の人の反応が全然違うらしい。だからゆずちゃんも、結婚する気があるならほんとに早めに行動した方がいいよ、なんてアドバイスされるものの、あまりに実際の自分とかけ離れすぎていて、そんな焦燥は微塵もわいてこない。
いつかお腹がすくかもしれないから、空腹じゃなくても食べておきなさい、と言われるような気持ち。いざ何か食べたいと思っても、もう何も残されていないのかもしれない。そのときは困るだろうな、と予測するものの、今はまだ目の前にたゆたうかなしみに浸るだけがすべてで、世界の誰とも繋がりたくなかった。
彼を失って五年になる、という事実だけが、何度も何度もゆずを打ちのめす。
思いでにとらわれたまま、もうどこにも行けないのかもしれない、と思う一方で、それを強く望む自分もいた。ラナンキュラスとチューリップの花束は春らしくて甘い色彩で、ところどころに散ったカスミソウが、花束の輪郭を淡くにじませている。
今年の花束も、とても綺麗だね。
彼ならきっとそう言うだろうな、と、五年前とまったく変わらない気持ちで、ゆずはそう思う。この町の小高い丘に、宗教色のない公営墓地があって、芝生の一角のお墓に、彼の骨は埋葬されている。プレート型でシンプルな墓石の形が、ゆずは好きだった。自分も、昔からある名字が刻まれた日本式のお墓じゃなくて、そういう場所で眠れたら良いなと思う。
墓地にはカエデの木が植わっていて、鳥のさえずりや木の葉の揺らぐ音を、すぐ近くで聴けそうなのもよかった。海に散骨するのも憧れるけど、泳ぐのが苦手なゆずは、どこまでも深く底知れない海に沈むのは恐ろしく思えて、広々とした自然のなかが良いといつも思ってしまう。まだ二十代なのに、こんなにも死に魅せられている自分を発見すると、おかしくて苦笑したくなってしまう気持ち。それだけ、彼のいる場所にしか興味のもてないことが、自分で望んでいることとはいえ、どこかさみしくもあった。
まだお昼には早い時間帯。
ゆずはここに来るといつもそうするように、住宅街のはずれの教会へ行った。春の終わりに訪れるその場所は雲間からの日差しに照らされて、屋根の先端にある銀色の十字架も、まぶしい光を反射させている。地表の温度が上昇するこの時期、教会は蜃気楼や逃げ水の幻影をまとっているかのよう。なんとなく、あの世とこの世の境目みたいな不確かさがあって、その雰囲気に、ゆずはかなしいほど落ちつく自分を身に感じてしまう。
教会はいつも開放されていて、細工がほどこされた象牙色の扉を押し開けると、昼の日影にまたたくステンドグラスが見えた。羽を広げた天使が空へ昇っていく様子が描かれていて、色とりどりのガラスを抜けた先に、青や赤や黄の陽だまりが、優しい色合いで床に映っている。一度も音色を聴いたことがないパイプオルガンは、さすがの重厚さで控えていて、たとえばミサが開かれる日は、荘厳なメロディを奏でているんだろうな、とゆずは想像する。
小さな子供の頃、結婚するときは手作りのブーケを持ってバージンロードを歩きたいと思っていたゆずは、ここに来ると、見えない彼と永遠の愛を誓いに来たような、そんな気持ちになって苦しくなる。花束をいつも持っているからだろうか。綺麗な願いが凝縮された花束は、ゆずにそんなイメージを抱かせて、まるで叶わない夢想のなかにしかいられない事実を確かめに来ているようだとさえ思う。
結婚式のブーケそのものに思える花束は、どこへも続かない約束を静かに秘めたまま、彼が眠る場所へいつも手向けられる。お墓参りは、彼をずっと忘れないでいる儀式のようにも思えて、かなしくてさみしくて目の前が暗くなる。
ごめんね、と声が聴こえた気がして、ゆずは首を振る。謝らないで、と思う。
彼がひとつだけ、ゆずに申し訳ないと思う出来事があるとしたら、不治の病を隠していたことだろう。彼は大学に在籍する間、自らが抱えている心臓の病のことを、まったく誰にも話していなかった。同じサークルに所属していたゆずは、どこか影のある彼をあっという間に好きになってしまって、半ば強引に自分の気持ちを伝えて、付き合うようになったのが一回生の春。
スカッシュサークル、という、どこにでもありそうな浮ついた名目に集まった学生たちは、みんな恋人の存在を求めていて、ゆずもそんな内のひとりだった。付き合うなら絶対に彼がいい、とゆずは決めていて、その思いの丈を余すところなく彼に詰め寄った。
好意を向けるたび、彼は弱々しい笑みを口元に浮かべるだけで、その表情の穏やかさが、泣きたいくらいゆずは好きだった。とどめておかなければ消えてしまいそうな。そんな危うい儚さが内包されていて、まさかそれが彼の身に巣食う病のためとは思いもしなかった。
彼のアパートで裸になったまま、薄い毛布をわけあって体に触れるとき、
「誰も好きになってはいけなかったのに」
と、彼は途方に暮れたようにときどきつぶやいて、ゆずはそんなひとり言を聞くたび愛しさが胸にせまって、大急ぎで唇をふさいでしまわなければいけなかった。
黙っていて。そんなこと言わないで。私がいるから。ずっとそばにいて。
そんな言葉のかけらを見せ合いながら。
彼は知っていたのだ。いつかゆずを、どうしようもなく傷つけてしまうことを。
彼がさみしげなほほ笑みを向けるたび、その真意を知るよしもないゆずは、目の前が曇るような焦燥に息ができなくなりそうになりながら、何度も何度も彼を迎え入れた。
終わりが来たのは四回生の春。
始まったばかりの就職活動に、前の年から忙しくしていたゆずは、きっと彼も面接やエントリーシートの記入や入社試験のために、連絡が途絶えたのだと思っていた。まさかその頃、入院していたとは思いもよらず、やっと念願の司書になれたゆずは、喜び勇んで報告しようとしたけれど、そのときにはもう、彼は静かに息をひきとっていた。
なんで何も知らせてくれなかったのだろう、と焼きちぎれそうな気持ちでゆずは思ったけれど、もしその事実を知らされていたら、三回生の終わりの未来へ向かう期間を、全部お見舞いに費やしてしまっただろう。彼はゆずがそうすることを、よく分かっていた。その心理を把握していたから。
ゆずは彼が亡くなって初めて、彼の両親が離婚していることを知った。だから彼は、先祖代々続くお墓じゃなくて、生前の希望のもと公営の墓地に埋められることになった。
彼ひとりが静かに眠れる場所に。
墓地には、ゆずの他に誰もいなかった。
お弁当を食べ終えてしまうとやることがなくなって、墓石の隣でゆずは横になる。芝生の上にある墓石はつるつると硬くて、でもなめらかそう、と寝ころぶたびにゆずは思っていた。遠い空に雲が流れていってまどろみ、その一瞬に思える空白ののちに――
ふと気づけば、かたわらに彼がいた。
ゆずは、息をとめた。
今まで何度も何度も、名前をいくら呼んでも、泣き叫んでも、彼が夢に現れることはなかった。どれだけ会いたかったか。
ふるえる手をのばそうとしたけれど、それで消えてしまうかもと思うと、触れてみたいのにそうできなかった。彼は、ゆずが脳裏で再生し続けた記憶通りの完璧さで弱くほほ笑むと、
「来てくれて、ありがとう」
とつぶやいた。
泣きたくなかった。本当は。
でも、こんな笑顔で、この距離で、前と同じ姿でそう言われたら、もう泣いてしまう。
今日は、笑顔でいたいと思っていたのに。ゆずが両目にこぼれる涙をぬぐおうともせず、
「会いたかった」
と小さく答えると、彼はゆずの背中に手をまわして、その体を優しく抱きとめた。
信じられない、という驚愕と、これは夢だという確信が急激に混ざり合って、ゆずは強い目眩を感じながら、
「このまま連れていって」
と言っていて、それはまぎれもないゆずの本心だった。
あの墓地の静謐な底で、彼と一緒に眠ることだけが、ゆずがどこまでも求めていることで、その願い以外何も浮かばない。この五年間ずっと。
彼はきっとそれを知っていて、それで別れを告げに来たんだと、何も話していないうちからゆずには伝わって、はじかれたようにその面をあげた。
彼の両目は星を映したようにきらきらまたたいていて、その瞳をのぞき込んでいると、どこまでも遠く果てしない宇宙の彼方を見ている気持ちになった。
「ありがとう、ゆず」
彼の放つひと言に、すべての気持ちが込められているようで、ゆずは何も言えなくなりそうだった。
待って。ここにいて。本当にもう少しだけ。
連れていってなんて、もう言わないから。
ずっとずっと、夢のなかにいて。私を手放さないで。
彼の弱いほほ笑みの裏側に、ゆずを解き放ちたいという真実が見え隠れして、どこまでも優しく世界へ押し出そうとする。その力にあらがうこともできないまま、彼をまだ困らせてみたかった。そして、同時に気づいた。
彼はもう執着していないのに、ずっと見守っていてくれたことを。ゆずの気持ちに感謝していることを。
彼の魂は宇宙に繋がっていて、その遠く果てしないやわらかな闇のなかで見続けてくれたことを。
ゆずに、前を向いてほしいと願っていることを。
ずっと幸せに生きてほしいことを。
何も言葉を交わしていないのに、気持ちの交感ができるのが不思議だった。彼がいつもさみしげだったのは、ゆずを死の影に取り込みたくなくて、それだけが一番の気がかりだったことを、本当はとっくの昔に分かっていた。
それなのに、ずっとずっと思いでに縛られて、縛られたままの自分でいたかったのだ。その先がたとえ、どこにも続かなくても。
気持ちが伝わったのが分かったように、彼はもう一度ほほ笑むと、少しずつその姿は薄れていった。
ハッと気づいたとき、彼はもういなくなっていた。
涙が、夢の名残のように頬に流れ落ちる。
ありがとう。私も、あなたが好きだった。とても言葉では表せないくらいに。
ゆずは初めて過去形で、彼に呼びかけた。
その気持ちは、初夏の向こうへ遠く運ばれる。
風が髪を、優しくさらっていく。
もう彼の声を、風のあわいに聴くことはないだろう。
彼が地上にいないことが分かって、ゆずは手向けた花束の花弁がかすかに揺れるのを見つめた。
もう、ここを訪れることもない。ゆずは、その冷たく明るい萌芽が心の奥深くで兆すのを、静かに胸の底で感じていた。
初夏のあわいに消える声 星 雪花 @antiarlo
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