憎しみ

 


 その古びた木造の平屋は、潮風で錆付いたかのような赤銅色をしていた。


「すいません!」


「はーい」


 ガラス張りの引き戸を開けたのは、着古した青っぽいムームーを身に付けた女だった。障子の開いた奥には、蒲団の中から覗く、母親らしき顔があった。


「板倉芳子さんですね?」


 芳枝の本名を言った。芳枝は俺の顔を見た途端、十五年前の記憶が甦ったのか、目を見開いた。そして、覚悟したかのように項垂れた。四十は過ぎているであろうその容姿は衰え、華やかな世界で羽ばたいていた蝶の面影は、微塵も無かった。



 隣家との隙間から見える海辺に場所を移した。穏やかな波音が耳朶じだに心地よかった。俺は浜昼顔の砂山に腰を下ろすと、煙草たばこんだ。芳枝は俺から少し距離を置くと、両膝を抱えた。


「飛鳥を殺したのはあなたですね?」


「……はい」


 小声で答えると、俯いた。


「多恵が、アリバイ証言をしてくれたわけですね?」


「ええ。……でも、今頃になってどうして分かったんですか?」


 芳枝が腑に落ちない顔を向けた。


「……爪のお陰かな」


「……爪?」


 芳枝には意味が分からないようだった。


「ある人が言ってましたよ、故郷に居る病気の親御おやごさんのために頑張ってたって。辛いことも我慢してたって。人を殺したら、折角のそんな努力も水の泡じゃないですか」


「うわあーーーっ!」


 突然、芳枝が声を上げて泣いた。


「……憎かったんです、飛鳥が。高慢で無神経な飛鳥が。……あの夜、店から帰る途中、風邪で店を休んでいた飛鳥に公衆電話から電話しました。

『医者から貰った即効性のある風邪薬があるから、今から持って行く。寝てていいから、ドアの鍵を開けといて。薬を置いたら直ぐ帰るから』

 そう言って、急いで帰宅しました。Gパンに着替えると黒の野球帽を目深に被り、伊達メガネを掛けて変装すると、黒いジャンパーに革の手袋と黒いビニール袋を突っ込み、何度か遊びに行ったことがある、徒歩十五分ほどの飛鳥のマンションに向かいました。

 手袋をして、ゆっくりとドアノブを回しました。開いたドアから覗くと、飛鳥がベッドで寝てました。

 忍び足でベッドに近づき、仰向あおむけの飛鳥にまたがると何の躊躇ちゅうちょもなく、ビニール袋を飛鳥の寝顔に被せ、力一杯、口と鼻を押さえました。足をバタバタさせていた飛鳥は程なく、動かなくなりました。


『……あすか? ……あすか?』


 名前を呼んでも返事がありませんでした。私は、ベッドから飛び下りると同時にビニール袋を掴み、箪笥たんすの引き出しから衣類を引っ張り出して強盗に見せ掛けると、大急ぎでマンションを出ました。そして、アリバイを多恵に頼みました。

 “報酬は毎月十万、死ぬまで”

 それが多恵の請求額でした。月十万なら確実に払える額だと判断したのでしょう。現在はビルの清掃と近所のスーパーで働いて、今も多恵に払い続けています。……これでやっと払わないで済む」


 芳枝は重い荷を下ろしたかのように、肩の力を抜いた。そして、その横顔には安堵の笑みを浮かべていた。


「時効まで何日も無い。決めるのは、あなただ」


 砂山に煙草を突っ込むと、腰を上げた。


「……はい」


 芳枝はゆっくりと頷いた。

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