爪
紫 李鳥
出逢い
俺は奥飛騨で小さな宿を営っていた。ここに来たのは離婚して間もなくだから、四年近くになる。友人のコネで安く譲り受けたものだ。この話が決まって真っ先に喜んだのは、寧ろ親父のほうだった。余程、永年の都会暮らしに辟易していたのだろう。
――その女との出逢いは、偶然以外の何者でもなかった。
不意に現れた女は、リュックを背に、キャンバスバッグを手にして、
「予約してないんですけど、泊まれますか?」
と、即答を求めるかのように早口だった。
「ええ、大丈夫ですよ」
「絵を描くんで、四、五日、泊まりたいんですけど」
「ありがとうございます」
上客を歓迎すると、深々と頭を下げ、宿帳とボールペンを手渡した。
〈東京都品川区――TEL03――金本洋子〉
昔の職業柄か、習性のように、宿帳に書かれた文字を凝視した。と、言うのも、この女の顔に見覚えがあったからだ。だが、金本洋子という名前には記憶がなかった。
女は手荷物を自室に置くと、早速、景観を堪能しに出掛けた。
俺は一階奥の部屋に入ると、昼寝をしている親父に、
「買出しに行ってくる」
と、声を掛けた。
「うむ……なに、お客さんか?」
枕元の手拭いで寝汗を拭った。
「四、五日、泊まるそうだ」
「ほう、そりゃあ、大事なお客さんだ」
慌てて体を起こした。
「じゃ、行ってくるから」
「あいよ」
――女が帰って来たのは夕食ができた頃だった。
「いい所ありましたか?」
一階にある食堂のテーブルに小鉢を並べながら訊いてみた。
「ええ。平湯大滝っていうんですか?とても気に入りました」
人懐っこい目を向けた。
「それはよかった」
俺も目を笑わせた。
そこに、鶏が餌を啄むような仕種で、ピョコピョコと頭を下げながら、親父がやって来た。
「こりゃ、どうも。ようこそ、いらっしゃいました。うちの自慢はなんてったって息子の作る料理でしてね。ぜひ、召し上がってください」
女は嫌がるでもなく、笑顔で、親父の話に頷いていた。
「親父、邪魔だよ、あっち行って」
追い払うと、
「どうぞ、ごゆっくり」
と、また、ピョコピョコ頭を下げて奥に引っ込んだ。
「すいませんね、煩くて」
「ふふっ、楽しいお父様ですね」
「煩くて、困ります。……山菜と川魚ですが」
岩魚の塩焼きを置いた。
「わぁ、こういうのが食べたかったんです」
女は感激していた。
テレビを点けてやると、俺は引っ込んだ。
部屋に行くと、親父が、徳利一本と決めている晩酌をチビチビやっていた。
「なかなかの美人だな」
親父が同意を求めた。
「それより、女湯、覗くなよ」
と、親父に一瞥すると夕刊を捲った。
「馬鹿たれ、そんなことしてみろ、営業停止になっちまう」
「……どっかで見た顔なんだよな」
俺は首を傾げ、眉間に皺を寄せた。
「デカのときにか?」
「……ああ」
「なに、心配することはない。あの手の顔は犯罪者タイプじゃない。俺が保証するよ」
そう言って、空にした徳利を逆さにすると、中を覗き込んだ。
俺は腕組みをすると、記憶の糸を手繰ってみた。――食堂に行くと、既に、女の姿はなかった。
翌朝、女は食事を終えると、画材を手にいそいそと絵を描きに行った。
俺は、宿帳を開くと、女の書いた名前を見返した。……金本洋子? ……犯罪に関する個人情報ファイルを思い出してみたが、やはり、記憶になかった。
夕食時、女は帰ってきた。――女は洗面所で手を洗いながら、
「すいません、古い歯ブラシはありませんか?」
と、訊いた。
「歯ブラシですか?」
古いのが無かったので、新しいのを出してやった。
女はその歯ブラシで爪の間に入った絵の具を落としていた。
「油絵の具だと落ちないでしょ?」
「いえ、アクリル絵の具なんですけど、爪の間に入ると、なかなか落ちなくて」
――女の爪は綺麗な楕円をしていた。
(……爪、爪、爪……綺麗な爪をしてたわ)
以前、どこかで、爪の話を聞いたことがあった。――よく考えるために部屋に入った。
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