エッセイ「普通に考えてみると(七)」

@SyakujiiOusin

第1話

           普通に考えてみると(七)


                               百神井応身


1.糸の乱れの苦しさに


 前9年の役のとき、敗走する安倍貞任を追いつつ、源義家が矢を番えて引き絞った弓から今まさに矢を放たんとしながら「衣のたては綻びにけり」と、和歌の下の句を投げかけたところ、振り返りざま貞任が「年を経し糸の乱れの苦しさに」と即興で上の句を反した見事さに、天晴と感じて追撃をやめた。


 このところ街中を歩くと、煮しめたような色合いの薄汚い衣服をだらしなく着て歩いている人が多いのに気づく。

 服装の乱れは、精神の乱れ。

 個人の好みに文句をつける気はないが、個性というのは奇をてらったことで他と差別化することではなく、他と同じようにしていても際立って輝くものを言うのではないだろうか。


 真善美というのは、人が理想として求めたものの筈です。

 ヨーロッパ等では、キチンとした服装で店に入ると、最初から扱いが違う。レストランでは、通される席からして違ってきます。



2.できないこと


 なかなかできないことです。長きにわたって復興という本質に取り組んでこられた友人であるI氏には、頭がさがります。


 世界に冠たるクメール文化も、それに歴史の意義を感じなければ、悲しいことに後世に伝わることはないであろう。

 もっと悲しいことには、文化の衰えは、人間性までも貶める結果を余儀なくされてしまうことが多いということ。

 TVなどでも放映したから、カンボジアの幼女の人身売買を知る人も多いだろうが、知識がすなわち分別に結びつくというわけではない。

 悲惨さについての認識はあっても、何らかの援助行動を起こした人達は少なく、得られる他からの協力は殆どないのが実情ではなかろうか。


 手助けしようと思えばできる余力を持っている人たちが、まわりで言うことは決まっている。

 「なんで○○○○○なんだ。もっと援助が必要なところは、他にもいっぱいあるだろう。」

 でも、そう言う人達が他のどこかに何らかの手を差し伸べたということを、寡聞にして知らない。

「自分だけで精一杯で、気の毒には思うが今はできない。」というのなら解かる。

 しかし、全財産を投げ出せというのではない。米の一握り、パンの一切れをなんとかしようという思いが集まって、どこかで救われる人が出るのであり、それが回りまわって世界の幸福に繋がるということなのだと思う。他生の縁とはそういうものなのではなかろうか。


 教育というのは、人間性の根幹をなす。我々が今日あるのは、そのお陰である。

 我々の前世代が我々に託した思いとは一体何だったのであろうか?

 我々は、人たるのそれを次世代につないでいるだろうか?

 振り返ってみると極めて心もとない。



3.トンボ


 別名を勝虫(カチムシ)という。

 何故カチムシというかというと、トンボは飛ぶときに決して退がらないからなのだとか。


 7月の第1週の日曜日、朝から暑いしするから日光なら涼しいだろうということで、霧降高原に出かけました。

 斜面一面に、ニッコウキスガが咲き乱れ、風に揺れていました。

 赤薙山に登ることにして歩きはじめると、そこは蜻蛉が空を黒く染めるほどに群れ飛んで、霧の中から次々に現れるさまは、日本がアキツシマと呼ばれることむべなるかなと思わされました。

 秋になるとアキアカネトンボとなって、里に大挙して舞い降りてくるに違いない。



4.ニベ


 勘違いといってしまっては「にべもない」ことになる。


 ところで、「ニベもない」という言葉は、愛想もないとか世辞もないとかの意味に使われますが、ニベとはそもそもは鯉やウナギの浮き袋から作るニベ膠(にかわ)のことで、粘着力の強い接着剤であります。

 子供のころは、工作のとき瞬間接着剤なんてのがなかったので、押し糊やニカワを使ったものでした。

 最近は、用途に応じて様々な接着剤があるから、便利ではある。



5.のっぴき


 友人たちはまだ何日か残って遊ぶというのだが、そうもいかない事情がある。

 「明日帰っちゃうっていうけど、なんとかならんのか。」

 「羽のばすんじゃないのか?」だの、「髪の毛の長いネーチャンが来るんじゃないのか?」だのたいそうかまびすしかった。

 「そうじゃなくってノッピキならない楊枝じゃなかった用事があってさ(別に刺さるわけじゃないけど)、朝一番には出ないと・・・」ってことから、ノッピキのノッってなんだろうねということになった。

 日曜日に、品物を受け取る時間の約束があって、「退っ引っき」ならなかったというのが真相。

 

 今回の参加のためには多少スケジュールの調整が必要でした。しかしながら、友人たちが一所懸命に用意しているのを見聞きするにつけ、及ばずながら1日だけでも顔を出さねばなるまいと、一日だけの参加となりました。

 顔を見せたからって、拍手を打ってもらうほどご利益があるわけじゃないけどね。

 でも、行って良かったと思っています。


 つけ足し

 迎え火を 見ることもなし盂蘭盆会 民族はやがて滅び果てむか

 (棚機まつりは、今年から8月ということにします。)


 慣用句の勘違い(勉強不足?)が、新聞に出ていた。(国語世論調査)なさけねー。

 日本語の 乱れはつとに知られケリ 行き着く果ては精神のほろび

 ケリがつくっていうのは、和歌の終わりにケリがつくことが多いところから来てるっていうけど、ヌがつくとかキがつくっていうことはないのかね~。

 キがつくなんてのはオモレーと思うんだけど。



6.一価


 台風が通り過ぎると、被害のことを別にして、台風一家と聞こえるアナウンスをする局アナが必ず何人かいる。

 

 釣りで、一回に2匹以上釣り上げるのを1荷っていうらしいけど。

前に車での移動中に聴いたラジオで、「台風一家ってうちのこと?」って親に聞く子供が多いんだって。

 そんなに家が荒れてんのかね~?ってこともさることながら、一過ってキチンとアナウンスしない放送が影響してることもたしか。

 まいった魚は目でわかる。



7.因果


 宗教家というわけではないんで、因縁因果の話ではありません。

 世の中に因果律というのは確かにあるのだろうけれど、原因があれば必ず結果が出るというものではない筈です。(逆に結果は、原因なしに発生することはない。)


 原因は、なんらかの縁(環境)を得てはじめて、結果を出すのだと思われます。

 例えば、種という原因が、温度や湿度という環境が整って、芽を出し花を咲かすというように。


 意識下に沈んでいる善悪諸々の種は、何らかの縁(環境)に触れると目を覚まし結果に結びつくのだとしたら、悪縁に触れれば悪果を、善縁に触れれば善果を現出するということになる。

 だからよいことをしましょうということで、先人がそれをすると良いと勧めるわけです。


 良いといわれることを全部やったって、なかなか望む結果が得られるわけではないかも知れないが、潜在意識という精神世界のことに近いものとして、瞑想状態はよいのではないかと思うのです。

 良いといわれることを何もしないのでは、運がむくわけがないのかも・・・



8.何と言おうと


 身体髪膚 受之父母 不敢毀傷 孝之始也 (シンタイハップ コレヲフボニウク アエテキショウセザルハ コウノハジメナリ)


 身体や髪や皮膚は、父母から頂いたものであるから、わざわざ傷つけないのが、孝行の始めである。


 まあ今時孝行なんて言ったって、何のことだか解らない連中が殆どだから、言ってせんないことかも知れません。

 ましてや仁義礼智信忠悌孝なんてことは、漢字が読めないと人を馬鹿にしているムキの若者にだって解るのは殆どいないのではと思ってしまう。


 最近、さる女優さんがタトーをしてるとか言って話題になったが、言い方を何と言おうとそれは刺青といいます。

 入れ墨は他に、文身とか彫り物とかいろいろ言いますが、江戸時代には刑罰のひとつでもあって、自慢げに人様に見せて歩く類のものではありません。


 古くは、魏志倭人伝にあるように邪馬台国の男子は入れ墨をしていたらしいが、大体この手のものは未開の土人(差別用語?)の風習のように思えてならない。

 文化が進むと、それは無くなる傾向にあるのでは・・・


 今回、世界サッカーの参加選手の中にもイレズミをしているのを沢山目にしたが、美しいとも格好いいとも、とても思える代物には見えなかった。


 刺したことを後悔して落とそうと思っても、洗ったら落ちるというわけにはいきません。

 それどころか、全身に刺青を彫っている「ヤ」さんに聞いたのだが、「これをしている仲間の多くは、肝臓を悪くしてしまっている。」というから、気を付けた方が良い。



9.星の降る夜は


 あの星を とってくれろと なく子かな (江戸川柳) な~んてのがあったっけね。

 小学生のころまでの郷里の空は、満天星躑躅(どうだんつつじ)のように、あたり一面ちりばめられた星で埋まってました。

 特に夏の天の川なぞは、日が落ちて暗くなった田んぼからの帰り道、家族で家路を辿りながら見上げるとき、箒でかき集められそうに近く見えたものでした。


 家を離れて十数年ぶりに帰ったときのふるさとの夜空は、霞か雲かに覆われたように朧にかすんで、もはや往時の透明感とは程遠いものになっていました。


 その後何年かして、野辺山を訪ねたときの夜、さすが天文台があるくらいだから、星々は昔日の想い出のごとくに綺麗だったのですが、それにもまして忘れられないのは、雨上がりの八ヶ岳山頂近くで見た夜空。

 握りこぶしほどとまではいいませんが、大きくくっきり手がとどきそうにおぼえ、転じて麓のかたを見やると、遠く町の灯りが瞬たき、天も地も光の渦に浮かんでいるような心地でした。

 南の島で、初めて南十字星を見たときの空も、忘れがたい。

 こう見えて、けっこうロマンチストなんでござるよ。



10.莫迦

 「T大生は頭がよいが、君たちW大生は頭が悪い。」

 両校に講座を持つ法医学のI教授の講義を聴いていた学生は、誰一人として腹をたてることなくドッと笑った。

 そのときの講義が、IQ(Intelligence Quotient)であった。

 普通90~110位の知能指数が(私は120以上であったんだから蝗のオシッコ=田にしたもんだ=たいしたもんだ)、魯鈍、痴愚、白痴と下がるに随って、通常の危険すら避けられないケースが出てくる。

 例えば線路上に居たとして、向こうから列車が走ってきたら犬や猫でも線路から離れるものを、わぁわぁ泣いているだけで、自分で対処できないようなことが起こるというような内容であったと記憶する。(現在は、こういう言い方は差別用語となるらしいけど。)


 なんで、こんな書き始めになるかというと、昨日の午後目にした光景が余りにひどいと思ったからである。

 道のむこうから、だらしなく膨らんだ薄黒い腹を剥き出しにし、ヘソに牛の鼻環だってそれまでっていうほどのピアスをした若いネーチャンが、髪をオドロに振り乱し、穴だらけで汚れたGパンを引きづりながらやってきた。

 擦れ違うのもちょっと厭だなと思う間もなく、目の前でそのネーチャンは、歩道からあたりを見回すこともなく自動車が往来する車道を突然横切ったのである。直前を横切られた車は、前後に揺れるほどの急停車をしたが、若い運転手さんが怒ることも忘れて呆然としているのも気づかず、下半身にだけ血を集めた件のネーチャンは、平然と去っていった。


 馬鹿の語源は、サンスクリット語の無知を意味するbaka→莫迦からきてるというが、バカじゃすまないだろうに。

そんなんだって事故ともなれば、本能の赴くままにしか育てなかった親がでてきて、はた迷惑な話しになるに違いない。

(馬鹿は、秦の趙高が二世皇帝に鹿を馬と言って献上したことから来ているとも言われるが、鹿はカではなくロクと読んでいたというから、?じゃないかと思う。鹿苑寺の金閣)



11.病の中(へいのなか)の懲りない(ご)免々

 

 参加したその会には、信州弁でいうところの“ガマン”な面々が多いから困る。

 別段骨量が少なくてコツソッソショウというわけでもないのに、痛い骨折を繰り返す人、食事に気をつければ殆ど再発することはないと思われるのに、何回も痛い痛い痛風に罹る人、二日酔(宿酔い)ならまだしも、300日酔いで頭の痛い人、などなど。


 まわりでやいのやいの言ったって、本人が頑固でいうことを聞かないんだからしょうがない。

 かくいう私もそのうちなのかも知れないが、自分では自分のことを実に素直だと思っている。

 ただいま入院中のご仁も、一見素直そうなのだけれど、家人にやいのやいの言われて渋々診察を受けに行って、即入院ということだったらしい。

 手術が終わってすぐに、コーヒーが飲みたいというだの、翌日にはパソコンを持って来いだのと我侭をいっているらしいけれど、気をつけなくてはなりませんぞ。


 いや、病気のほうはもうアンジャナイかもしれませんが、「あなた、お話があります。」っていわれないようにしないとネ。

 私なんぞは、とっくのむかしに匙を投げられてるからいいんだけど。



12.蜂に刺されて


 この時季は、ブルーベリーをせっせと摘む。

 自分ではさほど食べないのだけれど、我が家のサイ(普段ツノは見えません)がジャムにして配るのが趣味だから、点数稼ぎに摘むのを手伝うことにしている。

 実を摘むためには、防虫スプレーをたっぷりかけて、(というのは蚊が沢山いて生き血を吸いに群がってくるから)始めるのだが、ものの10分もしないうちに汗で流れ落ちてしまうから、そこらじゅうを刺されることになる。

 まあ、蚊くらいならさしたることはないけれど、この場所には蜂が喜んで集まるから、危なくってしょうがない。

 スズメバチなんぞは羽音も高くブンブン飛んで来るからすぐ解って此方も用心するが、ちっちゃいのが葉陰に潜んでいるから時に刺されることになる。

 一昨年は、サイが刺された。今年は、私があっという間に4箇所やられた。

 その瞬間はけっこう痛かったが、子供の頃は足長蜂だの黄蜂だのに何度も刺された経験をもつ歴戦の勇士である私は、そのうち治るだろうと、大した処置もしなかった。

 ところがである。痛みはすぐに治まったといえ、刺されたところが痒い。

 どんなくらい痒いかというと、寝ていても目が覚めてしまうほどなのである。

 日曜日に刺されてもう4日を過ぎたというに、治まる気配を見せない。

 なめたらアカンゼヨ。



13.やくそう


 フウロなんてシャレタ名前でよぶとわかりにくいのかも知れませんが、薬草として採取した覚えなら有る人が多いのでは・・・。

 そのナを呼んで、ゲンノショウコ。(茎が地を這うのと、ちょっと長いけれど、フウロの仲間)

そのほかにも、ドクダミ・センブリ・チドメグサなどなど、夏休み中の宿題として乾燥したもの一籠分くらいの分量を採取して提出するよう求められた。(中学校時代)

 なにかの費用にあてるのだとか言われたが、それがなんだったかの記憶はない。


 コドモの頃に覚えたものというのはスゴイ。

 芽吹いた頃のトリカブト、ハシリドコロ、ドクゼリ等などと、意識もしないで区別できた。

だから、山菜やキノコ狩りも普通にやったが、今それをしようと思っても、多少勇気がいる。



14.わからぬこと


 電車に乗ると、太ったふて~やつが、座席を1.5人分ふさいで居眠りなんぞをしているから座れない。声をかけてちょっと寄ってもらおうとしたのだけれど、いやいや腰をにじらせた程度だから、「貴方がちゃんとすればもう一人座れるんだよ」と強めに注意した。

ところが今度は、右隣のジイサンが腕組みをしていて解かないから狭くってしょうがない。

 どうしてこうなんだろうね。こんなことを常々やっているのが「今時の若いのは・・」なんて言ったって、若いものが聞くわきゃない。ちゃんと足下見られてるんですぜ。


 加えていえば、高速道路に合流するときに、急にスピードを上げて車間をつめてくる無謀な運転者も多いが、こりゃ危険すぎる。

 自分だけよきゃ(そんなのちっともよかないけど)っていうけつの穴の小さいのが増えちまったようだが、な~に考えてるんだか・・・。

 「そんなの関係ない。」だとか、親父の役を犬にやらせて笑ってるようじゃ、匡されるのは期待薄です。あの世の帳簿にマイナス点がついてますぜ。


 近頃は、私も経験を積んで人間が練れてきたから、そうそうは怒らなくなってるけどね。

 なんですと?その割には怒っているじゃないかって?



15.遠見の頭(とおみのかしら)


 標高2千m弱のところにある車坂峠の駐車場に車を止めて、黒斑山への登山道に入る。

そこから2時間も登れば、頂上に至ります。

 この山は、浅間山の隣に位置していて、百名山ねらいの登山家が、入山禁止(噴火の危険があって)であったころ浅間山の代わりによく登りました。

 頂上まであと20分位のところにある一つのピーク、トオミノカシラがある。ここで大抵は休憩をとる。

岩に巨大な亀裂が入っていることは、普通に登って通り過ぎると気づくことはありません。右手に進めば、黒斑山の頂上。さらに進めば、岩山である蛇骨岳に至ります。

 トオミノカシラあたりからは、眼前に雄大な浅間山が広がって、昔は噴煙が立ち登るのが見えましたが、今は青い空しか見えません。

 オオカメノキが少し色づいていましたが、ナナカマドはまだ青々としていて、秋はまだのようです。



16.村おこし・地域おこし


 日本人は桜が好きである。

 良い桜が咲くとなれば、日本全国どこへだって出かけて見に行く。


 信州飯田近辺には、麻績の里の舞台桜・昼神の駒つなぎの桜、黒船桜・飯田の安富桜、桜丸の夫婦桜、クヨトの桜・高森の瑠璃寺の桜・・・

 数え上げればきりがないほどの名木があります。いずれも1本桜だが、1本だけでも見事です。

 しかし、地元の人たちはこれが大変な観光資源であるとの認識が薄いのか、他所から客を呼ぶようなことはしない。美しさを愛でないわけではないが、桜が咲くと農作業が忙しくなるといって、花見どころではないらしい。


 ふるさと会があって、麻績神社のお祭りにいったとき、村の発展を真剣に考えていることを知らされました。

 地元にいると当たり前になってしまって、それがどんなに価値あるものなのかに気づかないことというのが多い。

 果樹・農産物・古墳遺跡・桜・特産品を有効に結びつけて、地域の発展を図るのには、アウトレットを招致するのが一番いいのではないかと話してみましたが、なかなか具体化するまでには至っていないようです。


 地元のことを改めて思い起こすのが大切だと思い、出身地である座光寺を、地域おこしの口切に小説を書いてみようと思い立ちました。

 同様に考えれば、隣の上郷地区には上郷の、高森地区には高森のアピールしたい事物があるに決まっている。

 そういう、地域のお国自慢を結集すれば、相当なエネルギーになると信じてやみません。



17.へんなことをする人


 地下鉄銀座線の稲荷町駅入り口に植え込みがあって、そこの腰丈くらいの高さに育った枇杷に花が咲いていたので、綺麗だなと携帯電話カメラにとりあえず収めた。

 昨日のことである。

 そんなことはすっかり忘れていたのだけれど、今日電車に乗っていて気がついた。

「まてよ、枇杷は今頃黄色の実をつけている時季だから、今頃花なんて咲いてる筈がない。それもピンクの花なんて・・・」

 今日通りすがりに確認したところ、案の定造花でありました。

 こんな手の込んだことをするのは、すぐそばで商売をしているお店の人に違いない。

 ばちあたりめが! でも、綺麗ではありました。



18.祭祀遺跡


 東山道の雨境峠、女神湖の北にある蓼科牧場の牛乳とアイスクリームは美味い。

その売店から100mほど入ったところに鳴石(なるいし)と呼ばれる一抱え以上の大きさの鏡餅状の石が、苔むして鎮まっています。

 傍らには、マユミの古木がある。マユミにも意味があるらしい。

 古墳時代から中世にかけて祭祀行為が行われたのだという。

 霊感の強い家内が言うことに、手をかざすとビリビリした波動が伝わってくると。


 白樺湖から女神湖をかすめ、蓼科山の裾をまいて佐久インターに抜ける道は、夏の日差しの中、走りやすかった。

 このあたりは、遺跡群が並んでいるらしいから、機会をみて訪ねてみようと思います。



19.5合


 古い語呂合わせに2升5合というのがあります。それは分解すればノーチヨサン、升升半升となることから、益々繁盛っていうことで商売の看板にする他愛ないやつ。

 

 昔、あるひとが言った言葉で、なるほどと思ったことがあります。

 「世の中は、悪い人が居ないと収まらない。」というのです。本当の悪人ということではなくて、「私が悪うございました」と譲歩する人がいて、「いやいや、私のほうも言いすぎました。」となって漸く折り合いがつくと言うのです。(日本の美徳かも知れませんが、外国相手に通用するのかどうかは疑問です。

Sorryといったが最後、傘にかかって賠償まで求めるというのが恒らしいから。

それでも、相手を慮る日本のやりかたの方が好きです。人らしいじゃん。


 現状をみるに、百人居たら百通りの正義があって、どこまでも自分の側の主張のみを絶対視すれば、最後の一人まで行くよりない。世界に一人だけ残って、何が楽しいんだろうね。

 神を説き、愛を叫ぶなら、それぞれに内なる神を抱く自分以外の人をないがしろにはできない筈なのに、いつからか損得とか面子とか主義とかが優先されて、人類数万年の知恵は軽くなってしまったようです。

 学校での給食時 “いただきます”という言葉すら、「学校の給食時には相応しくない宗教儀式である」とクレームがついたというけれど、宗教でもなんでもなくて、人間は生きるためにやむを得ず他の生き物である動植物を口にせざるを得ないことを慎んで、「あなたの命を私の中で生かさせていただきます。」というのが、そもそもの意味なのだと教えられたことがあります。

 そんなことには触れもみで、ってことばかりじゃ寂しいかも・・・。



20.いくらなんでも


 ゴルフで3999・95kmのティーショットの飛距離なんてのはありません。

 何年か前にラウンドしたとき、ドライバーショットでのボールが前方の木に当って跳ね返り、ティーグランド後方50mに戻ったことがありました。

 

 久々にそのとき一緒にラウンドした友人は、相変わらず口が悪い。

どっかで会った女性のことを、グズBARさんと貶していた。年を数えてみれば、耄碌まじかで、グズグズしてる婆さんにはちげーねーか。

 

 それで思い出したんだけど、竹取物語に出てくる爺さん婆さんの話。

 この夫婦は、熊笹を常用していたんだと。

あれは血液サラサラ若さを保つ力に殊の外すぐれ、かぐや姫とよばれた子は実のところこの夫婦の子であったのだと。

 ただ、年甲斐もなく子をなしたのを憚り、竹から生まれたということにしたんだとか。

 ほんとかね~。あや刈り亭もんでありまするな~。



21.いずこも同じ


 さみしさに 宿たち出でてながむれば いずこも同じ秋の夕暮れ(良遅法師)

の話ではございません。


 どうも当家も友人のお宅と同様で、カミサンは出来の良いもの見場の良いものは、自家消費するものではないと思っているらしい。

 今はしていないけれど、家庭菜園を借りて野菜を作っていたときがそうでした。

根本の精神構造が変わるわけではないから、野菜でないとはいえ、その行動様式に変わりは生じていないようである。


 カミサンは、趣味が嵩じて手作りの石鹸に凝っている。ときどきは手伝わされるが、特に厭というわけではではない。

 地中海のどっかの樹で完熟したオリーブ(それでないと駄目なのだとカミサンがのたもう)を手摘みしたものから搾ったエクストラバージンオイルを原料にして石鹸をつくり、仕上げに香料を加えて型どりして何ヶ月か寝かせる。

 頃合を見て整形し、仕上がりのよさそうなのを人様に配るのを無上の喜びとしているらしい。

 切り落としや形が悪いものが、自家用として残る。


 このあいだデパートかなんかの手作りコーナーを覗いてみたら、1500円2000円で売られていたからカミサンにそう言ったところ、「そうよ。わたしの作ったのはあれよりずっといい原材料を使ってるわよ。私は売らないだけよ。」な~んて言ってた。


 その前に凝っていたのが、ケーキづくりである。

 シフォンケーキなどの出来映えは、プロはだしだと思う。これも配って歩くから、残るのは型抜きのときに端が欠けてしまった見場のわるいものになる。味が変わるわけではないから、別段いいんだけれど・・・


 山菜を採りに行く。山椒・山の蕗・山独活などなど。山中の足場の悪い斜面で摘み取るのは大変である。一日がかりで一所懸命やっても、収量はそんなに多くはならない。これを始末して揃え、佃煮などの製品にするのにはかなりの手間隙がかかる。

 しかし、人様にあげるのを楽しみにして生き生きと働いているのを見ると、まあ文句は言えない。


 休日なんかに家でごろごろしていると、「美味しそうなサツマイモがあったから買ってきたわ。ダッジオーブンで焼いてヨ。」なんてことがある。一人二人でたべられるような数量ではない。炭を熾し、いい状態の焼き芋ができあがるまでには3~4時間を要する。

 焼きあがる頃になると、何かのサークル仲間のおばちゃん連中が何人かで姦しくやってくる。ちゃっかり事前に話しがついてるらしい。

 私は、まず滅多に芋なんぞは食わないけど、しょうがないから愛想笑いなんぞしながらお相手する羽目になる。

 亭主じゃなくって女房の好きな赤烏帽子ってことにして、世のなか平和ってことになる。



22.おどろ


 そもそもは、「おどろおどろ」とか「おどろおどろしい」とかの形で使われるが、擬音語ではない。


 この夏は、髪をオドロに振り乱し、顔には隈取を大仰にほどこした化生ようなものが昼日中から沢山出没した。白日夢ではなくウツツであるからして、道ゆくにたいそう怖をう(こをお)おじゃったのでおじゃる。

 気の利いたバケモノは、夜に、もっと気の利いたのは丑三つ時に出るというのが相場なのにですぜ。


 ところがなのでおじゃる。涼風がたちはじめたと思ったら、魑魅魍魎は影を潜め、エレガントな装いのニョショウが数多く見かけられるようになったのでおじゃる。

 ほっと致します。やまとなでしこは、こうでなくては。



23.ショパン


 どこかのオバカなインタビュアーが、ステファンスカ教授に「今、ショパンコンクールを受けたら、何位になると思いますか?」と不躾な質問をしました。

 Halina Czerny Stefanska ハリーナ・チェルニー・ステファンスカ女史は、もはや残念ながら故人となられてしまったが、1949年に催された第4回ショパン国際ピアノコンクールの優勝者です。

 満面の笑みでハリーナ先生は、その質問ににこやかに答えられた。「やっぱり1位よ。」


 ピアニストになった息子は、ショパンの曲のレッスンは、最初イョルク・デームズ氏に師事した。氏は、ショパンの曲を弾くとき、鍵盤から指が高く離れるような演奏をことのほか嫌った。

「ショパンは、鍵盤の上を指がすべるように演奏した。そうでないと、あの繊細な音は出せない。」のだと。

直すことができなくて破門状態になるお弟子さんもいました。


そのデームズ氏が「ショパンを弾くのなら、いい先生を紹介する。」と言って会わせて下さったのが、ハリーナ先生だったのです。

以後、7年にわたって師事し、ポーランドのご自宅で行われる夏合宿にも、毎年のように参加しました。親父である私には「行ってくるからね。」と、いつも事後承諾でしたが・・・


上野の奏楽堂で催したリサイタルのときは、凍えるように寒い日であったけれど、愛弟子の為にと、海上にお越し下さったことも懐かしい思い出です。

「お父さんですか?」と差し出された白い手に、そっと触れたこともありました。

ピアニストとの握手は、強く握ってはいけないのだと倅から前に聞いていたからソットです。



24.ドレミファソラシド


 ドラねこソラきた ドシたらよかろう・・・な~んてのがあったっけね。


むかし読んだ「いじわるばあさん」という漫画で、ばあさんが嫁に「ねえ、猫をお部屋で飼ってもいい?」と聞き「どうぞ」と答えたのだが、しばらくして心配になった嫁が扉を開けてみると、でかい犬かなんかにお手をさせてる。

 仰天して詰め寄ると、「犬にネコって名前をつけてなぜ悪いの?」と居直るってのがあった。 


 ことのほか暑かった今年の夏、庭先を痩せこけた子猫が息も絶え絶えヨロヨロ歩いているのを時々目にした。

「この夏を乗り越えられるのかしら?」とウチのサイ(角は外からは見えません)が見かねて、なんとなくたまには餌を与えていたらしく、大きく育ったその猫が、サイの足音がするとどこからかとんでくるようになった。

私には用心して、1.5m以内に近寄ってこないんだけどネ。

 今朝も出がけに玄関にいたから、「ネコ」と声をかけたのだが、「なんか名前をつけたら?」な~んてサイがいうから、「ネコ」って名前なんだと言って出てきた。

 こりゃ~倅と一緒になって、なんかブツクサ言ってるかも・・・



25.曼茶羅華(まんだらけ)


 なにやら有難い名前ですが、トランペットフラワー(エンゼルトランペット)のことです。

 今を盛りと咲いていますが、庭木としては余り好まれないのだとか。

 あながち迷信ということではなく、木の伸びる勢いが強いので、手入れに手間がかかったり、毒性が強いので剪定時に樹液に触れると良くないというのが理由らしい。


 他にも庭木として避けられるものには、以下のようなものがある。

 椿・・・花が首からポトリと落ちる。(山茶花やワビスケは花びらで散る)

 石榴(ざくろ)・・・実が裂ける。 でも、子宝に恵まれていいのだという説もある。

 葡萄・・・武道が下がる。

 百日紅(さるすべり)・・・もともとが寺に植えられる木であった。

 桜・・・散り際が潔いというので、武士が花の下で腹を召した。それは別として、桜の樹は一本で300坪の土地を必要とするから、庭木にはむかない。毛虫もよくつく。

 やつで・枇杷・・・湿気を呼ぶ。


 特性がわかっていて気にしないで植えるというならそれも良いが、気になるというのであれば、敢えて植えないでおくということになる。



26.モッコウ


 モッコウと呼ばれる、瓜を輪切りにした模様の紋所は、戦国時代の武将織田信長で有名。

 胡の瓜の続きですが、瓜の花の中に黒く見える虫がいました。産婆じゃなくって天道虫です。天道虫ダマシもいますが、こちらは胡瓜の皮を舐めて表面を見るも無残な有様にしてくれます。

 それでも勿体無いから、皮をむいて食べることにしてますけど・・・


 虫は、この野菜は人間様が育てているかどうかなどということに斟酌するわけではないから、花といわず野菜といわずよく食べてくれます。


 胡瓜(きゅうり)は、中華料理でよく使われる。胡とは、中国の西の蛮族の地、そこで採れる瓜ということである。

中国人は自らを中華と称し、国名も一文字で表したが、隣接する国は蔑んで、二文字の国名で呼んだ。

 南蛮(なんばん 南の蛮人)・北荻(ほくてき 北のむしけら)・東夷(とうい 東のエビス、人のようで人でないもの)・西戎(せいじゅう 西のケダモノ)ということで、真ん中でないのは馬鹿にしていたようです。

 

 四足で食べないのは椅子だけだという食文化を誇りますが、四というのも好きなようです。

 風水で流行の、四神。

 青龍・白虎・朱雀・玄武(東に大きい川、西に大きな道、南に開けた湖、北に小高い山)であるから四神相応の地は、いいに決まってる。

 四天王 (持国天・増長天・広目天・多聞天)・・・とんなんしゃぺい(東・南・西・北)地蔵買うた、と覚えると神社の四天王の位置関係が覚えやすい。


 遊んでないで、そろそろご飯にいきます。



27.なんとかなる


 神様(somethinng great なもの)は、乗り越えられないような試練を人にお与えにはならない。

 悩み事の大半は、まだ起こってもいないこと。起こってからでも、真剣に対処すればなんとかなってしまうものなんだというのが殆どです。

 別にノーテンキだということではなく、特段なまけているのでなく、普通にしていれば、そうなって不思議がないようです。

 まあ、欲をかけばキリのないことではありますが・・・   


 そう思うようにすると、力みが消える。力みが消えると物事は案外スムーズに動き始める。

 命をとられるようなことは滅多にないのだから、見栄をすてればなんとかなるのです。



28.Open sesame !


 アラビアンナイトかなんかに出てくる、ひらけ!ゴマ!

 広く門戸を開くと、お宝が出てくるのですが、なかなか世間は狭き門ばかりのようでおじゃりまする。

 むすんで ひらいて てをうって むすんで・・・

 幼き頃は無邪気に歌っていたはずが、ちかごろはちとオモムキが変わってきたらしゅうございます。

 いくら暑いからとはいえ、はしたのう胸をはだけ、ヘソをだし、目には狸も避けて通る隈取をし、口をポカンと開けて物欲しげに昼日中からノロノロ道を塞いで歩かれた日には、東風虎(こちとら)えろ迷惑なのでおじゃりまする。

 親の顔がみてみてえ(こわいものみたさ)と、長嘆息(短足ではありませぬ)するのであります。


 また開いて手をうって その手を上に・・・皇国の興廃ここにきわまれり。

 股を開く前に胸襟を、又は門戸を開けってんじゃ!

 なんのはなしかって?いやなにね。昼ごはんに行ったとき歩いてた昼からでるバケモンの話しでおじゃります。(このごろみやこにはやるもの・・・)



29.貴人


 いとやんごとなきあたりでは、仲秋の名月を愛でる。雅の心は、ゆかしい。

 なんですと?今時月見をやるのは、貴人ではなくて奇人じゃないのかって?


 きのう横浜を出たときには、月を眺めることができましたが、練馬の鄙の里に帰り着いた頃には、雲間に隠れていました。

 月に群雲花に風。

 今年は、近所のススキにまだ穂がでない。このあいだ山に行ったときイッパイあったのを採ってくればよかったのに、後の祭りです。

 日本橋屋の長兵衛団子をくって、月見にかへました。「月より団子」なのでおじゃる。

 えっ?花より団子っていうんじゃないのかって?

 雪月花に勝るのは、句意懸なのでおじゃる。


 ススキに代わる禾本科植物への色添えに、小さな石榴一枝をあしらい、見えぬ16夜を思い浮かべるのでおじゃる。


 雨降りお月さん雲のかげ お嫁に行くときゃ誰と行く ひとりで唐傘さしてゆく



30.虎退治


 トラ、 酔っ払いのことではありません。朝鮮虎のお話しです。

 先日のオジイサンの会の旅行での最長老80歳の方は、中学校までをかの地で暮らしたといいます。その頃、家では羊を何頭か飼っていたのだとか。


 ある日、虎が現れたのを追って大型犬が何匹か走る後ろを、何を勘違いしたのか羊が1頭ついていったらしい。

 その長老も(昔は若かった)、それって言うんでおっとり刀ならぬ鉈を手に追いかけた。


 途中で虎が逃げるのをやめ、こちらに向きを変えると、敏捷な犬たちはサッと身をかわしたのだけれど、ノロイ羊はひと咬みにされてしまったのだそうです。

 それからの虎が凄い。羊を口に咥えたまま、跳躍するようにあっというまに走り去ってしまったのだとか。


 「加藤清正は、槍で虎を突き伏せたといいますが、そんなことできそうですか?」と聞いてみると、「相手だって素早く動くんだから、無理なんじゃないかな~」との返事。

 「じゃあ、鉈で虎をやっつけるのも無理ですか?」と茶化すと「まあ、無理だな。」と答えた。

 ○の不自由な人、虎に怖じず。(パクリ)


 何日か後、かなり離れた場所で、はらわただけ食べられた羊が発見されたそうです。

 なめたらアカンぜよ。



31.蜂の巣


 ブルーベリーの枝の下に何箇所かついていたのは知っていたが、カマキリのタマゴだと思って放置していました。実がなくなるころになって気づきました。

 カマキリが夏にタマゴを産みつけるわけないのにね。

 カマキリは今、大きなおなかをして、近寄ると生意気に鎌を翳して威嚇してきます。蟷螂の斧などといって軽んじないで、敵わぬまでも人間様に向かってくる意気やよしと、見逃すことにしています。

 ときどき、テンジンバッタなどが餌食になっているようですが・・・


 この巣の蜂の幼虫が育っているころに、ブルーベリーの実を摘んでいたんだから、刺されたって致し方なかったのでした。

 刺された痛みよりも、あとあといつまでも痒かったのが大変でした。

 いまはもう、巣の中は空でした。


 ブルーベリーの木の下には蚊も多くて、摘むときにはこれにも毎回刺されて随分痒い思いをしました。

 2ヶ月近くにわたって摘んだ実はかなりの量のジャムになりましたが、その殆どは家に残ることなく友人知人のところに配られました。



32.老人の日


 何歳から老人というのか、それとも、年ではなく考え方や立ち居振る舞いがそうなることをもってそう呼ぶのか分からないが、70歳を越えたから、本人は若い心算でいても、はたから見れば立派な老人なのかも知れない。

 子供のころは、まわりにいる60歳以上の人は大抵腰が曲がって杖を突いていたり、皺だらけであったりした。今、そんな年寄りは滅多に見かけない。

 お婆さんと呼ばれるのはまだしも、老婆と呼ばれるのはイヤだと、ラジオで言っているのを聞いて、そりゃそうだと笑ってしまった。

 爺さんを老爺(ろうや)というが、これを聞くこともまずなくなった。

 年をとったら爺さん婆さんなのだが、それに老をつけると相当な年寄りに聞こえる。


 この時季になると、「おばあさん、と他人に呼ばれるのは不愉快だ。貴方のおばあさんではありませんと答える。」という記事を良く見る。

爺さんでそういうことを言う人はまず無いけれど・・・

 多分、お祖母さんと間違えて反応したのか、或いは外見が自覚と他覚と違うことに腹を立てたかのいずれかだろうと思うが。


 オジイサンとかオバアサンと呼ばれても、尊敬をもってそう呼ばれているという自信とプライドを培うよう励みたいと思うのです。爺さん婆さんは、普通名詞なんですぜ。



33.みょうが


 私は大層好きです。親も子もね。何がかって?だから親ミョウガ子ミョウガが。

 昔からミョウガを食べると物忘れするようになるから、子供には食べさせるなと言われます。

ちかごろは、ミョウガなんぞ食わなくっても物忘れするようになったけれど、これって“ボ”なんとかっていうんだったっけ?


 ミョウガはシュリハンドクの墓から生えてきた植物だからだというが、ミョウガを漢字で書くと、茗荷。文字通り名前を荷うということであります。

自分の名前すら覚えられなくて、背中に名前を書いていたということからきてるんだとか。


 釈迦の弟子にシュリハンドクという人がいまして、これが朝聞いたことを夕方には忘れているという程度のもんじゃなくて、自分の名前すら覚えられなかったといいます。

 皆から馬鹿にされるし、そんな自分が情けなくてお釈迦様に相談したところ「案ずることはないぞよ」と言ってお釈迦様は1本の箒を渡し、「これで綺麗にしなさい。」と教えたんだと。

 シュリハンドクは、それから何年にもわたり、来る日もくる日もただひたすらお掃除に励みました。


 ある日お釈迦様が、「随分綺麗になったね。だけどまだ1箇所綺麗ではないところがあるよ。」と言ったんだそうです。

それがどこなのかわからないまま、さらに数年掃除を続けていたあるとき、はたと気がつきました。「汚れていたのは自分の心だった。」と。

悟りの瞬間です。


 その現れ方や感じ取る側の捉え方で、神といったり、仏といったり、霊といったり、潜在意識といったりするのだと思うのですが、たしかに何か偉大なものがあるのだということは否定できないと思います。


 イモを洗って食べるようになったサルが一定量を越えたとき、時空を越えて他の山にいる猿たちにも芋を洗って食べる智恵が伝播したとか、同じようにイギリスのツグミが牛乳瓶の蓋をとって牛乳を飲む智恵を身につけたとかの話しを聞きます。

 心理学をやった人たちは、意識が共有されているのだということに疑いももたないようですから、科学というのは長大なもの微細なものをますます詳らかにしていくことでしょう。


 ところで、もう一つの「冥加」は自分で調べてね。



34.菓子丼背視徒


 今日は、流石にカシ丼セシトなどという脂っこいものを食べる気分じゃなかったから、スープものにしたんだけど、スプーソがセシトされてなくて困った。

 ほんと、なさけねー。

(カツ丼セット・スープにスプーンのことです。)

 黒板に手書きされたメニューのことなんですが、「ツ」と「シ」、「ン」と「ソ」が書き分けられないワケーノが多いんだって。


 昨日は、さる新聞社の記者がふらりとやってきて(忘れた頃にやってくる)話しを聞きたいというから、例によって口から出まかせにオダをあげた。

 ワケーノの事件が起こるたびに、評論家のダイ先生が出てきてもっともらしくノーガキを述べるけど、ほんとにそう思ってるんだろうか?ってやつ。


 むかしゃ親が子供に言ったことってそんなに沢山なかったように思う。

「お天道様に恥ずかしくないようにしろ」「ひとさまに迷惑かけるんじゃないぞ」「みんなとなかよくしなさい」くらいのものだった。

 これで、夜道にオバケは怖かったかもしれないが女の一人歩きは何の心配もなくできたし、家の戸締りなんかしないで開けっ放しで出かけたってモノが盗られるなんてことはなかった。


 どこで間違えちゃったんだろうネ、どこからなのか気づいてるひとは多いと思うけど・・・。



35.ギンコバウム


 日本では、銀杏、公孫樹、いてふ、等と書く。


 金色(こんじき)の 小さき鳥のかたちして 銀杏散るなり 夕日の丘に

与謝野晶子のこの短歌は、中学校の国語の教科書に載っていました。


 倅のザルツ時代の友人で、ハプスブルグ一族侯爵家の御曹司と散歩していたとき、彼が「これはギンコバウムと言って、とても貴重な木なのだ。」と言ったので、「日本では、そこらじゅうにあって、さして珍しくもないけど。」と答えたら、大層悔しがったのだとか。

 前にも書いたけれど、オーストリアと日本の植生は、かなり似ています。


 下北沢にある菩提寺の境内では、夕日に映えて梢が見事に紅葉していましたが、根元には金色の鳥たちが散り敷いていました。



36.すいじゃく


 漢字で書くと垂迹。

本地垂迹(ほんじすいじゃく)なんていうことを社会科だか歴史かで習ったと思うけど、忘れてしまった人が多いでしょうから、辞書を引いて調べて下さいネ。


 ニュアンスは違うけど、化身みたいなもんです。

 牛頭・馬頭(ごず・めず)大王がでてくるとは思わなかったけれど、熊野の誓詞を交わすっていうのは、信長さんの頃まではよく聞きます。どうして熊野にしかその誓詞というのがないのかってことについて、昔小耳に挟んだことを思い出しました。


 神様を介して固い約束事をしたのに、それを反故にしたら罰があたるのを恐れたなんてことではなくて、それを強制させる見えない組織があり、誓詞で交わした約束を破るとどこまでも追い詰めて制裁したから、誓詞を交わした約束に信憑性を持たせることができたんだとか。

ほんとかどうか知りませんが、むかしゃあったかも・・・。



37.せんばやまには たぬきがおってさ


 長野県飯田市上郷の黒田から野底川沿いに山道をたどると、姫宮八王子神社があって、ここは岩見重太郎の狒々退治で知られているところだから、そのつながりの風越山も猿か狒々かと思ったら、違うんですね~。


 かざこしやまには てんぐがおってさ

 飯田市座光寺のお祭りには、赤天狗・青(烏)天狗が出てくるから、きっと居たのかも知れません。


 狗は山犬のことかと思いますが、狗賓というと天狗のことで、鼻を伸ばしている様子すなわちテングになっていることの表現にもつかわれるというのを聞いたように思います。

 しかし順の子節というのは、初めて聞きました。順の子に、節がつながっていくということなのかしらね。石に口を漱ぐんじゃなくって、風に耳を洗うってか?

 洗耳という書家がいましたが、そういう意味で名乗ったのかも・・・。

 ところで、センジというと宣旨というのをマロは思い浮かべてしまうんだけれど、綸旨とどう違うのでおじゃろうかの~?

 このごろ都にはやるもの 夜討ち 強盗 にせ綸旨・・・


 サラセン文化?おっとサラリーマン川柳ってのもオモレーね。

 「ご飯まだ?」

 「もうお腹がすいたの?さっき食べたばっかりでしょう!」

 「でも腹へったよ。」

 「そんなの気のせいよ!」

            そんなこと言ったって、腹がへっちゃあ寝られません。


 馬鹿やってないで、お昼ご飯を食べにいってこよ~っと。



38.そうかな~?


 新聞の投書欄に、72歳だという女性が投稿していました。いわく、「おばあちゃん」と呼ばれたのがケシカランというのである。

 72ならもう立派なおばあちゃんじゃないのかなあ。お祖母ちゃんと間違えるほどボケてるんなら、投書なんかできないだろうから・・・


 同様な主張に、身内でもない人からオバサンと呼ばれるのは我慢ならないというのが前にあった。オバには叔母や伯母しかないと思ってるのかもしれないが、小母っていうのだってある。


 おばあちゃんやおばさんっていう言葉は最近できたことばではないし、長い歴史のなかで尊敬や親しみをもってずっと使われ続けてきたのではなかったんだろうか。

 怪しからんという人たちが、その“おばあちゃん”とか“おばさん”という言葉について持っているイメージとか、その年配の人たちにどんな態度で接してきたのか一度聞いてみたいものだ。


 ゆえなく、なんとかかんとか言われて無くなってしまったり変えられてしまったりした言葉のなかには、もし言葉というものに意思や人格があったとしたら、「不本意だ」と言ったに違いないものがかなりありそうです。


 イジメというのは、“苛め”または“虐め”ということであろうが、国会でだってイジメがいけないという主張をしているその本人たちが、失言をして謝っている人に対し寄ってたかって何回でも繰り返し責めているのを見せつけたら、子供達にとっては、自分が傷つかない大勢の側にいるときにはそうするもんだと刷り込まれているのと同じなんじゃなかろうか。

 謝ったら、寛容の精神でそれを許し、以後双方が仲良くするというのがア国の美徳であった筈。

 諸外国では、謝ったら最後「貴方は悪いと認めたんだから賠償せよ」ということになるのが常らしいけどネ。

 なんかヤだね。

 間違えても、空トボケたり凄んだりもヤだけど・・・

 論点がずれてきちゃったから、けふはもうおしまひ。



39.そうそう


 早々じゃなくって、思い出したときに言う“そうそう”。

 信州弁のことを書いたら、どちらかの方言で「かばねやみ」というのがあるがわかるか?と聞かれた。

 少し書いて一時保存したままで、忘れていたものです。そんなのわがらねって?


 「かばねやみ」

  “かばね”は、多分シタイまたはそのホネのことであろうから、ヤムがなにかっていうことになる。

 これは、信州弁でもいうところのズクをヤムのヤムと同じだと思われる。

 したがって、骨惜しみと同義語ということになり、怠け者というのが答えとして類推される。

 違うかしら?

 たったの3~4行じゃしょうがないから、何か付け足してと思いながらそのままになっていました。



40.どういうわけか


 身体の具合が悪くなると、電話をしてくる人が多い。

 前にも3年ほど音信のなかった高校時代の友達から突然電話がかかってきた。

「元気か?」と聞くから「こちらは元気だけれど、貴方は?」と訪ねると「今入院しているんだ」という。

 「棺おけに片足突っ込んだけれど、急場をなんとか脱したら無性に君に会いたくなった。」とのこと。

 翌日仕事をやりくって早速見舞いに行くと、こんなに早く来てくれるとは思わなかったと殊のほか喜んでくれた。

 4期まで進行し転移もしていたので手術も不可能で、治るためには戦うしかないと医者に言われて痛みに耐えながら頑張ったという。

そうしているうちに痛みも遠のき、投薬も身体に合ったのか効いてきたらしく思えたら、お前の顔が浮かんだのだという。

 「あんた運がいいのかもしれないぜ。俺に会いたいと思ったってことは・・・。まだ何かやりたいことがあるんだろ?だったらホンキでそれをやりたいと思えば大丈夫だよ。

 大体、助からない人は、自分でもう駄目だと決めちゃったからだと思うし、貴方みたいに本性が明るくないことが殆どだから、アンタがなんとかなると思えばなんとかなるよ。口からでまかせに言ってるように思うかもしれないけれど・・・」といいながら、いくつかの見舞いをした実例を話すと、「俺も頑張ってみるよ」と明るい顔になった。


 どういうわけか最大のピンチになると、突然電話してくる友人が多い。そのいずれもが、他の人には知らせないでくれという。脳内出血、脊椎骨折、心臓発作、癌、などなど。そしてまたどういうわけか私が見舞いに行った人は、大半は一時的にであっても復帰してくる。

 根拠を示して励ますわけではないけれど、本人がなんとか治りたいと心底思えば治るんじゃないかと思えてならない。


 タバコを1本吸いたいからというから「じゃあ、早く退院して吸いなよ。」と言ったことで、タバコ吸いたさの一念で治っちゃった人が現にいます。


 人は、自分が思ったとおりのものになる。

 そう他人には告げて、思い方を変えることで良くなるのを目にするんだから、自分の仕事だって良くならなくっちゃいけないのでしょうが、自分のことは後回しになるらしい。

 このページを始めたきっかけだって、世のため人のためなんだけどネ。



41.過ぎにし昔に


 さば缶の真中に入っている骨、あれはちっちゃいときのご馳走でした。

 さば缶の調理方?そんなのでオカアチャとはなるべく喧嘩しないほうがようございます。多分どこでもそうだと思いますが、勝負になりません。負けるに決まってます。カニしてな!って言っといたほうが無難です。(これ、生活のチエ)


 カニの美味い季節になりました。お陰様で尿酸値はなんとかセーフらしく、痛風の心配はないので平気で食べられますが、前に北海道旅行で毛蟹だタラバだと飽きずに食べて、翌日から杖にすがって1週間ヒーヒー言ってた人を知ってます。でも、くいてーよねー。


 古文のお勉強、結構あっそうそうって思い出す。強意とか掛詞とか。

 そんなに古くなく、明治大正か昭和初めかの文章だと思うのですが、中学の国語の教科書にあって、みな間違えたのがありました。

 「午前七時にもやあらむ」“む”は推量の助動詞だから、午前七時に靄があるだろう。

 でも、これってブー。

 “や”は強意の助詞で、午前七時ころででもあろうか。ということだと教わった。



42.確信


 信念を持つことは、素晴らしいことだとされる。

 信じるということに理屈はいらないのですが、信ずることと思い込みとは全く違うものです。


 (欠く芯)芯を上げ下げする石油ストーブというので思い出した話。

 子供がまだ幼稚園に通っているころのこと。その友達が50メートルほど先に住んでいた。

 ある冬の日、さる大学の教授をしていたその子の父親が、石油ストーブの調子がよくないというので、暇でもあったから見にいきました。

 部屋に入ると油煙で霞むほどもうもうとしているから、何事かと思ったところ、ストーブの芯を目一杯上まで上げて、赤橙色の炎で芯が燃やされていた。

 「もっと芯を下げて、青紫色の炎にしなくちゃ温かくもならないですよ。」というと、自信をもってキッパリと言われた。「火は、大きい方が温かい。」


 その②

 これは、私が大学に通っていたときの講義中の話し。

 入学して間もない頃の、法学の時間だったかと思う。

 何からその話になったかは忘れたが、「鯨は、魚である。」というようなことを教授がのたまった。

 すかさず、ヤンチャな生徒が、「ハ~イ、せんせいちがうとおもいま~す。鯨は、哺乳類で~す。」とチャチャをいれた。

 すかさずの返答が素晴らしかった。「君は何をいうか!鯨は魚である。なんとなれば海にいる。」

 なんと説得力のあることば!



43.角を貯めて


 なに?そりゃ「角を矯めて牛を殺す」っていう諺通り、矯めるじゃないのか?って?

 大体が似たようなもので、「助長」ってのだって間違った使い方が多い。怪しからん!

 いや、お叱りはご尤もですが、違うお話しなのでおじゃりまする。


 ときどき美味い魚を食べさせてくれる船主さんが仰るのに、マグロを釣るときの疑似餌に牛の角、それも赤牛の角を使うと、食いつきがいいのだそうです。

 海に牛なんぞいないし、ましてやそれが餌になるなんてことをマグロだって思うはずがないから、不思議であります。


 ところが、その角が“モウ”なかなか手に入らない。ですから、貯めておかねばならないということになるわけです。

 だれですかそこで「海にはウミウシってのがいるぜ。」なんていってる人は。


 鮭は、その生まれた川を避けて通れないんですかねー。酒を避けてトオルちゃんしてる良い子がいるってのに・・・。



44.学習

 遅い目の昼飯を食いに行ったと思いねえ。

 「こちら牛飯になります。」と言って、目の前に丼が置かれました。

 ちょっと待てよ。もうこれは牛飯そのものなんじゃないのか?

 そう言えば前に友人が、「こちら熱燗になります。」と言って徳利を出されたことがあるってやつがあったっけ。

 これなら、まだ温燗だけど段々熱くなりますってことかもと思えなくもないけどさ。


 帰り道、いつも寄るコーヒーショップに入り注文すると、「店内でおめしあがりですか?」なんて大のおやじが聞いてきた。

 「こちらのお客様は、トレイもマドラーもなしでコーヒーにミルクです。」と、隣のレジのいつもの顔見知りでもないおねーさんが小声で教えていた。

 「よく知ってるね~」と褒めたら「いつも同じなので覚えてます」と返事があった。


 そうなんです。これが学習というものです。そのお店には、なにも言わなくてもそうしてくれるおねーさんが、その店には3人います。


額秀

 額が禿たわけじゃなくて、学習の続き。

 「お持ちしましょうか?」「平気平気、ぜんぜん大丈夫です。」

 “お ~する”は、謙譲語だから、主語がなくても私が言ったことば。

 “平気平気”は、相手の言葉。

 だけど、ぜんぜん大丈夫ってなんのこっちゃ。

 こないだも、TVで脳の弱そうなタレントが、「ぜんぜん美味しいです」なんて臆面も無くほざいていたっけ。

 しかしなんざますね。私なんぞもどうしようかと迷うのが、コンサートのチラシをつくるときの電話番号の標示。

 「問合せ」とするのが正しいのだけど、一般的には「お問合せ」の方が多いからです。


 さて、鉈で鋸(ナタ・デ・ノコ)じゃなくってカサ・デ・チャンバラは、血の気が多かった学生時代に遊びでよくやった。

 しかし、人混みの中、傘を逆手に持って振って歩くのは危険この上なく、迷惑千万な振る舞いです。

 それを見かけると、優しく?「危ないですよ。」と嗜めて差し上げます。

 お天気の良いときの日傘の骨も、周りの人の目の高さにくるのを意に介さず歩く無神経な婦女子が多くて、「あなたは陽に焼けなくったって、大して代わり映えするわけじゃなかんべ~」なんて思いつつ、コレはこちらが避けて歩くことにしています。

 な~んでか?(クイズです)



45.感知外


 90は切れなかったというと、「まあそんなもんか」と知らない人は思ってくれるが、それは勘違いです。80を切れなかったなんていうと、もう頭から信じてはくれません。

 実のところは100もきれなかったし、KC超が喜ぶようなスコアでありました。

 この数年、ゴルフというものは年に数回しかしなくなったので、大きくタマを飛ばすのはまだしも、小技はさっぱりとなっています。

 ゴルフでは、多運動により腹を減らしてメシを食うということに決めています。それを職業としてメシを食うのは大変ですぜ。



46.基本中の基本


 今どのように大成功している人でも、社会に一歩踏み出したその修行時代の最初にやったことは、お掃除であったに違いありません。

 どんな仕事であっても、基本は整理整頓とお掃除であると、師匠や上司から厳しく指導されたものです。

 なぜそうするのかは教えてくれず、文句を言わず体で覚えろ!といわれました。

 教わった知識では身につかない。何か大きなものへの接点を感じることが、その後の成長に必要だったのだと思います。

 ですから、聞いてみると大声ではいいませんが、成功された方は人智を超えた偉大な力を信じてもいます。

 おざなりで嫌々やって、そのことに気づかないまま来てしまった人のいかに多いことか。


 偉大なるエネルギー体につながる入り口は、多分ですが瞑想と感謝であると思われます。

 そんな境地に辿り着くまで、お掃除をした人は滅多にいないと思いますが、真剣にお掃除をしているときに「ああ、これなんだ。」と閃いた人は多いようです。

 それがわかりさえすれば、後はお金を払って他人にやってもらっても差し支えないことになります。


 何事にも、やらないことに理由付けして、自分で行動することがないと、理解がそこに及ばないかもしれません。



47.機嫌がよいときには


 「あなた、内臓が悪いの?たいへんだね~。」と親切に聞いてあげます。

 訝しげに「えっなに?」なんて反応が大抵は返ってきます。「いやね、足を組む人って大抵内臓が悪いっていうし、段々重くなると苦しいんだってね~。」

 「内臓なんてどこも悪くないよ。」

 「ああ、それはよかった。でも逆も真なりで、いつも組んでると悪影響が出るんだっていうから、将来がある体なんだから大事にしてね。」


 だ~いたいやね~。美人の西施(セイシ)が「あれ~、持病のシャクが。」なんてんで眉を顰めるから美しさがより増すんであって(顰に倣うという諺は、ココから出ている)、どっからどう見たって“顔が不自由な”人が足なんか組んだってサマにゃならないんだから、早く身の程を知る方が人類の為になる。

 これが、タンソクのシコオだってことだと尚更のこと。


 ぐずぐず言ってるんで、「いつか痛い目にあって自分で懲りるまでそうやってろっ!」と注意してやった若者が、電車を下りて後ろから着いてきたっていうことがある。

 この若者は「親にも怒られたことがない。オジサン(おじいさんと言わなかったところがエライ)の話しを聞かせて下さい。」となかなか殊勝なことを言う。

 で、年を聞いてみると成人だったから、近くの飲み屋で終電まで飲ませたっけ。

 それが本人にとっての財産となるのだから、公の場におけるマナーとか嗜みっていうのを教えるのは、ふつう親であったり学校の先生であったりの筈なんだけど、違うことばっかり教えちゃうからなさけね~。

 まあ、箸の持ち方さえ教えてね~ってんだから、推して知るべし。

 丼に人差し指をかけて持ち上げるなんていう、品のないこともするしね・・・



48・気になること


 熱湯にツケル。傘で目をツク。

 浸ける(漬ける)は、付ける(着ける・就ける・点ける)とは音がちがう。

 同じく突く(衝く・撞く)も、搗く(憑く・尽く)とは読み方がちがうんじゃ。

 ニュースはちゃんと読んでくれってんだ。


 で、話は違うが、東急東横線に乗り込んで、ガラガラに空いていた車輌の席に座り、書物を紐解いて読み始めて間もなくのこと、遠慮がちに若い女性が声をかけてきた。「あの~、これは女性専用車輌なんですけど。」

 人品骨柄から言ってまさか私が痴漢や変質者に見間違えられるはずはないながら、あせった。

 一番前の車輌がその専用車輌の筈であったのが、ちかごろ変わっていたらしい。

 「ごめんね。」と言って急いで違う車輌に乗り換えると、そこはかなり混んでいて、その混んでいる原因のひとつが若いねーちゃんたちなんだから恐れ入る。空いている専用車輌に移ってくれたら、この混雑のさなか大層たすかるんだけど。



49.気になる言葉


 これが私の「お気に入り」・・・自分のことに「お」をつけるか?

 やばい・・・若い女性が使うのには馴染まない。言葉は体を表します。

 むかつく・・・波動が悪すぎる言葉。ほかの語彙を使えないのか!

 ~~だし~・・・空腹だし~。で言葉が終わったら変。し、と言ったら並列語がこないとね。

 ぜんぜん大丈夫・・・ぜんぜんと言ったら次にくるのは否定語のはず。ぜんぜん駄目。

 大丈夫ですか?・・・買い物をしたら「袋は大丈夫ですか?」と聞かれた。袋は要りませんか、ということらしいのだが・・・

 生き様・・・これを、「いきざま」と平気で読むが、「いきよう」「しにざま」が対の言葉。


 なんとかならんものか

 天下の公器であるTVのアナウンサーが、神前の“前”で結婚式を挙げただの、縁談“ばなし”(ご縁の話だから縁談)だのと平気で言う。

 いにしえの昔の武士の侍が、馬から落ちて落馬して・・・というような表現は、小学生でも厳に戒められたものだった。

 そうかと思えば、ホテルをチェックインするなんて朝の番組で言っていた。

 ホテル「に」チェックイン、ホテル「を」チェックアウトする、だろうに・・・

 

 スポーツニュースなどでも、得点を与えないとか得点をとったなどと平気でいうが、得点させない・点を与えない、点をとった・得点したのどちらかでないと変だという感覚もなくなってしまったのだろうか。


 アクセントが変なのも多い。

 陰陽師と陰陽寺。区別してアナウンスできないのか! プロだろう!

 濡れ手で泡とはなんじゃ。粟じゃないのか!

 これからなおします。・・・「直します」なんだか「尚します」なんだか分からぬ。


 区切り或いは修飾関係

 今日は雨降り候 天気には御座なく候 (今日は雨がふります。天気ではございません。)

 今日は雨降り候天気には 御座なく候 (今日は雨が降るような天気ではございません。)


 形容詞がどの語にかかっているのか理解して話さないことも多いから、こちらで判断しなくてはならないことも多々ある。


こんなのが、ソーリは字が読めないなんて言っていたのですぞ。キリがないからもうやめにするけど。



50.気の毒


 「それは、アナタにとって気の毒なことでありました。」

 これが何を意味することなのか解ったら、かなりの外国通。

 

 彼らは、自分が悪かったと思っても、まず絶対と言ってもいいほど「ごめんなさい」とか「悪かった」なんてことはいわない。

相当自分でもマズイなと思うときでも、せいぜいが「それはアナタにとって気の毒なことでした」と他人事みたいな言い方でおしまいになる。

 彼らは、悪かったと言うと、悪いと思うんなら賠償せよっていうふうにおっかぶせられるのが常だから、なんとか言い逃れるか無視するかの方法をとるしかないのかも知れない。


 日本だと、「ああ言って謝っているんだから、許してあげようよ。」ってことで、大抵は丸く治まる。仮に保障が必要な場合でも、ふっかけて理不尽な要求をされることには至らない。

 「和をもって尊しとなす」が根底にある人間性の豊かさがここにある。


 電車の中で、5歳くらいの男の子が私の足を踏んだにも拘わらず黙っているから、 「ぼく、人の足を踏んじゃったらゴメンナサイでしょ?」と諭した。

 傍らにいた若い母親も子供の頭に手を乗せて頭を下げさせたのだが、謝るということを普段したことがないのか、今にも泣き出しそうであった。

 「子供なんだから・・」と、そういうときにわけのわからん理屈をいって非難がましい意見をいうヤツがいるが、大間違いだってーの。今しか教えるときがないじゃないか。


 まずったときに「いや~すいませんでした」と謝ることができる人は、度量が大きく人格もすぐれていると見られるから、結果的に周りからの信頼も厚くなりいろんな協力も快く得られて、ますます成長できるんだってことを、ちゃんと教えてやれってんじゃ。

 それができないと、子にも親にも将来に気の毒なことを齎すんだから。














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エッセイ「普通に考えてみると(七)」 @SyakujiiOusin

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