思い込みの罠からの脱出

蒼生 都記

第1話 スカイブルーのリュック

 その彼を見かけると、今8時だな、とわかる。

 時報のように正確に、彼は8時ちょうどに私の家の前を通り過ぎる。

 彼には、普通の人と違っている事がたくさんある。

 たまたま彼の後ろを歩いて駅に向かう途中で見かけたのだが。

 彼は好きな人々等に、なんの躊躇もなく声をかける。

 小さな子供や散歩中の犬などには「かわいいですねー」

 パン屋や花屋の働く店員達には

「おはようございます!」

 私の知る限り日本人は、知らない人々にはいきなり挨拶などしない。コンビニの店員などが、店の規約で挨拶するのは除く。それは仕事だから。

 翻っていわゆる欧米人は見知らぬ人にも挨拶をする習慣がある。

 少なくともインターナショナルホテル内のエレベーターではそうだ。

「グッモーニン」

「ボンジュ」

 等々。

 日本人である私は顔を赤らめて軽く会釈するのがいつものパターンだ。

 おそらく大抵の日本人はそうだろう。

 他のアジア人はどうか知らないが、少なくとも日本人は、挨拶の代わりに軽く会釈し、微笑する。

 なぜだろう?

 なぜ声に出して挨拶しないのか?

 振り返るに小学生の時には学校の『知らない人にも挨拶しよう運動』などで、やっていた事はある。

 が、学校内で先生や生徒にする分には良いが、いざ学校外で知らない人に挨拶をすると、大抵怪訝な顔をされ無視されるか、しぶしぶといった風に挨拶を返される。もっと嫌なのはお婆さんとかに

「◯◯ちゃん、偉いねぇ。」などと名指しで返され、

『え、知らないお婆ちゃんと思ったらお母さんの知り合いか?』

 と、日頃の悪ガキぶり(人の家のビワの実や柿などをよく取って食べていた)を思い出して怖くなり、母に言いつけられやしないかと不安になって、家に逃げ帰る羽目に。

 そんな体験からせっかくの学校の指導もむなしく、小学校の高学年になる頃には学校外では挨拶などしなくなる。


 さて。そんな日本人が普通であるのに彼は、知らない人々に声をかける。躊躇なく。

 彼はとても背が低く、それこそ小学生で成長が止まったかのようだ。

 しかし顔は紛れもなく大人、いや中年である。

 いつも同じスカイブルーのリュックを背負い、サイドポケットには折り畳み傘と水筒が入っている。

 服はいつも着古した、しかしよく洗濯されているであろうジーンズに綿シャツ。寒ければコートに帽子やマフラー、手袋まで付けている。

 が、何か普通の人とは違うのだ。彼の後ろ姿や歩き方を見ただけで

『障害者か?』と思う。

 顔つきもダウン症者によくある顔つきだ。

 だから私は彼を『肉体的に問題の無い、施設で働く障害者』だと思い込んでいた。

 そして彼は私と同じ駅から電車に乗るのだが、東京から離れる下り線に乗って一駅の、有名な障害者施設に向かうと思いこんでいた。

 が、今日わかった。彼は私と同じ東京行きの上り線に乗っていた。私は快速だが、彼は各駅停車側だ。

 それがわかった時、私の中で思い込みの壁が崩れた。

 ひょっとしたら彼は障害者ですらないのでは?


 いつか私は、彼がどこに毎日出勤しているのか確かめてみたいと思う。

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