第2話 古き記憶

 横たわるあの人のことは――まだ思い出せないけど私の薄れた記憶の奥に僅かにひとつの軌跡として残っている。

 その軌跡は僅かに声を思い出させるに留まり、彼が何者で――誰で在るか否かは既に私には問題にならなかった。

 ただ、大切で見つめるだけで心が満たされてゆく――まだ生まれ落ちたばかりの弱々しい貴方の指先が少し動く度に私の心は満たされてその手に触れる。

 あたたかい――ぬくもりが伝わる度に貴方のいちばん深い場所とつながっているような感覚が私を包む。

 あと、もう少しで思い出せそうなのに――それは叶わぬ夢のように何処までも遠く蜃気楼のようにぼんやりと見える。

 それは、ひとが空の果てに憬れていつか辿り着こうとするのに似ていた。

 そこに辿り着ける筈もない。

 でも貴方にふれて、記憶の底に僅かにけれど確かに存在して――私の感情が動かされていのがわかる――ただ、貴方が私にとって大切で掛け替えのないもの――。それ以外はわからない――けれどこれは錯覚じゃなかった。

 動物的な直感――それは本能と言い換えても良いモノ。それが私の行動を決定し、こんなにも愛しく貴方を思うように導いてくれるのだから――論理や理論などとうに超えていた。

 その身も心もすべてが愛しく、それ故に貴方のすべてが私を狂わせた。貴方を大切に思う一方でそのすべてを奪いたい。奪い尽くしたい――私だけの物にして貴方の身体も心もすべてを私の中に閉じ込めてしまいたい――そんな風にさえ思えてしまう。

 穏やかな風が貴方の睫毛を揺らす。

 そんな顔をして――貴方は悲しいの。

 ――それともうれしいの。

 閉じられた瞳の奥で何を見ているの。

 そんなに心の奥底から汲み出す泉のように、貴方はこの世界に止めどなくあふれている――もう誰にも止められやしないわ。

 そう本当に生まれ堕ちたかったのね。

 ――でも世界は貴方を受け入れなかった。

 だからこんなにも弱く不安定なのね。

 でも、もう大丈夫。

 その為に私は貴方に出会えたのだから。

 何も、もう何も心配しないで。

 もう泣かないで。

 貴方の望みは叶うから。

 うれしいなら世界は貴方を受け入れて存続するのでしょう――でも悲しいのなら、そんな世界――私にはいらないわ――そんなのなくしてあげる。もし、次の世界も貴方に悲しみを連れてくるなら、その世界も殺して、また新しい世界をつくってあげる。

 貴方が望むなら。

 そう貴方が望むのなら。

 何度でも、そう何度でも……。

 ――永遠に。

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