「叱る」と「怒る」の境界線
藤和工場
第1話 叱ると怒る
「叱る」と「怒る」一体どちらの言葉の響きに惹かれるだろう?
おおよその方が「叱る」と答えるだろう。それは「叱る」という言葉には、覆いきれない優しさが見え隠れしているからだろう。言葉の内にある、相手のことを思ってという思考が、人の数多の経験から言わず語られるからだ。しかし、それは願望めいているという点を拭いきれはしない。
一方、「怒る」には一方的な憤りしか存在せず、おおよそ、他人を思いやるなどというものは含まれていない。ただ、自らの憤りを解消するために吐き出すだけで、誰に届けようともしていない。エゴなどと言い換える事も出来るかもしれない。これは願望ではなく、真実の1つだろう。しかし、「怒る」は一概に悪とは言い切れない。人はまた、怒れる時に怒らなければならないこともあるからだ。
ここで、改めて「叱る」と「怒る」という二つの言葉の意味を紐解いてみる。
だが、実はこの二つの言葉に意味の上での差異はない。同意として説明されているだけだ。残念ながら願望であるはずの意味はなく、あるのは手痛い事実だけだ。
しかし人はそこに境界線を夢見る。出来るならば人は皆、人に対する時「叱る」を常にしたいはずだからだ。
さて「ARIA THE ANIMATION」には三人の新人ウンディーネ(ゴンドラ漕ぎの水先案内人)と三人の先輩ウンディーネが登場する。ここでは彼女らの力を借りて、人の「叱る」と「怒るについて」境界線を定義してみたいと思う。
三人の先輩ウンディーネ(晃、アリシア、アテナ)にはそれぞれに役割分担がある。
晃=叱る、アリシア=諭す、アテナ=見守る、である。一見して晃が貧乏くじなのだが、そうではない。そうと感じるのは個を個として考えているからである。彼女らは三人で作用し合って1つの別なる、より昇華された形の個を成しているのだ。
それに名前をつけるとすれば、「母性」というのが適切かもしれない。ここで表した彼女らの役割だけ見れば、「母性」という言葉とはそれぞれに異なった性質を感じるだろう。
「叱る」には最も直接的な訓戒が込められている。転じて最もわかりやすい。「諭す」には穏やかに言い含める冷静さが感じられる。一方、緩やか過ぎて身に迫るものがない。「見守る」には行動を制限しない大らかさがある。反面、最も伝わりにくい。時としてそれらは、受け取る側にしてみれば、どの方法も一方的な悪にしかならない時もある。それはどちらが冷静さを欠いたかという問題でもあるし、そうでないことでもある。しかし転じれば、三者の「叱る」「諭す」「見守る」は広義での「叱る」行為に当てはめる事が出来る。
この三位一体が働く場合、常日頃からの相手を受け入れる努力というものが必要不可欠だ。
ではその努力とは何なのか? 端的に答えれば、「愛」である。優しさや思いやりとも言い換えることが出来るかもしれない。
そもそも、晃、アリシア、アテナの役割をしての「叱る」行為とは、愛の上にしか成立しない。もちろん受け取り側の三人(灯里、藍華、アリス)にもそれは常だ。三様の役割は、愛という下地の上、受け手の愛に繋がれて成立する。こう書くといかにも脆弱で、巨峰の断崖に打ったリベットにか細いカナビラをくくりつけたものだと感じるかもしれない。
だがそれで当然なのだ。それは相互努力によってのみ強固になる。黙して愛を語るなどとは怠慢でさえある。人と人は愛を怠惰にしてしまってはいけないのだ。
「叱る」「諭す」「見守る」を施してくれる相手が、どれほど自分を愛していてくれるか、それを知らずして「叱る」も「諭す」も「見守る」も何の効果もない。いつも自分を憎しみ戒めるだけの存在の戒めが、プラスに効果を及ぼす事などない。それはただ通りすぎるだけのもので、路傍の石と変わらない。
だが現実、ひとりで「叱る」ばかりも「諭す」ばかりも「見守る」ばかりも出来ない。それは上述したように、効果を持たないからだ。
それを考えると、しかし彼女らはまた、卑怯でもある。個々には、ここに上げた三種を絶妙に持ちあわせ、それでいてそれぞれが一個特化でもいられるからだ。ではなぜ彼女らは許されるのか。
それは「日常生活における努力」という言葉に集約されるだろう。座して待ち、得られるのは時の経過ぐらいだろう。彼女らは自助努力でコミュニティにおいてその地位を確立している。後輩三人組との生活の一挙手一投足が信頼と結びついているのだ。そして人とは努力でそれが手に入れられる存在だと、我々に語っているのだ。
私たちはひとりで、かの三人と同じでなければならない。その都度、晃、アリシア、アテナである一面を自分の中に持ち、使い分けなくてはならない。
それは無理な事だ。
その見解は間違ってはいない。だが、ここで知ってしまった。それは努力で補える事でもあると知ってしまったのだ。
人は知ってしまったことを気にかけ、気に留め、それを実行しようとする強い意志を持っているものだからだ。
ここまでで、彼女らが定義してくれた境界線がおぼろげでも見えてくるだろう。
すなわち「叱る」とは相互愛の上に成り立っているという事だ。そして憤りを吐く「怒る」との境界線であるのが、「努力」なのだ。
この場合、「努力」を境界線というのは正しくはないかもしれない。それは「線」というよりは「壁」や「盾」なのだ。相互愛を育てるという「努力」が「叱る」の尊さを守っているとも言えるのだ。
こうしてみると、「叱る」「怒る」「母性」「愛」「日常」「努力」といった変哲ない言葉で説明されているものだ。
しかし、「ARIA THE ANIMATION」はそれこそが大切だと示してくれている。日常描写において、食事のシーンが多く見られるのもそのひとつであるだろう。人にとって食事とは欠かすことの出来ない習慣であるとともに、最も人と人とのコミュニケーションが生まれる時間でもあるからだ。
相互愛を育む努力。
そのチャンスは日常の当たり前の瞬間、常に顔を覗かせている。それを見逃さない日常を尊く生きる「努力」こそ、私たちに必要なものなのだ。
その「努力」が必ず、あなたの「叱る」を「怒る」から守る壁と盾となる。
これを肝に銘じておけば、人に対するとき、常にあなたの新しい世界が開かれるに違いない。
そんなあなたの新年に、Auguri Buonanno !!
(了)
(アーカイブ的に十数年前のものをそのまま投稿しております)
「叱る」と「怒る」の境界線 藤和工場 @ariamoon
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