父親
翌日、真実が帰宅して冷蔵庫を開けると、昨晩母親が食べなかったカレーがそのまま残っていた。
夕食にはしなくても、次に日の昼食に、つまり今日の母親の昼食用に残していたカレーだ。
どうしたのだろう? ついに昼食も食べなくなってしまったのだろうか。
心配になって台所の流しを見ると、いつものように使用済みのフライパンと皿と箸が置かれている。
良かった。昼は食べたんだ。
でもなんでカレーを食べなかったのだろう?
気づかなかった? いや、それは無い。
カレーという気分ではなかったのだろうか。そうとし考えられない。
ひとまず、真実は夕食の支度に取り掛かる。
冷蔵庫に残っている物をネットの検索エンジンに打ち込んで、レシピを探す。
簡単にできそうな炒め物を作ることにする。
帰ってきた美奈に洗濯を頼む。
やっぱり母親は夕食はいらないと言うので、美奈と二人で夕食を食べる。
風呂から上がって、洗濯物を畳む。
母親のことが心配だ。母親が夜食べないのは、食欲が無いということか。
それは、日中あまり動いてないからだろうか。
前はできていた買い物も、できなくなっていて、真実が昨日行った。
洗濯だって、以前は雨の日にしか使っていなかった、洗濯機の乾燥機能を使って、真実達が帰宅後にやっている。
母親は大丈夫だろうか?
これはいよいよ、ダメかもしれない。色々な意味で、ダメかもしれない。
もう、自分の手には負えない。
次の月曜は平日だが、日曜の文化祭の振り替え休日だ。
父親に会いに行こう。
**
「よ。篠崎」
「おー。高山」
「あれ? 今日は弁当、買ったのか?」
「ああ。今日は買った」
「そっか。嫁さん具合悪いのか?」
「……ああ。最近、ちょっとな」
真実の父親の顔が曇る。相変わらず嘘がつけない。
同い年の同僚、高山が屋上に来るのは珍しい。
「どうした? なんかあったか?」
高山が心配してくる。
「うん……。まあ……」
どうしようか。こんなこと、昼に出す話題ではないよな。
「ふーん。まあ、話したくないならいいけどよ」
高山はあっさり引き下がる。男同士はこんなものだ。
「そういえばよ。最近、子どもとか、どうよ。うちの反抗期凄くてよ。ホント手に負えねーよ」
と思ったら高山の方から話を振ってきた。じゃあこちらも。
「ああ、そうだな。うちも、長女と妻がよくやり合ってるよ」
「やっぱりそうかあ。女同士ってのは、なんかあんのかねぇ。俺は男兄弟しかいなかったから、よく分かんねえんだよ」
ホッとする。やっぱり女同士のことは、よく分からないよな。
実の親に育てられて、今でもその関係が良好らしい高山がそういうことを言う、というところにも安心する。
「自分も、よく分からないよ。高山はどうしてる? やり合ってたら、止めたりするか?」
「うーん……」
高山は眉間に皺を寄せ、考える。
「……いやあ。あれはぁ、触らぬ神に祟りなしだろ。一回だけ口出したことあるけどよ、やり合ってる最中に口出したらあれ、最悪だな。どっちも俺にキレてよ。なんでいつも便座あげっ放しにするんだとか関係ないことで一緒に怒り出してよ。まあ、あれだな。その時は確かに仲良くなってたな、あの二人。ははは」
高山は、思い出して自嘲する。
「で? 篠崎はどうなんだ? 口出してんのか?」
「いや。うちもそんな感じだよ。……少し違うか」
「あ? なんだよ。俺はちゃんと便座下げてますってか⁉」
高山に軽くキレられる。
「違う違う! うーん……」
高山のキレを否定してから、真実の父親は考え込む。
自分の家族の内情を話すのは気が引ける。
でもこの際、訊いてみることにする。
こういうことは、男の自分にはどうせ分からないことなのだから。
「高山さ、嫁さんにさ、『女の子の子育てに口出さないで』とか言われたことあるか? 女の子の子育ては女親がやるもだ、みたいなこと」
高山が驚いている。
「いやぁ、それは、ハッキリとは言われたこと無いな。俺の親世代まではそういうこと、あったかもしんねぇけど。……ああ、でも」
高山が言葉を探す。探した言葉を、ゆっくりと口にする。
「実際はそうだよなあ。……口で言われたことはねえけど、暗黙でそうなってるとこ、あるよなあ。今まで考えてみたことなかったけど、そう言われればそうだなあ……」
「そうか」
二人で話すのをやめる。
しばらくして、高山の方から会話を再開した。
「でもあれだよな。俺たちは、今更だよな」
今更って?
「何が?」
真実の父親が尋ねる。高山が、だからさぁ~、という顔で続ける。
「働き方改革だよ。残業しないで家族サービスってさ。今、小さい子育ててる若い連中はそうだと思うよ。あれだろ? 『家族サービス』って言い方自体ダメなんだろ? 家事育児は家族として男も当たり前のことなんだから、わざわざそんな言い方すんな、てよ。家族としての自覚がねえってよ。うっせえよなあ?」
高山は腹立たしそうに話す。どうも話の筋がズレたようだ。
「まあ、そうだな。今更、子どもも大きいのに、育児に参加、とか言われてもな」
「あれ?」
高山が不思議そうな顔になる。
「篠崎はあれじゃなかったか? イクメンのハシリじゃなかったか? 娘さんたち小さい頃、よく世話してただろ。仕事もセーブして」
「ああ。懐かしいな……。ハハ」
真実の父親は思い出して、力無く自嘲する。
「うん……。その筈だったんだけどな……」
顔が曇る。
高山の顔も曇る。
「何か、あったか?」
「うん……。ちょっとな……」
「そうか」
「ああ」
また、二人とも話すのをやめる。
二人とも、弁当を食べ切ってしまった。
高山が立ち上がる。残りの昼休憩、戻って席で昼寝するのだろう。
「ま、あれだ。今度呑みにでも行こうぜ。あんま悩むなよ。できねえことやったって、藪蛇になるだけだからよ。お互い嫁さん専業主婦なんだし、家の事は嫁さんに任せんのが一番! 子どもはすぐに育つしよ。今だけだよ、うるさいのは。な!」
そう言うと、高山はカラっと笑って、屋上を後にした。
確かに。永遠に反抗期というわけではない。今だけ。ある意味、長い人生からすれば今は貴重な時期かもしれない。……でも。
何かが違う。
ずっと、そう思っている自分がいる。
うちの場合は、何かが違う。子どもの反抗期、だけでは片付けられない何かがあるように思える。
妻に言われた日のことを思い出す。妻に、「女の子の子育てに、口出さないで!」と言われた日のことだ。
あれは、誰の目にもおかしかった。
妻は真実を折檻していた。
物理的な暴力は振るっていなかったものの、言い方や態度で、真実の両腕を強く掴んで離さないあの手で、真実を責め立てていた。
なぜそんなことをしたのか、問いただしても妻は頑なに答えなかった。
その頑なな態度を責めると、ああ言われた。
女の子の子育ては女親がやるものだ、と。
どうしてそんな言い方をされなければならないのか、分からなかった。
戸惑って、腹が立った。
真実は二人の子どもだ! と感情的になってなじると、妻は手負いの獣のように怒った。
「男のあなたには分からないわ!」と。
あの時初めて、妻を恐ろしい、と感じた。
妻は出産を機に強くなったが、それとは別物の迫力があった。
思わず怯んでしまった。
それ以上、妻とこの話題を続けることは困難だと思えた。
真実は、泣いていた。
どうして母親が自分にこんなことをするのか、分からないというようだった。
妻が真実の何を責めていたのか、真実に訊いても答えてくれなかった。
真実はただただ困惑して泣くばかりで、それ以上聞き出そうとするのは酷に思えた。
それから、あの時初めて、真実の眼の中に影を見た。
なんの影かは、今でもよく分からない。
でもそれはあまりにも子どもに不似合いで、冷ややかな恐ろしさを感じた。
今振り返ると、あれをそのままにするべきでは無かったと思う。
でもあの頃は、妻を恐ろしいと感じた日の後も、家はちゃんと回っていて、真実も変わらず学校に通っていたから、取り敢えず大丈夫だろうでやり過ごしてしまった。
自分も仕事での責任が増えて、自分のことで精一杯になっていた、ということもある。
恐怖は、しばらく忘れていた。平穏に見える日々が、そうさせていた。
でも真実の十二歳の誕生日、恐怖は復活した。
このままでは駄目だ。
分かっているのだ。
今日こそは帰ろう。
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