夕暮れの少女と記憶の旋律

月詩龍馬

第1話

少しばかり不思議な、思い出話をしよう。

私の家には応接間があって、そこにはピアノがある。それも普通のものではない。真っ白に塗られ、金の彫刻で花が描かれたグランドピアノ。それは私が物心ついた頃から、応接間の片隅にあった。

 だが我が家の人間たちは、私を含めてピアノを弾かない。それはただ客人に見せるためだけに置かれているのだ。

私は時々そのピアノの前に立っては、鍵盤に指を置き、一つだけ音を鳴らして、その残響が消えるまで息を殺し耳を澄ませていた。私自身その行為に何か意味があったようには思えなかったが、指で押すだけで響くその独特な音色は、私を捉えて離さなかった。そしてそれは、孤独な私の、唯一の癒しの時間でもあった。

そんなある日、両親が外出したある日曜日の夕方のことだ。

 私がふとピアノに触れようと応接間の前へ行くと、誰もいないはずの部屋の中から、何か音が漏れていた。最初は父が古い音楽のCDをかけたままにして出ていってしまったのかと思ったが、すぐにそうではないと分かった。それは、あのピアノの音。私しか知らないはずの音色だったのだ。

私は扉に手をかけ、ゆっくりと、静かに開いた。中を覗いてみると、夕陽の差し込む薄暗い部屋の中で、一人の少女があのピアノの前に座っていた。

彼女は目を閉じたまま、私を気にかけることなく奏でる。白いワンピースを身に纏い、麗しい黒の長髪を揺らして、まるでずっと昔からこのピアノに触っていたかのように、あまりにも自然に。

 私は息を止め、その演奏に聞き入っていた。知らない少女が家にいるということそのものを、忘れるほどに。

やがて彼女は手を止め、私の方を振り向いた。

「君は、誰?」

私がそう口にしようとすると、彼女はそっと口の前で指を立てて微笑み、それから私に向かって手招きをした。促されるまま私が隣に立つと、なんの言葉もなく彼女はまた演奏を始める。

例えれば、暖かい木漏れ日のような、あるいはそよ風に揺れる木のざわめきのような。優しく、心地よい、耳に沁みてくる美しい旋律。それを奏でる彼女の姿もまた、控えめな華やかさと豊かな表情を持ち合わせていて、息をのむほど美しかった。

 そのまま、どのくらいの時間が経ったのだろうか。遠くで、両親の帰宅を告げるベルが鳴った。

 私は慌てて部屋中を見回し、彼女の隠れ場所を探す。ふと、大きなクローゼットが目についた。

クローゼットの扉を開けて振り向いた時には、もうそこに彼女はいなかった。窓も扉も全て閉まっていて、部屋中を探しても彼女の姿はない。まるで幻であったかのように、忽然と姿を消してしまったのだ。

 帰ってきた両親にこのことを話そうと思った時、ふと、話しかけようとしたときの彼女の仕草が浮かんだ。そこで遠回しに、両親にピアノの音が聞こえたか訪ねた。いくら締め切っていても、音が少しくらい外に漏れていたはずだ。だが両親は共に聞こえていないと答えて、怪訝そうな顔を浮かべた。

 そんなつやり取りをしているうちに、夢を見ていたような気がしてきた私は、どうにかこのことを忘れようとした。だがどうしてもあの不思議な少女のことが頭から離れない。夜が更けても、眠りから覚めてもどことなく落ち着かなかった。

 そうしているうちにやってきた次の日曜日。空が赤く染まり始めるころ、いつものように両親が家を出ると、また応接間からあの旋律が聞こえてきた。不思議な胸の高まりと共に開けた扉の向こう、ピアノの前に、あの少女がいた。

 私はまた同じように隣に立ち、彼女の演奏に耳を傾ける。

 それは以前と何一つ変わらない、あの美しい音楽。そしてベルが鳴ると、またしても彼女は消えてしまう。まるで私以外に姿を見せてはいけないかのように。

 やがて私は、彼女が私のためだけに演奏してくれているのだということを理解して、このことを隠しておくことにした。

 それから毎週の日曜の夕方、両親がいない間にだけ、応接間に不思議な少女がやってくるようになった。

彼女はいつもあの曲を奏で、私はただ隣に立ってその演奏を聴く。それは私たち二人だけの秘密。私たち二人だけに許された時間。いつしか彼女は私が来るのを待って、演奏を始めるようになっていた。

 そうしていくつもの季節を重ねていくうち、彼女は姿を変えないまま、私だけが大人へと近づいていった。今思えば実に不思議なことだが、それでも私は、いつまでもそれが続くと思っていた。彼女だけは、ずっと一緒にいてくれると信じていた。

 やがて私は大学生になり、親元を離れて暮らすようになった。なかなか忙しく、初めて帰郷することができた時には、夏も終わりに差し掛かっていた。

私は荷物を部屋に置いて、かつてのように両親が買い物に出るのを待った。そして二人を窓から見送ると、すぐに応接間の扉を開けた。

 だが、そこに彼女はいなかった。ただ昔と変わらず、少しだけ埃をかぶった真っ白なピアノが私の帰りを待っていた。

 あの時と同じようにピアノのすぐ隣に立っても、相変わらず静寂が部屋を包むだけ。私はしばらく呆然と立ち尽くしていたが、やがて鍵盤の蓋を上げて、低い椅子へと腰を下ろした。

 一度軽く息を吸って、止めて、おそるおそる鍵盤を押す。

静かな部屋に響く、柔らかい、懐かしい音。

かつてそうしていたように、息を止めて、その響きに耳を傾ける。数秒、あるいは数十秒だろうか。

一度手を放し、再び鍵盤に触れようとしたとき、私は何かを思い出した。

ピアノに一度も触れたことのない手が、何かに取り憑かれたかのように動く。始めは不器用な、途切れ途切れの音が、次第に滑らかにつながり始め、やがて一つの旋律を生み出していく。

私の体は、今もなお、その音楽を、生み出された音色を覚えていた。知らないはずの、その弾き方さえも。私はまるで自分が演奏しているのではないかのように、その音楽に聴き入りながら奏でていた。

 そして自然と閉じた瞼の向こうには、あの日の景色が映っていた。斜陽に照らされた部屋の中、この旋律を奏でるあの少女の姿が。


 あれは誰だったのだろうか。

 今となっては、もう確かめられなくなってしまった。あれから数年間、何度ピアノの隣に立っても、彼女は私の前に姿を現さなくなったままだからだ。

 きっとそれは、私が大人になってしまったから、子供のままでいられなくなってしまったからなのだろう。今になってようやく、それが分かった。

 だが私は決して悲しくも、寂しくもない。

 たとえ別れの言葉さえ告げられなかったとしても。もう二度と会うことのできない存在だったとしても。

 彼女と過ごした時間は、私たちだけの旋律は、今も私の中で流れ続けている。まだ子供だったあの頃と、何一つ変わらないままに。

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夕暮れの少女と記憶の旋律 月詩龍馬 @t_tsukishi

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