最後の名前

葉原あきよ

最後の名前

 初めて会った王子は優しげな容貌だった。しかし、移住を認める代わりに娘を要求するような人なのだ。見た目通りではないはずだ。

「こちらへ」

 王子は自分が座る長椅子の隣を示した。私はおずおずと浅く腰掛ける。できるだけ距離を取った。

 突然、手を引かれ、抱き寄せられる。何をされても驚かないと思っていたのに悲鳴をあげてしまったのは、痛いほど強い力だったからだ。

「離してください!」

 私の訴えを無視して、王子は、

「名は? 何と呼ばれていた?」

 動揺のせいでいつもの呼び名を口にしてしまう。商家の娘には相応しくない侮蔑を含んだ名前だった。私は本当は、替え玉にされた使用人なのだ。行き倒れていたところを拾ってくれたことには感謝しているが、商家での扱いは酷かった。

「何だと?」

 王子の厳しい声を聞いて、失敗したことに今さら気付く。このために二ヶ月かけて肌や髪を整え、振る舞いも練習させられたのに。もちろん名前だって決めてあった。

 予想に反して、王子は私の素性を質さなかった。

「違う名前が必要だな」

 呼び名が変わることには何の感慨もなかった。主が変わるのだから鎖も変わるだろう。

 けれども、直後に王子が告げた名前には心底驚いた。思わず顔を上げる。

「そなたたちが逃げ出してきた国の王女と同じ名前だ。王女は十年前、王と共に暗殺されたらしいが」

 間近で見上げた王子の顔は真剣だった。彼は、私がその王女だと知っているのだ。

「私をどうなさるのですか?」

「妻にする」

 私の正統性を盾に隣国を乗っ取るつもりだろうか。

 疑問を察したのか、王子は首を振った。掴んだままの私の手に口付ける。

「肖像画を見て一目惚れしたんだ。十年間探し続けていた」

 この言葉が嘘ではないと信じられるまで、長い年月がかかった。その間、肩書きは何度か変わったけれど、私の名前はずっと同じだった。




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テーマ「なまえをつけること」

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