第7話
怜子の寝顔を見ると、どうしようもなく愛おしい気持ちになる。
愛しているのだろう。
この僕に、無防備な姿を見られても、何も気にはしていない。
今、僕が、怜子の首を絞めたなら、確実に怜子は死ぬだろう。
そんな危険に気が付かないのだろうか。
怜子は、僕の事を愛しているに違いない。
長い時間を掛けて、僕は怜子に接してきた。
それは、怜子に愛してもらうためである。
そのために、僕は、怜子を愛した。
始めは、意図的に愛そうとしていたけれども、今は、心の底から愛してるという自信がある。
怜子は、僕の事を愛してくれているだろう。
そうでなきゃ、結婚もしないだろうし、第一、怜子ほど僕に尽くしてくれる人はいないだろう。
毎日、僕のために、家事もやってくれている。
それに、僕のために、怜子自身の夢も諦めた。
自分自身、何かをやりたい、人に認められたい、輝きたい。
そんな切実な夢を僕は諦めさせたのである。
怜子のこころの悲鳴が聞こえるような気がしたよ。
でも、僕は、その悲鳴を聞かない振りをしていた。
その可哀想だという気持ちが、僕をして怜子を愛し始める理由にもなっていったに違いない。
可哀想から、愛しているに変わっていったのである。
もし、怜子が僕の夢を諦めさそうとしたら、どうだろうか。
理由もなく、僕の夢に反対されたら、或いは、怜子を嫌いになるのかもしれない。
まあ、嫌いにはならなくても、毎日が心地良いものではなくなるだろう。
そう考えると、僕に夢を諦めさせられても、僕に尽くしてくれる怜子の方が、僕を愛していると言えるのかもしれない。
きっと、そうだろう。
僕の怜子に対する愛は、可哀想から始まった。
怜子に夢を諦めさせた。
そして、怜子に異物を飲ませ続けた。
それらの行為の罪悪感と、可哀想だと思う気持ちと、僕の気持ちというか、計画をしらないで僕に尽くしてくれて、愛してくれている怜子に対する哀れみが、僕をして怜子を愛させしめたのだろう。
可哀想だということから始まった愛。
その可哀想だという気持ちが高まれば高まるほど、愛する気持ちが増大してくる。
極めて相対的な愛だ。
可哀想だという気持ちや、他の感情の変化に応じて、その愛の大きさも変化する。
いうなら、あやふやな、捉えようのない愛だ。
それに対して、怜子の僕に対する愛はどうだ。
始めっから、僕を愛して、そして、今も愛し続けてくれている。
たとえ、怜子に犠牲を強いても僕を愛してくれる。
どんな苦しみや、悲しみにも、変わらない気持ち。
或いは、絶対的な愛なのだろうか。
とはいうものの、愛に絶対的はないだろう。
そんなものがあったら、苦しくて仕方がない。
僕は、いっそ怜子が僕に見返りを求めてくれないかと思う時がある。
怜子が僕を愛してくれる替わりに、何かを僕に求めて欲しい。
それは、僕に犠牲を強いるものであっても構わない。
いや、犠牲を強いるものであって欲しい。
でなきゃ、どうにも怜子を愛し続けることが苦しくなるのだ。
犠牲とまではいかなくても、何かの見返りを求めて欲しいのである。
何故なら、見帰りを求める愛の方が、僕は人間的に美しいと思うからだ。
見返りを求めない愛なんて、所詮は、博愛でしかない。
八方美人。
真剣には愛してはいないということだ。
ひょっとしたら、博愛の思いで愛している方は、案外楽なのかもしれない。
裏切られたときに楽だから。
愛していても、見返りを求めない。
しかし、それじゃ、この人間世界に生まれて来た面白味がないというものである。
相手に見返りを求めて求めて、そして愛する。
その見返りに答えようとして、苦しみながら悶えるのを見て、また愛する。
見返りが得られたら、また新しい見返りを求める。
蛇のように相手に巻き付いて離れない。
執念深い愛。
それこそ、人を愛するということなのじゃないだろうか。
勿論、それで見返りを得られるとは限らない。
激しくののしられて捨てられる。
そんなことの方が多いだろう。
でも、それが人間世界だ。
結局は、博愛なんて、少しも自分を犠牲にしていないのである。
あれは、数年前だったか、札幌に旅行に行った時のことだ。
散歩をしていて、確か藤女子大学だったか、その前を通りかかった時のことだ。
校庭にマリア様の像があった。
少し頭を傾げたその姿は、誰でも救いを求めてくる人を受け入れてくれると思える優しい表情を浮かべていた。
そして、静かに両手を少し開いて立っている姿は、僕を抱きしめてくれるのではないかと思った。
クリスチャンでない僕も、しばらくそのマリア様の前に立って祈った。
マリア様の愛を感じたのである。
でも、ひょっとしたら、マリア様だって、全ての人に見返りを求めない愛を与えているということは、それは、真剣に相手を愛していないのかもしれない。
全ての人を愛する。
それは平等であって、誰をも真剣には愛してはいない。
僕のような意地悪な思いで考えるなら、相手に捨てられるのが怖くて、相手に裏切ら得るのが怖くて、博愛を通しているのかもしれない。
あの慈しみ深いマリア様の微笑みには、裏切られることを拒絶するバリアのようなものがあるのかもしれない。
相手に、とことん付き合って、泥沼に落ちていく、そんなマリア様を見てみたいものだ。
マリア様は、1人だけを愛することは出来るのだろうか。
神を捨て、イエスを捨て、何もないまま、誰かの胸の中に飛び込むことができるのだろうか。
出来ないだろうな、マリア様には。
怜子の寝顔を見ていると、どうも僕の方が怜子を愛しているのじゃないかと思えてきた。
怜子の寝息を静かに聞いていると、この寝息に、ため息が入っていないだろうかと、心配になった。
僕に見られていることにも気が付かずに、寝ている姿は、僕をして、また怜子の愛が深くなっていくのを感るのである。
このため息が、安らかな寝息であってくれ。
そう祈りながら、ずっと、寝息に耳を傾けていたのである。
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