第104話 バイシェ


 紫色の霧がヒドラを包んでいく。

 ラサラはふわふわと幽霊のように漂いながら、ささやくように目の前のヒドラに語りかけていた。


「バイシェ、私の声が分かりますか」


「———————」


 ラサラの声に呼応するように低いうなり声がヒドラから発せられる。

 それを合図にヒドラは攻撃をやめた。それぞれヒドラの頭が眠るようにもたげていく。


 唯一残った頭の1つだけが、じっとラサラのことを見ていた。


「はい、わたしです、ラサラです。あなたに名前を付けてもらった異端者の女です。もうすぐ産まれるはずだったあなたの娘の名前を付けてもらった女ですよ」


「———————。———————ゥ」


「憎いですよね。私よりもずっと深い憎しみのかたまり。死のうが殺されようが消えるはずがありません。娘を殺されて、妻も殺されて、新しく産まれるはずだった命も殺された。それで憎しみを保たないはずがありません。大丈夫です、あなたのしたことは間違っていません。でも……もう終わりなのです」


「———————?」


「私たちは死んだのです。もう、この世界とは関係の無いところにある魂です。だから、もう憎む必要は無いのです。私たちの望みは『異端の王』によって果たされました。私たちの憎しみは終わりを告げたのです」


 ラサラの左脚が溶けて落ちていく。

 ぼとりと地面に落下した脚は、そのまま腐って地面に溶けていった。ラサラの顔からは汗が垂れて、苦悶くもんの表情を浮かべていた。


「あ……う……!」


「おい、サティ、どうにか出来ないのか!? このままだと、あいつ本当に壊れるぞ!」


「無理だよ。『死者の檻パーターラ』は最初に魔法を発動したものに主導権がある。もともとさっき私がかけた魔法は一時的な気休めに過ぎ無いんだ。彼女はもうすぐ、もといた場所にかえっていく」


「くそっ!」


「今、君に出来ることは何も無い。言っただろ、英雄に悪役は救えないんだ」


 何も出来ない。

 ラサラが放つ魔力は刻一刻と薄れていく。それと同時に、崩れていく彼女の身体も見えてくる。バイシェに語りかける彼女の姿は、痛々しくて見ていられないほどだった。


「俺には……救えないのか」


「救えないし、救う必要もない。彼女は否定しようもなく悪人だ。人を何人も殺した人間を本当に救いたいと思っているのか」


「…………それは」


「即答出来ないならやめておきな。彼女もきっとそう思っているはずだ」


 苦しむラサラを何も出来ずに見上げる。

 彼女を救うということは同時に、レイナのことを傷つけるかもしれない。そういう想像が浮かんで、足を動かすことが出来なかった。


「その考えは決して間違っていない。誰かの罪はそいつ自身の行動でしかすすぐことが出来ないんだ」


 ラサラは顔をゆがめながら、必死に耐えていた。

 

「———————ゥ」


 その姿を見ながら、ヒドラの首がうなずくように傾いた。

 7本あったヒドラの首が徐々に溶けていく。液体と化したヒドラの首は、祭壇を囲む水の方へと流れていく。


「バイシェ、かえりましょう。私たちはもうこの世界に何も望んではいけないのです。死者というのはそういうもので、今は口を閉ざす時です。私たちに出来るのは、安らかな場所でそれを見続けることだけだと、今のあなたなら分かるでしょう」


「————————ァ、ァァ」


「はい、分かって頂けて…………何よりです」


 ヒドラの声を聞いてニコリと笑ったラサラは、そのまま崩れ落ちた。紫色の粒子をまとった彼女はまるで舞い落ちる花びらのように見えた。


「ラサラ!」


 彼女の身体は力なく落ちていく。魔力を失った彼女に、残された身体はもうほとんどなかった。


 バリバリと音を立ててヒドラの中から人が現れた。痩せ細った男は、ヒドラの中から食い破るように出てくると、落ちてきたラサラの身体を受け止めた。


 長身のその男は、石のように表情を固めていたが、左目から一筋の涙を流していた。そんな彼の顔を見て、ラサラは嬉しそうに笑った。


「バイシェ、ようやく会えましたね」


「面倒をかけたな」


「はい、でも、最期の最後に会えて良かったです。前はこうやって別れの挨拶をすることも出来ませんでしたから」


 バイシェの腕の中で、ラサラは静かに溶けていた。紫の粒子と混じり合い、鮮やかな色となって流れ落ちていた。


「ありがとうございます。私と一緒にいてくれて、こんな陰惨いんさんな世界でも、唯一私を分かってくれる人がいたから、生きることが出来ました」


「……それは俺も同じだ。ラサラ、もう人間が憎くないのか?」


「憎いですよ」


 ラサラはかすれて消えそうな声で言った。


「でも、もう分かったのです。殺して殺して殺し尽くしても、人間は何1つ変わりません。いずれ、私たちと同じような異端者が現れて、きっとその人が同じ憎しみを、抱えます。つまりは……その繰り返しなのです」


「だから、我々にもうやるべきことは無いと……?」


「はい、何もありません。ですので、私は先にきます。いや、もう死んでいましたか……」


 冗談ぽく言ったそれが彼女の最後の言葉だった。

 彼女の身体が水となって溶けていく。1秒も経たずして、もともといたことが嘘のようにラサラは消えてしまった。もうそこには彼女がいたことを探すように、自らの腕を見るバイシェしかいなかった。


「バイシェ」


 俺たちが近づくと、振り向きもせずにバイシェは言った。


「悪いが謝る気はない。俺ももう消える。お前が探しているやつは、さっきからずっと下にいる。俺が言えるのはそれだけだ」


「下に……いる?」


「あぁ、そうだ。気絶しているニックにお礼を言っておいてくれ。花を手向けてありがとう、と。とても良い気休めになった」


「……分かった」


 バイシェは目を閉じて頷くと、ラサラと同じように水になって溶けていった。音もなくヒドラの死骸とともに消え、祭壇の縁へと群青ぐんじょう色の水となって流れていった。


 ラサラだった紫の水と混じり合い、やがて互いに色を失っていった。全ての水が流れ落ちると、さざなみすらも打たない静寂が包んだ。俺たちを囲む水は、ほのかな灯火ともしびをその表面に浮かび上がらせていた。

 


 

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