夢の終わり


 それは不思議な夢だった。


 私は深海のような暗闇にいた。声の1つも、光の1つも見えない真っ暗な場所にいて、私はどこかに向かって歩いていた。


 どこに向かっているかは私は分からなかった。

 針の穴のように小さい光源が見えてくる。真っ暗な夜空に浮かんだたった1つの星を目指して歩いていく。


 歩いていくに連れて、今までの記憶が早足で通り過ぎていく。凄まじいスピードで私の脳内を駆け巡っていく。


 例えば、それは森の中での出来事。

 例えば、それは地下祭壇での出来事。

 例えば、それは祭りの夜のひとときの出来事。

 例えば、それは雪山の洞窟での出来事。

 例えば、それは薄暗い路地裏での出来事。

 例えば、それは炎が立ち上る争いの中での出来事。

 例えば、それはたわいもない日常での出来事。

 例えば、それは温かな身体を抱きしめた時の出来事。

 あるいは、それは誰かに抱きしめられた時の出来事。


 くるくると回して変化する万華鏡のように、それらの出来事は私に鮮烈せんれつなイメージと、鮮やかな色彩を与えた。眩しくて見ていられないほどに、それらの記憶は輝くしく、私たちが生きていた今までの道筋がどれほどの幸運にあふれていたのかを感じ取ることが出来た。


 あなたに会えて良かった、と。

 私は心の底から思い、そして涙した。壊れた蛇口のように流した涙は止まることも枯れることもなく、地面にしたたり落ちていった。


 だいぶ歩いてきた。

 光が夜空に浮かぶ満月ほどの大きさに成長したところで、私は自分の身体が、本当の自分のものでないことに気がついた。私が自分の身体だと思って動かしていたものは、自分ではないことに気がついた。


「アンク……」


 その名をつぶやいたところで、その身体がするりと抜けていく。私の心を置き去りにして、彼の身体が光とは反対の方向へ後退した。


「待って!」


 彼の身体がそのまま深い闇の方へと吸い込まれてしまいそうに思えて、私は声をあげた。

 

 思わず怖くなって、叫んだ。

 今がその時だ。この時を逃したら、私はもう2度と彼に会えないような気がする。これはどんな夢よりも、奇跡めいた夢だ。


 彼が、そこにいる。


「待って……ください!」


「………………レイナ」


 彼がが私の名前をつぶやく。久しぶりに聞くその声で心が締め付けられる。口を開いた彼はいつもと変わらない調子で言葉を続けた。


「久しぶり、また会えたな」


「アンクさま。本当に、アンクさまなのですね……!」


「本当の本当だ。レイナ……随分とひどい顔だな。徹夜でもしていたのか?」

 

「……あ」


 そう言われて自分の身体を確認する。

 髪もボサボサだし、頬もこけている。何ヶ月も引きこもっていたツケは、しっかりと彼にも確認出来るようだ。


 途端に恥ずかしくなって、頬が紅潮こうちょうする。


「ごめん、なさい。こんなところで会えるとは……思っていなかったから……」


「そうか……ずいぶんと待たせたみたいだな。大丈夫だ、レイナ、全部うまくいったよ。『異端の王』は消滅した。もう君が命を狙われるようなことはない」


「消滅……そうなると、アンクさまはどうなったのですか……?」


「死んだ。サティに心臓を貫かれたよ。ほら」


 トントンと彼が自分の胸を指さすと、そこにはぽっかりと穴が空いていた。彼の左胸は、周囲の風景と同じような空虚だった。


「今は死んでいる途中って感じかな。俺自身の肉体はもう使い物にならない。俺の肉体は『異端の王』を封印するための箱として、もう役割を終えた。こうやってレイナと会えているのも、ちょっとしたイレギュラーみたいなものだ」


「……ごめんなさい。私のせいで」


「レイナのせいじゃない。これはもともと俺に与えられた役割だったんだ。そう考えると、この結末しかなかったように思える」


「ですが……! それでも、やっぱり私はこの結末には納得いきません……!」


「良いんだ、これで」


「何も良くないです! どうしてあなたが、死ななければいけないのですか! 何も間違ったことはしていないのに! 自分の責任がないことのために、どうしてあなたが死ぬ必要があるんですか!?」


 何の関係もない彼が、誰かがした間違いのために死ぬなんて理不尽が許されて良いはずがない。言葉を重ねるごとに声がれていく。自分が無茶苦茶を言っていることも分かる。


 でも、言わなければ気が済まない。

 私の言葉に、彼は困ったように微笑んだ。


「でも、誰かがやらなきゃいけなかったんだ」


 あぁ、もう、いやだ。


 彼と最初に会った時を思い出してしまった。

 私が初めて出会った人の温かさを思い出してしまった。


 そんな彼の優しさに私は惚れて、離れられなくなって、どうしようもなく一緒にいたいと思って……、だからこそ……、ねじれ曲がった矛盾に献身する彼が許せなくて……、


 言葉に出来ない思いで頭がいっぱいになって、私は気がつくと、彼の胸に怒りをぶつけるように激しく叩いていた。


「このお人好し! ばか! あほ! 考えなし! もっと、身勝手に生きるべきなのに! 自分だけ犠牲になっていなくなるなんて、ひどい、自分勝手です!!」


「……ごめん」


「……残された私の気持ちになってください!」

 

「………………そうだな」

 

 殴る気力もなくなって、後はぼたぼたと涙だけが流れる。

 まるで子どもみたい。自分勝手だって、それは私の方だって分かっている。


 泣きじゃくる私の背中に彼は手を回した。その手が妙に冷たくて、いやに小さく思えた。


「だから、こうやって約束を叶えに来たんだ」


「……約束。だってアンクさまはもう死んで……」


「また、1からやり直そうと思っているんだ」


 彼は後方の深い暗闇に目をやった。光の方角から遠く離れた深淵しんえんへと視線を送った。


「サティに願いを叶える権利をもらった。1つだけ、俺は望みを叶えることが出来る」


「では、生き返りを……?」


「それは無理だ。アンクとしての身体と魂は『異端の王』に深く汚染されている。もうアンクとして生きることは女神の力をもってしても不可能なんだ。だから、俺は違う方法でもう1度、この世界に戻ってくることを願った」


「違う方法……」


「魂をぎ落として、生き返るんだ。アンクでない新たな魂としてプルシャマナに産まれようと思っている」


 彼が去っていこうとした深淵が何か、私はようやく理解した。自分と彼を隔ている境界がなんであるのかが、分かった。


 これは生と死の境界線だ。

 彼がやろうとしていることは……、


「転生……」


「そうだ。俺が最初にこの世界に来た時と同じ方法で、今度は本当に1からやり直しだ」


「アンクさまは……アンクさまとしての記憶はどうなるのですか」


「なんとも言えない。サティにも保証は出来ないと言われた。『アンク』には『異端の王』が染みついているから」


「どこに産まれ変わるのですか。すぐ、私があなたを迎えに行きます……!」


「それも分からない。魂の行き着く先は分からない。どこの誰に生まれ変わるかは、運命にゆだねるしかない。コントロール出来るのは、プルシャマナのどこかということくらいだ」


「そんな……」


 世界のどこかに、知らない誰かとして生まれ変わる。無限に思える可能性の中から、彼を見つけ出す。生まれ変わった彼は私を知らないかもしれないのに。


「レイナ」


 絶望的にも思える選択に、私は動揺するしかなかった。目を伏せ、思案にくれる私にアンクは優しく声をかけた。


「大丈夫だ」


「大丈夫……なにが、ですか……?」


「レイナなら、絶対に俺を見つけられる」


「絶対……そんな保証はどこにもありません」


「あるさ」


 突然、彼は首を傾けて唇を重ねてきた。屈むような格好で、かれは私にキスをしてきた。


「ん……」


 あたたかい。

 彼の唇が温かい。冷え切った彼の身体で、そこだけが熱く人間的だった。求めていた彼の感触が、今まさに私の中にあった。


 出来ることなら、1秒でも長くこうしていたい。


「……お別れだ」


 しかし、その時はやってきた。

 彼の体温が離れていき、後は冷たい空間だけが残った。手を伸ばそうとしても、もう届かなかった。


 彼はもう光の届かない深い暗闇に吸い込まれようとしていて、輪郭りんかくさえも危うくなっていた。


「私も……そっちに……!」


「また会える。今のがそのおまじないだ。だから俺を探してくれ、レイナ」


 彼は私の方に手を伸ばしながら言った。得体のしれない暗黒に飲み込まれながら、彼は喉の奥から絞り出すような声で言った。


「……出来るな?」


 暗闇の中から彼の目が覗く。炎のように輝く彼の瞳が見える。


「……レイ……ナ」


 声に応えなければ。

 今じゃなくて。彼は未来に願いをたくしたんだ。 


 流れる涙を押し殺して、必死に叫ぶ。


「……はい……! 必ず……あなたを迎えに行きます!」


「約束だ」


 もう1度彼の名前を叫ぼうとして、もうそこに彼の身体がないことに気がつく。

 

 光に塗られて、何もかもが白くなっていく。意識が引き戻されて、覚醒へと導かれているのが分かる。


 まるで全てが夢だったかのように薄れていく。

 それでも、この奇跡めいた邂逅かいこうを忘れないように私は彼の声に応えた。


「約束です」


 ……それから私は目を開けた。

 長い夢は終わり、そこには寝る前と同じ散らかった小部屋と、ところどころから光が漏れる粗末な暗闇が広がっていた。


 


 

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