【レイナ(No.13 Reprise)】


「お気に召しましたか?」


 恰幅かっぷくの良い店主が後ろから話しかけてくる。ずっとオルゴールが入ったショーケースを眺めていた私が気になったのだろう。ありきたりの営業スマイルを浮かべた彼は、明るい調子で言葉を続けた。


「こちらのオルゴールをご所望とはお目が高いですね。少し前のデザインですが、根強い人気がありましてね。造りも丁寧で店の片隅でほこりをかぶせておくのは気がひけるくらいです。どうですか、音を聞いてみますか」


 私が小さく頷くと、店主はにっこりと笑ってオルゴールのねじを回した。


 キン、と金属の弦を弾く音。

 カン、とぶつかる甲高い音。

 コン、と響くベース音。


 変わらないメロディ。

 おぼろげな記憶の故郷が頭の中に蘇る。はっきりと顔も思い出せない母と父を感じる。丸太を組み上げて作られた小さな家を思いまだす。優しい母の歌声を思い出す。


 キン、カン、コン。


 歌はショーケースの中で軽やかに歌い上げている。『木々は私たちに知恵を与えてくれた。大地は私たちに恵みを与えてくれた。天は私たちに祈りを与えてくれた』


 主旋律メロディはなんども繰り返される。

 何度も昔の記憶を巡らせながら、私はその音に聞き入っていた。過去の光景に思いを寄せて、私はオルゴールが奏でる音に耳を澄ませた。


 私だけの世界。

 私だけの思い出。私と家族のつながり。私の存在を保証してくれる確かなもの。私がこの世界に存在していることを、知ってくれている証拠のようなもの。私が誰かと繋がった存在であることを分かってくれている数少ない事実。


「どうでしょうか?」


 しばらくすると、店主の男がそばに寄ってきて私に話しかけてきた。


「良い音色です。長年、骨董こっとう商を勤めてきましたが、このように心安らぐオルゴールに出会ったのは初めてです。魂そのものが洗われるような気がしませんか?」


「魂が……」


「はい、汚れてくすんだ私たちの心が。真っ白に漂白されていくような気がします。また新しい気持ちで明日を迎えることが出来るような、そんな気持ちにさせられるのです」


 店主はそこまで言うと、再び目を閉じた。耳の音色に耳を澄ますように、オルゴールの音に耳を傾けていた。


「たましい」


 口に出すと不思議な言葉だ。

 そんなボンヤリとした言葉を聞いたのは初めてだった。そんな意味の無い言葉を聞いたのは久しぶりだった。


「どうでしょうか?」


「……はい、聞かせていただいてありがとうございます。……ですが、これは今の私には必要のないものです」


「必要ないですか。それは残念なことです」


「だって私はもう何も必要としていませんから」


 それ以来、というよりは永遠に、ショーケースの中身は今でも失われたままだ。私は私の欲望を失ってしまった。


 言葉の意味に気がついたのは今さらになってからだった。感情に飲まれた私は漫然まんぜんと生きていた。たった1人の肉親と別れ、私は無為な日々を過ごしていた。


 罪滅ぼしという名の、虐殺を私は続けていた。


 彼と出会うまでは。

 彼と出会い自分の欲望に出会うまでは。

 あの人の存在こそが、私にとっての全てになってしまったと気がつくまでは。


『グラスについた水滴がテーブルに落ちた。それは木目の間に入り込んで、にじんだシミを作っていく。侵食するように方眼紙のマス目を埋めていくように。点から線へ。線から球体へ。球体から物体へ。物体から島へ。島から大陸へ。大陸から海へ。海から空まで埋め尽くす。それこそが君の欲望だ』


 弟は私に力を与えた。

 私に欲望を叶えるだけの力をくれた。


「怖いのはあの人にとって……私が唯一ではないこと」


 最初はそうだった。でも気がついた。そうではない。

 これは結局私の欲望なのだと。空っぽになったショーケース。あれこそが私にとっての喪失の証明なのだと気がつく。


 私はもう何も失いたくない。


「……例えばです」

 

 私は1つの指を立てる。

 会話を中断し、解答ではなく、回答を発信する。応答を発信する。


「……たと、えばです」


 世界を見通す目を持ちながら、私に見えていたものは小さな箱だった。


「……た、とえばで、す」


 文字が分解していく。

 思考の一切合切いっさいがっさいは霧散して、言語の観念は外宇宙のどこかに還元されていく。女神としてなるなら、そうなるべきだと法則ルールが私を縛る。


 私は人間の言葉を失う。


 瞑世の魔法はもう発動されている。

 胎界輪天具足ダルマ・ヴァダーラ、生命の湿原を攪亂かくらんし、淀みも綻びもない完全なる円の世界を顕現した曼荼羅ヴァンダーラ。新しい秩序。


 ほころびは消滅させなければならない。

 彼が生きるこの世界が間違いであってはならない。内側から食い破るように抵抗を続ける彼を許してはならない。


「……例えばです。私の心の中に何かが残されていたとしたならば、それは立ち上る気泡なのだと思います。はかなくて弾けて消える泡です。もろくて頼りなくて信じるに値しない。でもそれで良いのです」


 立てた指を綻びへと近づける。

 私は隙間から見える炎へと目をやる。その炎に向けて語りかける。


「私が愛したものは泡です。水面に立ち上り弾ける気泡です。他の人から見れば、瑣末でくだらないものに思えるかもしれません。ですが、私がそれを大事に思っていたということだけは消したくないのです。私がそれを愛していたという事実を箱の中に閉じ込めておきたいのです。彼を諦めたくないから、私は自分のわがままを貫き通したい。彼が私のことを忘れても、私が彼のことを覚えていれば良い。私にとってその泡は私を捨てても守りたいものだから。もしこれを私が諦めてしまったら、私はまたあの無為な生きているかばねのような生活に戻るとしたら、私の中身は本当に空っぽになってしまう。感情を失い、吐き出すだけのケダモノになってしまう。だとしたら残された箱になんの意味があるでしょう。空っぽのショーケースに、欲望を失った人間に生きる価値があるのでしょうか。意味を失った人間に価値があるのでしょうか。泡は確かに弾けて消えてしまいます。ですが保有していた空気は、箱の中で存在し続けます。それで良いのです。これは私の傲慢ごうまんです。横暴であり間違いです。知っています、分かっています、理解しています。自分がおかしいことも理解しています。彼を傷つけているのも分かっています。……でもこの『泡』は止められません。これは例えるなら人間に恋をした人でなしの残骸あわです。ナイフを振り下ろすことができずに海に飛び込んだ愚かな女の断末魔です。後悔のない叫びです。彼という人間に恋をしたことに後悔はありません。もちろん彼を殺さなかったことにも後悔はありません。何度選択を迫られようとも何度生まれ変わっても私はきっと同じ選択を繰り返します。その気泡を抱いて、愛して、何もかもを裏切ります。それが私の欲望。それが私の罪。それが私の死。それが私の愛。それが私の傲慢ごうまん。それが私の横暴。それが私の根元。それが私の道程。それが私の憧憬どうけい。それが私の悔恨。それが私の懺悔。それが私の自傷。それが私の足跡。それが私の墓標。それが私の風景。それが私の快楽。それが私の外郭がいかく。それが私の心臓。それが私の肉体。それが私の空気。それが私の痴態。それが私の歩行。それが私の世界。それが私の罰。それが私の堕落。それが私の箱。それが私の中身。それが私の全て。それが私の選んだ道です」


 最後に一言。

 息を吸って、綻びから見える眼に向けて、愛を叫ぶ。


「……だって……私はあなたを愛していますから、アンク」


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