【パトレシア(No.11)】


 彼が私の知らない誰かの名前を呼んだ。

 真っ暗な倉庫の中には、山のように積もった屍鬼ヴェータラの死骸があった。高い天井に届きそうなほど、何百という黒焦げになった死骸の上に彼女は立っていた。


「アンク……?」


 その山の頂上。

 血に染まった金色の髪をなびかせた女は、アンクの方を見ると嬉しそうに笑った。


「あは……なんか、夢みたい」


 それだけ言うと、彼女の身体は糸が切れたように崩れ落ちた。死骸の頂上から力なく転がり落ちてきた身体を、アンクが抱きとめた。


「パトレシア……っ!」


 落ちてきた彼女の身体を見て、アンクは絶句した。致命傷をいくつも負っている。大腿だいたい部と腹部からの出血がひどい。今まであそこで立っていたのが不思議なくらい、彼女の身体は傷つけられていた。


 止血しようと当てた布が、あっという間に真っ赤に染まっていく。暗くても分かるほどの深紅の血は、彼女の傷が動脈まで達していることを示していた。


「やっぱりアンクだ……夢じゃない」


 目を開けたパトレシアが、震える手をアンクの頬においた。その感覚を確かめるように、彼女は血まみれの手で何度もアンクの顔を撫でた。


「久しぶり……会えて嬉しいよ。こんな最悪な場所で、アンクが来てくれて良かった」


「早く……治療を」


「無理無理、もう身体の感覚がないもん。脚も動かないし、息をするのだってきつい……」


 彼女の言葉は徐々に消えそうなほどに小さくなっていく。彼女の身体を抱きしめるアンクの身体も震えて、いつもより小さく見えた。


「リタは大丈夫だよ……先にみんなを避難させてくれたから、ここにはいない。他の人もあそこから逃げたから」


 パトレシアはそう言って、うず高く積まれた屍鬼ヴェータラの死骸の奥を指差した。倉庫の床下からカンテラで照らされた地下道が見えた。


「搬入用の地下道。隣町まで繋がっている……アンクもあそこから……逃げて」


「ずっと1人で戦っていたのか」


「……うん」


 この倉庫には屍鬼ヴェータラ以外の死体がなかった。パトレシアがたった1人でここを守っていたのだろう。彼女の奮闘の跡は、煉瓦造りの倉庫の壁や床に深々と刻まれていた。


「本当は手こずるような敵じゃないんだけれどね……数が多すぎたのと……あと、自分を見誤っちゃった」


 死骸の1点にパトレシアは目を向けた。

 大量に積み上げられた死骸の中に、既視感きしかんのある金髪が見えた。年老いた2人の顔立ちはどことなくパトレシアに似ている。


「だから……言ったのにね……自業自得だって。お金なんて……すがりついてまで、求めるようなものじゃないって」


「パトレシアの……家族……」


「馬鹿だね。早く逃げれば良かったのに……私もちゃんと止めれば良かったのにね」


 パトレシアは小さく息を吐いて、一筋の涙を垂らした。


「私も自業自得……結局、私は最後まで覚悟を決められなかった。あの人たちを、この都市を憎むことも愛することも出来なかった。だから一手見誤った。あの人たちが屍鬼ヴェータラになって襲い掛かってきたとき、私は拳を振り下ろすのをためらってしまった」


 屍鬼ヴェータラは死者に取り憑く魔物だ。

 人間を殺し、その人間に取り憑いて増殖する。人口の多いこの都市で、パンデミックのように広がったことは想像に難くない。


 パトレシアは自分の腹部に空いた穴に手を置きながら言った。


「それがこの傷。ねぇ、アンク。私、初めて失敗しちゃった。結局何を守りたいか、何を大切にしなきゃいけないか、それを見つけ出すことが出来なかった」


「そんなの……俺にだって分からない」


「そう……? アンクは何もかも分かっているように見えたけれど。私と最初にあった時からずっと、あなたは私の知らないものを見ている」


「……早くこんなところから逃げれば良かったんだ」


「逃げる決断も出来なかった。今覚えば……変な意地だったね。負けるもんかって思ってイザーブに残ったんだけれど……私は……逃げることから逃げていたんだと思う」


 すっと目を閉じて、パトレシアは言った。


「親が嫌いだった。この都市が嫌いだった。金と腐敗の匂いがする全てのものが嫌いだった。私は正しく生きたいと思っていた。正しく生きたいと思っていたからこそ…………私は何1つ捨てることが出来なかった。憎みたかったのに、憎みきることが出来なかった。愛したいのに、愛し切ることが出来なかった。中途半端な私が……こういう結末で終わるのは当然だったんだよ」


 パトレシアの言葉を聞くアンクは唇を噛み締めて、悔しそうな表情をしていた。拳を震わせてやり場の無い怒りで、目に涙を貯めていた。


 そんなアンクの顔を見ながら、パトレシアはフッと笑った。


「ねぇ、笑ってよ。アンクに暗い顔させちゃったら、私死んでも死に切れない」


「そんなこと、言うな……!」


「言うよ。だってアンクはこれから多くの人を救う大英雄になるんでしょ。私なんかにつまずいていたら、誰も救うことなんて出来ないよ」


 1つ1つの言葉をしっかり噛みしめるように、パトレシアは言った。


「ちゃんと進んでよ。私の好きな人。私のたった1つの確かな欲望。あなたを見失ってしまったら、私には本当に何も残らないから」


「……」


「ねぇ……ちゅーしてよ。ちゅー」


「俺は……」


「お願い、早く。私が、まだ私であるうちに」


 その言葉に何も言わずに頷いて、アンクはパトレシアと唇を重ね合わせた。束の間の接吻せっぷんの後、パトレシアは穏やかな表情で天井を見上げていた。


「……とても良かった。これなら死ぬのも悪く無いね」


「馬鹿なこと言うなよ……」


「ふふ……」


 それが最後の言葉だった。パトレシアの手から力が抜けていくのが分かる。流れた血は床に広がり、毒々しい花のような模様を描いていた。


 すすり泣くようなアンクの声を、私はしばらく黙って聞いていた。


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