【ナツ(No.9)】


 彼が私の知らない誰かの名前を叫んだ。

 納屋の中には何人かの負傷者がいた。その中の1人、茶色い髪をほほに垂らして、ぐったりと横になる女性にアンクは駆け寄った。


「おい、ナツ! ナツ、しっかりしろ!」


 負傷部位は視認出来る限りでも、けい部、腹部、胸部。致命傷に成り得る部分をいずれも貫かれている。運の悪いことにナーガの毒が進行していて、傷口が化膿かのうし始めている。


 誰がどう見ても助からないことは明らかだった。


「……う」


 私と同い年か、少し年下の少女は必死に目を開けようとしていた。とっくに絶命していてもおかしくない傷を抱えて、なお納屋の周囲を魔力で覆い、ナーガの攻勢から負傷者たちを守ろうとしていた。


「あ、アンク……」


 ナツと呼ばれた彼女は絞り出すような声で言葉を発した。掠れて、今にも消えてしまいそうな声で彼の名前を口にした。確かめるように、何度か「アンク」と口にした後で、彼女はにっこりと微笑んだ。


「遅いよ……待ちくたびれちゃったじゃん。もう」


「ナツ、俺……」


「おかえり……」


 震える手で彼の頬に手を置いたナツに、アンクは小さな声で「ただいま」と言った。


「ご、ごめんね。みんなのこと守れなかった……お父さんとお母さんも、みんな殺されちゃった……生き残っているのは、ここにいる人だけなんだ……」


「もう話すな……傷が……」


「……わたし、弱いなぁ」


「そんなことはない……! 今、助けるから!」


「ううん、私はもう助からないよ」


「違う……」


「もう助からない」


 彼女はすでに自分の死期を悟っているようだった。

 ナツを抱きかかえたアンクは彼女に自分の魔力を流し込んだが、もうどうにもならなかった。


 死はもう彼女を掴んで離さない。刻一刻と毒は彼女をむしばんでいる。


「ナツ……」


 アンクはがっくりとうなだた。

 パックリ割れた自分の傷口と流れる血を見ながら、ナツはスゥと小さく息を吸った。


「アンク、変わらないね。10年前に出て行った時とほとんど変わっていない……もちろん、良い意味でだよ」


「……そうか」


「ねぇ、わたしはどんな風に見えている?」


「ナツも……」


 一呼吸間を置いて、アンクは言った。


「いや、ちょっと変わったかな」


「本当? どういう風に?」


「綺麗になった」


「……ふ」


 その言葉を聞くと、ナツは目を細めて嬉しそうに「あはは」と笑った。


「気の効いたこと言ってくれるね……どこで、そんなこと覚えたの……?」


「素直な感想だよ」


「へぇー……そっかぁ。嬉しいなぁ」


 幸せそうに彼女は微笑んだ。

 それからナツは何か言葉を続けようとしたが、苦しそうに咳き込み始めると、毒毒しい色の血液を吐いた。


「……うぇ」


「ナツ、もう良い。喋るな……!」


「や、やだよ。だって今喋らなかったら、もう2度と話せないじゃん。だから、今は一生分、話すんだ……」


 ナツが呼吸をするたびに、腹部の傷からポタポタと血が垂れていく。彼女が流す血はすでに、アンクの両手を真っ赤に濡らしていた。


「今まで話せなかった分、話すんだ」


 呼吸を落ち着けて、ナツは言葉を続けた。さっきよりもくように、早口で彼女は言った。


「わたしね、アンクがどこかの……町を救ったって聞くたびに、すごく後悔していたの」


「どうしてだ……?」


「わたしも一緒に行けば、良かったなぁって……そしたら、こんな気持ち抱えなくて済んだのになぁって。寂しいとか、アンクの役に立ちたいとか、心配する気持ちとか。だから……いつか帰ってきたら言おうって思ったの」


 血に濡れたナツの手は、アンクの頬の上で涙の筋のような形をなぞっていた。


「わたしも一緒に行きたいって……でも、こんなに弱くちゃダメだよね。自分の命も守れないようじゃ。アンクに迷惑かけるだけだったもんね」


「そんなことはない……ナツ……」


「ふふ、アンクは優しいね……でも、もう良いの」


 アンクの手を握って、彼女は言った。

 

「こうして一目会えたら……寂しさなんて吹き飛んじゃった。10年経っても、変わらないあなたの瞳を見たら……全てがどうでも良くなっちゃった。アンク、会えて嬉しい」


「……俺も……もっと早く帰ってくれば……」


「良いんだよ、アンク……だってあなたは世界を……救っているんだよ。たくさんの人を救って、これからも救っていくんでしょう……アンクが英雄って呼ばれているのを聞くと、私も誇らしい気持ちなるの」


「なにが……」


 わなわなと声を震わせながら、アンクは言った。


「なにが英雄だ。大切な人間の命も守れない人間の、どこが英雄なんだ」


 彼はむせび泣くように言葉を続けた。


「死なないでくれ……嫌だ、こんなところで君が死ぬなんて嫌だ。この村がなくなって、君がいなくなったら、俺は……どこに帰ってくれば良いんだ」


 こんなに辛そうな顔のアンクを見たのは始めてだった。

 どんな苦境にも負けずに立ち向かってきた彼が、この場所で初めて大粒の涙を流していた。子どものように、すがりつくように、ナツの身体を抱きかかえる手に強く力を込めていた。


「大丈夫だよ、アンク」


 そんな彼に、ナツは優しく声をかけた。致命傷を負っているとは思えないくらいの力強い声で、彼女は言った。


「私が死んでも大丈夫。あなたは私の分まで戦って、これからも沢山の人間を救うの。私がそれを保証してあげる」


「保証……」


「おいで。約束のちゅー」


 ナツはアンクの頬に手をおいて、招き寄せるように自分の唇に触れさせた。少しの時間そうした後で、2人の唇は離れていった。彼女の血で、アンクの唇は真紅に染まっていた。


「真っ赤になっちゃったね」


「あ……」


「それ、わたしのファーストキスだからね……忘れたら、怒るからね……」


 結局、最期の瞬間までナツが涙を流すことはなかった。生きる力を全て、アンクと話すことに注いだかのように、彼女は最期まで楽しそうに笑っていた。


 アンクの肩を5回、トントンと小さな力で叩いて、ナツは振り絞るような声で言った。


「さようなら」


 その言葉を返そうとアンクが口を開いた時には、彼女はすでに事切れていた。手の力が失われて、びしゃりと血だまりの中に落ちた。

 

 すっかり動かなくなってしまったナツの身体を抱きかかえながら、アンクはしばらく呆然と、声も出さずに涙を流していた。



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