第68話 大英雄、間に合わない
「……んくさま」
夢を見た。
誰かにぺろぺろと
「……あんくさま」
底なし沼のようなその泥の中に埋もれてしまいたかった。永遠に眠って快楽の泥に身を
「アンクさま! 起きてください!!」
レイナの大声で目を覚ます。
見えたのはさっきと変わらない景色。だが、心配そうに覗き込むレイナの顔には真っ赤な西日が差し込んでいる。
「あれ? あれ?」
「良かった! 大丈夫ですか!?」
「あぁ随分良く寝た……が、今何時だ?」
「分かりません。なぜか私も眠ってしまっていて、さっき起きたところです。どうやら夕方になってしまったようです」
中天にあった太陽はその位置をすっかり西の方へとずらしていた。もうすぐ日の入りというところまで太陽が来ている。涼しげな風が吹いていて、肌寒くすら感じる。
完全に寝過ごしてしまった。17時開始のコンサートはもう始まってしまっている。
「やっちまった」
「……私、アンクさまに抱えられたまま、気を失ってしまっていて……」
「……あぁ、あー、あー。そうだな! 疲れていたんだろ?」
「何か……
「いや、なんともないよ」
「アンクさまの、首が真っ赤なのですが」
「日焼けだよ」
「そう……ですか」
不思議そうにレイナは俺の首元を見ていた。触ると少し湿っていて、俺は自分がどうして寝ていたのかを完全に思い出した。
理性に鞭打つあまり脳がオーバーヒートしてしまったか。我ながら情けない。
この怒りはパトレシアにぶつけるしかない。全部媚薬のせいだ。
「コンサート……間に合わなさそうですね」
しょんぼりとした様子で、レイナは肩を落とした。せっかく今日のためにお洒落もしてきたのに、まさか会場にさえたどり着けないとは、思いもよらなかった。
こんな結末はさすがに……無情過ぎる。
落ちていく太陽に視線をやりながら、レイナはスカートについた汚れを払って立ち上がった。
「……帰りましょうか」
悲しみを見せない無感情な声。だからこそ、レイナの言葉は一層、悲壮感を帯びているように思えた。
トボトボと寂しそうに歩き始めたレイナは、ぼんやりと上を向いていた。
俺に抱きかかえながら、レイナがポツリと言っていた言葉を思い出す。
『でーとです。きょうがくるのを、こんな日がくるのをずっと、たのしみにしていました……』
きっとすごく楽しみにしていんだろう。
俺だってそうだった。こんなつまらないことで、全部がダメになってしまうなんて考えてもみなかった。気を失ってしまった自分が
しかし、どう考えてもコンサートには間に合いそうにない。
あのホールは開演になると入場制限がかかる。外で待っていれば、漏れる音くらい聞こえるかもしれないが、あまりに
……外?
「あ、そうだ……」
1つ思い出した。
外にあると言えば、パトレシアとこの前カルカットに行った時にイベントをやっていたじゃないか。
「どうしました、アンクさま?」
「いや、ちょっと思いついたことがあってさ。チケットが取れたコンサートには行けないけれど、野外で楽団が演奏してるはずなんだ」
創立祭記念で賑わっていた広場があった。
格は落ちるが、あれはあれで悪くはない。誰もが知っている曲を演奏していたから、レイナもきっと楽しいはずだ。
「演奏に合わせて、踊りを踊るんだ。せっかくデートの日なんだ、そこに行ってみるか」
「あの、アンクさま。恥ずかしながら、私、踊りは……やったことがないのです」
「大丈夫、俺が教える」
「足手まといにはなりませんか? 踊りも出来ない女をエスコートして、恥をかいたりはしませんか?」
「ないない。庶民的な祭りだし、踊りなんて音楽に合わせて身体を動かせば良いだけさ」
俺の言葉を聞いたレイナの顔に、少し笑顔が戻っているのが分かった。
「悪くない……です」
「だろう? ほら、いじけて帰っても
「い、いじけてなどいません!」
「じゃあさっきの涙は……」
「……う」
いじけていたし、悲しんでいたことは手に取るように分かる。
レイナの考えていることは、分かりにくいようで実はすごく分かりやすかったりする。
俺の言葉に頬を
「もう……意地悪です」
上を向いたレイナは、木の枝の上に止まったハシバミトリを見ていた。せっせと真っ白な巣を作っていたハシバミトリは、新しい巣の材料を見つけたのか、すぐに飛び去っていってしまった。
深い森の奥へと羽ばたくハシバミトリの後ろ姿を見届けると、レイナは大きく息を吐いて言った。
「……い、行きます」
「本当に?」
「はい……アンクさまのいう通りでした。ここまで来たのです、カルカットまで行きましょう」
「あぁ、行こう。祭りはまだ終わっちゃいないんだ」
「アンク様の言う通り、少しいじけていたようです」
レイナはそう言うと、自分の洋服を愛おしそうに触った。滑らかな生地を下から上へと大事そうに撫でた。
「せっかくアンクさまが用意してくれた洋服を、お披露目する場所が無くなってしまって悲しかったのです。この黄色いワンピースを着て、きらびやかなコンサートホールに行くことは、さぞ楽しいだろうと想像しておりました」
レイナは夢見心地な様子で目を閉じると、言った。
「それが叶わなくなっていじけていたのです。記念すべき最初のデートをまさか遅刻で台無しにするだなんて、悲しくてやりきれませんでした」
「残念だったな、有名な楽団だったし」
「そういうことではないのです」
レイナは小さく首を横に振った。
「私は、ちょっと欲張り過ぎたのかもしれません。本当の気持ちはそれでは無かったのです」
「本当の気持ち?」
「はい、私が望んでいたことです」
森を抜ける風が吹くと、パリパリと葉っぱ同士が
レイナはゆっくりと言葉を続けた。
「私が本当にしたかったことは……アンクさまとお出かけすることだったのです」
「お出かけ……か」
「どこに行こうが、何をしようが。これだけは変わらないことでした。行く場所がどこであろうと、アンクさまが誘ってくださったならば、間違いはないと信じています。私は危うくそれも投げ出してしまうところでした」
俺の目の前に立ったレイナは、カルカットへと続く国道の方角をゆびさした。
「カルカットに行きましょう。えぇ、きっとその方がこの洋服も喜ぶと思うのです」
「……俺もそう思う」
「はい」
大きく頷いたレイナは、自分の髪をいじりながら照れ臭そうに言った。
「教えてくださいね、踊り方」
レイナはくるりと背を向けて、歩き始めた。
差し込む西日は、世界全体を真っ赤に染めてしまったみたいだった。頭上のハシバミトリの巣と、レイナの髪の毛が、真っ白なキャンバスに絵の具をこぼしたみたいに真紅に染まった。
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