第67話 レイナと媚薬


 抱っこしながら川を進んでいくと、突然苦しそうな声をレイナが発した。


「あ……う」

 

「レイナ?」


 川を半分くらい行ったところだった。

 抱えているレイナの呼吸は荒く、はぁはぁと辛そうに息を吐いている。見ると、鼻の頭から耳の先端まで燃えるように赤くなっていた。


「レイナ、どうした!? 大丈夫か!?」


 尋常じんじょうではないほどの汗を彼女は流していた。

 俺の言葉にレイナは、うなされるように口を開いた。


「分かりません……身体がとても熱いです」


「風邪か? さっきまで何ともなかったのに」


「分かりません……先ほどから、どうにも頭がボーっとするのです」


「さっきっていつから?」


「リタさんと、別れたくらいです。正確には、魔法薬を、飲んだ辺りから……お腹の内側から熱くなるような感じで……私にも分かりません」


「魔法薬……」


 嫌な予感しかしない。


 この表情とこの体温は、あの時と似過ぎている。

 パトレシアが失敗したと言っていた魔法薬は、体力の回復ではなく、全く別のことを目的に作られた可能性がある。


「レイナ、ちょっと良いか」


「は……い」

 

 息を吐くレイナの口に顔を近づけると、甘い香りがした。パトレシアと穴の底でいだ匂いに似ている。


媚薬びやく……」


 間違いない。

 完全に媚薬入りの魔法薬だ。失敗したと言っていたが、十分に効果は発揮している。俺が飲んだ分には異常はなさそうだが、レイナが飲んだ分は媚薬だ。


「アンクさま……どうしたのですか」


「いや、心当たりが1つあって、多分原因はそれなんだ。レイナ、川の向こう岸まで我慢できるか」


「我慢……というのは」


「自分を見失なわないようにしてくれってことだ」


「……? は、はい……が、がんばってみます」


 その返答に頷いて、歩くスピードをあげる。

 よりによって効果が出たのが逃げ場のない川の上だというのが非常にまずい。


 ……身体が密着している。

 身体の凹凸おうとつは否応無く自分の肌に触れるし、熱っぽいレイナは妙につやめかしく見える。


 雑念だ。視線を向けちゃいけない。危険極まりない。

 溢れ出る煩悩ぼんのうを振り払って、川の向こう岸まで歩いてく。


「レイナ、大丈夫か」


「…………」


 悪い夢でも見ているかのように、レイナは目を強く閉じていた。

 何かを必死に我慢するように、俺を抱きしめる腕の力はどんどん強くなっていた。ぎゅうっと強くしがみつかれて、レイナの息が首筋にかかった時だった。


 温かいものが首に当たった。


「…………はむっ」


 はむ?


 なんだ。

 何が起きた。


 見ると、レイナの歯が俺の首筋に噛み付いている。


「……え」


 言葉が出ない。

 思わず抱えている身体を落としそうになるのを必死でこらえる。


 肌に暖かいレイナの唾液が垂れている。伸びた舌が血管の筋をうように滑っていく。舌の先を動かしてぺろぺろとめている。


「ん……あ……」


 レイナが甘い吐息をらしている。


 彼女は俺の首筋に食らいついていた。目を閉じて、一心不乱に俺の首をめるレイナは、どう考えても正気ではなかった。


「おい、レイナ! レイナってば……!!」


「あ……ん……」


「くそっ、自分を見失っている!」


 媚薬の効果が本格的に出始めている。

 俺自身もやばい。彼女の興奮を一身に受けて、正気でいろという方がおかしい。必死の思いで倒れそうになる身体を支える。


 どうにか現実感を保っていられるのは、川の水が冷たいからか。その感覚がなければ、俺も熱に浮かされてどうにかなっていた。


「はむ……はむ……」


 脂汗あぶらあせを垂らす俺の様子におかいまいなく、レイナは必要に首を責め続けていた。舌で舐めるのに飽き足らず、彼女は歯を立てて甘噛みしてきた。いったいなにがどうなっているんだ。


 鋭く尖った犬歯がチクリと俺の肌を突き刺した。血がにじんだ箇所をレイナが執拗しつように舐めていた。


「レイナ、しっかりしろ。平静を保つんだ!」


「は……む……ん……」


「ちくしょう!」


 噛まれたところが異様に熱い。そこをねっとりとした唇で舐められると、奇妙な快感ともに彼女の魔力が流れ込んでくる。


 その場にへたりこんで、いっそのこと快楽を享受きょうじゅしたい欲望に駆られる。川だろうが、どこだろうが、このまま一緒に倒れてしまいたい。


「う……もうだめ、だ」


 こんなの生物として耐え切れる訳がない。脳みその理性を操る部分が悲鳴をあげているのが分かる。


 川岸まであと少し。

 だが、そのあと少しがあまりにも遠すぎる。


「あ……く……」


「れ、レイナ……?」


「あん、くさま」


 俺の腕の中で熱に浮かされたレイナが、小さな声をあげた。


 一瞬。

 ほんの一瞬だけ、俺の首を責めるのをやめたレイナは、の泣くような声で言葉を続けた。


「わ、わたしも……た、たのしみしておりました」


「た、たのしみ?」


「でーとです。きょうがくるのを、こんな日がくるのをずっと、たのしみにしていました……」


 にっこりと笑ったレイナは手の力を強めると、再び腕の力を強めて俺の首筋に噛み付いた。


「レイナ……!」


 言っていることとやっていることが噛み合っていないような気がするが、彼女の気持ちは十分に分かった。


「デートだな。そうだ、今日はデートの日だ!」


 ここは俺がしっかりしなければならない。

 彼女の身体を抱くのは今じゃなくても良い。でも、一緒にコンサートに行けるのは今日が初めてなんだ。


 今俺がすることはこのままレイナを押し倒すことじゃなくて、無事に川岸まで届けることだ。


「くそったれぇえええええ!」


 息を大きく吐き出して、本能を沈めて理性にむちを打つ。一歩一歩を踏みしめて歩いていく。何度も俺に噛み付くレイナに押し流れそうになる自分を必死に保つ。


 ……これは川だ。

 ピチャピチャとなる欲望の川だ。流されればもう帰ってこれない。そうなったら取り返しがつかない。


 全てはレイナのため。彼女が本当に喜ぶ姿を見たいからだ。


「も、もう少し……!」


 あともう少し。最後の1歩まで気を抜かずに歩く。声高に鳴る心臓を沈めて、まきストーブのように熱くなったレイナの身体を横たえる。


「はぁ……はぁ……」

 

 着いた。

 達成した。本能との戦いに打ち勝った。


 火照ほてる自分の身体を横たえて目を閉じると、ドッと疲れが溢れ出してきた。心も身体もフルマラソンを終えたあとのように疲弊ひへいしきっていた。


「つ、かれた」


 押し寄せてきた疲労にいざなわれるように、俺は深いまどろみの中へと落ちていった。

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